<御教え>
岡田先生療病術講義録 上巻(四)
(1936年7月)
治療士の心構へ
治療に就ての心得を述べておきます。
<御教え>
宗教は一つもない
(1936年5月文創のまま)
八、治病の不能
既成宗教に於ては、宗教的治病は不可としてゐるが、之位怪しからぬ話は無いのである。それは、自己無能の糊塗でしかないのである。宗教は科学以上の存在と自惚れてゐるに不拘、病気を治し得ないといふ事は、科学所産の医学よりも劣るといふ自白である。科学以下の価値としての宗教は宗教ではない。先づ宗教に似た論理乃至道徳でしかなからふ。然乍ら彼等は曰ふのである。治病はしないが、人の霊魂を救のであると。然し之は立派な詭弁である。魂が救へば肉体は救えない筈がない。何となれば、魂と肉体とは別々の存在では決してない。両者は融合一致してゐるものであるからである。例へて言へば、肉体丈で心魂の無い人間はない。心魂丈で肉体のない人間もないのである。之位判り切った簡単な事すら盲目にされてゐる。
<御教え>
宗教は一つもない
(1936年5月文創のまま)
七、天国的生活
世間あらゆる宗教は即心即仏とか娑婆即寂光浄土とか、地上天国とか、甘露台の世とか言ってゐる。之等は多く未来の理想世界であるとし、現在の苦悩はどうしやうもないと、只忍苦、諦めのみに努力してゐる。其(その)結果、終には苦悩を楽しむのが信仰に徹してゐる、といふやうにさへなって了ったのである。それは苦悩を排撃する事が出来ないので、苦悩に負けるのを満足するのであり、苦悩を肯定する事であり、終に苦悩を常態観とさへするに到ったので、謂(い)はば苦悩の奴隷になって了ったといふのが実際である。恰度、病気を駆逐する事が出来ないから、せめて養生丈で現状維持のまま一日でも長く生きよふとする現代医学の如なものである。
<御教え>
宗教は一つもない
(1936年5月文創のまま)
六、顕幽の利徳
既存宗教に於ては、顕幽両全の利益あるものは無いのである。その多くは未来の利益を標榜してゐる。彼の仏教信者が如来を信じて、未来の浄土を目標とする結果、現世利益を軽視してゐる事や、基督教信者が天国を夢みて、現世に於る苦悩をどうする事も出来得ないから、それに甘んずる哀れな実状や、天理教などの信者が病貧に喘ぎ乍ら、当にもならぬ甘露台の世の幻影を描きつつ滅びゆく惨状にみても、夫等の宗教が、現世利益のない事を證拠立ててゐるのである。ただ纔(わず)かに天狗、稲荷等の低級宗教が、現世利益が多少あるばかりではあるが、之等は淫祠邪教の類であるから問題にはならない。唯是等の中にあって、昔から観音信仰のみが現世利益のあるといふ事は、普く世人の知ってゐる所である。然乍ら、観音信仰が未来の利益も併せ得らるるといふ事を、世間は未だ知らないやうである。仏者によっては、未来の救は阿弥陀で、現世の救が観音であるとしてゐる者が多いのであるが、之等は真相が判ってゐないからである。勿論、未来は阿弥陀である事に間違ひはないが、観音は現世及び未来、即ち顕幽両界の救である。之が自由無碍なる所以で、其(その)言葉がそれを表はしてゐるのである。恰度例へて言へば、番頭は番頭丈の権能よりないが、主人は主人であって、番頭の権能をも有してゐるのと同じ理である。否観世音菩薩こそは、神幽現の三位一体の権威と力を具有し給ふのである。
<御教え>
宗教は一つもない
(1936年5月文創のまま)
五、光明の示顕
本来神霊は肉眼に見得るものではないが、霊界に於ては、想像出来得ない程の大いなる光と熱とを放射し給ふもので、其(その)御神姿は崇高善美なる人間と同一の御姿である。そうして、其(その)御本体から放射され給ふ処の、その光と熱は余りに強烈である為に、常に水霊に依って包まれ給ふものである。
<御教え>
宗教は一つもない
(1936年5月文創のまま)
四、神力又は仏力の顕現
既存宗教の何れをみても、神力、仏力の顕現は、開教当時それぞれ若干あったのは事実であるが、大いなる力、それは無かったのである。故に人類は、真の神力なるものは未だ知らないのである。然るに、愈々(いよいよ)観世音菩薩が救世的大威力を発揮され給ふ時となったのであって、之は人類の想像を絶するのである。今後それが如実に具現し、世界万民に福祉を給与され給ふ実際を仰ぐより致方ないであらふ。今日唯その片鱗を観る事は出来るのである。それは今現に行はれつつある事で、それは如何なる人でも、病気治療の術を一週間の講習を受けた丈で、二三十年専門的に修練した医学博士の、何十倍もの治病能力を得られるといふ事だけをみても、其(その)偉力を想像なし得るであらふ。
<御教え>
宗教は一つもない
(1936年5月文創のまま)
三、過現未の透観
仏教に於ては、よく過去、現在、未来を云々するが、どうも寔(まこと)に不徹底である。昔から三世通観などと謂ふけれども、過去と未来に向って明確に実相を説示したものはないのである。過去と雖も、唯単に漠然たる仮定説的で、現代人を満足せしむる価値はないといってもいい。真に三界の深奥を明かにし得るものは無いのである。そうして、如何なる宗教と雖も、善悪の根本すら徹底説破したものは絶対無いのみにみても明かである。それはなぜであるかと言へば、既存宗教の殆んどは、其(その)開祖が第二流以下の神仏である関係上、主神の最奥の経綸が解る筈がないのであるから、止むを得なかったと言ふべきである。
<御教え>
宗教は一つもない
(1936年5月文創のまま)
二、偉大なる目標とは
世界万民が之に向って仰ぎ拝み、崇敬するに於て、真の智慧と力と幸ひを得させ、絶対安心の境地にならねばならない事である。そうして、血の出るやうな難行や苦行的の自力は必要がないばかりか、真の神霊としては喜ばれ給ふ筈がないのである。そうして、その目標である神仏に大いなる力があれば、如何なる願事でも、正しければ容易に肯かれ給ひ、許され給ふからである。又、力ある神仏とは、万能力を有せられ給ふからである。万能力を有せらるるは、最高の御神格を具有せられるからである。此故に、難行苦行をしなければ利益を恵まれないと云ふ事は、それは人間自身の力を必要とするからで、要するに、其(その)目標神の力の不足を、人間に補はせられるを意味するので、それは其(その)目標神が第二流以下の神である訳である。
<御教え>
宗教は一つもない
(1936年5月文創のまま)
一、真理の具現とは
天地自然の運行、万象の流転と一切の生成化育の実相行姿其(その)ままであって、例へて言へば、人は人としての道を行じ、又、人は生れながら其(その)各々の天職使命があり、階級も儼(げん)として定ってゐるのであって、それを知り、それを実行する事が人としての真理の具現であり、それによって永遠の歓喜と栄を得、安心立命を得らるるのである。然るに今日はそれを教へ、夫を行ぜしむる力ある宗教がないから、人々は迷蒙に陥り、知らずしらず他の範囲を犯し、軌に外れ道を失ひ、其(その)極争や混乱を生むのである。之等は独り個人に限らず、社会も階級も国も世界も悉(ことごとく)それに漏れないといふ実状である。此(この)時に当って、宗教者なる者が天地の真理を弁へないから、人を教ゆる力もなく、感化する徳も無いのである。又之に就て、仏典もバイブルも、其(その)他の聖典も、実は真を説き、実を誨(おし)へて居ないのであるから、人として知る事が出来ないのも致方ないのである。何となれば、もし何れかの聖典に真実を説いてあったなら、今日の如き苦悩と混乱の時代は実現しなかった筈であるからである。又、真理が全具現されたならば、多数人が今日の如く病に罹り易く、天寿を全ふするものが暁の星の如く寥々(りょうりょう)たる筈がないのである。是等によって見ても、此(この)一箇条さへ現在の宗教中に有して居るものはないのである。
<御教え>
世界共和会趣旨及宣言
(1947年5月)
梗概
全人類の三大苦悩たる戦争、貧困、病患に対する根本的解決の方法ありやといふに、之は何人と雖(いえど)も痴人の夢に過ぎないものと思惟するであらう。然(しか)るに吾等はその現実の可能性を確信し得ると共に、茲(ここ)にその具体的意見を開陳するのである。
<御教え>
天国篇
(1952年文創のまま)
私は科学篇、宗教篇を次々かいて来たが、之から最後の天国篇をかくのである。併(しか)し此所論は真の意味に於ける前人未説のものであって、文明世界設計の根幹ともなるものであるから、そのつもりで読んで貰いたいのである。併し初めて之を読む人は、現実と余りに懸け離れた理想論としか思われまいが、決してそうではない。立派な現実性のある事は、読むに従って分るであろう。抑々(そもそも)、主神の御目的である地上天国を建設する基本条件としては、何よりも大自然の実相そのままを表わす事である。というのはいつも言う如く、宇宙一切の構成は、日月地が根本となっており、此本質が火水土であるから此三位一体の力によって、万物は生成され、化育され、世界は無限の発展を遂げつつあるのである。処が今日迄の霊界は、屡々(るる)説く如く夜であったが為、日は隠れていたのである。つまり月土日の順序となっていた。無論之は正しい順序ではないから、之迄の世界は一切に調和が欠け、紊れに乱れて、現在見るが如き地獄世界を現出したのである。之というのも善と悪について曩(さき)に説いた如く、善悪の軋轢(あつれき)が必要であったからで、全く深甚なる神意に外ならないのである。其期間中僅(わず)かに宗教によって緩和されて来た事もかいたが、全く釈尊の唱えた苦の娑婆と諦めの言葉も、キリストの贖罪と隣人愛も其意味に外ならなかった。