学びの骨子 補(平成29年9月)

<研鑽資料 骨子補>      

平成29年9月度学びの骨子 不要部ご指摘の個所の見解

新潟出張所 庭山光太郎

今回の骨子の中で、「一点、参考資料として添えられた仏教の究極の知恵を説明している部分に、世界メシヤ教を復興する流れを阻害する処があるので、それを先に指摘して明確にしておかないと骨子を見る人に勘違いが起きる」とのご指摘を頂き、その一点は“〇仏教における一乗門について”の最後の節の

「世の中は未だに小乗者の世界であるから当分の間は大乗に下がり菩薩乗によって‟常に楽しく我を浄め„てゆくことが神仏より与えられた使命と思うのである」

の個所が‟如来乗に達することが出来て誠に有り難い„としておきながら、下がってしまったら結局は仏教でいう大乗に降りる(逆戻りする)訳で、大乗と小乗が結ばれる事なく相変わらず離れたままなので、例えば他を救う意味で御浄霊を御取次する等の事をしたとしても、この場合であればやはり仏教から脱却できていないので、本当のお力を頂くのは難しい(「そこで下がってどうするんだ!?」と仰っていました)。

 

更に大きな危懼として

「特に今は日の神様をお出しした後なのだから、どんどん現実を地上天国化するという“大きな欲”を持って他の人を救っていかなければならないのだから、そして自分も他人も天国の住人に相応しくなっていかなければいけないのだから、上記の内容だと矛盾が生じてしまう(主神様の大きな御意図を人間側がいつまでたっても感受出来ない事になってしまう。物事の意味付け・概念の書き換えがなされないので対立軸から離れられずに、その上にある第三の道が見えない)。」

 

「折角メシヤ様が仏教それぞれの論理を超越した教えで夜の時代に定義されたものを捨てさせて下さると言うのに、最後の最後に自分達人間がこれに疑問を抱かずにこの論理に嵌まってしまっては大変な事になる。」

 

「主神様の統一性・力は小乗も大乗も含んでいるのだから、離散して枝分かれしていった仏教の指すものを越えた位置にある主神様の御意図・お働きによって仏教の観点から脱却していかなければならない。」

 

「そういう意味でもこの上記の箇所はこれまでの我々が犯しやすい間違いをはっきりと見せてくれるものなので、この骨子にこの部分を載せたのは大変良い事だった。」

 

とありまして、これは相当に鋭い御指摘で、私もさすがに考え込まざるを得ませんでした。

 

小学校の教育課程が小乗の声聞乗としたら、中学は縁覚乗であり、高校は菩薩乗で、大学が如来乗であって、なかなか勉強が進まないなら、上級生が下級生を助けるという意味の「下座の業」位な意味でしかなく、その為に本来の力ある神様が観世音菩薩となって、釈迦牟尼如来や阿弥陀如来の下位に甘んじて教えを垂れ、三十三相のどんな階級の人にもそれに合わせて陰からのお救いに当たられたとしたら、もはや「下座の業」という言葉も「円転滑脱自由無礙」という言葉は死語になり兼ねない。

 

また私の父が入信して最初の御面会のお言葉が『あのな、人間というのは観音様のような人間にならなければいけないんだ。』と言われた事は何だったんだろうという事になりますが、反面『観音の 衣をかなぐり捨て給い メシヤとあるる大いなるとき』とお詠みになられた事を想えば、如来の下位の菩薩どころかキングオブキングになられた以上何時までも過去に拘(こだわ)っていては、メシヤ様にも申し訳ない事で、そういう仏教の郷愁もかなぐり捨てて現代に合わせなければならないとしたら、

 

「もちろん程度に差はあるとしても、現在もこの間違いが多くの人にもあるからこそ今まで世界メシヤ教は復興されないままでいるのだから、この箇所は大変貴重である。」

 

「だから今ここで世界メシヤ教を復興しようとする立場で書き換えるとすれば、「小乗者の世界であるからこそ、有難く大乗の道を進ませて頂くという意味を噛み締め、“常に楽しく我を浄め”てゆくことが神より与えられた使命と思うのである。」が今という時期に合うのではないか(仏教の枠を越えて小乗者の世界をも肯定。ただし神様の力があってこそ肯定出来る)」という事は現実味を増す。つまり‟最早車も自動運転に切り替わろうとする時代に、牛っ車や籠を持って来てどうするんだ„という事に等しい。」

 

兎に角私としては世界メシヤ教復興という大使命を反故にするようなつもりで9月の骨子を書かせて頂いたつもりなど一切なく、『観音の 化佛の御名に長き世を 救わせ給いし神ぞ尊き』で、来年の3月3日には「夜の世界でのお救いにも感謝の御礼を言わなければならないかなぁ」位なつもりで書かせて頂いたものである。

それが『観音の 慈悲とは善悪無差別に 救わせ給う事にぞありける』の御詠も、もはや善悪無差別の救いではなく、善と悪の建て別けに入ったんだという事への認識をしなければならない時期に突入したんだという意識に切り替わらなければならない事を示唆されたのであろうと思えばこれまたそれなりに意義があったのかと感謝させて頂かねばならない事である。

 

[研鑽資料no.6 学びの骨子 補 2017(平成29)年8月25日]

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