学びの資料「節分祭」「立春祭」(1)(平成31年1月)

原田 穣

 

(1)節分と国常立尊様について

 

“節分の意義につき御教へを御願ひ申し上げます。

「国常立尊が厳格でありました為、他の神々から排斥されて押し込められた日を、節分といふのであります。冬から春に転換する、即ち節が分れるから節分といふのであります。」

(光明会会報  昭和24年6月号  妙智の鍵)

 

(前略)この節分という意味は、大本教と非常に関係があるのです。ごく古い、神代というのですが、神代と言っても、空漠(クウバク)たるものでなくて、神格を得た人間が住んで居た時代で、いわばこの前の昼間の世界といったようなものです。その時に世界を主宰していた神様が国常立尊という神様です。この神様は非常に厳正な神様で、間違った事は許さないというような政策をとったために、非常に多くの神様――八百万の神――から、その時分でも輿論が、どうもあんまり喧ましすぎてとてもやりきれない、だから押込めてしまった方がよいというので、排斥運動、押込運動をした結果、押込められたのです。それで艮(東と北の間)の或る地点に押込めたのです。

そうして、再び世の中に出て来られないようにというので、豆を炒ってまいて、その時に“炒豆に花が咲いたら出て来てもよい”と……尤も、炒った豆が芽を出すはずがないのですから……それを条件のようにして押込めたのです。それで非常に悪い神様としたのです。これは大本教のお筆先にありますが、「悪神、たたり神と申して、われを押込めたのであるぞよ」というわけです。それで、鬼門は悪神だからして、鬼門に向って越したり、いろいろな事をすると恐ろしいというような説を作ったわけです。それで何事も、鬼門は恐ろしいというように教育したようなわけです。それが今もって続いているので、人は非常に鬼門を嫌うのです。ところが事実は反対で、大変な良い立派な神様です。ただ、あんまり正しすぎたためにそういう事になったのですが、その根本はやはりその時に夜の世界になったわけです。

そこで、国常立尊様は火の系統の神様ですから、夜の世界ではまず隠退しなければならない事になるわけです。それがまず、お筆先には三千年としてあります。それでいよいよ三千年たったので、今度は御自分が、時節が来たので世の中に出る、と……出るについてはいろいろな……お筆先には三千世界の大芝居という事になってます。この押込めた系統の神様……総大将は天若彦尊という神様で――これはよく天邪鬼という事を言いますが――その神様が総大将で、あといろいろな神様がその一派に属したわけです。その押込められた時には僅かな部下を連れて隠退されたが、それから命が無くなって、死んで霊界に行って、三千年の間閻魔大王になったという事になっているのです。お筆先には「今度は、われはこの世の閻魔と現われて、世の立て替え立て直しを致すぞよ」とあります。という事は、審判をされるという事です。今までは霊界の死んだ霊を審判したが、今度は生きた人間の審判をするという事です。つまりもう悪は許さないという事になるのです。そのために大本教というものをつくったのです。私が大本信者になって、そういう事をいろいろ……表面的の事も、裏面━霊的の事もすっかり分ったので、大本を脱退して、観音教から救世教というふうにつくったのです。(後略)

(御教え集31号  昭和29年2月6日)

 

(前略)この国常立尊という神様は、鬼門の金神と言って、鬼門に押込められたという事になってます。この神様について話してみます。この神様は元世界を支配していたのです。それで、あんまり喧ましい……と言うよりか、あんまり厳正で、厳しいので、とてもやりきれないというので、他の沢山の神様が艮(東北)に押込めたわけです。その神様は三千年の間隠退(インタイ)されて、その間霊界に居て閻魔大王(エンマダイオウ)となっていたのです。それが今度「艮の金神はこの世に閻魔と現われて、世の立て替え立て直しを致すぞよ」というお筆先があります。そういうわけです。

それについて、最初のお筆先に「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ」という事と「今度は炒豆(イリマメ)に花の咲く時節が参りたから、神も嬉しいぞよ」というお筆先があります。節分には豆をまきますが、これは、その時の邪神の総大将が天若彦尊という神様ですが、その時に“炒豆に花が咲いたら再び出て来い。それまでは出られないように押込める”という事なのです。ですからしてあの豆まきという事はそういう意味なのだそうです。これは信じられない事はないです。ところが、それに対してお筆先には“今度は炒豆に花の咲く時節が来るぞよ”というのですから、炒豆に花が咲いたわけです。それが何時かというと、明治二十五年に始めたのですが、私は一昨日の節分の日に大変な神秘、奇蹟があったのです。それは、これからいよいよ国常立尊様が表面に現われるというわけです。「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ」という“艮の金神の世になりたぞよ”という事は、自分が世界の支配権を握るという事です。それが、今までは霊界だったが、これからは現界に現われるのです。それが一昨日その型があったのです。神様は凡て型でやり、型を見せるという事になってます。ですから一昨日現われた型というのは、私は三年も前から努力していたのです。それがだんだん延びていて、一昨日それがはっきり出たのです。それで私は非常に喜んでいるのと、大いに祝ってよいと思っているのです。では、その結果どういう事になるかというと、これは閻魔大王というのですから、審判の神様です。つまり善と悪とを立て分ける、善は栄え、悪は滅びるという御働きです。それがこれからはっきり現われて来るわけです。その点から大いに変るわけです。世界も、特に日本がそうです……霊界から言うと日本が元ですから……。

ですから、つまり霊界が明かるくなるわけです。明かるくなるという事は、勿論火素が増えるわけですから、今年あたりから病気がボツボツ増え始めるわけです。それからいろんな悪い事も秘密な事も浮かんで来るわけです。最近いろんな汚職事件があっちからもこっちからも出て来ますが、これも今まででは珍しい事です。これもソロソロその最初の現われのように思われるのです。そういうわけで、或る時期にゆくと、病気の増えるのも……これは一ぺんになりそうです。ですからそうなったら、何時も言うとおり、とても忙がしくなりますから、今からその覚悟をしていてよいです。その代り信者の人でも、少しボヤボヤしていたり、或いは神様の言われる事に違ったりすると、手厳(テキビ)しくやられる事になるのです。それもボツボツは出ているようです。これはあなた方もよく知っているでしょう。それで、お筆先に「神厳しくなると人民穏やかになるぞよ」というのがありますが、これは非常に面白いです。そこで、人間が我を通して威張ったり、言う事を聞かなかったりするとやられる、という事がだんだんひどくなるわけです。そういうわけで、今までとは違って来ます。(後略)

(御教え集31号  昭和29年2月5日)

 

(前略)節分というものは“福は内、鬼は外”で、鬼の災いを避(ヨ)けるという、昔からの行事があるのです。そのために方々の神社仏閣で豆まきをやるのです。ところでこれは、前にも話した事がありますが、あべこべなのです。鬼というのは偉い神様なのです。艮の金神国常立尊という神様です。(中略)事の起り始めは、これは神代となってますが、神代ではないのです。そう古いことでもないのです。尤も三千年という事になってますから、三千年前はやっぱり人間の世界です。この国常立尊という神様が世界的に支配していた時代があったのです。ところが非常に厳格な神様で、間違った事は許さないというために――大本教のお筆先などを見ると分りますが――つまりあまり厳しいので八百万の神様がとてもやりきれないというので、こういう喧(ヤカ)ましい神様は押込めなければ楽はできないというわけで、押込められたわけです。押込めた方の神様は天若彦神というのです。これはよく天邪鬼(アマノジヤク)と言いますが、天若彦というそれを後世天邪鬼と言って、つまり素直でない、何んでも横車を押すという性格の神様です。それで国常立尊という神様を、艮(東北)に押込めたのです。そこでそれを鬼門と言って忌(イ)み嫌(キラ)ったのです。尤も忌み嫌うわけです。人間の方が間違った事をすれば、そういう喧ましい神様を嫌うわけですから、どうしてもそうなるわけです。そうして鬼門除けと言って、いろんな事をやったのです。そういうわけで、三千年押込められたとしてあります。

そうしてその神様が明治二十五年に大本教の教祖の出口直子という方に憑られて非常に怒鳴ったのです。出口直子刀自の口を借りて怒鳴ったのです。その第一声が「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める神国になりたぞよ。日本は神国。この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ。竹は外国であるぞよ」というそれが最初の獅子吼(シシク)です。それで、大きな声をして怒鳴るので、気違い扱いにされて警察に引張られて、二十日か三十日間勾留されたのです。それが大本教の始まりなのです。その艮の金神という神様は、押込められて肉体の方は無くなりましたが、霊は霊界に行かれて閻魔大王になるのです。それで閻魔大王というのは、善悪、罪穢れを裁く神様、裁く御役目です。閻魔大王というと非常に恐ろしがられたのです。それが、本当は至正至直(シセイシチヨク)の神様ですから、そこで霊界に行っても、悪い人間が見ると恐ろしい顔に見えるのです。これは霊がそういう事を言ってました。それから心の善い人がゆくと非常に柔和な慕わしい優しい神様のお顔に見えるのです。これは面白いです。

というわけで、そこで大本教のお筆先に「艮の金神はこの世の閻魔と現われるぞよ」とありますが、“この世の閻魔”という事は、現界の審判をなされるという事です。今までは霊界の、死んだ人を審判されたが、今度は現界で生きた人間を審判される。“この世に現われて”というのですから、現界に現われて審判をするというわけです。「今までは蔭の守護でありたが、今度は表の守護になるぞよ」とありますが、凡て現界的になるわけです。(中略)霊界でも三段になっていまして、一段ずつだんだんと近寄って来るのです。それでいよいよ最後の段を済まして直接現界に現われるというのが今日からなのです。そうすると、今日は最後の審判の初日というわけです。恐ろしいですが、しかしそれはこっちに邪念があったり曇りがあったりすると怖いので、そうでなくてこっちが本当に正しく立派な心を持って居れば有難いのです。今まで悪い奴にいじめられたりしていた、それがいじめられなくなるから、善い人間には非常に結構です。それから「今度は善悪を立分けるぞよ」とありますが、これは私は始終書いてます。最近いろんな汚職事件が目茶々々(メチヤメチヤ)に現われて来ました。よくもそういった不正事件が出るという事は、今までに例がないように思います。これもいわゆる審判が近寄ったという事を現わしていると思います。

それで、艮の金神様が表に現われるという事は、艮の金神様は火の系統の神様ですから、そこで非常に光が強いのです。やっぱり霊界が明かるくなるのです。だから今まで隠(カク)していたり隠蔽(インペイ)していたものが現われるのです。目に見えるわけです。そこでいろんなそういう事が出て来るのです。それから今年から又一段と病気が多くなります。それと共に薬毒がだんだんはっきりして来るわけです。以前も言ったとおり、恐怖時代の一歩に入ったわけでもあります。そうなると救世教というものの発展が著しくなり、大いに発展するわけです。その段階に入って来たわけなのですから、大いに働き甲斐(ガイ)があるわけです。今まで押えつけられていたのが、その押えつける力が弱るわけです。今まで十回も二十回も話をしなくては分らなかったのが、今度は五、六回で分るというような意味になるわけです。そうかといって、神様の事は急に目に見えるようには現われないものなのです。つまり何んとなくジリジリジリジリ進んで行くわけです。今年、来年、再来年というように、年々早くもなるし、それからはっきりもして来るのです。(中略)これはお筆先にありますが、「今度は三千世界の大芝居であるから、悪の役もあるし善の役もあるから」というのがあります。 (中略)

今言ったとおり、艮の金神様を押込める方の総大将が天若彦尊とすると、天若彦尊という神様は天邪鬼的で、非常に素直でないのです。いわゆるケツ曲りで、何んでも曲るのです。それで、その一派がずっと世界を支配して来たからして、人間の心というものが、みんなそういうふうに歪(ユガ)んで来たのです。だから、どうも逆になるのです。良いと言って奨められると、ちょっとあべこべになって、“あんまり奨めるから……そんなしつこく言わなくても、オレだって分らない事はない”と言って、逆に変に反対になるのです。そういう癖が非常にあるのです。特に日本人には多いです。という事は天若彦尊の系統が多いわけです。(中略)

ですから、これも――艮の金神様という最高の神様が下に落ちて、枝の神様が上にのさばって好き勝手な事をしている――「神も残念であるぞよ」という御言葉があります。それはそういう意味なのです。それがとに角現界で三千年続いたのが、いよいよ表に現われるという、その機関が救世教です。(後略)

(御教え集31号  昭和29年2月4日)

 

(前略)古い時代に国常立尊という神様が世界を支配していたという事になっているのですが、その時分の事だから、世界と言ったところで全部だかどうだか分りませんが、まず日本を中心にして相当広範囲に支配していたに違いないのです。それで神様と言ったところで、やはり人間なのです。しかしその時分の人間は非常に霊が高かったのです。その時分は昼間の世界の終りぐらいだったのですが、ところが長い時代にだんだん人間が、夜の世界のために穢(ケガ)れに穢れて、霊的にレベルが低くなったわけです。(中略)

大本教のお筆先に「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める神国の世になりたぞよ。日本は神国。この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ」という事を教祖は獅子吼したわけです。(中略)それが明治二十五年の一月元日です。ですから“梅で開く”というが、梅というのは、花は五弁になってます。これは五大洲を形取(カタド)ってあるのだそうです。ですから“一度に開く梅の花”というのは、世界が一度に開くという事なのです。ところが今年の節分は、いよいよ艮の金神様が表になる、つまり今まで三千年隠れていたのが表面になるのです。それで、大本教を開いたのは、霊界がそうなったのです。

ところが今度は現界がそうなる。という事になったのは、この節分にお知らせがあったのです。それはいずれ言いますが、今はまだ言う事はできません。一年ぐらいは言う事はできないのです。それはやはり梅に関した奇蹟なのです。それは私は三、四年前から準備していた事ですが、そういうようなわけで、いよいよ表になるという事と、それからお筆先に「今度はこの世の閻魔と現われるから」という事があるのです。というのは、御隠退になっている時は、霊界に行かれて閻魔大王になるのです。閻魔大王というのは要するに霊界における審判の……今で言う検事総長とか最高裁判所長というような、そういった……裁きの最高の地位です。ところが“この世の閻魔と現われた”というのですからして、今度は現界的の裁きをされるわけです。これが審判です。(中略)

そういうようなわけで、鬼門を非常に嫌(キラ)って、鬼門は怖いように言いふらされたのは、今言った天若彦の方からそういう宣伝をしたわけです。それで「福は内、鬼は外」と言いますが、「鬼」というのは、つまり鬼門の金神、艮の金神国常立尊様という事になるからして、実は、一番善い神様、一番立派な神様です。それで面白いのは、大本教の発祥地の綾部では、豆をまく時には「鬼は内、福は外」と言うのです。それはやっぱりその時分から天若彦に対する反対のやり方だったわけです。そういうようなわけで、鬼門に越したり、鬼門の方を嫌うという事は、人間が正しい人がなかったからです。大抵穢れている人や、肚の本当でない人がそっちに越せば、やはりそういった気を受けるから、浄化が起こるわけです。それで浄化というのは災難や苦しみですから、そこで嫌ったというわけです。だから本当から言えば、若し方角をかまえば、鬼門に越すのがごくよいのです。ただ病気と同じで、一時浄化作用が起こりますから、そこで怖がるのですが、そのために後がよくなるのです。ですから他の宗教は、豆まきというと非常に盛んで、むしろ宣伝的にやりますが、救世教は絶対にやらないという事は、そういう根本的の理由があるからです。           (御教え集31号  昭和29年2月7日)

 

“夜の世界とは――天照皇大神の岩戸隠れ以後の時代を言ふんです。伝説によれば国常立命は非常に厳格な神様で、そのためその支配にやり切れず八百万の神々が一致して御引退を願った。結局輿論に抗し兼て御引退になったといふ事になってますがね。此の点は大本教祖の「出口なほ」に国常立命が御憑りになっていろいろ物語られた、それを基にして私はお話するんです。艮に引退せられ北海道の芦別山に押し込められた。之は本当でせう。之が節分の日で、一般の者はそれから豆を煎って之をぶつける様になったんです。神々は此の煎豆に花が咲いたら出て来てもいゝといふことを言って節分の行事をしたんです。その時国常立命は綾部にも居られたんです。そのためか綾部地方は、鬼は内福は外と逆に言ふんです。ですから之は事実と思えるんですね。国常立命は霊界で閻魔大王になられた。之は非常に苛しい善悪審判の役目ですね。然し厳格一方のやり方では可哀相なので、命は現界で観音様になられた。之は私の解釈です。だから観音様は善悪無差別で慈悲を以て救はれるんです。絶対の慈悲ですね。そういふ訳と思って大差ない。 (中略)国常立命は神の中の頭梁で引退と同時に家来の神々も引退した。そのあとは邪神が支配することになり、天若彦命がその総大将です。天のじゃくとは之で、天の邪鬼のことですね。人類が邪神に苦しめられるから、一方でその害を防ぐため、国常立命や正神界の神々――正神の中には邪神の方についた神もある――が、出られる時になったんです。仏に化けられたのは皆偉い神々です。が後には仏の中にも邪神についたり負けて了ったのも沢山ありますがね。艮の金神の妻神豊雲野命は「未申(ヒツジサル)の金神」です。古い時代には世界的にいろいろな御経綸があったんです。」

(御光話録  昭和23年5月8日)

 

世界御統治の為に、天照皇大神は別な神になられるのは前述の通りな訳であります。それでは何の様な神様と御成り遊ばすかと言うと、前記系図の如く国常立尊及び伊都能売大神となられるのであります。

古事記の眼目は岩戸開きであります。神代時代に天照皇大神は岩戸隠れをなされたのであります。天照大神様が岩戸隠れ遊ばされた為に、今迄代々天皇陛下が御稜威を犯され遊ばされて御苦労遊ばされたのであります。此の岩戸隠れの時国常立尊は艮の鬼門へ御隠退遊ばされて居られたので、一方又幽界に入られては閻魔大王となられたのである。

天照大神様が御隠退遊ばされたことも一方に於ては天地経綸上色々の意味のあった事は申す迄もない事である。

世界を大別すると左の如くなる

日  天照皇大神─┬国常立尊

月  素盞嗚尊    └伊都能売大神

地  盤古神王

国常立尊及素盞嗚尊がこの地上を治められたが、国常立尊の御経綸は非常に厳格の為に、一般の神々が反対して御隠退なされ、艮の金神と申されたのである。 (中略)

(「第一講座  主神の御目的と天地経綸の真相」  昭和10年7月15日)

 

国常立尊は忠義というより、実に誠忠無比の神様で力のある神様である。

国常立尊が天下平定の御経綸を申附けられたが、最初は良く治ったが、余り厳格な神様故人民が窮屈になりし為、どうしてもやり切れん様になった。そこを見て取ったのが盤古神王の子天之若彦命である。この命が国常立尊を排斥する運動を起したのである。これに共鳴者が非常に多かった。そして盤古神王を押立てんとしたが、盤古神王は善良でおとなしい神様で力がないから、此の神を立れば楽が出来るからと、看板に盤古神王を立て、実権は天之若彦命が握り世界統治をやられたのである。此の為国常立尊は隠退遊ばされたのである。この御隠退は東北へなされたと成っているが、世界から見ると日本であり、日本からすれば東北である。日本の東北、即艮へ御隠退された為に此の神様のことを艮の金神と申上げるのである。日本の艮は何処か、北海道の芦別山に御隠退になられたのである。又一方幽界では閻魔大王となられたのである。神様は霊分身が御自由である為、幾柱にも別れることが出来るのである。(中略)

豊雲野尊は国常立尊の妻神様であるが、夫神様の犠牲となられ坤の方へ御隠退になられた。坤の方とは鬼界ケ島の事である。日本の西南に当る処である。此の神様が思兼尊様である。 (後略)

(「第三講座  観世音の本体」昭和10年8月5日)

 

(前略)此の何千年来乙姫が実権者であったのである。上記の如く音姫の世を観ているというのが観世音であった。時期は約三千年で九千年六千年三千年となっている。(中略)

国常立尊が天照大神から命ぜられた時が九千年前である。(後略)

(「第三講座  神界の支配者  盤古神王大自在天」昭和10年8月5日)

 

(前略)此大審判が始まると、滅びる人間がいくらあるかしれぬ。兎に角、一ケ国で何千万人、世界中で何億万人か判らぬ。そうして、之は新しく、何千年間の掃除をされるんであります。

之は、いつか話しましたが、昨年の九月に閻魔大王が此世に表はれられたとお話しました。その閻魔大王が総大将となってやられるんであります。之は天照大神様が国常立尊に審判の権を委ねられ、伊都能売之大神様には絶対慈悲を以ての救ひの力を与へられたといふ事になってをります。

それはそういふ訳で、国常立尊といふ神様は、非常に力のある神様で、寧ろ絶対の力をもつ神様であります。又、善悪に対して裁かれるのが、非常に厳重で一歩も仮借(カシャク)しないといふ神で、閻魔大王となられて、長らくの間霊界で審判をなさってをられたのです。所が、今度の大掃除に就て出現されたのであります。(後略)

(「御講話」昭和11年1月21日)

 

(前略)国常立尊はメシヤであられ、閻魔大王であられる。「神は此世の閻魔と現はれるぞよ」ともある。(中略)

メシヤといふ神は国常立尊といふ審判の神様で、之は永久的のものでない。或時を限られたお働きで、長い。

一厘の種はメシヤとは違ふ。神様のやられる事、計画は非常に深く絶対判らぬ。経綸は最高の神たる国常立尊様でも判らぬと仰せられる。経綸の主体は大彌勒の神で、此神が経綸の中心である。キリストや釈迦も全然判らぬ。必要だけの事しか判らぬ。神秘である。最高の神でも判らぬ。お筆先に「神界の事は判らないと思ふ人は判ったのである」と。(中略)

キリストはイエスより一千年前に生れたそれが再臨する訳である。キリストは救主で、罪の赦し主がメシヤで、日本でいふ国常立尊である。(後略)

(「御講話(速記)」昭和25年8月1日)

 

(前略)伊弉諾尊と言う神様は国常立尊になるんですね。 (中略)

国常立尊が閻魔大王で三千年の間霊界で観てゐられた。それが今度出たお筆先に、今度は国常立尊が此の世の閻魔になり世の建替えを致すぞよと言うのがあり、建替とは審判です。だから今度は俺を使って国常立尊が審判をするんだと思った。

(「御講話(速記)」昭和26年9月21日)

 

(前略)メシヤ教が本当に開くにも、東北の端からが本当なんです。それで、神様が腕を揮はれると言いますか、それが国常立尊と言う神様で、之は丑寅の金神で、その神様が之から腕を揮はれる。そうすると、やつぱり、丑寅の一番端からと言う事になる。それから段々西の方へ西の方へと行く。講演行脚もするし――そう言う順序で開いて行く。それが本当の開き方です。今迄は基礎的のものですね。(後略)

(御教え集2号  昭和26年9月11日)

 

「国常立尊と伊都能売の神との御関係に就いてお伺い申し上げます」

つまり、国常立尊様の子孫と言う訳ですね。そうして位から言うと、伊都能売の神が上なんです。(親と子の例をおあげになられ)そうして自分が監督するんです。国常立尊の息子だからね。大本教の教祖様は国常立尊が憑られたんですね。

時代はあるんです。国常立尊と言う神様は造物主なんだからね。その時は大国常立尊と言い、森羅万象を造られた。その次に人間となつて、それが単に国常立尊と言う。その時に素盞嗚尊が――そう言う神様が生まれた。然し、そう言う神様は、伊弉那岐、伊弉那美尊からで、伊弉那岐伊弉那美は国常立尊の子孫です。天照天皇と言うのは全然隠されているんですね。(後略)

(御垂示録6号  昭和26年5月1日)

 

(前略)国常立命とは以前世界の実権を持って居られたが、節分の夜鬼門の方に押し込められ艮金神となられた神様です。国常立命が伊都能売大神になる国常立命は霊界で閻魔大王になり、裁きの役をやるが、それが苛しくて可哀想だといふ事から半分は閻魔大王に半分は観音になる。神は厳格だが仏といふのは慈悲だから、伊都能売大神は、仏界で観音様になったんだ。即ち善悪無差別の慈悲である。本地垂跡説も今迄のは間違ひで、日本へ再び帰って来られて衆生を救ふことの意味である。神様は霊的に分裂する。(中略)    (御光話録  昭和23年2月28日)

 

(前略)観世音菩薩っていふ御方は悪を咎めず、善悪無差別に救はれるんですが、観音様の御本体の国常立尊は絶対に悪は許さないんで、閻魔大王ともなられて審判をされるといふ厳正司直な神様なんです。つまり経(タテ)ですね。観音様の善悪無差別の方は緯(ヨコ)ですよ。その一方だけに片寄ると仕様がないんです。この二つの面がなくてはならないんで、時と場合、そして相手によって千変万化して行くんです。

(御光話録9号  昭和24年)

 

 “観音様の御本体は国常立尊と伺って居りますが、その御関係について。

国常立尊といふ神様は厳正至直で、いかなる間違ひも許さず、ずっと昔人間として御生れになり、死んでから閻魔大王になられたんです。然し、閻魔大王は裁きを司り、なかなかきびしくて、霊になったものゝ汚れを取って救って下さるんです。そうやって地獄を救はれるんですね。

それが仏界に現れたのが観音様で、観音様は善悪無差別に御救ひになり、決して罪を尤(トガ)める事はなさらないんです。だから観音様の信者は決して人の罪を尤めちゃいけない、そういふ事をすると観音様の御意志と違って来てしまふんです。罪を尤めず、善悪無差別に救ふのが大慈大悲なんですからね。……

国常立尊は裁きをなさるけど、人間がよくなれば裁かないんです。国常立尊は仕事がなくなってしまふ。まあ、何ですね、検事総長を辞職する様なもんですね。罪人があるから警察なんかゞあるんですからね。丁度、病人がなくなれば医者は要らなくなってしまふのと同じです。(後略)

(御光話録15号  昭和24年9、10月)

 

(前略)飾り七五三縄の由来は、神代に国常立尊を艮(ウシトラ)へ押込め、その系統の神々をも押込め、再び此世に出られぬ様にという意味でシメを張つたものだという事になつている。

その他柊(ヒイラギ)はトゲトゲしているから悪魔除けの意味、ぞう煮は尊の臓腑を煮て食うという意味で、小豆粥は血と筋を食う意味、又煎豆を撒くが、これは煎豆に花が咲いたら出よという事等で鬼門を非常に恐れた。昔から良い事を反対に解した事は沢山ある。(後略)

(「教えの光  正月に就て」昭和26年5月20日)

 

造物主とは主の神様、最高の神、日本でいふ天之御中主大御神をいふ。然し主神は造物主自身ではなく、実際は国常立尊、豊雲野尊御二柱で造られ、形を豊雲野尊が造られ、それに霊を入れて生きるようにしたのが、国常立尊である。

神典では、最初天之御中主、高御産霊、神御産霊の神様が霊と体を造られた。高御産霊はタタ、神御産霊はカカ、即ち父と母と転化した。その霊と体によって生れたのが大国常立尊、次に豊雲野尊、次に人体が出来て伊邪諾、伊邪冊尊となられた。その次に、天照大神外三柱の神がお産まれになった――とある。(中略)

ミロク神は、霊体両方を司る――といふので、天之御中主大神の直系である。国常立尊、豊雲野尊は傍系になる。(後略)

(「五六七大御神と造物主」年代不明)

 

“(前略)絶対神の表はれとして日本では国常立尊となる。霊界で閻魔大王となられる。(善悪をはっきり決められる)善に徳を与えられ、悪を許さぬ。仏界へ表はれて観世音となられる。そして善悪無差別に慈悲を垂れて救はれる。

国常立尊の本は絶対神で、日本の天御中主大御神、支那の天帝、無極、ユダヤでメシヤ、ヨーロッパのヂュウス、ゴッド、キリストのエホバであらせられる。(後略)

(「観世音は絶対神なりや」S23・11・17)

 

(2)立春について

 

 

(前略)節分の話は毎年話しているから、今更言つた処でしようがないけれども、兎に角神様の方から言うと重大な日なんです。特に一年一年節分が重大になつて来る訳なんです。あんまり深い事は言えませんけれども、一番誰にも解る事は〈之は信者ですけれども〉つまり浄化が旺盛になつて来る。強くなつて来る。それが節分と六月十五日ですね。そう言う様な節々(フシブシ)ですね。節々に浄化が強くなると言う訳なんで、唯節分と六月十五日の異いさはあるんです。六月十五日の節(フシ)と言うのは、霊界が明るくなるんですね。火素が増える。それから節分の方は、そう言つたのでなく、神様のお働き――それが異つて来る。節分が、夜の世界の罪穢れが清算される。すると、六月十五日の方は明るくなると言様な–そんな様なものですね。(後略)

(御教え集7号 昭和27年2月5日(立春祭))

 

  “立春の意義について御伺ひ申し上げます。

“節分は大体二月四日ですがね、その日で冬が終り、二月五日から春になるので立春といふのです。それから、昔、国常立尊といふ神様が輿論によって押し込められたのが節分の夜で、今度世に現れるのは立春の日だと云はれてます。之は大本教の方の説ですがこれは本当です。観音様の裏は国常立尊ですから。――といふのは、国常立尊は霊界で閻魔になったが、厳格一方の神様で善悪をきびしく分けられた。之では可哀想だといふ訳で仏に化けられたのが観音様なのです。だから観音様の御働きは大慈大悲で善悪を裁かず無差別に救はれるのです。御讃歌に「いかならん罪も赦(ユル)させいかならん罪も尤(トガ)むる天地の神」といふのはそれです。神様には半面がある。実篤の言葉に「神の如く強く、神の如く弱し」とありますがその通りで、神様には非常に強い面と、非常に弱い面とがあるのです。 (御光話録3号  昭和24年1月18日)

 

“立春の御祝について御説明下さいませ。

「地球の呼吸、眠っていたのが立つといふ意味で、呼気が上昇するのである。節分は冬の終り、そして春が立つのである。大本教では国祖押込められたもふた日の二月四日を節分祭とするが私は立春祭の大祝をする。

国常立の尊はすでに御出現になっているからである。国常立尊様はよく大先生を御守護下さっている。神秘的になるが、よく明主様におかかりになる。そしてどうしても判らぬ事は此神様にお聞きになる。そして教へられたりなどする。素晴しい御力のある神様である。」

(「立春のお祝(国常立尊と明主様)」集補S24・2・2)

 

(3)研鑽御教え

 

開教の辞  世界救世教の誕生に就て  (救四十八号  昭和二十五年二月四日)

 

昭和廿二年八月三十日、宗教法人として創立された日本観音教団並びに同二十三年十月三十日同じく創立された日本五六七教会は、今回自発的に解散し、右両会を打って一丸としたる新しき構想の下に、本年二月四日立春の日を期して、標題の如き宗教法人世界救世(メシヤ)教の創立出現となったのである。

之は、非常に重大な意義があり、勿論神の深き御旨に由るのであって、人間の意図でない事は今更言うまでもない、何時も吾等が唱える処の、霊界に於ける夜昼転換の時期に愈よ入ったからである、之も吾等が常に言う処の仏教の救いは夜の期間中であるから夜の消滅と共に観世音菩薩の御救いの転移進展となるので、一言にして言えば仏滅を意味するのである、従而、観世音菩薩の御働きも救世主(メシヤ)のそれとなるのは勿論である、即ち化身仏であらせられた観世音菩薩は茲に仮面を脱いで、御本体である神の御働きとなり給うのである。

以上の如く霊界が昼となる以上、之が現界に移写するに於ては、夜の文化は当然不用なものは滅び有用な物のみが残る事となるのは当然である、それのみではない、長年月に渉る暗黒時代によって人類の罪穢の少なからず堆積せる以上、それの清掃作用が行はれなくてはならない、右の滅ぶべき不用物とは之を指して言うのである、而もそれと同時に昼の文化の建設が開始さるるのである、斯の如き空前絶後の一大転機とは、何を指すのであらうか、全く何千年否何万年以前より決定してゐた神のプログラムなのである。

又別の言葉を借りて言えば大規模な世界的破壊と創造が行はれるのである、嗚呼斯の如な重大時期に際会しつつある今、神の大愛は如何なる形に表はれるかを知らねばならない、即ち其具体化としては一切が滅ぶものと生き残るものとの何れかに決定さるるのである、然し乍ら右は止むを得ないとしても神の恩恵は、一人でも多く滅ぶるものを救はせ給はんとして、神の代行者を選び救世の大業を行はせ給うのである、又その使命達成の機関として運用されるのが本教であるから、本教の使命たるや実に大なりというべきである、此意味に於て愈よ切迫せる最後の時期に当っての活動こそ括目すべきものがあらう、其結果吾の唱導する地上天国こそ最後の目標でなければならないのである。

私は、これまで顧問の名の下に、いはば蔭にあって経綸を行ってゐたが、漸く基礎的工作も出来上ったので、茲に表面的活動に移る事となった訳である、端的に言へば、いよいよ本舞台に登場する事となったのである、従而各般に渉って漸次組織形体は固より、活動の形式も新しく生れるのは勿論である。

そうして、祝詞にもある如く観世音菩薩、光明如来、メシヤ(救世主)、彌勒神等も、御名は異なれど同一の御神霊である以上根本は変るのではない、いはば時期に応じて御神霊の活動範囲が拡充するのであるから、御神体も御守りも或時期まではそのままで差支えない、未だ種々発表したい事もあるが、時期の推移に従って漸次発表する段取となるので、今は此辺に止めておくのである。

最後に言はなければならない事はこれ迄は観世音菩薩の御働きであったから、言はば東洋的であった、然るに時期切迫の為どうしても一大飛躍によって全人類を救はなければならない、とすれば世界的に拡充する必要がある、世界救世教の名に因る所以である。

今一つは観世音菩薩は、善悪無差別的の救済であったが、愈よ地上天国が目前に迫り来った、今日茲に善悪を立別け、善を育て悪を滅しなければならない事になった、所謂悪のトドメである、従而救ひの力も決定的でなくてはならない、その力こそメシヤの揮はせらるる大神力である。

嗚呼、慶賀すべき時とはなったのである。

 

日と月  (自叢十二  昭和二十五年一月三十日)

 

宗教上より見たる日と月に就て説明してみるが、之は甚だ神秘幽玄にして、コジツケとみらるる節なきに非ず、然し之は真理である以上、心を潜めて判読されたいのである。日本古代に三種の神器がある。之は璽(タマ)、剣(ツルギ)、鏡という事になっているが、即ち玉は日であり、剣は月であり、大地は鏡によって表徴されている。玉は太陽の形であり、剣は三日月の形であり、鏡は八咫(ヤタ)の鏡と唱え八凸に分れている。即ち東西南北、艮  辰已坤  戌亥の八方を型どったものである。此三種の中で大地は判り切っていて説明の要はないが、日月に就ては深い意味があるから、それを書いてみよう。

茲で解り易くする為、天理教で唱える説を借りてみるが、それは月は突であり、日は引くという意味で、日月とは引きと突であるという。之はなかなか面白い解釈と思う。それは夜の世界に於ては何事に於ても突く事を好む。大にして国と国とが互いに突き合う。戦争がこれである。衝突という事も突き合いである。古代に於る戦争は剣で突き合った事は明かである。それが転化して交際することもつき合いという。文字が違うだけで言霊は同一である。突進むという言葉は勝利を意味する。全く月の働きであり、夜の世界を表わしている。

右に引換え、ヒキ、ヒクは、退く事である。引寄せる、陣を退く、敗北する、腰を低くする-というように凡て月と反対であり、此理によって昼の世界は凡てがヒキの働きであるから、負ける事を善しとする。人間では謙譲である。之では争いの起りよう筈がない。吾々の方では風邪を引く事は良いとしている。本教団の目的が病貧争絶無の世界を造るという。その争がなくなるのは以上の意味から考えらるるのである。本教団は日即ち火素の活動が主である以上、月でなく引きを心に銘じて活動すべきで、それによって多くの人が引寄せらるるのである。

又日は玉であるから、円満清朗。円転滑脱でなくてはならないのは勿論である。

 

[研鑽資料no.32 学びの資料 2019(平成31)年1月4日]

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