メシヤ講座・特選集no.56(平成17年9月分)

<御教え>
宗教は一つもない
(1936年5月文創のまま)

六、顕幽の利徳

既存宗教に於ては、顕幽両全の利益あるものは無いのである。その多くは未来の利益を標榜してゐる。彼の仏教信者が如来を信じて、未来の浄土を目標とする結果、現世利益を軽視してゐる事や、基督教信者が天国を夢みて、現世に於る苦悩をどうする事も出来得ないから、それに甘んずる哀れな実状や、天理教などの信者が病貧に喘ぎ乍ら、当にもならぬ甘露台の世の幻影を描きつつ滅びゆく惨状にみても、夫等の宗教が、現世利益のない事を證拠立ててゐるのである。ただ纔(わず)かに天狗、稲荷等の低級宗教が、現世利益が多少あるばかりではあるが、之等は淫祠邪教の類であるから問題にはならない。唯是等の中にあって、昔から観音信仰のみが現世利益のあるといふ事は、普く世人の知ってゐる所である。然乍ら、観音信仰が未来の利益も併せ得らるるといふ事を、世間は未だ知らないやうである。仏者によっては、未来の救は阿弥陀で、現世の救が観音であるとしてゐる者が多いのであるが、之等は真相が判ってゐないからである。勿論、未来は阿弥陀である事に間違ひはないが、観音は現世及び未来、即ち顕幽両界の救である。之が自由無碍なる所以で、其(その)言葉がそれを表はしてゐるのである。恰度例へて言へば、番頭は番頭丈の権能よりないが、主人は主人であって、番頭の権能をも有してゐるのと同じ理である。否観世音菩薩こそは、神幽現の三位一体の権威と力を具有し給ふのである。

此(この)故を以て、顕幽両全の利益ある信仰は、ひとり観音信仰のみであって、他には絶対無い事を知らねばならないのである。
(以下次回掲載)

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「御神体ご奉斎式」挨拶
メシヤ教代表 楳木和麿

御神体ご奉斎式おめでとうございます。

立派な御神床に素晴らしい形でご奉斎が許されまして、本当に安心致しました。また、本日は大黒様も併せてお祭りが許されて二重のお慶びです。

朝拝で「天津祝詞」を奏上する意義

さて、本日から御神体をいただいて、より神様を身近に感じながらの信仰生活が新たに始まる訳です。そこで、朝拝で奏上させていただく天津祝詞についてまずお話いたします。

天津祝詞は一言で申し上げるならば、祓い詞(はらいことば)ということになっております。起源については大和民族の宗家に当たる神様がお創りになられたとされております。ですから、神武天皇より前の時代、少なくとも2665年前よりかなり以前に創られたものです。

天津祝詞を神様の御前で奏上すると、どのような偉力を発揮するかと言いますと、『諸々の枉事罪穢を祓ひ給へ浄め賜へと申す事の由を』とありますように、祓い浄めるというお働きを許されます。そういう尊く有り難い言霊です。その意味を心得て奏上すると、さらに強いお働きが許されてまいります。

私達は、日常生活の中で様々な心言行をなしておりますが、同時に色々な方から種々心言行を受けております。それらの中には善美なるものもあれば、そうではないものもあります。善美なるものはこの上なく素晴らしく、徳へと繋がってまいります。逆にそうでないものは霊界を曇らすことになります。

そうして発生した曇りは、神様の御光をいただく御前で天津祝詞を奏上させていただくと浄めていただけます。毎朝時間を決めさせていただき、天津祝詞を奏上させていただくということは、この上なく有り難いことであります。

そして、神様へは「本日はこのように日を送らせていただきますので、御力を賜わりますようにお願い申し上げます」とお祈りすればよいのです。とても力強いことになります。この祈りについては『祈りの栞に寄せて』をもう一度読んでいただき、大きな祈りから自分の祈りに至るあり方を確認してください。

また、朝拝時には『神格をいただく道』という御教えを拝読させていただきます。

<参考資料・御教え>
『人間が発する言霊であるが、これもすこぶる重大な影響を与えるもので、悪に属するもの、すなわち、他人の悪口、愚痴、偽りなどの言葉は、霊界を曇らせることおびただしいのである。(中略)それから、種々の曇りの堆積の量がある程度を越えるとき、一種の毒素が発生し、人間生活に支障をきたすことになるので、その自然浄化が発生する。それが天地の法則である。』

<参考資料・御教え>
『天津祝詞は、非常に言霊が優れており、天地浄化の言霊の働きが強い』『悪によって曇らされたる霊界を、善言によって晴らすのである。この場合善言は光となって曇りを解消する。(中略)霊界清掃に役立つのである。』『すべてよい言霊を唱えると、特に心が浄まる。神様のお名前を言うと余計に浄まるのである。』

三拍手の意味

それから、ご参拝の折に三拍手を致します。普通神社などですと、二拍手です。その違いはどこにあるかと言いますと、今月の御教え『五、光明の示顕』(メシヤ講座・特選集no.55)で説かれている通りです。

『火と水の外に土の精が加はるのであって、それを称して三位一体といふのである。此(この)三位一体の力によれば如何なる事も成し遂げ得らるるといふ絶対力なのである』とありました。「火・水・土」、「日・月・地」また「神・幽・現」という意味ですね。「三位一体の絶対力」と覚えるのが良いでしょう。

日月地と言えば、「愛・地球博」企業パビリオンの三菱未来館では‘もしも月がなかったら’というメ-ンショ-を公開していました。地球に生命が誕生する上で月の果たした役割は大きいのですが、大胆な捉え方で好感が持てました。

この地球に生命が宿るためには、まず太陽があって、やがてこの地球ができて、地球に小惑星が衝突することにより月ができて、潮の満ち干が起きて、それでできた小さな泡へ雷による放電が作用して生命の源が誕生したとされております。地球誕生から生命誕生まで約7億年です。「七(なな)」で「成(な)」ったのでね。

先程も移動中に話していたのですが、この秋筑波大学の方からス-ツロボットが売り出されるそうです。身体に障害をもたれている人や災害時の救助に当たる人に役立てていただくということで、大変素晴らしいものです。半身不随の方でも歩行が可能になるそうですし、いざという時に100kgの荷物を長時間持ち続けることが可能だそうです。

これは、人間が手足を動かそうとする場合に電気信号が筋肉へ送られますが、それを検知して筋肉より少し早くロボットが動くというシステムだそうです。しかも、その電気信号を皮膚の上から検知することができるというのですから驚きです。素晴らしい技術です。

この電気信号というものを考えると、先程の海の満ち干でできた小さな泡に雷の放電で生命の源ができたという話が「なるほど」と思わせるところがありますね。その源があって、進化の約38億年があって人類が誕生した訳ですね。しかも、電気信号というものがこれから先、色々な面で意味を成してゆくことになります。

このようなことを考えてまいりますと、三位一体ということがより身近になりますし、感謝の念が湧いてきます。また、創造主の偉大さということも身に迫ってまいります。私達の日常には、日月地が不可欠なのです。拍手をするたびに、そうしたことを確認していただき、感謝の気持ちもより育てていただきたいですね。

夕拝で「善言讃詞」を奏上する意義

次に夕拝ですね。夕拝では善言讃詞を奏上させていただきます。『善言讃詞は観音経を縮めたものです』と、御教えをいただいております。観音経は大宇宙をも動かすと言われておりますので、大変なお経です。その有り難い観音経なのですが、二千数百年前のものですので、現代に適応するようにしてくださった、と受け止めればよろしいかと思います。

曼荼羅が壮大な宇宙観だと捉えられる点もそうしたことと関わっております。そして、その背景には神代文字があり、太占図もありますが、それはまたの機会にお話いたしましょう。

善言讃詞を奏上してゆくと、地上天国が建設されてゆく姿が髣髴(ほうふつ)としてまいりますね。善言讃詞を唱えることによって、この御神前を中心にして天国の霊界ができてまいります。しかも、この地は太古の都があった土地である、とされていますので大変意義があります。

そうした気持ち「天国ができてゆくのだ」という気持ちで、朗々とお唱えしてゆくと素晴らしいですね。自分自身は勿論、自分の霊線に繋がる親兄弟をはじめ様々な人にも霊線を通じて天国化が図られてゆきます。そういう気持ちで奏上させていただき、一日の感謝を神様へ申し上げてください。

ご参拝後に、御教え『天国的生活』を拝読させていただきます。御教えを拝読する時には、すべて自分に当てはめて拝読してゆくという姿勢が大切です。そうすると例えば、自分がどこまで感謝できるようになっているのか、ということなどが客観視できるようになります。

<参考資料・御教え>
『霊界においては大言霊界―すなわち七十五声の言霊が鳴り響いている。これは霊界に充実している無声の声であって、人間の耳には感じないのである。しかし、この大言霊に対して、人間が発する言霊は大いに影響する。もちろん、正なる言霊は霊界の汚濁を軽減させるが、これと反対に、悪の言霊は汚濁を増すのである。これは何故かと言えば、七十五声の言霊の配列の順序によるので、その基礎は善悪如何である。すなわち、善の言霊とは美辞麗句であって、美辞麗句とは一つひとつの単語の綴り方が真善美に適っているからである。これは何よりも人間の耳へも快く響くもので、何故快く響くかというと、人間良心の本源である魂にまで透徹するからである。しかるに、悪の言霊は魂には透徹しないので、それを包んでいる心の範囲にまでしか達しないのである。

ここで今一層徹底しなければならない。ということは、私が常に言うところの副守護神、すなわち動物霊は、心の範囲内に限定して憑依している以上、心の曇りが濃度であるほど副守護神の能力は強化される。これが曲者で、常に良心たる魂の光を遮蔽(しゃへい)しているから悪を好む人間となるのである。ところが悪の言霊は副守護神には快く響くので、これは事実がよく証明している。

良い話を好むのは前述の如く魂に快く響くからであり、悪い言霊を好むのは副守護神が喜んで快く響くのである。例えば、悪人どもが悪事を語り合っているのを、仮に我々が聞くとすれば、堪えられないほどの不快であるに関わらず、悪人は快感を催すのである。

以上の理によって、善い言霊は魂の光が増し、それによって心の曇りが減り、副守護神は畏縮する。畏縮するから悪を好まなくなる。という訳で、人間を苦しめていた副守護神は善言讃詞によって畏縮または離脱することになり、心の曇りも減少するから苦悩から解放されるのである。

右(上記)によってみても、善言讃詞の言霊は、いかに善美きわまるものであるかが判るとともに、善言讃詞を奏上するや、その周囲の霊界は大いに浄まるのである。

特に今ひとつの重要事がる。それは、言霊を発する人間の霊の清濁が大いに関係がある。すなわち魂の清い者ほど言霊の威力は発揮されるのである。それは霊的階級が上位であるからである。(中略)

従って信者たるもの常に魂を磨き、言葉を練り、上魂の人間たることを心掛けねばならないのである。』

家庭祭について

そして、月に一度「家庭祭」を執り行わせていただきます。この時は御神体にハタキを掛けさせていただき、念入りな清掃をさせていただき準備をさせていただきます。そのあり方は資格者の方から実際に教えていただいてください。

家庭祭では一ヶ月間自分の計画したことにどのように取り組んだかを奉告申し上げ、感謝を捧げます。そして、向こう一ヶ月の取り組みに対して御守護をお祈り申し上げます。また、自分に関わる色々な方々の御守護報告や御守護お願いをさせていただきます。

お礼を申し上げ、更なる御力をいただくお祭りなのだ、とお考えください。

このように一日一日の過ごし方、月々のあり方を捉えていただければよろしいかと思います。大黒様は、毎朝お茶をお供えしてご挨拶してください。「お金を運んでください」と直接お願いして良いことになっていますので、どんどんお願いしてください。

以上、御神体を中心にして日を送らせていただくあり方についてお話いたしました。本日は誠におめでとうございました。(要旨・9月16日、奈良市<旧都祁村>にて)

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<メール交換・パ-ト2>
※参考になる点が多いので、ご本人の了解を得て掲載します。6通目

質問メール・6  「Re.追伸」

Q.  前略

メ-ルありがとうございました。お心配りに感謝します。それから、23日夕方、小冊子2冊、無事届きました。2冊とも拝読させて頂きました。ありがとうございました。

楳木先生のメ-ルと小冊子を拝読し、あることを感じます。

長い間、恩師の指導に対して思うこと感じることを言えない環境の中で、私は徐々に恩師の指導を素直に受け取れなくなってしまっていました。その時から、既に信者失格なのかもしれません。今まで書かせてい頂いた悩みだけではなく、そんな不安も抱えていました。

この悩みと不安をうまく処理できず、どうやら自分自身が歪んでしまいました。誰から何を言われても、素直に受け取れなくなってしまったのです。自分ではいかんともしがたい拒絶反応のようなものが出るのです。そのリハビリに3年以上費やすことになります。

自分はあまりにも未熟。師の指導を素直に受け取れないとなると、余計に御神書しか拠るところはありませんでした。御神書を実生活の中に織り込みながら、その体験からの気付きを、同じ根であり枝葉の違う課題に応用していくことしか活路を見出せませんでした。

そして、不安の中いつもいつも主神様に祈りました。(中略)

様々な体験からの感想があっているのか間違っているか、明確な指導を受けることもなく、御教えの受け取り方も正しいかどうかはわからない、自分なりのものが出来上がってしまっている状態が今の私なのです。

歩む基準を御神書に求めながら、我流になっている状態。そのことを今日強く感じました。

● 人間と薬と病気の関係をわかりやすく伝えること。
● 浄霊奉仕を続けながら希望者を主神様にお繋ぎすること。
● 御神書を基準に日常生活自体を修行の場と捉え、その中で体験を積むことで、気付いたこと、覚りを得たことを確認しながら、それを応用していくこと。
● 自分の気付いたことを神様が与えてくださったことと捉え、大切と感じたことをできるだけ多くの兄弟に伝えて、人の気付き、覚りに繋がるお手伝いをその時その場で精一杯すること。

3年のリハビリの中で、とにかく今はこれを精一杯させて頂こうと思うに至りました。(大いに間違っているかもしれませんが苦しんだ末、自分なりに出した結論でした)

そして、この結論を行動にうつした頃、周囲の人が一緒にいるときに、浄霊を受けていないのに受けたとき特有の状態を口にするようになりました。

それを見て、明主様がそれでいい、と仰ってくださっているのかもしれない、と感じました。もちろん実際のところはわからないのです。周囲で起きたことで判断するしかない状態に身をおいています。

そんな中で、今、私は2度目の生まれ変わりの時期を与えられているのではないかと感じています。楳木先生に縁を頂いたのは、ご先祖様が導いてくださったのかもしれない、明主様がつたない願いをかなえてくださっているのかもしれないと思います。(勝手な思いを書いておりますので、失礼があればお許しください)

献金せざるをえない雰囲気で、サラ金でお金を借りて献金して経済的に苦しみ、経済に心囚われ健全な精神状態を失い、家庭環境も崩壊して私の導き親は離れていきました。大変多くの方をお導きさせて頂いていたにもかかわらずです。

その方の信仰状態の本当のところは知るすべもありませんし、この件の良し悪しも、小さな眼では判断がつきません。

ただ、多くの人と対話をする中で、経済に縛られると本来向き合うべきことに向き合いにくい環境が発生することは間違いありません。宗教に限らないことです。私自身、そうした時期が随分とありました。

それでも、主神様が必要とされるものは別ですが、凡人にはどれがどれやらわかりかねます。感謝を形であらわすことは大切なことです。誰に言われずとも、ご本人の自由意志でさせて頂いた感謝なら素晴らしいですが、導き親のこの結果から何を私は学ばせて頂いているのでしょうか?一言、浄化で片付けることなのでしょうか?

組織の主宰者が言われたことは明主様が言われたことと同じと必ず受け止めなければならないのでしょうか?時所位に応じてその時できるまごころの精一杯をさせて頂いても通るものではないでしょうか?人によってはお金で無くてもよいのではないでしょうか?師がお持ちの教師用の御神書には、苦しみながら献金するのも良し、いずれも良し、と書かれてあったにもかかわらず、こういうことが発生するのです。

私はこの件でも宗教組織に強い拒絶感を感じました。

主神様の御経綸の詳細はわかりません。わからないけれど愚かな私は思うのです。建物が人を救うわけではない。その建物の維持費用が信者に回ってきて自由意志ではなく半強制的雰囲気の中で徴収があり(もはや献金ではない)、そのお金に追われて私の導き親のようになってしまったり、そこまで行かないまでも、毎日の暮らしが暗く、地獄的な精神状態になってしまい、新たな人に天国的にお伝えする活動力をそがれる結果になっている。

こんなことを主神様は望んでいらっしゃるのでしょうか私にはわかりません。

どれだけ苦しい中でも、病気で動けなくて苦しいより幸せじゃないか、と心から覚るための修行なのでしょうか。どんなに言い聞かせても、自分の内側からの覚りでなければいつまでも長続きしません。言い聞かせることが長期間続くと今度は歪んでいってしまいます。借金やお金に追われるつらさは相当な苦しみです。天国的には思えません。

お金、お金、お金、何でもお金。組織の運営にはお金が要りますから仕方の無い一面もありますが、基本的には信者の真心のお金の範囲内で運営をするのが相応だろう、と私は感じます。主神様をできうる限り崇め奉るにも、お金が主ではなく真心が主であり、お金は従だろうと思うのです。

すべき感謝をすることと、この内容は別問題ではありませんか?楳木先生はこの件について、どうお感じになりますか?ご面談をお願いする前にお聞きしたいのです。

長い間どこにも行き場のなかった想いが、あふれ出るように書いてしまいました。表現の悪く、乱文をどうぞどうぞお許しください。

>神代文字と表現する人もいますが、

最近、ホツマツタエに関する3冊の本を読みました。(池田満著 展望社出版)直接お救いには関係が無いと思っていたので、霊のことや歴史文献は、あまり積極的に読まずにきました。

しかし奈良県大和地域に行くようになって、新しく出会う人出会う人から隠された日本の歴史があることを何回も聞かされるので、これは読んでおきなさい、ということかもしれないと思い読んだのです。神代文字とヲシテ文字は違うようですが、楳木先生の仰られていることはこれに関係することでしょうか?(後略)
<2005.2.24・2:57>

返信メ-ル  「お答え」

A.  前略。

2冊とも読んでいただき感謝致します。

さて、私は4歳の時に命の継ぎ足しを許されてから、メシヤ様の揮われる御力、御教えの絶対性を心身を通して学び、確信を得て、成人を迎えました。この事の一部は「浄霊」に引用しております。その後、世界救世教の教育機関「救世専門学院」で2年間学びを重ね奉職し、約二十年間教団組織人として生活をし、御神業に携わってまいりました。幸いな事に、本部と布教現場の双方で従事することができ、隈なく内情を知ることができました。

学生時代におおよその御教えは頭に入っておりましたので、組織の中では困惑の連続でした。御教えと組織上のあり方とのギャップに悩む毎日でした。また一方、私自身も志と実生活との間で揺れ、挫折しては光明を見付け、また挫折しては光明を見付ける、ということの繰り返しを続けました。そして、やっと平成11年不動の大光明ともいうべき方向性を見出したのです。

昭和59年の紛争について少しお伝え致しましたが、私はこの時「この教団改革が成就すれば、将来的には離脱教団とまた手を携えて行くことができる」と信じ、懸命に取り組みました。当初は皆の心は純粋で、取り組みは苦労の連続でしたが心は晴れ晴れとして鮮やかな奇蹟の連続でした。取り組みに対する神様の証が示され、御教えに基づく裏付けをいただく日々でした。しかし、人間の弱さによる委員会内の変質が重なりました。

私は、この一連の事象を目の当たりにして、「どうして変質するのか」を理解する事ができました。これも、現在の私にとっては「宝」の一つでしょう。

私は、『いよいよの時、初めて諸々、浄まった者それぞれに因縁通りに諸々の御用を申しつける。神格をいただける者もいる。その人によって御用は変わる。』という御教えを肚において、御神業を進めております。ご縁の源はここにあると信じております。

また「浄霊を受けてないのに受けたとき特有の状態を口にする・・・」ということは、平成11年から、私の身辺でも起きております。メシヤ講座12月分で引用した体験がその一例です。また、波長を研究している方との面談の折、その方の自宅の部屋の電球が明るさを増したことが続きました。取り分け、御教えを口にしたり、メシヤ様の御事を話したりする時に顕著のようです。

そして、これは以前にもありまして、教団改革に励んでいた時期「言霊」が光ったり、煤けたりもして、深い感動を覚えました。お伝えすることがいっぱいで、メ-ルでは伝え切れません。

献金について

私は、教団改革に取り組む過程で、様々な場面に遭遇致しました。ある時は、精神科の病院で「明主様~」と叫んでいる人をお世話している方にも出会いました。泣けてくるようなことでした。最後の審判の型の一つである「精神病」を救う側の組織の中で、そうしたことが起きているなど知りもしませんでした。サラ金に手を出すということも、精神病の一種です。私は、現在も過去もサラ金地獄に陥った人々をお世話していますが、救えた人とそうできなかった人がいます。現在根気よく取り組んでいる対象者もいます。子供の頃から育て直さねばならない面があります。

そうした取り組みを重ねていれば、サラ金まで手を出して献金するということはあり得ないと思うのですが。そうしたことがあるとすれば、「時代苦を救う」という宗教の役割は果たせません。

しかし、前に所属していた教団(世界救世教三教団の一つ)の代表は、割当て的な上納目標について語り合った折「信者は神の奴隷」という表現を使用しました。このことも、教団を離れる要因の一つです。

かと言って、私は献金奉仕の尊さも体験してきました。私の家系のことについて恥部になることを明かさねば、そのことは話せません。私の兄は、社会人となってから金銭トラブルを起こすようになり、家に対して取立てが来るまでに到りました。そのために家計を圧迫し、私は中学2年生から「読売奨学生」として新聞配達をして奨学金を受けました。かなりの年数を重ねた時、家の前の国道を拡張することになり、多額のお金が入りました。家を改築して残ったお金は、元々ないお金ですから全額献金致しました。ちょうどMOA美術館建設期でした。ところが、それを境に兄は見違えるように変化したのです。

当時、居場所すら判らなかったのですが、神奈川県である会社の社長さんへ拾われ働くようになり、その仕事の資格を得るまでになったのです。そして、小さくとも専務という肩書きまでやがていただくようになりました。このことは、深い因縁が関わっておりますから、ここだけではお伝えできない事もあります。先祖が重ねたものの証とも言うべきものが、蔵の中に眠っていたのですから。

青年布教師時代というところでも触れておりますが、数々の御守護をいただき見せられてまいりました。しかし、それはどこまでも自発的な献金奉仕です。私は、「一割献金」を目標にすることは素晴らしい取り組みだと考えております。学生時代から私自身が取り組み、御守護に包まれて過ごすことができましたから、有難いことです。また、アメリカ社会もそうした取り組みの積み重ねによって現在を迎えている面があります。かといって、長年取り組んだ末年金生活に入った方などは(現役時と同額の献金奉仕を)続けられる訳はありません。私は、献金額を減らすようにお世話した信徒もいました。

会費がないのも、そうした事を踏まえてのことです。御玉串料は、祭典の際にはお供えしなくては参拝した事にはなりませんが、中身は自由です。感謝献金はすることもしないことも自由ですし、内容はもっと自由です。私はこのことを狂わさないように、自らに課しています。そのため、出張中手作りのお弁当など真心こもった品物をいただいた時は、明細を御神前にご奉告するようにしております。細かい話になってしまいました。

神代文字について

「ホツマツタエ」まで辿り着かれたのならば結構だと思います。日本は木の文化のために尊い文献が消滅していますので、残念なところがあります。ただし、古い神社などの御神体には今も残っているところがあります。

伊都能売神皇が釈尊に説いた折には使われていた、と想像しても無理にはならないのではないかと思います。以前、五輪塔の話しをしてありますが、仏教の中には脈々と流れております。(後略)

メシヤ教
楳木和麿<2005.2.24・17:52>