メシヤ講座no.197岡山(平成29年8月)

<今月の学び>

「平成二十九年六月十五日 メシヤ降誕仮祝典の総括」と、『日と月』『大乗たれ』他

 

【メシヤ講座 岡山支部】

 

支部長

皆さん、月次祭、おめでとうございます。今年も早いものでもう7月になりましたけど、7月のときに本部に行ったときには災害はなくてですね、8月この度本部に行かせていただいてる途中にですね、日田の辺りで災害のこと皆さんニュースで聞かれてると思うんですけど、ちょうど高速道路から見えるところが非常に悲惨な光景で、流木が流れて家の中に土砂が流れて入ったりとか、そんな光景が当たり一面に広がってた・・・ということを目の当たりにしましてびっくりして。テレビで見たりはしてたんですけどそういうものを直接自分の目で見るということは中々ないんですけども、そういった意味では災害に遭われた方っていうのは非常に気の毒にね思うんですけども、そうやって考え合わせると岡山って比較的災害もなくてですね気候も穏やかで生活は非常にしやすいですけどもその面逆に生活がしやすい面どうしても自分本位な部分が出てきます。利他愛という部分で少し欠ける部分があったりしますけど、午後から学ぶ内容っていうのは今日のザットした日程としたら午前中学びをさせていただいてそれから食事を取らせていただいて、そして本来であればですね勉強会を日にちを変えてするんですけども、お盆とか8月の日程の関係上午後から少し1時間ほど時間をいただいてですね、勉強をさせていただきたいなあと。その時にですね、実は今皆さんにはお配りしてませんけれどこれから午後の時に配らせて頂きますけれど、7月の月次祭メシヤ講座を受けて代表からのメッセージが届いてます。だいたい3ページくらいあります。それを解説して下さっていますので、それと今お手元に配らせていただいた御垂示の部分と合わせてですね1時間ほど時間を使って皆さんと確認させていただければなあと。それから午前中はですね、今お配りさせて頂いた御教えとメシヤ降誕仮祝典の総括というのがありますよね?これを学ばせて頂いて、そして最後にお盆の事についてどういうふうに3日間過ごしてもらいたいかという事をお話させていただいて、午前中の学びというふうにさせて頂ければなあというふうに思っています。まず順番から行きますと、10何ページあるメシヤ降誕仮祝典の総括というのがあると思うんですけども、実は今月は『日と月』という御教え、『大乗小乗』について学ぶということでですね、○○さんにその編集をお願いしてたんですけどなぜかその編集ではなくてですね、ずっと突き詰めていくと6月15日の総括をしなくちゃいけないという事で総括の文章になりました。それでそれをいつもの方に送ってですね、確認してもらったら総括は必要だからそれで良いという・・・そういう事になりましてこの総括の学びを確認させていただければなあと思います。それから『日と月』の学び『大乗小乗』についての学びをさせて頂いて午前中終わらせて頂ければなあと思います。順番に読んでいかせて頂きますので大事な所は確認していただければなあと思います。

 

平成29年6月15日のメシヤ降誕仮祝典の総括     新潟出張所   庭山光太郎

 

菅谷氏より7月17日に「平成29年7月16日付」が送られて来て、21日に『「日と月」と「大乗と小乗」について出来ましたか』との問い合わせに戸惑った。

一応メールが送られて来た時に、そんな要請があった事は確かにあったようであったが、「日と月」を拝読した時に、「こんな分かり易い御論文なら拝読したら直ぐに分かって頂けるのになあ」と余り気にも留めなかったのだろう、21日に「できましたか」との質問に、慌(あわ)ててしまった。「あれ!何を書けばいいんだ」と。それから「今回の通信は何を以て学びの補助とせよ」という事なのだろうか。「その狙(ねら)いは何か」を考えながら何回も何回も通信を拝読した結果、「そうだ今回の通信は仮祝典の総括を伝えられたものだから、人間側としても総括しなければ仮祝典をやりっぱなしで終わらせて了い、何の収穫もなく、先々の展開見通しも怪しくなり、先ず以って極めて主神様に対し奉り不遜である」事に気づかされたのでした。

実は、前号、「平成29年6月20日付」で、『7月に関しては、これから信者全員の向上が求められるという事で、6月15日の総括を土台としてスタートする事、そして基礎である霊層界関連の学びをきっちりして(一度した所は再度する事)、信者さん全員に行き渡るようにして下さいというお話でした』とあり、『6月15日の総括と霊層界関連の学びは密接な関係だから、ここが甘いと一歩踏み出せない』と載っていて、前号と今号は総括に於ては一緒であり、今号は神界からの仮祝典の意義を伝えられたもので、人間考えでは及ばない開示の数々を噛み締めて、自分のものにしなくてはいけないものである。

7月にしては少し遅くなって誠に申し訳なく、神様にお詫びをしながら書かせて頂く事にします。

先ず、前号の「6月15日の総括と霊層界関連の学びは密接な関係だから、ここが甘いと一歩踏み出せない」とはどういう事か。そこで霊層界という御論文は、同じ題名で2篇ある。一篇は「天国の福音」中にあり、もう一篇は「霊界叢談」中にあり、昔の古い大判の御神書宗教篇中には並んで掲載されている。「霊界叢談中」の霊層界の最後の3行を記せば、

 

「従って人間は常に善徳を積み、罪穢を軽減し霊層界のより上位に吾が幽魂を住せしむべきで、それによる以外幸福者足り得る道は決してない事を知るべきである」

 

とあり、決して利己主義たる小乗にあってはならず、大乗を以て「人よかれ」と善徳を積む事によって自分の罪穢を軽減し、浄まって霊層界のより上段に幽魂を上げるべきで、それによる以外に幸福者足り得る事は決してない」

とメシヤ様は断言遊ばされているのだから、先ず自分だけが浄霊の恩恵を受けて、他人もその恩恵に浴してやらない限りは御神意に叶わず、決して幽魂の上昇もある事はなく、結果として真の幸福者とはなり得ないという事である。

先ずこの事を肝に銘じないと、つまり詰めが甘いと「一歩を踏み出せない」というのだから、この2篇の「霊層界」を熟読し肚に落として頂き度いと思っているのである。勿論私自身が何の成果も挙げられていない事を想うと忸怩(じくじ・恥じて極まりが悪い)たるものがある。

然しこの長年の忸怩たる思いも今回の通信による御開示で、解消される時が来た事を知らされた。この忸怩たる思いの原因が知らされたから勇気百倍の力を得たにも等しい福音であり、只々主神様と青枠の方と代表と取次者の方には感謝のしようもない程である。

そのもっとも核心たる御開示は、(7月9日 AM10;37)<絶妙な「六」具合>、中に

「現界に日は出たけれど人間側はそれを感知できない状態が続き(現界の体にはまだ日ははっきりと表れなかった)、日の力がはっきり見えないという事は奇跡を頂けない事そのものなのだ」

 

「それまで神様がお体で示して下さったからこそ起きていた奇跡も、メシヤ様から明主様に戻して頂いた時点で一旦見えなくなる事を表していた。」

 

「主神様の地上天国を作る目的、世界人類を救うという目的があって下さっていた奇跡も、メシヤ様ではなく明主様に戻した時点で光が消えた状態になったのだ」

 

「神様の地上天国を造る目的、世界人類を救うという目的があって下さっていた奇跡も、メシヤ様ではなく明主様に戻した時点で光が消えた状態になったのだ」

 

という事はつまり「天の岩戸隠れ」になったと等しいものではなかろうか。

 

次いで(7月9日 PM7;49)<「日」を意識して欲しい>中に

「今回天照皇大御神様を人間が自らお迎えした事で体の体に日が現れたので、御教えにあるような事が可能になってくる。日の力が現実に作用するのでそれを妨げるものは取り除かれる動きになるのは確実である、人間の階層に神様が現れたのは確実なのだから」

 

「文明の創造は主神様の提示された新文明の設計書ですが、日の神様がお出ましにならないと話にならなかったとの事でして、そういう意味で平成29年6月15日に人間側の手によって救世主降誕仮祝典を執り行わせて頂けたのは神様に対しての大変素晴らしい御用だったのだ」

 

「人間側で日の神様をお迎えしたという事は、メシヤ様の御教えを実行してい

く力・善に味方する力をお出しした人間側が神様の意向を受けたという事になる」

 

という事は、この度の6月15日は「天岩戸開き」をやらせて頂いたようなもので、その日以降は御在世中に於ける奇跡、あるいはそれ以上の奇跡をどんどん見せて頂ける時期に入った事を意味するものと思うのす。その決定的御開示が次です。

 

「浄化を頂いて夜の癖を溶かして頂いて自ら魂の力を発揮させられる人間が多くなれば地上天国に近づくのは誰もが分かるので、今まで日が体の体に現れなかったという事は、これらの逆であった、自分達が信仰をしつつもメシヤ様が仰る様なものを長い間見せて頂けなかった、奇跡を頂く事が難しかったのはここなんだと繰り返し仰っていました」

 

この御開示が、忸怩たる思いの根本原因であり、やっとその思いから解放されると思えばどれほど有り難い事か、言葉もない程である。とりわけ父の事を想うとその感慨は一入(ひとしお)である。どれほど待った事か。メシヤ様から戴いた「石松」が石の如く動かない「石待つ」になってしまったからである。メシヤ様から見せて頂いた数々の奇跡が刻印となってメシヤ様から離れられない人間になって了ったが、働き盛りを無為に過ごした時間も膨大であったろうに、子供心に「よく耐えたんだなぁ」と思わせる事もしばしばであった。

然しその待ちも、何も父ばかりではある筈もなく、先達の方、更には世界中の聖者賢哲も待たれたのであり、何よりも主神様が一番待たれたであろう事も想像できる。とすれば我々は大変なるターニングポイントの決定的瞬間に立ち会った訳である。そしてそれを揺ぎなく輝かしい祝日とさせて頂かなければならないのが来年の3月3日である。

散花結実はこの日の為であり、三千年に一度捧げた桃の実の完全なる成長であり、又、「これは将来教団の発展と人類救済に大きな訳がある」と言われた井上邸での御神事の証の第一歩となる日でもある訳であるから、今から本当に一日一日を心して歩まねばならない事だけは確実である。

更に

(7月9日 PM7;49)<日を意識して欲しい>の続き、著述篇・p486「日(引き)と月(突き)」の御教えを例に出しての説明がありまして、

「ヒキの姿勢一つ取って見ても日が出ていない状態でヒキを目指しても善に味方する力が弱いとボコボコにやられてしまうだけで、結局は自分も突きの姿勢でいなければやっていけない、結果として御教えに添った生き方は出来ないという事をお話になっていて、善に味方する力(日の力)が現界に作用しないと夜の癖を溶かす事は現実的に困難である」

 

と開示され、これからは「日の力」を意識して欲しい、という意味で「日と月」を取り挙げられ、我々の行動規範にも「突き」から「引き」に移行せられる事になるという事も含まれているのであろう。更に総括は続き

 

(7月9日 PM6;48)<大きく勝つ様に>」

「世界救世教(世界メシヤ教)が世界救世(きゅうせい)教になり、救世教とその関連団体は悪に負けたような格好で長い間進んで来ましたが、実は神様の方では勝っているのだという事を仰っています。

昭和で日の神様が体の霊にお出ましになり、それが作用して体の体に作用していた事を指していまして、人間側が一度神様を押し戻して迷走する結果になりましたが、それが人間側を刺激して本物を求める動きに繋がった。そして自分達でやり直しをする流れになったのだから悪の働きが善を生んでいるという見方がベストなのだそうです。

大きく見ると世界救世(きゅうせい)教や関連団体のあり方が悪に一時負けた様でいて、それがまたこれまでの自分達が所属していた団体を出て本来のあり方を求めた方々が集まって仮祝典を執り行う事に繋がった、結局は勝ちになっているので、メシヤ様が御昇天されてから今年の6月15日の仮祝典までの流れを見ればこの仮祝典は単にメシヤ教だけの話ではないというのが分る筈だ、メシヤ教だけがどうのこうのというのではなく全体の中の出来事であるのだから、これを自分達だけの枠に止めるのではなく全体の大きな勝ちであると捉えて進んでもらいたいとの事でした。(世界メシヤ教を復興する核を担うというのはそういう事なんだという言い方をしていました)。

 

支部長

これはもう分かりますよね?ですからこのメシヤ降誕仮祝典を行わせていただいたというのは世界人類的な規模で捉えて欲しいと、そんな中で色々な方々を代表して皆さん方はそこに身を置かせて頂いてその神秘に立ち会ったんだというご理解が必要ではないかと思います。

 

「また何事においても言える事なので、今までの人間の癖として小さく勝つ事に一生懸命になってしまうが、何事も大きく勝つ様にとの事でした(しかし細かい事を疎かにしてはいけないけれども…と付け加えられました)」

と、主神様のものの考え方はどういうものであるのかを解説され、「それを基準とする事を以て初めて世界メシヤ教を復興する核を担う事が出来るのだ」として「大きく勝つ様に」との主神様のものの見方を開示されている。

 

そして図が掲載されていて

『三角形の頂点を○ゝ(主神様)➝ここが大乗 全部が良しとなる

左の角は「善」、右の角に「悪」と置き、この底辺は長方形で囲って➝そしてここで対処』

とそれだけであるが解説としては

『大元は上の主神様にあるので、その主神様の意向を探って物事を見ていく、そして実際の対処はその視点(主神様の意向)を基にしつつ下の善悪の階層で対処していく様に、という事を表現していました』

 

とある。そして最後の結論的には

「善悪全てが大きな善(主神様)に帰一していくので、主神様・メシヤ様と繋がると言う事は霊線から光が伝わり、その結果自分達にそういう働きが影響を及ぼして来ます。

そういった流れがあるので大きく見る必要性が出てきますし、主神様が現れたという事がその働きが形として出て来る事そのものでありますので、

 

支部長

皇大御神様をお迎えさせていただくという事は、ここにありますけれども主神様が現れたという事と捉えていただければいいのではないかと思います。

 

人間がその様な視点にならざるを得ない(光によってそうさせられる)、そうなって行かないとお使い頂けないという事を示しています。

 

支部長

お使い頂けないというところがポイントですね。

 

然し大きな善は或る意味手段を択ばずという事でもあり、これをそのまま人

間がやってしまうと周囲からは危険な人と思われてしまいますので、神様の神意を汲み取って物事の判断をし、その対処として人間の階層にとってベストと思われる事を探っていける様になってもらいたいとの事でした。

反対に言うと日の神様がお出ましになったのでこうなる様に仕向けられる実際の動きに入ったという事だから、単なる御教えの分析では間に合わなくなる、実際に神様との繋がりを太くしてその力を頂いて帰一のお働きの影響を頂いていくと御教えが一つに集約されていく、真理が少しずつ見えて来る、人間が神意を受けて動ける様になってくる、結局必要なのは神様の力なのだという事が伝わってきました。

 

支部長

だからこれからはね、御神前での祈りも今まで以上の御光が頂けますのでそういう姿勢で神様から力を頂くようにしてもらえるといいのではないかと思います。

 

以上でこの項の内容は終わっているが、この項は誰にでも当てはまるもので、然も善悪は不知不識に動かされていくものであってまさに人生劇場そのもので、それぞれに興味深いストーリ―(物語)があるに違いない。「大きく勝つ」とはどういう事か、ご参考の為に恐縮ではあるが私事を通じて世界メシヤ教、メシヤ様御在世当時時代の様子を入れて、御昇天後の混乱、そしてその後の流浪の信仰時代を簡略にご紹介してみる事にする。(中略)

 

支部長

ここから下は、庭山さんが以前所属していた浄霊普及会というのがあるのですがそれは野沢明一さんという方がメシヤ様のところから別れて進めていったのですが、その方が書いた本の中に「新生回顧30年」というのがあります。

その内容を抜粋して載せていただいてますので、これは帰って読んで頂いて過去の御昇天頃の混乱期、又、御在世中の教団幹部の姿勢というものが詳しく載っていますので読んで自分の力にしてもらえるといいかなと思います。

 

それから一番最後の16ページ、真ん中あたりにある最後の総括としてという所から読ませて頂きます。

 

最後の総括として

「そこで着目してもらいたいのは日の力が弱くて水分の多い世界であっても絶妙なバランスで事を進めて来た神様のあり方で、物質文明を発展させる為にわざわざ本来の順序を逆にして月を上にして日を隠してもなお世界が壊れない様に保っている凄さ、そしてその結果としての唯物思想・物質文明の強固さを見れば主神様の実行力の凄さは分るだろう、自分達の周りを見るだけで主神様の思惑通りに事が進んできた結果・成果が見えるだろうという事を仰っています」

これは日月併せ持たれる伊都能売神様の面目躍如であり、太陽の光が普く照らすのも、火と水のバランスがあって光るという意味では主神様も伊都能売神様の要素は同じといっていいものであるのだから、最強のタッグを組んでおられる事を意味する。

兎に角、著作権問題で教団も本格的に御教えの整理に当たらなければならない必要性に迫られ、岡田茂吉全集の編集、発刊も進んだであろうし、私も浄霊会を離れる切っ掛けともなり、結果的にメシヤ教に繋がったのだから、絶妙なお仕組みの中に組み込まれた「縁」といってもいいかも知れないと思ってしまう。

そういう意味でもどうしても来年の3月3日に向けてより一層奮励努力が要求されていると思っても間違いはない。

 

支部長

ここに絶妙なお仕組みの中に組み込まれた縁と言っておりますけども、本当にこの霊線というものを大事にして頂いて、代表と私の縁、それから私や家内と霊線が繋がっている信者さんの縁、そのまた信者さんの霊線に繋がる人達の縁というなかでメシヤ様に繋がり、メシヤ教に繋がってメシヤ様とお呼びするようになり、仮祝典で皇大御神様をお迎えさせて頂けたことがどれだけ光栄に浴しているかという事を考えていくと、今現在このメシヤ教の信徒としていさせて頂いているという事に対する感謝というのは計り知れないのではないかと考えさせて頂いております。

そういったものを是非来年の3月3日、メシヤ様に感謝と喜びをもってお迎えさせていただけるような在り方で日々過ごして行ってもらえるといいのではないかと思います。

 

主神様を世にお出しするには世界メシヤ教関係者、またそこから離れられた方々も一堂に会して「メシヤ降誕本祝典」に向けて一斉に動き出す事を願ってやまない。否、先達の方々も続々とメシヤ様の下に集められているに違いない。それは私の父はh6年に帰幽しているが、h20年に帰幽された浄霊会当時の会員さんがその1年後に‟今、私は先生(私の父)と妙理神にお使い頂いている。妙理神はメシヤ様を中心にして30柱位の神々がメシヤ様から御用を頂いている神様の内の一柱であられる„という深奥神界の様子を通信して来たのである。アレから10年が経とうとしている。先達も浄化されて因縁の神様の下でお働きになられているに違いない。因みに妙理神とは白山神社の御祭神、白山比咩の尊様であり別名菊理媛であり、御本尊は十一面観音様というのであるらしいから、メシヤ様とも近しい神様であられるから何とも嬉しい限りである。

 

6月15日の翌日、前々から「戸隠神社と妙高に行ってみたい」と案内を頼まれていた件で、私の家から戸隠迄で200km離れているので、私の家に来られて200kmも往復するのも大変だからと仮祝典の帰りに寄る事になったのである。後で考えてみれば仮祝典の翌日に岩戸開きの地に行ったのであるから、

‟何と偶然な事か„と、「本当の岩戸開きが目睫の間に迫っている」と叫びたい衝動に駆られる思いです。

以上を持ちまして人間側の平成29年6月15日メシヤ降誕仮祝典の総括とさせて頂きます。

 

 

支部長

このように庭山さんは総括しておられますので、本当に皆さんにも総括して欲しい。又私自身も実は、メシヤ教の浄霊力というのは他教団より確かに凄いですけれども、メシヤ様の力というのはこんなものではないと思うのですが。と代表に話をしたことがあるのですが、その時代表は黙っておられたのですが、それが今回の仮祝典を受けての神様からのメッセージを通して解決されましたね。

要するに日が出ていなかった。日が隠されていたために中途半端な浄霊力で終わっていたという事が分かりましたので、私の色んな想いもここで解決したのですがそういった意味では、これから人に手をかざす浄霊というのは非常に楽しいかなと思っております。

是非皆様方一人一人も今までの歩みを整理して自分とメシヤ様の関係、それからまた人を通しての縁というものを大切にされて総括をしてみてください。

それがこれからのスタートになると思います。

ここに代表も言われて神様からもあったように、総括が土台としてスタートしていくことになってきますので面倒な部分もあるかもしれませんけどよく整理されて臨んでいただければと思います。

 

それでは、御教えを拝読させていただきます。

 

『日と月』

 

『 宗教上より見たる日と月に就て説明してみるが、之は甚だ神秘幽玄にして、コジツケとみらるる節なきに非ず、然し之は真理である以上、心を潜めて判読されたいのである。日本古代に三種の神器がある。之は璽(タマ)、剣(ツルギ)、鏡という事になっているが、即ち玉は日であり、剣は月であり、大地は鏡によって表徴されている。玉は太陽の形であり、剣は三日月の形であり、鏡は八咫(ヤタ)の鏡と唱え八凸に分れている。即ち東西南北、艮  辰已 坤  戌亥の八方を型どったものである。此三種の中で大地は判り切っていて説明の要はないが、日月に就ては深い意味があるから、それを書いてみよう。

茲で解り易くする為、天理教で唱える説を借りてみるが、それは月は突であり、日は引くという意味で、日月とは引きと突であるという。之はなかなか面白い解釈と思う。それは夜の世界に於ては何事に於ても突く事を好む。大にして国と国とが互いに突き合う。戦争がこれである。衝突という事も突き合いである。古代に於る戦争は剣で突き合った事は明かである。それが転化して交際することもつき合いという。文字が違うだけで言霊は同一である。突進むという言葉は勝利を意味する。全く月の働きであり、夜の世界を表わしている。

右に引換え、ヒキ、ヒクは、退く事である。引寄せる、陣を退く、敗北する、腰を低くする-というように凡て月と反対であり、此理によって昼の世界は凡てがヒキの働きであるから、負ける事を善しとする。人間では謙譲である。之では争いの起りよう筈がない。吾々の方では風邪を引く事は良いとしている。本教団の目的が病貧争絶無の世界を造るという。その争がなくなるのは以上の意味から考えらるるのである。本教団は日即ち火素の活動が主である以上、月でなく引きを心に銘じて活動すべきで、それによって多くの人が引寄せらるるのである。

又日は玉であるから、円満清朗。円転滑脱でなくてはならないのは勿論である。』

[自叢十二  昭和25年1月30日]

 

『大乗たれ』

私はいつもいう通り、大乗の悪は小乗の善であり、小乗の悪は大乗の善であるという事であるが、此肝腎な点をどうも忘れ勝ちな信者があるが、之は大いに反省して貰わなければならないのである。判り易く言えば、何事も大局的見地から観察するのが大乗的観方である。それに就てよく説明してみるが、一生懸命善と思ってしている事が、結果に於て案外教の御邪魔になる場合がある。而も斯ういう人に限って自力的で人間の力を過信し、大切な神様の御力を不知不識忘れ勝ちになっているのは、誰でも覚えがあるであろう。

 

支部長:ここで線は引いておりませんが最後の行、「誰でも覚えがあるであろう」と書かれていますが、覚えがないと思う人はまずいです。覚えがあるという自覚ができればいいのですが自覚がないという事が問題ですから、殆どの場合こういう事があるので、これは自分の事だと思って御教えいただくのが良いのではないかと思います。私も同じですからね。

 

又、斯ういう事も屡々聞かされる。それはアノ人は随分熱心にやっているが、其割合に発展しないのはどういう訳であるのかと訝(イブカ)るが、之こそ小乗信仰の為であって、小乗信仰の人はどうも堅苦しく窮屈になるので、人が集って来ないから発展もしないのである。而も一番不可(イケ)ないのは、物事が偏りすぎるから常識を外れて、奇矯な言動をする。之を見て心ある人は、本教を低級迷信宗教と思い、軽蔑するようになるので此点大いに注意すべきである。処が其反対に、それ程熱心に見えないようでも、案外発展する人がある。斯ういう人こそ本当に大乗信仰を呑み込んで実行するからである。

 

支部長:線を引いてますが、やはり自分が物事に偏りすぎてないか、常識に外れていないか、自分の言動はどうかということを自覚しながら生活する必要があると思いますね。

 

今一つ言いたい事は、小乗信仰の人に限って、他人の善悪を決めたがる。之も私は常にいう事だが、人の善悪を云々するのは飛んでもない間違いで、人間の善悪は神様以外分るものではないのだから、人間の分際で善とか悪とか言うのは僣上(センジョウ)の沙汰で、如何に神様を冒涜する事になるか分らないので、之程大きな御無礼はない訳である。何よりも斯ういう人に限って独善的で鼻が高く、人徳がないから発展しないばかりか時には碌でもない問題を起し勝である。

 

支部長:これほど大きな御無礼はないと。これは当然閻魔の帳にチェックされる部分になってまいりますので心して頂ければと思います。

 

此例として、終戦前の日本をみればよく分る。忠君愛国の旗をかついで、全国民命掛でやった事が、アノような結果に終った一事であって、此道理は大なり小なり何にでも当嵌る。成程其当時はみんな正であり善であると思って行った事だが、此善は小乗の善であるから、自分の国さえ良ければ人の国などどうなってもいいという利己的観念の為の其報いである。それに就て私は先頃「世界人たれ」という論文を出したがつまり其意味であって、大乗の善即ち世界的善でなくては、本当の善とはならない事を示したのである。勿論斯ういう考え方でゆけば、侵略戦争など起りよう筈がないから、アノような悲惨な目にも遭わず、今日と雖も平和を楽しみ、世界から尊敬される国になっていたに違いないのである。

 

支部長:この中に世界人たれという御論文に少し触れていますけれど、この事についても今回代表からメッセージがありまして、具体的には難しいけれどそういう想念でやってくれと言われておりますからね、午後から一緒に確認させていただきたいと思います。

 

別言すれば、愛にも神の愛と人間の愛とがある。即ち神の愛は大乗愛であるから、無限に全人類を愛するが、人間愛は小乗愛であるから、自己愛や自分の仲間、自己の民族だけを愛するという限定的であるから結論は悪になる。此意味が分ったとしたら信者たるものは何事に対しても、大乗でゆかなければならない訳で、即ち神の愛を確かり胸に畳んで御取次する事で、必ず好結果を齎(モタラ)すに決っている。故にどこ迄も神の御心を心とし、無差別的愛で臨む以上、誰しも快く接する事が出来、喜んで人が集って来るのは当然であり、発展するのは間違いない事を、最近感じたまま茲にかいた次第である。

[地30号  昭和26年11月25日]

 

『大乗と小乗について』

 

『・・・何でも神様にお任せすればよいという事も真理なのですが、やはり人間はできるだけ努力しなければなりません。神様にお任せきりで努力も何もしなかったら、これもやっぱりいけません。だからそこで大局において神様にお任せし、方針はどこまでも努力し一生懸命にやるという事も必要なのです。とに角そこの使い分けです。そこで経と緯の両方、大乗と小乗を使い分けるわけです。大乗がよいからと言っても、小乗がなくてはならないが、ただ小乗の方が主になってはいけないので、大乗の方が主になって、小乗の方が従にならなければなりません。その使い分けに難かしい所があり、言うに言われない面白味があります。(中略)

そこで結局「程」です。一方に片寄るから、そこに問題が起こったり無理があったりするのです。そこで「程々」という事が伊都能売になるのです。私は以前読んだ事があるが、山岡鉄舟の書で、大きく「程」と書いて、小さく「人間万事この一字にあり」と書いてありましたが、私は実によい言葉だと思いました。実に簡単に言い現わしてあります。「程」という字は大したものです。伊都能売という事の働きは、一字で言えば「程」という字でしょう。それで「程」という事は、やはり春秋の気候と同じで、暑さ寒さの「程」です。「程」というのはどっちにも片寄らない、丁度よい所に収めるというそれをよく現わしてあります。あの人は程がよいと言うと、その人は非常に好ましいという事になります。ところがその程がよいという人は寔に少ないので、大抵はどっちかに片寄ってます。だからそれで失敗したりうまく行かなかったりするのです。今日は珍らしくお説教になりましたが、よく世間でのいろんな信仰や道徳といったものでは、こういう話が多いのです。しかし救世教ではこういう話をあんまりやりませんが、やっぱりこういう話もしないと片寄るでしょうから、そういう意味において偶にはよいと思って話をしました。』

[御垂示録21号  昭和28年6月1日]

 

 

『程とは』

 

『 私は以前某所で、山岡鉄舟先生筆の額を観て感心した事がある、それは最初に程という字が大きくかいてあり、其次に小さく“人間万事此一字にあり”とあった、之は今以って忘れられない程私の心に滲みついている、というのは、私は今日迄何十年の間、何かにつけて此額の字を思い出し、非常に役に立っているのである。

昔からよい格言も随分あるが、之程感銘に値いする文字はないようだ、たった一字の意味であるが、何と素晴しい力ではないかと思う、従而此程の字を標準にして、世の中の色々な事をみると、何にでも実によく当嵌る、例えて言えばやり方が足りないとか、やりすぎるとかいう事や、右に偏ったり、左に偏ったりする思想、金があると威張り、ないと萎びたりするというように、どうも片寄りたがる、多くの場合それが失敗の原因になるようだ、彼の論語に中庸を得よとの戒めもそれであろう、昔から程々にせよとか、程がいいとか、程を守れという言葉もそれであって、つまり分相応の意味でもある。

之に就て、信仰的に解釈してみると、いつもいう通り、本教は経と緯、即ち小乗と大乗を結べば其真ン中が伊都能売の働きとなるというので、之も詮じ詰めれば程の意味である、従而人間は第一に程を守る事で、程さえ守っていれば、凡べてはスラスラとうまく行くに決っている、嗚呼程なる哉、程なる哉である。』

[栄116号  昭和26年8月8日]

 

 

『大乗と小乗について』

 

『 昨夜、木原さんを中心にした座談会の報告を読みましたが、最近割合に教修者が少ないという事について、教修者が増えて発展するようないろいろな方法を考えなければならないという事をいろいろ言ってましたが、それはみんな間違ってはいませんが、一番肝腎な所を忘れているというか、気がつかないのです。それは何かというと、何時も言うとおり大乗と小乗なのです。この小乗的考え方がいけないのです。前から言っているとおり、救世教は大乗でなければいけないというのです。だから発展するしないは、大乗と小乗の関係なのです。小乗的な人は発展しないのです。大乗的な人は発展するのです。これはひとり宗教ばかりではなく、何でもそうです。(中略)私は今まで見てますが、小乗的の人は必ず発展しないのです。窮屈な感じがします。あなたはこういう事をしてはいけない、神様の思召しに適わない、というような事を言うと窮屈になります。そうでなく、自由でゆったりとした気持にならなければならないのです。又そうするのが神様の思召しに適うのです。神様は小さな欠点はとらないのです。ただこの人間は一人でも多くの人を救うか救わないかという手柄を主にするのです。だから仮りにその人の欠点が三つあり、働きが七つあると、差し引き四つはプラスになるから、そういう人は神様の御守護が強いのです。それで一つの欠点とすると、六つのプラスになるから非常に御神徳がある事になります。もう一つは、それと同じ事ですが、小乗信仰と大乗信仰の違いさは小乗信仰は自分が救われようとするのです。自分はどうでもよい、世の中の苦しんでいるこの人達を救わなければならないというのが大乗信仰です。だから自分が救われようという事は捨てて、多くの人を救わなければ、とても可哀想で見て居られないという事を、本人が始終思って念願するのです。そういうのが本当の信仰です。

ところが自分が救われよう救われようとしているのですが、それは自己愛ですから、そういうのは神様はあまり御守護されないのです。それからそういう人は、人からちょっとでも悪口を言われたりすると気にかけるのですが、それは自己愛だからです。人から何を言われても、そんな事は気にしないで、神様にお気に入られればよいのです。だから人を相手にせず、神様を相手にしろと言うのです。だからその点ちょっとした事ですが、大変な違いです。だからどこまでも大乗信仰です。それで大乗信仰の人は、人が良いとか悪いとか、そういう事は言わないのです。小乗信仰の人に限って、あそこがいけない、ここがいけないという事を始終思ったり口に出したりするのですが、それがいけないのです。第一人が良いとか悪いという事は分るわけはないのです。・・・』

[御教え集21号  昭和28年4月25日]

 

支部長

という事ですから自分の信仰姿勢、自分の心言行というものをですねよくよく考えながら大乗小乗を生活の中に活かして進んでいっていただければいいのではないかと思います。

それから先程言い忘れておりましたが、庭山さんの総括の文章の中に読まなかった部分があったと思いますがこの読まなかった部分というのは、地上天国祭のときの意義と想念のあり方という紙を一枚配ったと思いますがこの中の後ろから9行目の所、箱根の御神前においては主神様に対し奉り昭和29年正しい認識と想念の下、メシヤ様に真向かえずこの60有余年御経綸を遅らせ正しい神を封じその教えを曲げ、救われる人を救い得なかった我々人間の不命と不徳とその罪を心よりお詫び申し上げると共に・・・とありましたけれどその部分をもう一度読んで頂ければと思いますが、その部分の事がこの庭山さんの総括の中のですね、新生回顧30年という野沢明治さんの文章の中に掲載されてますので、読む事でもう一つ理解を深めて頂けるといいのではないかと思います。

 

それから最後になりますが、お盆の月ですからお盆の事について読ませていただきますので聞いておいて下さい。お盆の時の対応についても言いますので。

これは今祭事を作っております。御神体、御神前、仏壇のお掃除、1日祭や家庭祭、家庭感謝祭、慰霊祭、そういったことについての祭事を作っていますのでその中の一つの項目なんですけど、その一部を読ませていただきます。

掃除についてはまた霊界に聞いたりしながら、又写真をつけたりして編集しながら作っていきますので数ヶ月先になるとは思いますが、出来たら皆さんにお渡ししますので宜しくお願いします。

 

【お伺い】「お盆の意味についてお伺い致します。」

【御垂示】『釈尊の大慈悲から孟蘭盆会というものを作り、毎年一回日を決めて地獄にいる霊を子孫の家へ還らして下さるのである。その日は地獄の釜の蓋が開くというが兎に角地獄の祖霊も仏壇へ招かれて子孫に供養される。地獄の霊もそれを知つていて待つているのである。

元来祖霊は常に全部仏壇にいる訳でなく、平常は選ばれた留守番の霊がいるだけで子孫が拝む時だけ仏壇に集るのである。その際仏壇には或程度救われた霊だけしか来られない。つまり八衢以上のものが来られるので、地獄にいる霊はお盆の時以外は来られないのである。

お盆には種々の儀式を行つて霊を迎へるのであるが、「おがら」を焚くのはここからお入り下さいという目印である。之は今迄夜の世界だつたため霊界も暗いので燈りを見せないと霊がまごつくからである。

茲で注意したい事がある。それは仏事はどんな古い先祖でもする程よい。又長男だけが祖霊を祭り、次男以下は祭らないのがあるが、これはよくない。霊界人となつてもやはり現界と同様親子兄弟の情は同じ事で、自分の子供のどの家へでも行ける様にありたい訳だ。従而、次男も三男も全部祭るべきである。

位牌が多くて始末に困る時は面識ある祖霊はそれぞれに位牌を作り、面識のない祖霊は先祖代々にまとめてよいのである。』

[地上天国2号  妙智之光  昭和24年3月1日]

 

注意事項

 

※日頃仏壇には地獄に落ちている霊は来る事が出来ません。お盆の三日間だけは帰ってこられますので、大いに帰ってこられた方々を接待して、ご馳走して、それぞれの郷土料理をあげて、そして『善言讃詞』をしっかり唱えてあげてください。

具体的には、13、14、15日のお盆の期間中は、毎日1回は善言讃詞をあげて下さい。そして、朝昼晩と自分達が食べている物と同じ物でも構わないからお仏壇にお上げするようにして下さい。(ご馳走をお上げすればもっと良いです。)

 

※それから、初めてお位牌を拵えた場合、遷霊式を終えてから50日間は毎日善言讃詞を上げて下さい。それは、今まで位牌がなかったということは今まで懸かる所がなかったわけなので、亡くなって50日祭までの50日間の慰霊を行うという意味合いがありますから。

 

支部長

そういうことでですね、このお盆の期間中は祖霊の御祭りをしっかりしてあげていただければと思います。

 

司会者

以上もちまして8月度月次祭を終わらせていただきます。ありがとうございました。

 

受講者一同

ありがとうございました。

 

<来月の御教え>

真の大乗宗教』と、『信仰の合理性と再浄化』他

 

[メシヤ講座no.197 岡山支部 2017(平成29)年8月24日]