メシヤ講座・特選集no.42(平成16年7月分)

<御教え>
伊都能売神
(1951年10月25日発表)

日本古来の神々は印度(インド)へ渡航し、化身仏となられた

前項に述べた処は、大自在天なる言わば婆羅門宗旺んであった頃の、主宰者を表わしたのであるが、其(その)当時曩(さき)に述べた如く、日本古来の神々は印度(インド)へ渡航し、化身仏となられたのである。其化身仏の総領が伊都能売神であって、当時日本に於ける最高の地位であられたのである。処が其頃素盞鳴尊を中心とする朝鮮の神々が渡来され、伊都能売神の地位を狙って要望したが、容易に応諾されない為威圧や迫害等から進んで、遂に生命に迄も及んで来たので、急遽御位を棄てられ、変身によって眼を外らし、窃(ひそ)かに日本を脱出し、支那を通って印度に落ち延び給うたのである。そうして観自在菩薩の御名によって、当時印度の南方海岸にある補陀落という名の、余り高からざる山の上に安住せらるべく、新たなる清き館を建てられたのである。曰く『観自在菩薩は補陀落山上柔かき草地の上に、二十八部衆を随え、金剛宝座に結跏趺坐(けっかふざ)して説教をされた云々』とある。当時まだ善財童子という御名であった若き釈尊は、此(この)説教を聴聞して、其卓抜せる教に感激と共に心機一転し、それ迄の悉達(しった)太子という皇太子の御位を放棄し、一大決意の下に、当時紊(みだ)れていた俗界を離脱し直ちに檀特(だんとく)の山深く別け入り、菩提樹(一名橄欖樹=かんらんじゅ)の下石上に安座し一意専心悟道に入るべく、修業三昧に耽ったのである。此修業の期間に就て、諸説紛々としているが、私は七ヵ年と示された。

実際上仏法の本当の祖は、日本の伊都能売神であった

そうして業成り出山するや、愈々(いよいよ)釈迦牟尼如来として仏法開示に、取かかられたのであるから、実際上仏法の本当の祖は、日本の伊都能売神であった事は確かである。そうして今一つ日本から仏法が出たという證拠(しょうこ)として見逃し得ない一事がある。それは仏教でよく称える本地垂迹(ほんちすいじゃく)という言葉である。之は私の考察によれば、本地とは本元の国即ち日本であって、垂迹とは勿論教を垂れる事である。即ち最後に至って、故郷である日本全土に、一度仏の教を垂れると共に、仏華を咲かせ、実を生らせなければならないという密意である。又今一つは観世音の御姿である。其最も特異の点は、漆黒(しっこく)の素直な頭髪であって、之は日本人特有のものである。それに引換え釈迦、阿弥陀は全然異った赭(あかつち)色、縮毛であるにみても、両如来が印度人であった事は明かである。又観世音の王冠や、首飾り等も、高貴な地位を物語っており、頭巾(ずきん)を被られているのは御忍びの姿である。

阿弥陀如来の法名

そうして又釈尊の弟子に、法蔵菩薩という傑出した一人がいた。彼は一時釈尊から離れて他の方面で修業し、業成ってから一日釈尊を訪れていうには『私は今度印度の西方に一の聖地を選びて祇園精舎を作り、之を極楽浄土と名付けた。其目的は今後世尊の御教によって、覚者即ち仏の資格を得た者を寄こして貰いたい。さすれば右の極楽浄土、別名寂光の浄土へ安住させ、一生歓喜法悦の境地にあらしめるであろう』といって約束をされたのである。寂光とは寂しい光であるから、月の光である。処が此法蔵菩薩が他界するや、阿弥陀如来の法名となって、霊界に於て一切衆生を救われたのである。つまり現界は釈迦、霊界は阿弥陀が救うという意味である。

観自在菩薩から観世音菩薩

そして観自在菩薩は、終りには観世音菩薩と御名を変えられたのである。之は梵語ではアバロキティシュパラの御名であったが、後支那に於ける鳩摩羅什(くまらじゅう)なる学者が訳され観世音と名付けられたという事になっている。処が此観世音の御名に就いては、一つの深い神秘があるからそれを書いてみよう。

(『観世音菩薩』は次回掲載)

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<質疑応答>

「日本人の霊的考察」から学ぶもの

Q.  「日本人の霊的考察」を通して、私達に連なっている‘霊統’と‘血統’から様々な影響を受けていることを学びました。まず、意識することが大切であるというように教えられておりますが、実際にはどのように取り組んでいったらよろしいのでしょうか。

A.  ‘意識する’ということが大切です。私達の日常的な心言行は、ほとんどの場合無意識の内に出て参ります。そして、それが様々な結果を導き出しております。良好な状態を保つことができれば幸せですし、時として問題を生じることもあるでしょう。自らの心言行の発露はどこにあるのかを知り、目指す方向を定めて心掛けていくことが大切です。信仰とは、問題を解決してゆく取り組みですので、大いなる学びになると思います。

また目指す方向としては、私達は、大和民族の宗家にあたる神様から浄霊力を授けていただいている訳ですから、そのご性格というものを深く認識せねばなりません。その意味からも、御教え『伊都能売神』で説かれている内容は大変重要です。

取り組んでゆく上で参考になることを、2つばかりお話致します。

(1)霊主体従の法則

近年、私達の‘脳’に関する研究が急速に進み、様々な知識に‘勘違い’のところがあったことなどが判りつつあります。例えば、眼のご不自由な人が他の人の顔を認識する時に手で相手の顔を触りますが、その場合脳のどの部位で認識しているかと言いますと、視覚野だそうです。手で触るのですから、触覚というように思い込んでしまいますが、視覚として認識しているのですね。

また、耳のご不自由な方が手話で相手の話を認識する時は、どうかと言いますと。目で見ているのですから、視覚野で認識しているのだろうと思いがちですが、そうではないそうです。これは聴覚だそうです。まさに手話を聞いているのですね。これらの事は、私達に大変な示唆を与えてくれます。それは「霊主体従の法則」そのものです。厳粛に受け止めねばならないことです。

脳の本体は、精神、心です。現代人は健康を気遣って様々に努力を重ねておりますが、専門家の中では「年を取らないことばかりに熱中している」と指摘する人もいます。人間の本体である精神、心は何を極めようとしているのか、ということが、もっと大切ではないかと訴えているのです。

(2)霊体一致の法則

また、例えば左脳にダメ-ジを受け言語障害と右半身麻痺を起こした人が、リハビリにより奇跡的に機能回復を果たすことがあります。この場合、右脳が補うことで機能回復が実現するということが解ってきたそうです。これも大変な示唆を与えてくれます。「霊体一致の法則」です。

リハビリというものは大変な努力を必要としますが、そこに夢や目的があると更に効果が上がると言われています。8/14に封切りとなる「天国の青い蝶」という実話を基にした映画などはその典型です。脳腫瘍の少年が青い蝶を見つけるためにメキシコへ行き、奇蹟が起きる・・・というスト-リ-です。

私達の身体は自律神経によって維持されております。しかし、自律と呼ぶだけに私達が意識的に胃を動かしたりなどはできません。ところが、唯一呼吸だけはコントロ-ルできます。そこで、腹式呼吸をすると他の自律神経系も整ってゆく、というのです。禅では、姿勢と呼吸が重要ですが、その意味するところが医学的に裏付けられてきているそうです。

一日のうちに何度か腹式呼吸をすることは、健康のために良いそうです。しかも朝日が出てからが効果的だそうです。そして、この時に瞑想をすればもっと素晴らしいですね。心身ともに良いのですね。自分は、年齢を重ねながら何を極めようとしているのか、が明確にできれば幸せです。

皇室について(Ⅱ)

Q.  先月のお話を通して、皇室について語るには私達は知識がない、という感想をもちました。基礎知識がなさ過ぎますね。

A.  そうですね。教育の場でも触れることが少ないようです。実はそのことが、現代社会に大きく影を落としているのです。

皇太子の教育に携わった方々のお話では、ご幼少の頃から大変な努力をなされているように拝察されます。個人的に微笑ましく感じた場面では、高桑美子津田塾大学教授が英語の家庭教師として東宮御所を初めて訪ねた時の逸話です。初等科五年の浩宮様から初対面、「先生は大学生を教えていらっしゃるから、小学生を教えるのは苦労なさいますでしょう。大変ですね」と、まるで親御さんのようなお言葉が聞かれたというのです。

また、学習院の同窓である立花眞さんによる、クラス会や有志の集まりによる宴席の話も微笑ましいものがあります。宴席、皇太子がリ-ドするというわけではなく、輪の中のお一人として談笑に加わり、盃をお口に運び、行儀の良い酒だそうです。自制的ではあるが、万事控えめというわけでもなく、求められれば言葉を選びつつご自身の意見は述べられたそうです。

そして、私達宗教者にとって最も興味深い、宮中三殿にて行なわれる祭祀での場面です。新嘗祭をはじめ様々な祭事があり、皇太子ご参加の祭事は年間十数回だそうです。

身を清め、装束に着替えての立ち居振舞いは、実に生真面目とのことです。三殿に冷暖房はなく、明かりは賢所に設けられた菜種油の灯明のみです。天皇が祈念されている間、皇太子は控え室で待機されます。新嘗祭の場合、およそ二時間に達しますが、正座の姿勢を崩さないそうです。この一事を見聞するだけでも、頭が自ずと下がります。

その他「宮中晩餐会」や「ご接見」をはじめとする公務スケジュ-ルは、過密で暇(いとま)がないそうです。体調の優れない時や気分の良くない日が皆無かのように、周りに不機嫌な表情や仕草を見せられたことは一度もないそうです。相当の義務感と克己心なしには勤まらない、と凡人には思えてしまいます。

そうした方がお口にするお言葉であるからこそ重要なのです。仕えている司等が、その仕え方を修めていないように映じてなりません。

私達は日本人として、人格を磨く上で目指すところの皇室が存在するということは、この上なく幸せなことです。