メシヤ講座・特選集no.43(平成16年8月分)

<御教え>
観世音菩薩
(1952年文創のまま)

天照大御神が女神である訳

前項迄に、観世音に就ての因縁を、色々な面から説いて来たが、そうなられる迄の根本と言へば全く素尊の暴圧が原因であった事は、既に述べた通りである。処が伊都能売神去りし給ひし後の日本は、どうなったかといふと、其弟神だったのが、天照天皇であって、此(この)天皇は惜しくも、何の理由もなく俄(にわ)かに崩御され給ふたので、止むなく其皇后を立てて、御位に即(つ)かせられたのが彼の女性である天照天皇であった。今も尚天照大御神が日の神であり乍ら女神として祀られてゐるのは、そういふ訳なのである。

八洲河原の誓約(うけい)―古事記は比喩

又以前私はかいた事があるが、素尊は日本の統治権を得んとして余りに焦り、目的の為に手段を択ばず式で、力の政治を行った結果、人心は紊iみだ)れ、収拾すべからざるに至ったので、茲(ここ)に父君である伊邪那岐尊の御勘気に触れ、譴責(けんせき)の止むなき事になった。といふのは素尊は、本来朝鮮系統の神でもあったからである。而(しか)も其後悔悟の情なく、依然たる有様なので、最後の手段として日本を追放される事になったのである。此時の事を古事記には斯う出てゐる。素盞鳴尊の素行や悪政に対し、伊邪那岐尊の御尤めを蒙り、神遣にやらはれたとあり、其行先は黄泉の国であるが、黄泉の国には母神である伊邪那美尊が在すので、罪の赦される迄母神の許にゐて、暫くの間謹慎すべく思って、出発の前、天に昇らんとした処、それを知った天照大神は大いに驚き、さては弟素尊は、自分を攻めに来たのではないかと疑心暗鬼を抱いてゐた処へ、素尊は天に登り、天照大神に面会された処、どうも姉神の様子が普通でないので、之を見てとった素尊は、姉神は私を疑はれてゐるようであるが、自分の肚は何等の邪念はない。此通り潔白であるから、今其證しを御眼にかけると言い、素尊は剣を抜き天の真奈井の水に注ぐや、忽(たちま)ち三女神が生れた。即ち市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、田霧姫命(たぎりひめのみこと)である。すると天照大神は、では自分の清い心も見せようと申され、胸に掛けた曲玉を外し、同じく水に注ぎ揺らがした処五男神が生れた。即ち天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、天穂日命(あめのほひのみこと)、天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いくつひこねのみこと)、熊野樟日命(くまぬくすびのみこと)である。勿論之は比喩であって、実際は其時、素尊は三人の息女、天照大神は五人の重臣を呼んだのである。といふのは此時両神は、右の五男三女を證人として、一の誓約をされやうとしたからで、其誓約とは近江の琵琶湖一名志賀ノ湖、又右の天の真奈井もそうであって、此湖水を中心として、東の方を天照大神、西の方を素盞鳴尊が領(うしは)ぐといふ約束をしたのである。つまり今日で言ふ平和条約である。之によって兎(と)も角一時小康を得たが、其後素尊は相変らず謹慎の色が見えないので、茲に本当の追放となったのである。此時の事を八洲河原の誓約(うけい)と言はれてゐるが、今日でも琵琶湖の東岸に八洲河原といふ村があるのは、此地点であったのであらう。

乙姫

茲で昔から、人口に膾灸されてゐる竜宮の乙姫といふ女神の事をかかねばならないが、之に就ては、少し遡ってかく必要がある。それは伊邪那岐、伊邪那美尊から生れた五柱の男女の兄弟がある。即ち長男は伊都能売天皇、次男が天照天皇、三男が神素盞鳴尊、長女が稚姫君命、次女が初稚姫命である。そこで伊邪那岐尊は、最初伊都能売尊に日本を統治させ次で天照天皇次で天照皇后の順にされたのであるが、素盞鳴尊には最初から朝鮮を統治させたのである。そうして素尊の妻神とされたのが勿論朝鮮で出生された姫神であって、此姫神が弟の妻神となった、言わば弟姫であるから、之を詰めて音(乙)姫と呼ばれたのであるが、昔から乙米姫とも言はれたが、之は未婚の時に朝鮮名の中に、米の字が入ってゐたからであらう。

右の如く、弟姫即ち音姫は、夫神が流浪の旅に上られたので、それからは孤独の生活となったのは勿論で、間もなく故郷の朝鮮へ帰り、壮麗な城郭を築き、宮殿内に多くの侍女を侍(はべ)らせ、空閨(くうけい)を守ってゐたのである。処が其頃信州地方の生れである太郎なる若者が、漁が好きなので、常に北陸辺りの海岸から海へ出てゐた。すると或時大暴海に遭ひ、辛じて朝鮮海岸に漂着して救はれたが、当時としては日本人も珍しがられてゐた事とて、遂に男子禁制の王城内に迄招ぜらるるに至ったのも無理はない。処が当時女王格である音姫様は、寂寥に堪へなかったからでもあらうが、兎も角御目通りを許された処、太郎といふ若者が、世にも稀なる美貌の持主であったから堪らない。人目見るより恋慕の情堪へやらず、遂に何かの名目で、場内に滞在させる事となった。

其様な訳で、太郎に対する愛情は益々熱烈を加へ、日夜離さず御傍に侍らせるといふ訳で、此事がいつか人民の耳に入り、漸く非難の声喧(かまびす)しくなったので、茲に絶ち難き愛情を絶つ事となり、素晴しい宝物を箱に納め、土産物として太郎に遣り帰国さした。之が彼の有名な玉手箱である。又之を開けると白髪になるなどといふ伝説は、誰かの作り事であらうし、又浦島といふ姓は、朝鮮は日本の裏になってゐるからで、後世の作者がそういふ姓を付けたのであらう。

観自在菩薩から観世音菩薩という御名へ

そうして音姫が朝鮮の女王格であった時代は、日本も支那も圧倒されて了ひ、印度(インド)以東は朝鮮の勢力範囲といってもいい位であった。勿論それは素盞鳴尊が、一時飛ぶ鳥も落す程の勢ひであったからでもあり、其上音姫といふ女神は男勝りの女傑であったからでもある。恰度其頃印度の経綸を終えた観自在菩薩は、帰国しようとして南支方面に迄来た処、まだ日本は危険の空気を孕んでゐる事が分ったので、暫(しばら)く其地に滞在する事となったので、其時からが観世音の御名となったのである。といふ訳はつまり印度滞在中は、自在天の世を客観してゐたので観自在といひ、今度は音姫の世を静観する事となったので、観世音と名付けられたのである。即ち観世音を逆に読めば、音姫の世を観るといふ意味になる。そうしておいて菩薩は、南支那地方民に教えを垂れ給ふた処、何しろ徳高き菩薩の事とて、四隣の民草は親を慕ふが如く追々寄り集ふ有様で、此時から観音信仰は遂に支那全土にまで行き渡ったのである。処が御年も重ね給ひ、之迄で経綸も略々成し遂げられた事とて、遂に此土地で終焉され給ふたのである。そうして今日と雖も支那全土即ち満州、蒙古、西蔵辺に到る迄観音信仰のみは、依然として衰へを見せないのは深い理由のある事であって、これも追々説くが、茲で遺憾な事は、南支地方に観音の遺跡がありそうなものだが、全然無いのは、全く其地方が幾度となく、兵火に見舞はれ、地上にある凡ゆるものが消滅した結果で亦止むを得ないのである。

(次回は『弥勒三会』を掲載)

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<質疑応答>

本当の成仏とは

Q. 『伊都能売神』を読ませていただき、仏教に対する考え方が一変致しました。

A. やはり『実際上仏法の本当の祖は、日本の伊都能売神であった事は確かである。』ということに、皆さん驚かれますね。また、荒唐無稽な推論だと批判する向きもありますが、仏像を拝すれば一目瞭然です。インドで作られた観音像のお姿が何故日本人特有のものとなっているのでしょうか。釈迦像や阿弥陀像はインド人特有のお姿に関わらず、観音様は明らかに違います。

差異なところを明確にして「観音様は日本の神様である」と示していることが判ります。メシヤの教えはこうした解答を見ても非常に明確ですね。

仏の資格

それから、阿弥陀如来の『覚者即ち仏の資格を得た者・・・』というお言葉のところが重要な意味を持ちます。

仏の資格、というと首を傾(かし)げる方も多いと思います。死んだらみんな仏様だ、という言い方もされますからね。確かに「成仏」という言葉を広辞苑などで調べますと、「死んで仏となること。」と記されています。しかし、「煩悩を解脱して仏果を得ること。さとりを開くこと。」ということがその前に出ています。実はそれが大事なことなのです。

これも仏像の話になりますが、仏像の頭に大きな瘤(こぶ)のように盛り上がった部分があります。あの形が覚りを開いた姿だと言われています。チャクラを頭部まで上げることができ、頭部が隆起するのです。その姿を形にしているのです。そして、その覚りの境地を如来、菩薩などと尊称するのです。

信仰は有り難い、お蔭をいただいた、ということがありますが、そのことが「入口」となって覚りを開くという「奥座敷」にまで進むことが大切です。皆さんには『神格をいただく道』を毎日拝読していただいておりますが、同じ願いがあるというように捉えておいていただきたいと思います。ただ有り難いだけでは出発点に立ったに過ぎないのです。

その点、仏教の世界では日蓮上人がそのことに気付き、仏教改革に立ち上がったのです。しかし、為政者と癒着した人々によって排斥されました。このことは周知の通りです。

御教えに、『夜昼転換』の黎明期は日蓮上人の出現によって迎えた、と説かれております。大転換期の黎明たる所以ですね。

仏教界の怠慢

また、先程の「成仏」という表現を、「崇(たた)りなどを起こさない」ということで捉えている場合があります。勿論覚りを開いて他界すれば、そうしたことはない訳ですが、どうも武家時代を経てそうした一方的な捉え方が強くなったようです。

日蓮上人が排斥されてから今日まで、改革がなされなかったということでしょう。これは、仏教界の怠慢と言わざるを得ません。しかも日蓮上人の教えを求めている宗教団体にしても、そのことの取り組みが弱いように見受けられます。

お盆の霊的意味

Q.  お盆の時期になりましたが、その意味についてお伺い致します。

A. お盆について簡潔に述べられた御教えがあります。

『釈迦の大慈悲から盂蘭盆会(うらぼんえ)というものを作り、毎年一回日を決めて、地獄にいる霊を子孫の家へ還らして下さるのである。その日は地獄の釜(かま)の蓋(ふた)が開くというが、兎(と)に角地獄の祖霊も仏壇へ招かれ子孫に供養される。地獄の霊もそれを知っていて待っているのである。

元来祖霊は常に全部仏壇にいる訳ではなく、平常は選ばれた留守番の霊がいるだけで子孫が拝む時だけ仏壇に集るのである。その際仏壇には或程度救われた霊だけしか来られない。つまり八衢(やちまた)以上のものが来られるので、地獄にいる霊はお盆の時以外は来られないのである。

お盆は種々の儀式を行って霊を迎えるのであるが、「おがら」を焚(た)くのはここからお入り下さいという目印である。』

以上のように簡潔明瞭です。ところが、肝腎要の仏教がきちんと檀家に対して教えていません。そちらの方が問題です。代わりと言っては何ですが、周囲の方々へ皆さんが教えて上げてください。教える時は、この御教えをそのままお伝えしてくださればよいのです。

霊界では習慣のままにしてくれる

また、私の地方では、お盆に祖霊をお迎えする時にお墓へお参りし、お送りする時もお墓へお供え物を持参してお参り致しますが、所によっては、海や河へお送りするという所もあります。こうした風習については次のように述べられております。

『之は習慣で、御丁寧にやったものであるから悪い事はないが、本当は家だけでよい。玄関まで送るのを遠方の門まで送る訳で、祖霊は、丁寧すぎるよりは普通を喜ぶ。』

そして、土地によってお盆の日が違うことについては『その土地の習慣のままでいい。生きている時の記憶があって、お盆と思っている。霊界では習慣のままにしてくれる。』とあります。

お彼岸の意味

9月にはお彼岸がありますので、その御教えも紹介致しましょう。

『彼岸の時は太陽が冬至と夏至の真中を廻る時で、丁度いい時なんですね。で、この丁度いいという事が天国、極楽になるのです。つまり理想世界の事ですね。彼方の岸というのは「理想世界の意味でしょうね。でその時御墓参りをするという事で、別にはっきりした意味はないのですが、まあ丁度いい時に先祖を祀るという訳で之は理屈なしにいい事ですね。』

この内容は、先程の質問と兼ね合わせて考えておくと良いと思います。また、こうしたお盆やお彼岸、命日には善言讃詞を奉唱させていただくことが大切ですが、御祭りの前に神様へご祈願申し上げてください。『今日何々の法事(あるいは慰霊祭)をするから、何卒(なにとぞ)御守護を、とお願いすると、御光をいただける』と教えられています。心掛けてください。