メシヤ講座no.131浜松(平成23年12月)

<今月の御教え>

『文明の創造』 科学篇 医学の解剖(文創 昭和二十七年)

 

【メシヤ講座 浜松支部】

楳木代表

それでは今ですね、拝読していただいた御論文の場所から、少し大事なところを確認しておきたいと思います。

 

メシヤ様の『医学を誹謗する考えは毫末もない』の考え方

楳木代表

まず1ページ目のですね、2行目から『鋭いメスを入れて、徹底的に解剖してみよう。と言っても別段医学を誹謗する考へは毫末もない』という風に3行の間にメシヤ様はお書きになっております。要するに『医学を誹謗する考えは毫末もない』という所に赤線なりなんなり引いといてマーカーを入れといてください。この考え方がないと、どうしても『医学を誹謗する考えは毫末もない』というところがしっかり入っておかないと、先達の先生方が陥ってしまったところに、我々も陥ってしまいます。

というのは、浄霊に取り組めば取り組む程、奇蹟が出て、そして大勢の方が救われて。医者としては「もう治癒方法がない」とか「良くならない」ということで難病扱いとかされて、御守護いただいて奇蹟が出てくると、メシヤ様は『医学を誹謗するという気持ちは毫末もない』というふうに仰ってるのですが、奇蹟が出てくると、どうしても『今医学はまだ解っていないから』ということで医学を非難したりしがちになってきます。そうすると、それがずーっと高じていくと信者さん方に対して言う言葉が少しずつズレていきます。

医者に見せてどうしても解決しないので浄霊をいただくようになってみんなご縁をいただいてくるんだけれども、今度、医者に診たことを非難したり、とかいうようなことが起きてきます。そして、その先に医者を誹謗するというような言葉が出てきます。そうすると医者と浄霊というのは対立的になっていきます。その対立的になってくると色々問題が起きてきます。

問題が起きてくると、今度は問題を起こさないようにということで医者に診せていくということになる。しかも、それを勧めるようになります。「まず医者に診せなさい」ということで、逆に勧めるようになってきます。これが、今の他の教団の多くが陥っている最大の問題点になるわけですね。

だから、そこのところからもうちょっと下を読んでいきますと『医師が患者から、病気の説明を求められた場合、断定的な答へはしない。甚だ曖昧模糊御座なり的である。例えば、患者に対する言葉であるが、何の病気に就ても言ひ切る事が出来ない。貴方の病気は治ると思ふ。治る訳である。医学上そういふ事になってゐる』と、ずーっと書かれてあります。これはメシヤ様が医者に対して明確な説明を本来求めているということです。

 

インフォームド・コンセント

楳木代表

これが60年経って現在ではですね、医者の方が医学の世界の方がインフォームド・コンセントという概念で確立してきております。ですから医者がきちんと説明をしなかった場合は、その医者は医者として欠落している部分があるというふうに患者の方は見ないといけないわけですね。それぐらい医学の世界では説明を徹底的にするということに、今、方針が出ております。この説明不足の医者というのは今の最先端の医療はわかってないというふうに判断しないといけないわけですね。で、患者が色々聞いてくると、「あんたうるさいねぇ」とか、「信用できないんだったら他所の医者へ行ってくれ」と、「病院に行ってくれ」とかいうようなことを仮に言うような医者は、今の最先端の医療のことは全くわかってない医者だというふうに判断をしていかないといけない、という世の中になっています。

だから同じ医者に診てもらってもすぐ薬が出てきたり、説明もなしに「まあこれを飲んどいてくれ」とかいうような曖昧な答え方しかしない医者というのは、もう時代遅れなんだというふうに考えておかないといけないわけですね。

で、メシヤ様はどこまでも本来の医療ということを願ってこういう御論文を書いているわけなので、そういう意味で誹謗するわけではないのだということです。このことをよく我々はわかっておかないと、どうしてもいろんな意味で判断を間違ってしまうというときがあります。

しかし、今世の中というのはですね、大変なところに落ち込んでおります。今回のところでも少し、熊本光の森支部の中での私の挨拶の中でも少し触れておりますけども、様々な法律あるいは制度が出来上がった時の、その時の時代背景と、その時の為政者の願いとするところが、国民の皆さんが十分わかってないためにいろんな間違った受給者ができてきているということがあります。

 

腎臓透析からわかる問題

楳木代表

それで、9日に月刊文藝春秋がもう出ていますので、新年号が出ているので12月号に出ている内容と、まあ今月号もそれからさらに具体論が出ているのですけども、透析医療の専門医が出ております。「透析は本当に必要なのか」という問いかけをした論文になっています。で、大まかな論文が先月出て、今月は腎臓機能を保存する治療法を自分は目指しているという具体例が出ています。まだこの具体例の方は、今月号は、私はまだ読んでいませんけども、先月号を見ていくと、透析医療というのはどうして受けます?何のために透析を受ける?はい、透析医療は何のために受けますか?

 

参加者

血液を、腎臓をきれいにする。

楳木代表

 

腎臓の濾過能力が落ちてくるので透析を受けないといけないわけですね。血液を濾過する時の濾過能力が落ちてきます。濾過能力が10とした場合、10で万全だとした場合、透析患者は何%ぐらい落ち込んだときに透析を受けますか?そういうのを聞いたことありませんか?

参加者

・・・・・。

楳木代表

濾過能力が落ちてきた時に、真に必要な場合は7~5%ぐらいまで落ち込んできたら必要なわけです。しかし、今の医療はね60%まで落ち込んできたら、「透析を受けましょう」という話になってきます。そうすると60%からこの7~5%の間はどうなっているんだということになってきます。これには背景があります。60%ぐらいまで落ち込んだところから透析を医者がしたがる背景が。透析患者がひと月に支払う金額は大体知っていますか?透析を受ける人が透析を週3回受けますね。その人達が月にいくら払ってるか?

参加者

200万とか300万って言ったような気がましたが。

楳木代表

いや、月に、本人が。

参加者

本人は知らないけど、「すごいかかるんだよ」という話は聞いたことあります。

楳木代表

本人は1万円ですね。月に1万円払えばいいですね。だから年間大体12万円支払えばいいわけ。じゃあ、その病院に、国から、1人の患者を受け持つとどれだけ下りるかと。1年間。まあ○○さんの言った金額は大体それを言ったんだろうけども、他にまだどれぐらい落ちると思います?病院に。健康保険のほうから点数に応じて下りてくるお金。もう当てずっぽうでいいです。いま○○さんは、2~300万って言ったけども他には?当てずっぽうでいいの、当てずっぽうで。

参加者

まあ、その半分ぐらいじゃないかねぇ。どうだろう?

楳木代表

100万ぐらい?

参加者

150万ぐらい。

楳木代表

はい、他には?

参加者

えーっと、もっと上だと思いました。300万から400万。

楳木代表

はい、若い人は?

参加者

・・・・・。

楳木代表

まあ、透析を受けたことがないからね、皆さん。そりゃそうだが。だからあまり関心を持たないと思いますけども、まあ大体ね、600万です。

参加者

えぇ~~~~~!

楳木代表

5百何十万だけど、大枠でいくと大体600万ぐらい。

参加者

ひとり600万円、1ヶ月掛かるんですか?

楳木代表

掛かるんじゃなくて下りてくる。その病院に。

参加者

1ヶ月ですか!?

楳木代表

いや、1年に600万下りてくる。と、透析の患者さん、10人抱えていたらいくら下りてきます?年間で。

参加者

6000万!

楳木代表

6000万。100人抱えてたらどうなります?

参加者

あ~、6億になっちゃう。

楳木代表

6億。病院としては運営ができるっていうことになる。

参加者

それだもんで今、それ専門の病棟を作って大勢受け入れているんですね。

楳木代表

そうです。

参加者

そこら辺にもありますけど。

楳木代表

そうです。だから、できるだけ6割まで落ち込んできたらすぐ透析にかけようとするわけ。するともう病院は安泰だから。絶対潰れない。毎年一人あたり600万ずつ下りてきてごらんなさい。ホクホクですよ、これ。病院の運営としてはホクホクですよ。

ところがその患者さんにとってはどうなるかっていうと、腎臓というのは、一旦、機械が代わりに濾過し始めると、一挙に濾過能力が落ちてきます。ずーっとね。で、濾過能力が落ちてくるっていうと、腎臓の機能が下がってくるということになる。で、腎臓の機能が下がるということは、腎臓は大切なホルモンをいろいろ分泌しております。この分泌が次は、しなくなってくるということが起きてくるために、様々な体調不良状態になってきます。

これが実は問題なので、この医者は保存していこうと、腎臓の濾過能力を出来るだけ保存していくことに取り組んでいる。これが保存療法というものですね。で、保存する上においての食生活、食事療養をどのようにするか。それからその人の、いわゆる生活習慣をどうするかということを指導しながら保存療法に取り組んでいるっていうのが今月号に多分載っていると思います。

で、これを見た時に実は医学界の問題点と同時に、この国の予算としては日本の北海道から沖縄まで、腎臓のこのいわゆる透析治療に国全体としてどれぐらい使っていると思いますか?例えば100人の患者を抱えているところで6億円使っているわけだから、北海道から沖縄までの病院を総合計すると兆の数になってくるわけ。実はこれは、全体の医療費の何%かしか占めてないのだけども1兆超えているわけ。これが実は今の医療問題の根幹に、医療費のいわゆる国民健康保険制度の根幹にあるっていうことで、こういう問題が・・・。

だから今、野田総理を中心にしていろいろこういう税の問題について話し合って、それで野党がいろいろ言っているけども、実はこの根幹のところを明らかにしない限り、税制をいくらね、こうつついたところで国民が全く理解できてないということです。で、この国民が理解できてないところに消費税を上げたりしたら、必ず政権がひっくり返ってくるということになってきます。消費税を導入しようとしたときに必ずその内閣は倒されていきますので、これからも税について触れた時には必ず政変に関わってきます。これは説明不足だということです。今の日本全体が抱えている問題を明らかにしてないから、政治がいい方向に行かないということですね。

で、またこれをあんまり問題にしすぎると、透析を受けている方が非難の対象になってしまうということも起きてきます。しかし、これはもう透析を受けている方々は被害者に当たるので、やっぱりその医療の現場に携わっている人達が、どのような姿勢でその治療に携わっていくかということが一番大事だということですね。こういう問題が今、日本を覆っています。

 

医療の世界はメシヤ様の御心に近づいてきている

楳木代表

それから、これは何で読んだのだったか、ちょっといまうろ覚えで、70歳を超えたらガンになっても治療を絶対するなという医者が提言を出していますね。えーとこれ何かでね、私も週刊誌でパラッと読んだだけですが。要するにもう70過ぎたらガンと言われても、治療しない方が長生きできるということ。治療をすると、症状が治まったようだけども、それから抗がん治療を受けていくと非常に苦しいのでね。もう70歳超えたら、ガンになろうが何にしようが、治療を受けないようにしましょうというのを提言している医者がいます。非常に力強い医者ですけどね。

まあそういうように、真実を語り始めている医者達もおります。公(おおやけ)にしつつ。そういう医者もいますので、メシヤ様の御心にもう一回かえってくると、メシヤ様は医者の姿勢を問うためにここで言っている、それが、60年経って現在の医療の世界ではインフォームド・コンセントという概念に、ずーっと構築できたということなので、メシヤ様の御心に随分近づいてきてるっていうことです。

 

メシヤ様を教祖として仰いでいる教団の方が時代遅れである

楳木代表

しかし、このメシヤ様を教祖として仰いでいる教団の方が、時代遅れを迎えているということです。メシヤ様がもう昭和27年にこういうことを指摘しているにも関わらず、現在の3派が信者さんに対してインフォームド・コンセントの大切さをどれだけ説いているかっていうと、ほぼ説いていない。だから〇〇で犯している問題点とかいうのが出てくるわけですね。もう今迄、80歳ぐらいまで全く無医薬できた人を、ちょっと調子が悪いからといって〇〇に連れてって、そして、薬を飲ませて「医療拒否を免れた」とかいうような馬鹿な発言を、滔々(とうとう)と述べているわけですから、これほど時代遅れはないわけですね。

だからもし、80歳の御年配で今まで一切薬を服んでない人に処方した場合、「その薬はこの患者にどういう影響を与えますか」 っていうことを、まず、ついていった専従者が聞いて、いい点と悪い点を細かく聞き、薬を服んだら良いか、悪いかを第一段階で判断します。そして、服んだ場合、「これを1ヶ月間服んだ場合、次はどのような影響が出てきますか?」と問いただし、1ヶ月目から2ヶ月目に入っていく必要があるか、また一緒に考える、これくらい念入りに念入りに対処して服ませたというのなら、まだメシヤ様の信仰を別にして、社会的に当り前の医療の受け方ができたということになっています。これを全くやっていないために、私は徹底的に今批判しているのです。とりわけ東方之光について批判するのは、メシヤ様の御心に基づいた信者さんへの世話をしていないので、批判を加えているのです。

1ページ目ではそういうことをまず心掛けておいてもらいたいと思います。

今まで、現時点での、メシヤ様の信仰者でない人へ対しても、例えば「どこかがガンになったので手術をしましょう」と言われたときに、最低3つの病院で診てもらって、3つとも手術をしましょうと言った場合は手術を受けるというは世間の常識です。しかし、残念ながら、その常識に沿った手術の受け方をしていない、メシヤ様を教祖と仰ぐ教団の信者さんが大勢いらっしゃる。しかも、そこの専従者さえ手術を受けるということが起きてきていますので。こういう問題が起きるということはメシヤ様の御心を全く受け止めていないで、宗教を運営しているということがありますので、ここのところは良く心に留めておいていただきたいと思います。

 

浄化作用の原理と浄霊の原理が科学的である

楳木代表

それから『医学が真に科学的であるとすれば』 というところは、先ほど科学と読み間違えていましたが、ここは『科学的』でなければいけないので。どうしても間違えてはいけないところなので指摘しました。

この『科学的』という言葉がよくよくわかっていないと、そのメシヤ様の、浄化作用の原理とか浄霊の原理が、科学的なんだという考えにいきません。それについては今、私も枚方支部で集めてくれた書籍の中から、充分まだ読みきれていないので、それを読んだあと、「メシヤ様御降臨祭」のときに皆さん方に紹介していきます。

一つは、ずっと長年そういうことに取り組んできた方々が、口から入れた薬がどういうルートで体に効いてくのかというのを図解とかを紹介している、一番基礎的な本があります。薬理学の基礎的な本が。これは最低信者さん方に読んでいただきたい本として紹介します。

それから看護師の皆さん方やそういう人たちが読むべき薬理学の本があります。これはどのように良い面と悪い面がどのような形ででてくるかということを理解するための本ですので、これは支部責任者やお世話する側の方々に読んでもらいたいと思います。

ですから、お世話する方々は、この本と、信者さんが最低読むべき本と2冊読まないといけません。いっぱい読んでもらいたい本がありますが、この2冊は読んで理解してください。その中には赤いシートがついていますので、それを大事なところだけ隠しながら読んで答えができるかというところまで、徹底的に読みこんでもらわないといけない、そういう本です。

そういうものに基づいて薬がこのように体の中に入っていって、理想論としては「効能を発揮してあとはすべて排泄していく」と。大腸のほうに分かれるのと腎臓のほうに分かれて、そこで排泄していくという、これが理想論です。薬理の。効いて、薬物を排泄すればいいのです。しかし、大腸を通って出るときと、腎臓を通って排泄するときに、メシヤ様は排泄しないというふうにご指摘されているので、ここのところが真に排泄したかしないかというところまでを、どの薬も発表していないので、メシヤ様はその点を御指摘されているということです。完璧に排泄できていれば良いのですが。

これは何度もメシヤ講座で触れますように、何故覚せい剤が危ないのかというと、人間の体の中で作られた快感物質は、人間の体の中でできたものなので、人間の体の中で分解し排泄することができます。しかし「よそから入ってきた快感物質は人間の体の中で分解することができないので、蓄積されてきて、これが人間、人格を破壊していくので覚せい剤はやめましょう」と的確に医者が説明しています。これが排泄される物質だったら、いくら覚せい剤を使っても問題はありませんが、排泄されないために中毒症状が起きて、人格が破壊されていくので覚せい剤はやめましょう、と医者が説明しているにもかかわらず、よそから入ってきたものが分解されて外に出るという説明はおかしいので、そこのところをということですので、『科学的な』というところを、よくよくチェックしておいてもらいたいと思います。

 

医師の役割

楳木代表

さて、それから今のところから、ずっとまたいきますと、今度は、『医師によっては自分自身医療を余り信用せず精神的に治そうとする医師もよくあり、老齢の医師程そういう傾向がある』とおっしゃっています。

そうしますと、蘭学が入ってくるまでの、江戸時代前期の医者はどうやって病気を治したのですか?まあ病気は治ってないのですが・・・。医者は何をしていたのでしょうか?私は何回かここでお話したと思うのですが・・・。覚えてないかな?いわゆる江戸時代のドラマ「大岡越前」に養生所とかいうのが出てましたよね。それよりもうちょっと前の時代です。おおよそ患者を慰めていただけです。それはなぜかというと、例えば怪我をしたとき、切り傷のときにはどうやって治していましたか?何か塗っていたでしょう。

参加者

アロエを塗っていました。

楳木代表

だいたい時代が新しい人はアロエを塗っていました。それからうちの方では、通称“ふつ”と言っていたのですが、ヨモギにつばをつけて青い汁がでるまで揉んで、それを傷口に当てているとだいたい治ります。これは太古の昔から、経験を積み上げて、「こういうときにはこれを塗れば良い」というのは、みんな経験としてもっていたので、大概のことは対応できたのです。知恵で。

しかし、それでも尚且つ大怪我をしたりすると時間がかかるので、医者が診てあげて「こんなことをやっているから、こんな怪我をしたのだよ。だから生き方を改めないといけないぞ」とか、「ついでだから言うけれど、おかみさんを大事にしなさい」とか言って、医者がそのとき叱るわけですね。すると「あー、嫁さんを大事にしないから、こんなところを怪我してしまったのかな」 とか考えてそれが良くなってくると、「これからお前を大事にするからな」とかいうようなことを、ぼそぼそ話し合いをして、夫婦仲がよくなったりしてね。そんなことを医者がやっていたのです。これが医者の務めだったのです。患者の話を聞いてあげて、医者というのは頭が良いからね、その中から原因を見つけてあげて、ここを直しておかないとこの家庭はうまくいかないなということを指摘してあげたりして、みんなうまくいったのです。

うまくなった理由というのは、もうみなさん江戸時代のことは覚えていないのでわからないと思うけれど、江戸時代の時代劇とか見ていて、長屋を見ていたら、どんな生活をしていたかわかりますね。2間くらいのところで、となりは別の人が住んでいて、そこにはトイレがありません。それは以前、お話したことがありますね。トイレは小のほうは桶を入り口に置いていて、男も女もそこにまたがっておしっこをしていたのです。皆さんもしていたのです。前世では。「そんな恥ずかしいことしていませんよ」なんて言ったところで、していたのです。だって、みんな腰巻しかしていないのです。してない理由はパンティをはいていないのです。そこでまたがってするために長い腰巻をして、見えないようにして、していたのです。西洋のロングドレスもそうでしょう。広がっているのは何のため?草むらとかでトイレするときに、見えないように、あれの下でトイレをしたのです。

だからトイレをするとはじいて臭いから、香水が必要だったのです。そういうことになっている。で、大きいほうのトイレはないので、街角に便を積み上げていったのです。だから今がいかに清潔な生活をしているかということです。だから菌に弱いのです。清潔すぎるので。その一番顕著なのは、ウォシュレットを使いすぎて、痔になるということです。あまり汚い話になるから、これくらいにして。

これが、自然宗教が起きてきた理由です。で、自然宗教の役割がそういう、慰めたり家庭の問題を解決したりするためにあった。それと、そういう薬草から加わったのが医療としてできて、この医療と宗教というのが、人々の苦しみを解決してきたというのが、今までの歴史であったわけですね。

それから下から3行目に

『私は世の中にも偉い医師もあるものだと感心した事があった』と。

メシヤ様も『偉い医師が世の中にもいるなーと感心した』と告白してくださっています。その御心は何かというと、真実がわかった、真理がわかった医者というのをメシヤ様は評価されていたということです。これが先ほどの透析のことを論じている医者でもあり、「70歳からはガンになっても治療を受けるな」という指摘をしている医者であり、そういう医者が必ずいるということです。しかも、その医者のことはメシヤ様も『偉いもんだなー』 というふうに評価を与えているということですね。

 

救命救急のドラマから認識すること

楳木代表

最近の医者たちが書いている本の中で、また良い本が出ています。それは『人は死なない』(矢作直樹・パジリコ刊)という本をかいた医者があります。これは麻酔科の医師が書いた本です。いわゆる臨死体験やそれに類することから感ずることをずっとまとめた医者です。そうすると、救急医療センターとかの現場のドラマとかがありますね。ドクターヘリのドラマがあったり、救急医療に携わっている現場の医者たちのいろいろなことを描いているドラマがあったりしますね。そのドラマを見ているときに、心臓がとまって心臓マッサージをして、でもなかなか心臓が回復しないときに、医者はなんて言っていますか?患者に向かって。「この人はなんていう人だったかな?」と医者が尋ね、看護師さんが「○○さんです」と答えると、「○○さん、・・・・・・」とそのあとなんて言いますか?

参加者

聞こえますか?

楳木代表

聞こえますかですか?

参加者

わかりますか

楳木代表

心臓が止ってしまっている人ですよ。台詞、何か思い出しませんか?

参加者

戻って来い、ですか?

楳木代表

あっ、それ!戻って来い。どこから戻ってこいですか?

参加者

あっちから。

楳木代表

あっち?

参加者

霊界から。

楳木代表

霊界から。だから救急医療に携わっている医者ほど、霊界がわかっているのです。一番、死の現場に携わっているから、お坊さんよりも霊界のことがわかっているのが、救急医療の医者たちだということです。「戻って来い!」か「帰って来い!」です。どこから戻ってくるのかと医者に聞くと、「あっちの世界」とかいう言い方を多分しますが、それが霊界だということです。

メシヤ様の教えは、この救急医療に携わっている医者の「帰って来い」とか「戻って来い」とかいう言葉からすると、霊界があるということをその人たちは認識しているということになります。しかしこの人たちが認識している霊界というのは初歩的な霊界の認識です。その初歩的な霊界の認識をメシヤ様は教えに基づいて、細かく霊的知識を我々に説いてくださっているのが、『霊界の構成』とか『霊界での審判』とかそういういう項目になる御教えになるのです。

 

【御教え『霊界の審判』明日の医術 第三篇 (昭和十八年十月二十三日)】

抑々(そもそも)人間は、現世に於て各々その与えられたる天職使命を完全に遂行すべきであるに拘わらず、大多数は事物の外観的方面のみをみて判断し、目的の為に不知不識(しらずしらず)悪に属する行為も敢て為すので、それが長年月に渉るに於て、相当の罪穢となって霊体に曇が堆積するのである。之は、霊界の存在を知らなかったから止むを得ない事であろう。従而〈したがって)、人間が死後霊界人となるや、その罪穢の払拭が厳密に行われるのである。それ等に就て以下詳説してみよう。

私は幾多の死霊から霊媒を通じて霊界の事象に就て、出来得る限りの詳細なる調査研究を行ったのである。そうして死霊の言説に就ても誤謬や虚偽と思う点を避け、幾人もの死霊の一致した点を綜合して書くのであるから大体に於て誤りはないと思うのである。

人間一度霊界に入るや、大多数は神道で唱うる中有(ちゅうう)界又は八衢(やちまた)、仏教でいう六道の辻、基督教でいう精霊界に往くのである。然し、茲に注意すべきは日本の霊界は立体的であって、西洋の霊界は平面的である。私が研究したのは日本の霊界であるから、そのつもりで読まれたいのである。そうして右の八衢(やちまた)とは霊界に於ける中間帯である。それは本来霊界の構成は九段になっており、即ち天国が三段八衢(やちまた)も三段地獄も三段という訳である。死後、普通人は八衢(やちまた)人となるのであるが、極善の者は直ちに天国へ昇り、極悪の者は地獄に堕つるのである。それは死の状態によって大体判るものである。即ち天国へ復活する霊は死に際会して聊(いささ)かの苦痛もなく、近親者を招き一人一人遺言を為し、凡そ死の時を知って平静常の如き状態で死ぬのである。それに引換え地獄に往く霊は、死に直面して非常な苦痛に喘ぎ、所謂断末魔の苦しみを為すのである。又右の孰(いず)れでもなく普通の死の苦しみの者は八衝(やちまた)に往くのである。言うまでもなく八衝(やちまた)へ往く霊が大部分であって、死体の面貌を見れば大体の見当は付くものである。それは天国行の霊は生けるが如く、時には鮮花色さえも呈し、平安些かの死の形相もないのである。又地獄行の霊は、顔面暗黒色又は暗青色を呈し苦悶の形相を表わし、一見慄然とするようなのもある。又八衡(やちまた)行の霊は一般死人の面貌で、濃淡はあるが大体黄色である。

右に就て先ず八衢(やちまた)行の霊から説明してみるが、先ず死後直ちに八衢(やちまた)へ行くや仏教で唱うる如き脱衣婆(だつえば)なるものが居て、それが着衣を脱がせるのである。そうして三途の川を渡るのであるが、其(その)際普通の橋を渡るという説と、橋がなく水面を渡るという説とがある。但し、後者の説は川に水が無く、龍体が無数に河中に紆(うね)っていて、それが水の如く見え、龍の背を渡るというのである。又一説には、脱衣婆(だつえば)は娑婆からの着衣を脱がせて、霊界の白衣と着せ更えるというのである。それは橋を渡り終る時、白色は種々の色に染るのだそうで、罪穢の多い者は黒色であり、次が青色、次が紅色、次が黄色、罪穢の最も少いものは白色というのである。それから仏説にある閻魔の庁即ち審判廷に行き、そこで審判を受けるのであるが、それは娑婆と異(ちが)い、絶対厳正公平で、些(いささ)かの依恬(えこ)も誤審もないのである。其(その)際閻魔大王の御顔は見る人によって異るそうで、悪人が見ると御眼は鏡の如くロは耳下まで裂け、舌端火を吐き、一見慄然とするそうである。然るに悪の量が少い程御顔が優しく見え、善人が拝すれば寔(まこと)に柔和にして威厳備わり、親しみと尊敬の念が自ら湧くそうである。又審判の際浄玻璃(じょうはり)の鏡に映写したり、閻魔の帳即ち生前の経歴を控えてある等によって下調べを行う等は事実のようである。そうしてその調べ役は冥官が行い、其(その)監督は神道によっては祓戸の神が行うと謂われている。

右の審判によって罪穢の量が定まれば、その軽重によって、それぞれ天国又は地獄の、霊相応の階級へ行くのであるが、神の御目的は罪人を造るにあらず、天国人たらしめるのであるから、地獄行の霊は大抵は一時八衢(やちまた)に於て修行をさせ霊の向上を計られるのである。それは八衢(やちまた)に於ては現界に於ける説教師の如きものがあって、それが改善に向わしむべく努力するのである。その説教師なるものは現界に於ての各宗教の教誨師等が死後そういう役を命ぜらるるのである。そうして八衝(やちまた)に於ての修行期間は三十年としてあり、それ迄に改心出来得ないものは、地獄へおつるのである。

 

『霊界の構成』

そうして天国、八衢(やちまた)、地獄を通じて最も顕著なる事は光と熱による差別である。即ち天国は光と熱の世界であり、地獄は暗黒と無熱の世界であって、八衢やちまた)はその中間であるから丁度現界と同位である。故に最高天国即ち第一天国に於ては光と熱が強烈で、そこに住する天人は殆んど裸体同様であり、仏画にある如来や菩薩が半裸体であるに察(み)ても想像し得らるるであろう。又第二天国、第三天国と下るに従って漸次光と熱が薄くなるのは勿論である。従而(したがって)、仮に地獄の霊を天国へ昇らすと雖も、光明に眩惑され熱の苦痛に耐え得られずして元の地獄へ還るのである。丁度現界に於て、下賤の者を高官に登らすと雖も窮屈に堪え得られないのと同様である。特に霊界に於ては、すべて相応の理によって離合集散するのであるから、右の如くならざるを得ないのである。

茲(ここ)に注目すべき事は、霊界の天国に於ける構成とその集団的生活とである。それは大別して神界及び仏界であって、神界は天国であり、仏界は極楽浄土である。そうして仏界より神界の方が一段上位であるから、第一天国は神界のみで、仏界のそれは第二天国である。そうして第一天国の主宰神は日の大神天照皇大御神(あまてらすすめおほみかみ)あり、第二天国の主宰神は月の大神素盞鳴尊(すさのをのみこと)であり、仏界のそれは観世音菩薩即ち光明如来である。又霊界に於ても神道十三派や仏教五十数派等それぞれの団体がある。例えていえば、大社教は大国主尊(おほくにぬしのみこと)を主宰神とし、御嶽教は国常立尊(くにとこたちのみこと)、天理教は伊弉册尊(いざなぎのみこと)等の如くであり、仏界に於ても、真宗は阿弥陀如来、禅宗は達磨大師、法華宗は日蓮上人というように、それぞれの団体がある。故に、生前何等かの信仰者は、死後霊界に往くや、各々の団体に所属するから、無信仰者よりも幾層倍幸福であるかは自明の理である。然るに無信仰者に於ては、所属すべき団体がないから、現界に於ける浮浪人の如く大いに困惑するのである。昔から中有(ちゅうう)に迷うという言葉があるが、之は無所属の霊が中有界に迷うという事である。

又、霊界を知らず、死後の世界を信じない者は、一度霊界に往くや安住するを得ず、そうかといって現界人に戻る事も出来ず中有(ちゅうう)に迷うのである。此一例として先年某所で霊的実験を行った際、徳富蘆花氏の霊が霊媒に憑依した事がある。其(その)際早速蘆花夫人を招き、その憑霊の言動をみせた処、確かに亡夫に相違ないとの事であった。そうして種々の質問を試みたが、その応答は正鵠を欠き、殆んど痴呆症の如くであったそうである。之は全く生前に於て霊界の存在を信じなかった為である。現世に於ては蘆花程の卓越した人が、霊界に於ては右の如くであるにみて人は霊界の存在を信じ、現世に在る中(うち)死後の準備をなしおかなければならないのである。

天国又は極楽とは如何なる所であるか。否一体天国や極楽などという世界は事実存在するものであるか、大抵の人は古代人の頭脳から生れた一種の理想的幻影としか思わないであろう。然るに私は、天国なるものも極楽浄土なるものも立派に存在している事を知ったのである。従而(したがって)、存在するとすれば、その真相を知り極めたいのは誰もが希(ねが)う所であろう。然し乍ら、之を説くとしても、想像や霊感的であっては現代人として受け入れ難いであろうから、私は幾多の実証的経験を発表して、読者の判別の資に供したいのである。

私が治療時代、某会社重役の夫人(三十歳)重病の為招かれた事があった。勿論医師から見放されたのであって、その家族や親戚の人達が、是非助けて欲しいとの懇願であったがその患者の家が、私の家より十里位離れているので、私は通うのは困難であるから、兎も角自動車に乗せて、私の家へ伴(つ)れて来たのである。其(その)際、途中に於ての生命の危険を慮(おもんばか)り夫君も同乗し、私は車中で、片手で抱え片手で治療しつつ、兎も角、無事に私方へ着いたのである。

然るに翌朝未明、付添の者に私は起されたので、直ちに病室へ行ってみると、患者は私の手を握って放さない。曰く「自分は今、身体から何か抜け出るような気がして恐ろしくてならないから、楳木代表の手に捉(つかま)らして戴きたい。そうして妾(わたし)はどうしても今日死ぬような気がしてならないから、家族の者を至急招(よ)んで貰いたい」というので、直ちに電話をかけ、一時間余経って夫君や子供数人、会社の嘱託医等、自動車で来たのであった。其(その)時患者は昏睡状態で脈搏も微弱である。医師の診断も勿論時間の問題であるという事であった。そうして家族に取巻かれ乍ら、依然昏睡状態を続けていたが、呼吸は絶えなかった。終(つい)に夜となった。相変らずの状態である。丁度午後七時頃、突如として眼を見開き、不思議相(そう)にあたりを見廻しているのである。曰く「私は今し方、何ともいえない美しい所へ行って来た。それは花園で百花爛漫と咲き乱れ、美しき天人等が多勢いて、遥か奥の方に一人の崇高(けだか)き、絵で見る観世音菩薩の如き御方が、私の方を御覧になられ微笑(ほほえ)まれたので、私は思わず識らず平伏した―と思うと同時に覚醒したのである。そうして今は非常に爽快で、斯様な気持は罹病以来、未だ曾つて無かった」と曰うのである。其(その)様な訳で、翌日から全然病苦はなく、否全快してしまって、ただ衰弱だけが残っていた。それも一ヶ月位で、平常通りの健康に復したのである。右は全く一時霊が脱出して天国へ赴き、霊体の罪穢を払拭されたのである事は勿論である。そこは第二天国の仏界であろう。

次に、私が霊と治療の研究に入った初め頃二十歳位の肺患三期の娘を治療した事がある。そうして一旦治癒したが、一ヶ年位経て再発し、終(つい)に死んだのである。其(その)頃、私が宗教にも関係していたので、その霊を私が祀ってやったのである。然るに、その娘に兄が一人あった。その兄は、非常な酒呑みで怠惰であったので、家族の者は困っていたのである。娘が死んでから二、三ヶ月経った頃、或日その兄が、自分の居間に座していると、眼前数尺の上方に朦朧として紫色の煙の如きものが見ゆるのである。すると、その紫雲が徐々と下降するにつれて、その紫雲の上に、数ヶ月前死んだ筈の妹が起(た)っているのである。みると生前よりも、容貌など余程美しく、衣服は十二単衣の如き美衣を着、品位さえ備わっている。そうして妹の曰く「私は、兄さんが酒を廃(や)めるべく勧告に来たのである。どうか家の為身の為、禁酒していただきたい」と懇々言って再び紫雲に乗り、天上に向って消え去ったのである。そうして又数日を経て其(その)様な事があり、又数日を経てあったのである。其(その)時は、眼前に朱塗の曲線の美しき橋が現われ、例の如く妹の霊が紫雲に乗って、その橋上に降り立ち、静かに渡り来って曰く「今日は三回目であるが、今日限りで神様のお許しはなくなるから、今日は最後である。」といって、例の如く禁酒の勧告をしたのであって、それ以後はそういう事はなかったそうで勿論之は、一時的霊眼が開け見えたのである。

右は、天界から天人となって、現界へ降下する実例としては好適のものであろう。それに就て面白い事は、右の兄なる人は全然無信仰者であるから、潜在意識などありよう筈がないので、従而(したがって)、観念の作用でない事は勿論である。

次に、拾数年前、私が霊的研究を行っていた時の事である。それは、肉体の病気ではない。いわば、精神的病気である二十幾歳の青年があった。その青年は、其(その)頃、或花柳界の婦人に迷い、終(つい)に情死をする所まで突詰(つきつ)めた所、その一歩手前で私は奇蹟的に

救ったのであった。救ってから先ず霊的に調査してみようと想い、その方法を行ったのである。然るに、その男には狐霊が憑依して、そういう事をさしたという訳が判ったので、その狐霊へ対し、警告を与えなどして、約二十分位で終ったのである。然るに、終ったに拘わらず、本人は猶(なお)も瞑目合掌したまま(之は被施術者の形式である)で左方に向い首を傾げている。それが約三、四分位で眼を見開き、不思議そうに猶(なお)も首を傾げているのである。彼曰く「不思議なものを見ました。それは、自分の傍に琴の如き音楽を奏している者があった。その音楽の音色は、実に何ともいえぬ高雅で、聞惚れていながら四辺(あたり)をよくみると、非常に広い神殿の如きものの内部で、突当りに階段があり、その奥に簾(みす)が垂れているのが微かに見えるのである。すると先生が衣冠束帯で、静かに歩を運ばれ、階(きざはし)を昇り、御簾の中へ入られた」というのである。従って私は「後ろから見たのでは他の人ではないか」と問うた処「否確かに楳木代表に違いない」との事であった。そうしてその服装はと問えば、冠を被り、纓(えい)が垂れ、青色の上衣に、表袴(おもてばかま)は赤色との事であった。

右は、夢ではなく、その男が一時的霊眼が開け、霊界が見えたのであって、斯ういう例も時にはあるものである。そうして此男は、何等の信仰もなく、商店の店員であって霊的知識など皆無であるから、反って信をおけるのである。

右の神殿は、第三天国の神社内ではないかと私は想うと共に、其(その)時の私の幽体は神社の中に住していたものであろう。

以上示した所の三例は、天国の室外と室内と、天人の降下状態等を知る上に於て参考になると思うのである。

霊視の実例として顕著なるものを一つ挙げてみよう。これは彼の有名な日露戦役(せんえき)の日本海海戦の時である。バルチック艦隊が日本に接近しつつあった時、東郷元帥の当時参謀であった秋山真之(さねゆき)少将が地図を凝視していると、その地図の上に何隻かの敵艦が通過するのが明瞭に見えたのであったから、此奇蹟を直ちに東郷元帥に申告したので、彼様な大戦果を獲たのであるという事は有名な話である。其(その)戦報には、天佑神助の文字が入っていた事は勿論である。因みに、同少将は右の奇蹟が動機となって、其(その)後種々の宗教を研究された事も周知の事実である。

次に、仏界に於ける極楽の状態をかいてみよう。私は十数年以前、或霊媒を通じて、極楽界の状況を聞き得た事がある。その霊媒は十八歳の純な処女であったから、相当信をおけると思う。

右の娘に憑依したのは、その娘の祖先である武土の霊であって、二百数十年前に戦死したのである。

その霊は真言宗の熱心な信者で死後間もなく弘法大師の団体へ入ったのである。其(その)際、私の質問に応じて答えた所は左の如くである。「最初自分が来た時は数百人居たが、年々生れ易(かわ)る霊が、入り来る霊より多いので、今は百人位に減ってしまった。そうして日常生活は、大きな伽藍の中に住んでいて、別段仕事とてはなく遊芸即ち琴、三味線、笛、太鼓等を窘(たしな)み、絵画・彫刻・書道・碁・将棋其(その)他現世に於けると略々(ほぼ)同様な娯(たの)しみに耽(ふ)けるのである。そうして時々弘法大師又は○○上人(此名を私は失念した)の御説教があり、それを聞く事が何よりの楽しみである。又、弘法大師は時々釈迦如来の許へ行かれるのであるが、そこは、此極楽よりも一段上であって、非常に光が強く眩しくて仰ぎ見られない位である。又外へ出ると非常に大きな湖水があって、そこへ蓮の葉が無数に泛(うか)んでおり、その大きさは丁度二人が乗れる位で、大抵は夫婦者が乗っており別段漕がなくても、欲する方へ行けるのである。そうして夜がなく二六時中昼間である。明るさは、現世の晴れた日の昼間よりは少し暗く、光線は黄金色の柔い快い感じである。」 ― と言うのである。右は多分、寂光の浄土であろう。

又、天国は三段階になっているが、その一段が亦上・中・下三段に分かれている。故に第二天国でい_えば、上位に観世音、中位が阿弥陀如来、下位が釈迦如来が主宰座(いま)すのである。其(その)他の諸善天人等何れもそれぞれの階級に応じて住し給うのは勿論である。又弘法大師は、第三天国の上位であろう。

次に、地獄界とその状態を書いてみよう。霊界は、八衢(やちまた)即ち中有(ちゅうう)界を中心とし上方に向って天国が三段階、下方に向って地獄が三段階になっているのであるが下方へ行く程光と熱に遠ざかり、最下段の地獄は、神道にては根底の国と謂い、仏教にては極寒地獄と謂い、全くの無明暗黒界であって氷結境である。何物も見えず聞えぬ凍結状態で、其所(そこ)へ落ちた霊は何年、何十年、何百年も続くのであるから、実に悲惨とも何とも形容が出来ない程である。私はそこにいた事のある霊から、聞いたのであるから誤りはないと思うのである。

彼のダンテの『神曲』の「地獄篇」にも、この氷結地獄の事が記(か)いてあるが、真実であろう。そうして最上段は軽苦であって、多くは地獄の刑罰が済んで、八衢(やちまた)へ行く一歩手前ともいうべき所である。従而(したがって)、そこにいる霊は地獄界に於ける労作の如きものをさせられるのである。讐えていえば、各家の神棚、仏壇等に饌供した食物を運び、其(その)他通信・伝達等が重なる仕事である。

茲で、右饌供の食物に就て知らねばならない事がある。それは霊と雖も食物を食わなければ腹が減るのである。そうして霊の食物とは、総ての食物の霊気を食するというよりは吸うのである。然し現世の人間と異(ちが)い極めて少量で満腹するので、霊一人一日分の食料は飯粒三つで足りるのである。従而(したがって)、饌供された食物は多勢の祖霊が食しても猶余りある位であるから、その余分を配り役が運んで、饑(ひも)じい霊達に施与をするのであるから、その徳によって、其(その)家の祖霊の向上が速くなる事である。故に、祖霊へ対し、出来るだけ、食物など供える事は非常に良いのである。従而(したがって)、祖霊へ対し供養を怠る時は、祖霊は飢餓に迫られ、やむを得ず盗み食いをするようになるので、其(その)結果として八衢(やちまた)から餓鬼道へ堕ちるか、又は犬猫の如き獣類に憑依して食欲を満たそうとする― それが畜生道へ堕ちる訳である。然るに、人霊が畜生へ憑依する時は、漸次人霊の方が溶け込み、遂に獣霊と同化して了うのである。此人獣同化霊が再生した場合、獣となって生れるのである。然し乍ら、これは真の獣霊と異るのは勿論で、馬犬猫狐狸等の動物の中に人語を解するのがよくあるが、これ等は右の如き同化霊である為である。

そうして之等の実例は非常に多いので、私が見聞した一、二の例を挙げてみよう。私が以前、或家へ治療に行った時の事である。その家にかなり大きな犬がいたが家人の日く「此犬は不思議な犬で、決して外へは出ない。殆んど座敷住居で、絹の上等の座蒲団でないと座らないのである。家人が呼べば行くが、使用人では言う事を聞かないのであって、食物も、粗末な物は絶対に食わないという贅沢さでよく人語を解し、粗末な部屋や台所を嫌い、一番上等の部屋でなくては気に入らないという訳で、其(その)他すべてが、普通の犬とは異うのである。」家人は如何なる訳かと、私に質(たず)ねたので、私は答えたのである。「それは、貴方の家の祖霊の一人が畜生道に堕ち、犬に生れ代って来、其(その)因縁によって貴方の家に飼われるようになったのであるから、祖先としての扱いを受けなければ承知しないのである。」と説明したので、よく諒解されたのである。

次に、此話は現在開業している私の弟子が実見した事実である。それは今より十数年以前、横浜の某所に、中年の婦人が不思議な責苦(せめく)に遇っている事を聞いたので、好奇心に駆られ早速行ってみたのだそうである。本人に面会すると、其(その)本人は首に白布を巻いていたが、それを取除くと、驚くべし一匹の蛇が首に巻きついている。そうしてその蛇はよく人語を解し、特に食事をする時には一杯とか二杯とか量を限って許しを乞うのであって、そうする事によって、蛇は巻きついていた力を弛めるから、其(その)間に食事をする、それが約束した以上を少しでも超過すると、喉を締めて決して食わせないそうである。其(その)原因に就て本人が言うには、「自分がその家へ嫁入後暫くして、姑である夫の母親が病気に罹ったので、其(その)時自分は早く死ねよがしに、食物を与えない為、餓死同様になって死んだ」のだそうである。

「その怨霊が蛇になって仇を討つべく、此様な責苦(せめく)に遇わせるのである。」との事で「世人に罪の恐ろしさを知らせ、幾分なりとも世の為に功徳をしたい」という念願から、「出来るだけ多くの人に見てもらいたいのである」という事であった。

茲で、供物に就ての説明をした序(つい)でとして華(はな)や線香の意味を説いてみるが、すぺて仏壇の内部は極楽浄土に相応させるのであって、極楽浄土は善美の世界であるから、飲食(おんじき)は饒(ゆた)かに百花咲き乱れ、香気漂い、優雅なる音楽を奏しているのである。此理に由って小(ささ)やかながらも、その型として花を供え、線香又は香を焚くのであって、寺院に於て読経の際、木魚を叩き、鐃鈸(にょうばち)を鳴らす等は音楽の意味であり、立派な仏式に於ての笙(しょう)、篳篥(ひちりき)なども同様の意味である。又仏壇に飲食(おんじき)を供うる際、鐘を叩くのはその合図である。次に、動物の虐待に就て、世人の誤解している点を説いてみよう。それは動物に対し、人間と同様にみる事である。それは動物を虐待する事は、人間からみて非常に苦痛のように想うが、実はそうではないのである。本来牛馬の如き動物は虐待される事を好むのであって、寧ろ快感さえ催すのである。よく牛馬などの歩行遅々とする場合、鞭を当てると走り出すが、それは鞭の苦痛の為に走り出すのではなく、鞭で打たれる快感を望む為に、故意に遅々とするのである。故に、もし打たれる苦痛を厭うとすれば、打たれないよう走り続けるべきであろう。特に牛などは何回となく歩行を止め、打たれたい様をするのである。此例として、彼のサディスムスという変態的病気を世人は知るであろう。之は誰かに肉体を打たれたり、傷つけられたりする事を好むので、それは一種の快感を催すのだそうである。医学ではその原因不明とされているが、実は、被虐待を好む動物霊の憑依によるのである。

此意味に於て、動物愛護や動物虐待防止は意味をなさないのである。

次に、中段地獄は、昔から唱うる如き種々の刑罰苦がある。即ち針の山、血の池地獄、蜂室地獄、蛇地獄、蟻地獄、焦熱地獄、修羅道、色欲道、餓鬼道等々ある。そうして針の山は、読んで字の如く、無数の針の上を歩くのであるから、其(その)痛さは察するに余りある。血の池地獄は、妊娠や出産によって死んだ霊が、必ず一度は行く処であって、以前私が扱った霊媒に、血の池地獄の霊が憑った事がある。其(その)時の話によれば、自分は約三十年来血の池地獄に漬(つか)っているが、そこは全くの血の池で、首まで漬(つか)っており、その池に多くの虫がいて、それが始終顔へ這上ってくるので、その無気味さは堪らないとの事である。蜂室地獄は、私の知人で、其(その)当時有名な美容師の弟子である若い婦人に親しくしていた芸者の死霊が、右の弟子に憑ったのである。其(その)時、或審神者(さにわ)に向って霊の訴えた話は、蜂室地獄の苦しみであった。それは人間一人入る位の箱の中に入れられ、無数の蜂がいて身体中所嫌わず剌すので、実に名状すべからざる苦痛であるというのである。

焦熱地獄は、文字通りの地獄であって、三原山の如き噴火口へ飛込むとか、火事で焼死するとかいう者が行く処である。私は以前、一種の癲癇を扱った事がある。それは極(きま)って夜中に発(おこ)るので、本人曰く「就寝していると、最初数間先に火の燃えるのが見え、それが段々近寄るとみるや、発作するのである。その瞬間、身体が火の如く熱くなると共に無我に陥る」のだそうで、之は大震災の翌年から発病したのであるから、全く震災で焼死した霊であろう。

色欲道は、勿論不純なる男女関係の結果堕ちる地獄である。その程度によってそれぞれの差別が生ずるのである。それはどういう訳かというと、譬えていえば情死の如きは男女の霊と霊が、密着して離れないのである。それは彼世(あのよ)までも離れないという想念によるのであるが、それが為、霊界に於て行動に不便であり、苦痛でもあるから非常に後悔するのである。抱合心中はそのまゝの姿であるから一見それが暴露され、羞恥に堪えないのである。又別々の場所で心中をしたものは背中合せに密着するのである。偶々(たまたま)新聞の記事などにある生れた双児(ふたご)の身体の一部が密着して放れないというのがあるが、勿論之等は心中者の再生である。又世間でいう逆様(さかさま)事、即ち親子、兄妹等の不純関係の霊は、上下反対に密着するのである。それは一方が真直(まっすぐ)であれば、一方が逆様(さかさま)というような訳であるから、是等の不便と苦痛と羞恥は実に甚だしいものがある。又姦通の霊は、非常に残虐な刑罰に遇うのである。以上の如くであるから、世間よく愛人同志が情死の場合、死んで天国で楽しく暮すなどという事は、あまりにも甚だしい違いである事を知るべきである。之によってみても、霊界なるものは至公至平にして一点の狂いもない所であるから、此事を知って現界に生存中は、不正不義の行為は飽迄(あくまで)慎しみ過誤に陥る事なきよう戒心すべきである。

次に、斯ういう事も知っておかなければならない。それは現世に於て富者でありながら非常に吝嗇な人がよくあるが、其(その)様な人は巨万の富を有するに関わらず想念は常に不足勝であって、より以上の金銭を得んと心中堪えず焦慮しておるから、その想念も生活も、貧者と異ならないが故に、外面は富者であっても、霊体は貧者であるから、斯ういう人は死後霊界に行くや、想念通りの貧困者となり、窮乏な境遇に堕ちるのである。それに引換え現世に於て中流以下の生活者であっても、心中常に足るを知って満足し、日々感謝の生活を送り、余力あれば社会の為人の為善根を施すというような人は、霊界に行くや富者となって、幸福な境遇になるのである。

然るに、一般世人は、現界のみを知って霊界を知らず、飽迄(あくまで)現界のみを対象として生活を立てるのであるから、如何に愚かであり不幸であるかを知るべきである。従而(したがって)、霊界の事象を知り、之を信ずる人にして初めて永遠の幸福を得らるるのである。此意味に於て人は生命のある限り、善を行い徳を積み、死後の準備をなしおくべきである。

 

楳木代表

そういうようにしてドラマを見ておかないと。「この人たちもやっと霊界の存在に気がついたのだな。そこからは我々の出番よ」という気持ちで、見ておかないと。格好いい俳優さんや綺麗な女優さんの顔ばかり見ていても仕方がありません。やっと霊界の認識ができた。だからそこは霊的知識の低いところに留まっているので、私たちが霊的知識の高いところを教えていこうというのが、実は宗教活動なのだということです。そういう認識を持っておかないと、我々がメシヤ様の御教えに基づいて御神業を進めようとする御神業の内容が高まっていきませんし、真の救いに繋がっていかないので、是非そういう認識を持ってテレビ等を見ていただきたいと思います。そういうことを最初にお願いして、時間がなくなってきましたが、いつものように質疑応答に入りたいと思います。

 

風邪とマスク

参加者

今回の御教えの内容はうちのことだと思いました。精神科に行って、最初に「治りますか?」と聞いたら、「もう発症しているので、わかりません」と答えられて、薬を出すときにも説明もあまりなく、「これを使ってみて」と出され、そのあともコロコロと薬を変えられ、その薬がどう効くのかということはわかっていませんでした。それからテレビで見たのですが、何故麻酔薬が効くのかをわかっていないと医者が言っていて、今まで使っていて大丈夫だったから使っているだけだと話していて、脳のことも何も解明されていなくて、今日の勉強の内容だと思いました。

楳木代表

そういえばそうだったなということに基づいてしっかり御教えを拝読しながら、自分達は生活をしっかりしていこうというふうに、生活を組み立てていってくれたら良いと思います。

それからさっきついでの話ですが、「マスクをしていても良いですか?」という話のときに、「うつるから」と言ったよね。神様の前でマスクをするということは悪いことではありません。だって掃除をする時にはマスクをするでしょう。これは自分の息を御神体にかけないために、失礼にあたるからとマスクをします。で、風邪は人にはうつりません。しかし浄化作用の場合は、浄化を誘発するというのです。言葉的には。風邪はこの人からこの人にうつったとした場合、これは、こちらの風邪の浄化を誘発したと言いますので、メシヤ教の中では浄化を誘発という言い方になりますので、よく覚えていておいてください。風邪はうつったとは言いません。

浄化を誘発させてしまったと。そして、うつってしまった人が感謝をすれば良いのですが、信仰がないと感謝しませんので、「あの人からうつされた」という文言がでてくるので、「私はあの人から浄化を誘発されて、本当にありがたいわ」 という信者だけになると良いのですがね。それから、もうひとつ、くしゃみをした時に時速何百キロという速度で出るでしょう。そうすると、やはりつばが飛んだりするので、咳がでやすいときにマスクをするというのはエチケットとして必要なのだというようにしておけばいいですね。そして次に花粉症の問題がありますが、うしろからつまんであげて。

参加者

私がですか?

楳木代表

自分も花粉症だったのでしょう。自分が治ったなら、人も治してあげないといけないから。

そこをぐるぐると押さえてあげて。痛いところがあるでしょう。

参加者

そんなに痛くありません。

楳木代表

押し場所がちょっと悪いね。後ろから首をつかんでごらん。痛いところがない?

参加者

ないです。

楳木代表

もうちょっと前かな?

参加者

やさしすぎるのかも。

楳木代表

やさしすぎるんやろ。そこをガッとやると、耳の下のところを押さえると痛いところがあるから、そこを浄霊すれば大丈夫だから。そこを毎日浄霊していけば、来年はもう出ないくらいになります。そうすると花粉症も出なくなります。

 

糖尿病の浄霊

参加者

糖尿病はどこを浄霊すれば良いですか?

楳木代表

糖尿病は胃の真後ろと腎臓をしていけば良いです。胃の真後ろにすい臓があるから。そのすい臓から出てくるホルモンの分泌がちょっと弱まっているので、それは胃の真後ろを浄霊してください。仕事場が結構涼しいところで立ちっぱなしの仕事だと、それが糖尿病の原因だから。

参加者

点鼻薬もずっと使っていました。

楳木代表

あーそうか。それが糖尿の原因だから、休み時間にはとにかく外に出て、会社内を散歩すれば、だいたい糖尿病はよくなるから。よく手を振って、何も持たずに歩いてみてください。あとは浄霊をしていかないといけないので、胃の真後ろと腎臓をよくしてください。

 

素晴らしい浄霊力

参加者

家族が前立腺がんと診断されて、75歳を過ぎているので、手術も勧められず、薬も何ももらっていないのですが、浄霊のおかげで段々数値が下ってきて、医者も不思議がっています。

楳木代表

それは素晴らしいね。前立腺のどの場所かをよく聞いて、上ではなく、股に手を入れてすると良いですから。届かない部分は後ろからしてあげれば良いから。そうやって浄霊していけば、前立腺がんなんて何ともないから。浄霊していけばよくなるから。

参加者

数値が変わってきたから、不思議がっているそうです。

楳木代表

素晴らしい浄霊力ですね。

参加者

気功と浄霊とは全く違うのですか?

楳木代表

気功はどうしても自力になるから。気功を出す練習は、自分の両手のてのひらをあわせていくと、ふわっとするところがあるでしょう。みんなやってごらん。力を抜いて、そしてやってみると、ふわっとする場所があるでしょう。てのひらを触ってないのに触ったようなように感じがあるでしょう。それが気功の原点だから。これを段々厚くするようにしていくと、気功がでるようになります。それで相手を治していくので、ものすごく自分の力が必要になるので、やっているとクタクタになります。だからこれをメシヤ様にお祈りをするとそんな訓練をしなくても、てのひらからスッと光がでるので、これがありがたいのです。気功するよりも、断然楽によくなっていくから、浄霊はありがたいのです。それからさっき御守護をいただいた話をしていたね。

参加者

息子のイボが消えました。ここ2、3年ずっとイボができていたのですが、それが消えました。

楳木代表

きつい治療も、焼かれたりしていたんでしょう。

参加者

その息子も肝臓の数値が三倍くらいになったのですが。

楳木代表

肝臓もよく浄霊をしてね。右の肋骨の一番下のところに指を当てて、その下側から上に向けて、指を入れると肝臓にあたるから。これは腹が出ていても出ていなくて。この奥に肝臓があるから。だからこれにむけて下から浄霊をしてあげれば良いから。右側からすれば、肝臓全体に行き渡るのです。こういう感じが、肝臓で・・・。だから浄霊をしたおかげで、イボがなくなったというのは本当によかったね。イボがあると友達にいろいろ言われることもあるだろうから。だからそういうものがでないように、よく浄霊をしてもらいたいと思います。

それから大黒様をいただくときには、お神酒が必要なので、純米酒を小さいので良いので、準備してください。それでは時間になりましたので、終わりにします。今月は、この支部でメシヤ様御降臨祭を12月23日に執り行わせていただいて、各地からお参りに来ます。受け入れの奉仕を一つお願いしたいということと、皆さんご自身もメシヤ様という御方が一人の男性としてこの地上におりてこられて、ありとあらゆる病気と、それから個人的にも、社会人としても、企業家としても大変な御苦労を経て、我々に人を救う力と、人を救う方法を教えてくださいました。ということは、我々の苦労も、例えば主人との間のことでも、何でもかんでも苦労が多いということは、人を救う勉強をするために苦労させていただいているのだという気持ちをもっていただきたいと思います。で、それを解決に取り組むことを通してメシヤ様に一歩でも近づかせていただくことなのだと。そして12月23日はそういう御苦労いただいたメシヤ様に感謝を申し上げ、そして我々が大勢の人を救っていく力をメシヤ様からいただく日なのだという気持ちで、12月23日を迎えさせていただきたいと思いますので、そのことをお願いいたしまして、メシヤ講座を終わらせていただきます。

ありがとうございました。

 

[メシヤ講座no.131 浜松支部 2011(平成23年)12月]