メシヤ講座no.198本部(平成29年9月)

<今月の御教え>

『真の大乗宗教』(『栄光』242号 昭和29年1月6日)

『信仰の合理性と再浄化』(『栄光』210号 昭和28年5月27日)

 

【メシヤ講座 本部】

 

菅谷支部長

皆様、月次祭誠におめでとうございます。

 

今月は『真の大乗宗教』と『浄化』と『再浄化』に就いて学ばせていただきます。先ずは御教えを拝読していただきますので、よろしくお願いします。

 

受講者

『真の大乗宗教』と『信仰の合理性と再浄化』を拝読

 

『真の大乗宗教』     

『宗教には大乗と小乗とあるのは一般に知られているが、これについて今までの宗教家や宗教学者が説く説は、甚だ曖昧杜撰極まるものであって、真諦に触れているものは殆んどないといってよかろう。従って私は茲に徹底的にかいてみようと思うのである。その前に先ず知っておかねばならない事は、世界に於ける凡ゆる宗教のあり方である。それは昔から開祖、教祖の説いた処を基本とし、その宗教独特の教化方法形式なども夫々具わっており、言わば色分けになっている。

早い話が世界的宗教としての仏教、キリスト教は固より、日本に於ける神道、仏教にしてもそうであり、然もその一宗一派の中にも分派があり、夫々の色分けになっているので、これ等を考えてみると、どうも根本的不合理を感ずる。というのは宗教なるものの本来である。言うまでもなく人間相互の親愛、平和協調精神が生命である以上、目標は一つであらねばならない。従ってその手段方法にしても色分け等ないのが本当ではなかろうか。それが別れ別れになっているとしたら、人類の思想もそれに伴なうのは勿論で、これが又社会混乱の原因ともなるであろう。然も宗教という善の側にある人の力は分散されるから、邪神の力に対抗する事も出来なくなる。これは事実を見ても分る如く、宗教よりもその反対側である邪悪の方の力が勝つ事が常にある。尤も神は十全、邪神は九分九厘であるから最後は神が勝つのは勿論だが、それだけ善の方の苦しみは並大抵ではない。これに就いて私の経験上そういう事がよくあった。それは邪神の勢力が旺盛で殆んど支配権を握っており、絶えず吾々に対し眼を光らし、隙あらば切り込んで来る、彼のキリストにサタン、釈迦に提婆の言い伝えは今も変りはないとさえ思われる。

斯うみてくると宗教は邪神以上の力を有たねばならない。それでなくては善の勝つ幸福な世にはなり得ないのである。そうなってこそ万教は帰一し、世界は打って一丸となり、茲に不安なき幸福な世界が実現するのである。併しそれは容易な業ではないが、不可能ではない。何故なれば主神の御目的たる地上天国は已に近寄りつつあるからである。その根本は勿論小乗を棄て、大乗精神が基本的条件となる事である。即ち地球上一切のもの、宗教、科学、政治、経済、芸術等悉くを包含された処の超文化運動であり、その指導的役割こそ超人的力と智慧とを有する巨人が出なければならない事である。』

[『栄光』242号 昭和29年1月6日]

 

 

『信仰の合理性と再浄化』

『そもそも信仰の根本は、合理の二字にある事を忘れてはならない。いかに信仰上もっともらしい説を立てても、道理に合わないとしたら真の信仰とはいえないのである。この意味において神様というものは、理屈に合えば何程でも御守護があるが、理屈に合わなければいかに拝むとても、御守護はないのである。この点が最も肝腎であって、再浄化の意味もこれに外ならないのである。

散々医療を始めあらゆる療法を受けても治らない結核患者などが、浄霊によってたちまち治ったので喜んで入信することとなる。そして暫くしてから再浄化が起る人がよくあるが、これはどういう訳かというと、もちろん理屈に合っていないからである。すなわち医者から見放された病気が、神様の御蔭で治ったとしたら、神様から無い命を頂いた訳であるから、何程感謝してもし切れない程であるにかかわらず、中にはその当時の感激もいつか忘れて、最早治った以上それで済んだと思ってしまう。そうなると信仰前と同じでないまでも、感心出来ない生活態度となってしまうが、それで何事もなければ万々歳だが、どっこいそうはゆかない。というのは長い間散々薬毒を注ぎ込まれているため、健康恢復に伴い、溜りに溜っていた薬毒の排除作用が起る。これが再浄化である。しかしいつもいう通り右は体的面だけの事だが、実は霊的面の方に体的以上重要な問題があるのである。しかしこの事については今まで少しも知らしていなかったが、最早それが許されない時となったので、その根本をかくのである。

ではなぜ今まで知らせなかったかというと、未信者や新しい信者などには、誤解を招く懼(おそ)れがあるからで、出来るだけ言わないようにしていた。ところが段々浄化が強くなるにつれて再浄化の人も増える事になるから、ここにハッキリさせるのである。そもそも世の中の事は一切相応の理によって動き、道理に合うように出来ている。特に信仰にあってはそれが顕著である。彼(か)の釈尊のいわれた生者必滅(しょうじゃひつめつ)、会者定離(えしゃじょうり)とは、これを一言に喝破(かっぱ)したものであり、因果律(いんがりつ)とか因果応報などもその意味に外ならない。

これによっても分るごとく、死を覚悟し絶望的となった重病患者が全治したとしたら、何を措(お)いても力の限り、神様に御恩報じをするのが当然であり、これが合理であるにかかわらず、忘れるとしたら御蔭の取りっ放しであり、恩知らずもはなはだしいのである。この理を一層分り易くいってみると、例えば生命の価値を十とすれば、十の感謝ならプラスマイナスであるが、十以上であればその余分だけはプラスになり、神様はその何倍にも当る御恵みを下さるものである。それと反対に感謝が五とすれば、差引五だけマイナスとなるから神様への借金となる。そこで一日も早く御返しすればいいが、それを怠(おこた)るとすると利息が嵩(かさ)んで借金は増えてゆく。この点現界と少しも変りはないので、これも相応の理である。そこで借金が溜ってある程度を越えると、神権裁判所から督促(とくそく)や差押えが来る。これが再浄化であるから、それに気が付き心からお詫びをすると共に、元利合計御払いすれば助かるのは当然である。ところが中には飛んでもない考え違いを起す人がある。それは信仰で治ったと思ったのはヤハリ一時的で、本当に治ったのではないとして迷い始める。そこへ周囲の者などが、それ見た事かと言わんばかりにしきりに医療を勧めるので、ついその気になって医者へ行く事になるが、もうこうなったらお仕舞で、十人が十人悪化の一路を辿(たど)り、ついにあの世行となるのは常に経験するところである。ではそうなる原因はどこにあるかというと、霊界においては悪魔は人間の心の隙を狙いつめており、ちょっとでも油断があるとたちまち憑依し、その人をワヤにする。この点注意の上にも注意をしなければならないのである。

そうして感謝の誠を捧げる場合、仮に金銭にしても、多い少ないは問わない。分相応の最大限度であればいいのである。神様は何もかも御存知だから、無理をせずとも御許しになると共に、その上一人でも多くの人を救い信者を作ればなおさら結構であって、要は実行である。そのようにすべてが理屈に叶(かな)えば、まず再浄化は起らないはずで、たとえ起っても軽く済み、命に関わるような事は決してないのである。話は違うが世間多くの宗教の中には、御蔭を頂かない内から、これだけ献金すれば助かるなどといって、御礼の先取りをする事があるが、これなどは欺瞞(ぎまん)行為であるから、御利益のあろうはずはない。全く取次先生の考えが誤っているからである。そこへゆくと我救世教は御利益があってから分相応の感謝をすればいいので、至極合理的であるにかかわらず、それを怠(おこた)るとしたら、全く人間の方が間違っており、お気付けを頂くのは当然である。それでも気がつかないから命まで召上げられるので、どこまでも不合理は赦(ゆる)されないのである。今一つ肝腎な事は、神様が命を下さる御目的はその人を御神業に働かせるためであるから、それを覚って実行すれば健康は益々よくなり、幸福は何程でも恵まれるが、それを裏切るとしたらせっかくの救いを自分から拒否する訳である。』

[『栄光』210号、昭和28年5月27日]

 

菅谷支部長

はい、有難うございました。今2つの御教えを拝読していただいたのですが、今月も新潟出張所所長の庭山光太郎さんが、この御教えに関する学びの骨子を纏めて下さっていましてホームページにもアップされていますのでじっくりと拝読していただきたいのですが、少し触れさせていただきたいと思いますので、最初のところを読ませていただきます。
(拝読部分割愛、全文はこちらからご覧ください。「メシヤ講座no.198(平成29年9月)の骨子」)

 

菅谷支部長

ちょっと難しいですけれども何度も拝読していただいて、ただ仏教に関してはそんなに掘り下げなくてもいいので、こういうものなんだと…、それに「大乗宗教」とはどういうことかということに繋がって来ますので続けて読ませていただきます(拝読部分割愛)。

 

 

菅谷支部長

最後の3行、

吾々は仏道の本義を究めて如来乗に達することが出来て寔に有難いことではあるが、世の中は未だに小乗者の世界であるから、当分の間は大乗に下がり菩薩乗によって〝常に楽しく我を浄め〟てゆくことが神仏より与えられた使命と思うのである。

ここがポイントになっていまして、実はここは間違いなんですね。これについて代表から御指摘がありました。9月度研鑽資料の骨子の補にありますが…、その御指摘いただいた箇所は(上記の)「・・・世の中は未だに小乗者の世界であるから、当分の間は大乗に下がり菩薩乗によって〝常に楽しく我を浄め〟てゆくことが神仏より与えられた使命と思うのである。」の箇所です。
「メシヤ講座no.198(平成19年9月)の骨子 補」を拝読ください)

 

菅谷支部長

これが訂正に対しての骨子の補足なんですね…。今月は代表より骨子に対するメッセージがありますので、それを読ませていただきます。

 

骨子に関して楳木代表からのメッセージ

菅谷支部長代読

 

「庭山さん、本領発揮している(「だからやっぱりこれはあなたの仕事なんだよ。」)」と楳木先生が仰っていました。

・庭山さんが考えて結論を書いた部分が的を射ていた。“真の大乗宗教”だけでなく浄化に関する観点からの見解も要求されて、さぞかし大変だったと思う。

・けれども、纏めの為だと思うけれど種々漁っているうちに(庭山さんご自身に)長年解けなかった疑問が明確になったサプライズが起きた事自体が、真の大乗とは何か、こういうものなんだというものを見事に体現していると言えるのではないだろうか。

・多くの人間それぞれに合った形で見えなかった真理という一つのものに収束させていく力そのものがなければ“真の大乗宗教”とは言えない。

・力が人間をあるべき姿に変えて下さる。

・大乗とは他力と言われているが、結局は“力”という一言に尽き、仏教の様に現状にアプローチせずに人間に備わっている欲の方を操作して諦めるという事は必要ない。

・メシヤ様の教えは副守護神の働きを否定せず、必要であるときちんと認めている。

・自分は助かりたい、楽しくありたいという本音はあって良い(無くならない)。

・やはり人間は誰もが本音は天国の住人になりたいのだから。

・その本音(欲)を否定したら、いつまで経っても地上天国は建設されない。

・だってそうでしょう。自分達を考えれば一番分かると思うけれど、自分達が前に所属していた教団で納得出来なかったから今ここにいるのでしょう?

・良くなりたい、本物に触れたいという欲が自分達を引っ張って、今いる場所に連れてきてくれたのでしょう?

・だから現状をなんとかしたいという欲が(は)なくてはいけない。

・そういう意味で仏教と真の大乗宗教は前提となるものが違うのであって、真の大乗宗教を仏教に当てはめて考えるのは実際不可能である(枠外に出てしまうので、その枠から出ない限り理解不能になる。骨子中の「如来乗」の説明文の最後から2節目の「・・・本当は人間の「心性」は無差別平等であって、涅槃こそ人間の本質であることを開示されたのであるが、遺憾ながら最後の教えが不明であったために、人間は反ってその本質たる涅槃に迷う結果となったのである。・・・」の部分がそれを示しているとの事です)。

・しかし不可能と言っても真の大乗宗教は仏教より断然大きいので、仏教で言われている細々とした条件を越えてしまい、結果としてその条件を満たしてしまう(超越している)。

・人間の欲を否定せず(自分は救われたい)、その上で他人を幸福にする(であるならばまずは他人を良くする為に動く)という法則を教え、それを行う方法を教え、実行する道具を与え、現実に作用する。

・そうすると現実に作用する力そのものが働き、人間を真理に到達させてくれる。

・それが報酬である浄化。

・浄化後は霊籍が向上しているのだから。

・それで人間性が練られてものが良く分かる様になり、いつの間にか他人を良くする事「自体が楽しいという本物の善人となる。」

・だから霊層界の御教えが基礎で、この事がきちんと整理されていないと真の大乗宗教と浄化との関連性は掴めない(学びの時間を無為に費やしてしまう)。

・人間の逃れられない現実として霊層界のどこかに自分がいるというのがあるわけで、その霊層界の約束事が相手を救えば自分が救われるとなっているのだから。

・だから主神様の御意図、現実を変える力が現れるというのは本当にありがたい事で、地上天国建設の時期が来た、そしてそこに自分がいるというのは理解が進めば進む程勇気付けられるのではないだろうか。

・結局は真の大乗宗教とは主神様の力であり知恵。

・こういう事で、この庭山さんの話は本当に良かった。

・しかし一点、参考資料として添えられた仏教の究極の知恵を説明している部分に、世界メシヤ教を復興する流れを阻害するところがあるので、それを先に指摘して明確にしておかないと骨子を見る人に勘違いが起きる。

 

菅谷支部長

ということで先程の訂正箇所の説明がありますが、この部分は又後で読んでいただきたいと思います。

 

 “楳木代表からのお返事です。”
菅谷支部長

これは庭山さんの骨子の補足に関してですね…。

 

菅谷支部長代読

 

・自動運転とは本当に上手く表現したなと思う(確かに仏教の郷愁はないよね…と仰っていました)。

・小乗門だと三十七道品まで自分の力でたどり着かなくてはならない。

・バラモン教よりははるかに楽だけれども、これもまた物凄い苦労と時間がかかる。

・自分の中の観察・分析に時間も労力も費やしている分、そこまでいくのも大変。

・夜の時代だから、これしか出来ない。

・けれど昼の時代は浄霊が出来る訳で、浄霊を受けるとダイレクトに魂を包んでいる曇り自体を取られてしまうのだから、その結果ものが良く見える様になって、気付いたら勝手に三十七道品内の八正道として認知されている様な道を進んでいたという感じになる。

・今回の話題の説明として敢えて言うと、薬が悪だとメシヤ様が仰っているんだから、「苦・集・滅・道」の集諦で言う原因ははっきりしている訳だし、それを浄霊で取ってしまえば滅諦で言う不明が明になってしまうのだし、そうすれば勝手に道諦に乗ってしまうし何よりも苦自体が消滅するのだから最初の苦諦に時間を割く必要がない。

・そういう意味で諦めが基本の仏教をメシヤ様の教え・力は超越しているので、前提となるものが違うというのが分かると思う。

・自分が苦しいのを自分と苦を分けて諦めようとしても、やっぱり苦しいものは苦しいに決まっているんだから、他人の苦しみを取り除いてあげられる道具を手にしているならそれを使わない手はないでしょう?

・しかもそういう力である御浄霊をお取り次ぎするというのは大変な功徳を施している事になり、またそれによって自分の霊籍を向上させて頂けるのだから、自分が大変な施しを受けている事にもなる(大乗門でもあり小乗門でもある)。

・今の時代とにかく忙しいのだから、いちいち自分の中を観察している時間はない。

・仏教にありがちなのは、その観察自体が娯楽になってしまっている事。

・この忙しい時代に仏教に精通したとしてもただの娯楽に浸って何もしなければそれは罪になる。

・他人を助ける大乗門に入るのを怠っている事になる。

・浄霊できちんと浄まってしまえばそこも見えてくるのだから、自然と大乗門に入ってしまう。

・浄霊がどの神様から来ている力なのかを考えれば、納得出来るのではないか。

・そして全ての相反する力を結ぶ神からもたらされる知恵・力があってはじめて到達させて頂けるものが如来乗に相当するものであって、人間単独の努力では不可能である。

・結ぶのは主神様のお力だから(御教えにあるカ、ミで神だというのはそういう事)。

・結んだものが御神意であり力なんだから。

・全ての根元である唯一の主神様だからこそあらゆるものを結んで帰一させられるのであ  って、作られた側は常にその御意図に沿って動くのみである。

・天津金木の上に向かって立っているのが縦(霊)、四方向に広がっているのが横(体)で縦と横を一つに結ぶ力、そして結ばれた縦横両方の動き、それが神様の表れなんだから御神体とされていたのもこれで分かると思う。

・だから最高神との霊線を太くしなければならない。

・結んで下さる霊体一致した神様から垂れられるお力によって見えた御神意・得た知恵が如来乗に相当するもの。

・だからそこまで行くと善と悪が紙一重に見える事がある(五六七→十八、六六六→十八)。

・神の善と人間の善は違う。

・そういう意味では少しドライな面もあるが、だからこそ主神様の教えは西洋的でもあり、世界を救う事が出来る。

・とは言え善と悪が同じ様に見えても基本人間は霊層界にいるから、自分本位であれば抹消させられてしまうものなんだから、どうやっても善が勝つ仕組みになっている(心配いらない)。

・そこで神意を捉えた上でそれを地上に出現させる方法として人間が観音様の働きをして進めていかなくてはいけない。

・伊都能売神の横(体)が観音であるから、人間を通して観音が現れなければならない。

・伊都能売神のお働きが裁きと救い両方で、人間は裁きは許されていないが救いの部分で動く事が出来る。

・神がお出ましになっての観音行というのは神意が人間界に表れたものだから、如来乗の体が菩薩乗と考えれば、折角如来乗にありながら大乗門にさがってしまうと菩薩乗は本来のものにはならず、落第してしまう。

・人間一人一人それぞれ特徴や癖、個性があるので、一人一人の苦の原因がどこにあるのかを見抜いて世界中の人間それぞれにとって一番適した形で救いの業を展開していくというのは大変な高等技術であり、全てを併せ持ち統合するお働きである神様からの御知恵がなくては観音様の様にはなれない。

・観音様の位が菩薩となっている為に低いなと惑わされてしまうが、この高等技術を展開していったのは縦横・日月両方併せ持っていた伊都能売神の横である観音様なのだから、円転滑脱融通無碍というのは宇宙規模の高さや幅の広さ、奥行きがあり、その中で自由に、かつデタラメではなくきちんと法に則った行を実行していくのであるから大変難しいものである。

・大きな御神意を汲み取り、そういう仕事をこれから人間がさせて頂かなければいけないのだから、毎日礼拝して最高神と霊線を太くしなければ出来ないでしょ?

・善言讃詞にある「吾等が日々の施業にも」からの後半部分と御神名、惟神霊幸倍坐せ迄をよく確認して見るとより納得出来ると思う。

・そしてそれらが「神格をいただく道」なんだと誰でも分かると思う。

・これでガッテンして頂けましたでしょうか?(“最後にこれを付け加えて欲しいと仰っておりましたので…。”)

 

菅谷支部長

(笑い)、楳木代表からの回答は以上です。“ガッテン”…、(笑い)そういうことなんですね。この内容は読んでいてどうでしたか。この内容は1回読んだだけでは中々理解するのが難しいと思いますので、この資料はしっかりと今月の学びとして何度も拝読していただきたいと思います。

 

『霊層界』の御教えの重要性

菅谷支部長

それで、4、5、6月と学ばせていただいて、6月15日に「メシヤ降誕仮祝典」を執り行わせていただきまして、「日の神様」『メシヤ様』の根源であられる『天照皇大御神様』をお迎えさせていただきましたので、「日」が出たわけなんですよね。「日」が出ましたので、御教え『日と月』にもあります引くということも出来るということで、それまでの夜の時代では単純に「引く」だけでは『悪』に負けてしまうので『善』の力が弱いので、やられてしまっていたのですが、今は「日」が出ましたので『善』を助ける「日」というのは『善』を助ける力『善』そのものなので、引くということが御教え『日と月』を学ばせていただいたのですが、今月を含めて今までの総ての学びが全部繋がっているということですね。そのことを意識しながら拝読していただきたいんですね。今までは『御教え』というと一つ一つを拝読して来たと思うのですが、その繋がりがちょっと薄かったと思うんですね。でも今年に入って4月から学ばせていただいている内容は全部繋がっているんですよね。そして一番根底にあって最も大事な御教えというのは、『霊層界』なんですよね。

代表もメッセージの中で仰ってましたが、『霊層界』の御教えを再度よく拝読していただいて、これが腹に落ちていかないと正直に言いますと全部わかってこないんですよ。『浄化作用』にしても繋がりがありますので…。

 

先月の研鑽資料「メシヤ降誕仮祝典の総括」の中に『大乗と小乗』に付いての図がありましたよね。主神様の…、ここが『主神様』の「大乗」でこう三角になっていて『善』と『悪』ここが囲われていて我々はこの囲われている階層で「大乗」というのを考えなければいけないんです…、行うというのですかね…。

『主神様』の大乗を我々がやると逆に悪だと勘違いされてしまう位に大乗なんですよね。御教えの中で言いますと「一旦泥棒の仲間になって一緒に泥棒をしながら、“こんなことをやっていても…”、ということで期を見て“よくないな”と“やめようよ”。」というような、そういうようなことを人間がやるとかなり難しいですよね…。只、捕まって終わりだと思うのですよね。(笑い)一緒に仲良く捕まるだけなんですけれども…(笑い)。

 

『主神様』の大乗とはそういうものなんですけれど…。実際に行う場合いは、『善と悪』我々の階層から見た『善と悪』でしか行えないんです。ですから、『小乗と大乗』と考えた時に言葉では分かるんですが実際は『霊層界』というものが大きく関わって来るんですよね。自分は大乗のつもりでも自分の階層でしか大乗を行えないんです。では、「じゃあもう絶対だめなのか。」というとそうではないんですよね。

 

『霊層界』については何度も説明させていただいていますが、『幽魂』と『現魂』がありまして『霊線』で繋がっているのですが、『幽魂』が『霊層界』の180段の内のどこかに存在していて、『幽魂の位置』が地獄にあれば『現界』も地獄になるんですよね。『中有界』で良い事、悪い事、両方程々だなというと真ん中ですよね。そうすると現界でもそうなって来ると…。それで、『夜の時代』はそれが反映されるのに少し時間がありました。しかし今は『昼の時代』に入りましたのでこれがダイレクトになって来るのと、逆に言うと誤魔化しも効かない。御神業に於いてもそうですし、そのものの働きという形になって来ますので、小乗とか大乗とか考えた時に駄目かと思うのですが、実は現界の方の動きが幽魂の位置を上げたり下げたりとそういう仕組みになっていますので…。では“どうしたら良いの”ということが先程のメッセージの中に書いてありましたが、「利他愛」ですね。

 

浄霊は利他愛

菅谷支部長

我々は浄霊という御力を賜っているわけですから、この浄霊しか無いんですよね。もちろん想念が大事で想念の時代でもありますが、今まで御教えに書かれていたような浄霊の奇蹟というものが中々、各教団、離脱教団も含めそうだと思うんですが、なんか今一つ体験しづらいというような感じがあったと思うんです。それは「日」が出ていなかったからなんです。今回は6月15日に日が出ましたので、浄霊の力もまるっきり変わって来ているんですよね。

ですから、先月もお話しましたが、これから周りの人で「ちょっとここの具合が悪い。」と言われる方がいらしたら、もう迷わず直ぐに「実は私こういうことが出来ますので、受けてみられませんか。」というようなことで、浄霊をドンドンしていただきたいんですよね。今迄されて来られた方は今迄と同じように続けていただいて、中々伝える勇気がなくて周りの人に言えなかったという方も浄霊をドンドン御取り次していただけたらなと思います。もうまるっきり違います。日が出ましたからね。

 

ですから御教えに書いてある通りになって来るということなので、浄霊によって人を救う利他愛の、これが「如来乗」に繋がっていくということですから。仏教だと一人で積み上げて「菩薩乗」とか色々と書いてありましたが…、たぶん無理だと思うんですよね…(笑い)。たぶんと言うよりも何十年経とうが辿り着ける境地ではないと思うんです。しかし我々は有難いことに浄霊という御力を賜って、そして『世界メシヤ教』を復興するという使命を与えて下さっていますので。

 

9月は『世界メシヤ教』復興への決意を固めさせていただく

菅谷支部長

この7月はメシヤ教としての新たなスタートの月でした。そして、この2ヶ月間は御垂示も随分少なくなり、我々一人一人が向上する月でした。ただ、なんとなく暑いし少し流されたような感じの人もいるかもしれませんが…(笑い)。

これは7月、8月で神界の方では代表をはじめ先達の先生方が『世界メシヤ教』復興の土台を御造りになられていまして、そして本日の月次祭から決心をしていただいて、現実化して行く為の動きをですね…、「先ずじゃあ何をするんだ。」というところからですけれども…。

 

もうご存知だと思いますが、昨年の12月23日楳木代表は箱根で「人類を代表して世界メシヤ教を復興します。」という誓詞を捧げられました。そこから、次は我々が誓詞を御捧げし進ませていただくんだと…。やはり神界、そして霊界で御先祖様も含め沢山の働きをして下さっているんですが…、結局のところ人間が神様の御力を示しながら進んで行くということなんです。ですから、今月は“我々が絶対やるんだ”という思いを持って先ずは決心をしていただきたいと思います。

 

では何をするんだということは、これから其々に色々な役目がありますので…、一人一人が今迄よりも一段なにか…、お役を一ついただいて進んで行くということになると思うんです。先ずは想念を固めていただいて“自分自身に何が出来るのか”ということよりもやはりここに繋がって集まっているということは因縁と使命を持って繋がって来ていますので、必ずさせていただくことができますから、先ずは決心をしていただきたいということです。

 

今月は非常にハイレベルな学びですが、要するに「『世界メシヤ教』を復興させていただくんだ。」ということなんです。この一言に尽きると言っても良いぐらいですので、その為の御教えであり、その為の浄霊であると思って…、今月は其々が決心を持って来月に向けて進んで行けたらと思いますので、宜しくお願い致します。

 

それではこれで終わらせて頂きます。有難うございました。

 

受講者一同

有難うございました。

 

[メシヤ講座no.198 本部 2017(平成29)年9月3日]

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