原田 穣
国常立尊様について
我々は、昨年6月以降、メシヤ様をメシヤたらしめておられる大神様を祭典毎に、我々人間が心の底からお迎えさせていただきたいという強い思いを以って、お詫びと感謝を捧げつつお迎えさせていただいてきております。そうした中、昨年の12月23日の「御降臨祭」には、五六七大御神様の体であられる日月地大御神様を、この地球の現界(地)に我々のお詫びと誓詞を捧げてお迎えさせて頂きました。
その祭典を期して、いよいよ三位一体的力の発揮がなされる現界経綸が始まり、調和の取れた順序正しいリズムで物事一切が行われるようになり、人類が更生されていく、正されていく時を迎えると共に、神様の方でもそういう方向に舵をきられるので、そこを意識して自分達が乗り越えていくというように神様に合わすようにしていくしかなく、本当の人間に戻ることが許される、そうした転換点となる重要な祭典でありました。
そうした祭典を受けて、国常立尊様の働きもいよいよ本格的になられるので、その御存在に対する祭典が、この度の2月3日の「節分祭」であり、そしてその祭典を受けて翌日の「立春祭」があり、さらには10日の「教祖祭」を通して、「メシヤ降誕本祝典」に繋がるのでありますので、それぞれの祭典について少し触れたいと思います。
「「節分祭」「立春祭」資料(1)」では、「節分と国常立尊様について」そして「立春について」ということで御教えを掲載して詳しく学ばせていただいております。そして、併せて研鑽しなければいけない御教えを掲載して学ばせていただいておりますが、ここでは祭典に臨む姿勢について具体的に述べたいと思います。
昨年の節分祭に於いては、具体的に何をお詫び申し上げていいのやら、そういうことも分からず霊界からのお導きによって、何とか祭典を行わせていただいたというのが正直なところでありまして、そういう意味では心の底からのお詫びとはいいがたいものがありますが、その当時としては精一杯の思いで臨ませていただいた祭典ではありました。
そういう意味において、今年の節分祭の祭典は、我々一人一人本当のお詫びとは何かということが分かった上で祭典に臨ませていただかなければ、実が伴わなくなるのでそこで終わってしまいますし、メシヤ様は国常立尊様の縦のお力がないと成立しないという御存在である事も理解出来ず、そうなると人類が犯した国常立尊様を押し込めた事のお詫びが必須である事も気付かないままに通り過ぎてしまい、メシヤ降誕本祝典も成立しないという事になってしまいます。そういう意味からも、過去から現在までの御経綸と国常立尊様についてしっかりと学び、理解を深めてお詫びと感謝を、そして再び同じ過ちを繰り返さないように悔い改めて、御神業を担う決意を披瀝させていただかなければならないのではないかと思います。
そこで改めて我々人間の犯してきた罪について整理してみると、大きく分けて以下のような罪があるのではないでしょうか?
(1) 3000年前に正しい神を押し込めた罪。
(2) その罪の上に生まれた慈悲であるのに、ただ慈悲におすがりしてきた人間の罪。
(3) 64年間前に正しい神を押し込めた罪(3000年前と同じ罪を繰り返した)。
(4) その罪の上に生まれた慈悲の時代に、謝罪もせずにただおすがりしてきた人間の罪。
(5) 3000年前の罪を清算しない人間が64年前に新たに一度お出ましになった神をまた押し戻した罪(神を64年間お待たせしている事に気付かず押し込めたままにしている事)
(6) 自分達の中に神が不在である罪(人間が神様を押し込め続ける事)。
(7) 押し込めている神だけが善であるのに、神に代わって自分以外を勝手に裁き続ける罪。
(8) 自分の非を認めず言い訳する罪
(9) 神意を受け取ろうとしないで神様の意思に背き続ける罪。
そして、その事に思いを馳せた時に、どのようなことをお詫びしなければいけないのか・・・少し考えてみますと、(1)~(9) に挙げた罪はほんの一部ではありますが、何が罪なのかが分からないという事は、それだけその罪にまみれて当たり前になっているからではないでしょうか。そして、自分自身、押し込めた側だという自覚が薄いから何を申し上げないといけないかが分からない。
例えば、自分の家族が勝手に牢屋に押し込められたらどうしますか?知らん顔をしますか、それとも一生懸命になって何とか取り戻そうとしますか?・・・そういう思いになれないって事は、相手のことを考えない、押し込めた側だから何とも思わないので平気だという事になるのではないでしょうか。
そうであればこそ、その押し込められたご存在の立場になってよくよく考えてみると、
①押し込めてしまい申し訳ありません。
②ずっと押し込めたまま、何も感じない自分達で申し訳ありません。
③もう二度と押し込めたりしません。
④人類の代表としてお詫びしますと共に、今度こそ御手足となりお出し致します。閉じ込めたままには致しませんのでどうぞお許し下さい。
というお詫びの言葉が、自然と口をついて出てくるのではないでしょうか。
我々が、覚悟を持った上でそうしたお詫びをして神様にお許ししていただいてこそ、これから始まる次の御経綸にお使いいただく事ができますので、大変に重要なお詫びの言葉であります。我々はついつい「三千年の罪穢れ」とか、そういう言葉で一くくりにして終わらそうとする癖がありますが、それでは真のお詫びにならずお許しいただけないと思います。
また、国常立尊様は勿論だし、結果としてその奥にいらっしゃる主神様をはじめとして五六七大御神様、日月地大御神様、伊都能売大神様も待たせていることにもなりますし、64年前に再度、神様を押し込めたという事は、その時主神様のご意志をも受けなかった、無視したという事になると思いますので、そのお詫びもしっかりしなくてはいけないものと思いますので、これを読まれた皆さんお一人お一人が真摯に考えて祭典に臨んでいただければ幸いです。
本来、節分祭というのは国常立尊様へのお詫びの祭典なのですが、昨年の「御降臨祭」でのお詫びとこの度の節分祭のお詫びは少し意味合いが異なってきますので、すでに列記した罪やお詫びの内容を、今一度確認しながら今までの歴史を振り返って整理してみたいと思います。
今から9千年前、国常立尊様が世界を統治されていましたが、その当時は完全な昼の時代であって、大陸はまだ地続きで日本の国土もまだ現在のように出来ていなくて、国常立尊様は日本の天皇という訳ではなく、かなり広い範囲を「善」で統治されていたご存在であって、何も分からない人間に対して少しずつ人間らしさを得させる為の御経綸が進められていて、“善悪教育”が進められていた時代であって、主神様のご意思を厳正忠実に実行して少しの依怙贔屓(えこひいき)もなく善悪を裁かれながら世界を統治されていたのが国常立尊様でありました。
主神様のご意思が強かったその時代は、地上は火素が強かったので「善」で統治されていた国常立尊様のお働きで良かったのでありますが、主神様が物質文化を発展させるために次の御経綸(昼から夜へ)に軸足を移し始められると、その御意志を五六七大御神様が展開され、天照皇大御神が霊的太陽の光を絞られ黒点の力を弱められて、昼の時代を終わらせる段階に入ると、それが影響して地上では火素の力が段々少なくなって弱まり、少しずつ暗くなっていき3千年前には終に夜の時代に入ってしまいました。
そうすると、それまで治めていた国常立尊様の求心力は崩れ統治力が段々失われていくことになりますが、逆にそれまで国常立尊様に黙って従っていた八百万の神々は、副霊の力が強くなって反発心が芽生えていき、そして終に神々の排斥を受けて国常立尊様は艮(北海道の芦別山)に押し込められることになりました。神様であっても、光が少なくなると間違ったことを平気でするようになるということが、この事跡でお分かりになると思います。ましてや人間に於いておやであります。この御事跡からも「光」をいただくことが、我々人間にとってどれほど大切であるのかということが伺われます。またこの時、「神を押し込めた罪」というものが発生しております。これが一つ目の罪であります。
そうして国常立尊様は、艮(北海道の芦別山)に押し込められた状態でお亡くなりになり、霊界では閻魔大王に、そして夜の仏界では観音様になられるのですが、この時に善だけではいけないと思われ、また地上では夜の時代に段々と入っていく為、世界中で悪が優勢になり善が負け悪が勝つ時代になるので、そうした時代を生き続けて行く人間に対して、自分を押し込めたというそうしたことがあっても、それでも押し込めた者(八百万の神々や人間)が可哀想であると思われ、善と悪、経と横を交わらせて“慈悲”ということを身につけられ、大乗でも小乗でもない中乗という思想を生み出され、次の時代に必要な“中庸”“救い”という働きをされる伊都能売大神様として完全に夜の時代に入る数百年間、国常立尊の特性であった善の統治力と慈悲の両方をバランスよく行使されて日本を統治なされておられました。
しかし、完全な夜の時代に近づくにつれて火素が減ると、バランスよく統治されていた伊都能売大神様も神として存在することが難しくなられると共に統治力を失い、日本全土を統治したい欲望のある素盞嗚尊の迫害を受けて身の危険を感じ、素性を隠してわずかな部下と共にインドへ降られ、神から仏へと慈悲のみの観音様としてその地で教えを広められますが、そこで釈迦と出会ったことで観音様の慈悲が仏教として東洋に広まり、そして本地垂迹として再び日本に帰るようになされ、約二千数百年間に亘って我々人間を蔭にあってずっと守り続けて下さっておりました。
こうして見ると、このような流れの中で人間は現在まで国常立尊様を押し込めた、その罪の上に生まれた慈悲であるのに、そうした思いに考えを巡らす事も出来ずに、ただその慈悲に知らないとはいえおすがりしてきた我々人間には、その罪があるということが理解できるのではないでしょうか。これが二つ目の罪であります。
夜の時代にあっては、そうした状態でずっと人間は自分を中心に好き勝手に過ごしてきておりましたが、霊界が夜から昼に転換を始めようとする昭和6年6月15日、メシヤ様によって天照皇大御神様をお迎えしたことによって、いよいよ現界においても段々と日が登る如く、火素の増量と共に我々の眼に見える形で少しずつ物事が動いていく段階に入りました。そして、メシヤ様の御経綸は進み、メシヤ降誕本祝典を挙行されるため、昭和29年6月15日メシヤ降誕仮祝典を経て、全ての根源である天照皇大御神様をお迎えさせていただき、その約一週間後には「メシヤ」と名乗られるようになられました。しかし、折角神様が人間のために救いを展開して下さろうとしたのに、二代様や幹部の方々の手により明主様へと戻らざるを得なくなり(これも御経綸の一環)、次の御経綸に移ることが出来なくなり、メシヤ様が色んな思いをされながらもご出世され、また人類の為に御神業を進めて下さいましたが、そうしたことを人間側が受け止められず、神様の愛情の仕組みを自らの手で払い除けてしまい、昭和で一度人類の前にお出まし下さった天照皇大御神様を人類がお隠ししてしまったわけでありますが、その後も人間はその神を隠した罪を自覚する事もなくお詫びもせず心の痛みも感じることもなく、平然と現在まで神様の慈悲に縋り続けて過ごしてきております。そうしたことを振り返って見る時、昭和にて人間は天照皇大御神様をお隠ししたという罪があり、その時点で神様の人間に対する思いも人間自ら払い除けており、神様に対して大変なご無礼を働いております。メシヤ様のなさろうとする御神業をストップさせるという大変な罪、この罪の重さを理解する必要があると思います。そうであれば、
(3) 64年間前に正しい神を押し込めた罪(3000年前と同じ罪を繰り返した)。
(4) その罪の上に生まれた慈悲の時代に、謝罪もせずにただおすがりしてきた人間の罪。
(5) 3000年前の罪を清算しない人間が64年前に新たに一度お出ましになった神をまた押し戻した罪(神を64年間お待たせしている事に気付かず押し込めたままにしている事)
ということに気が付くのではないでしょうか。
ところで、我々人間は、夜の時代の生き様が染みのようにしっかりと身に付いています。夜の時代は、弱肉強食の時代で悪が強く善が虐げられる時代、善人ほど不幸に終わり悪人のようにしか見えない人間が出世して幸せそうに暮らしている時代、正直者が馬鹿を見て嘘を言う人間が上に立つような時代、他人の事より自分中心で自分がよければ他人のことなどあまり構わないという・・・そういう時代であるので、自然と人の目さえ誤魔化せれば、或いは巧妙にやれば知られずに済むといふ考えで自己中心的な考えになってしまっております。
国常立尊様が押し込められた時代、尊様は善だということになってはいますが、その時の根本的な罪とは、国常立尊様は自分が正しいと思って他の神々や人類を自分と切り離した事であり、逆に八百万の神々や人類は自分達の言い分がもっともだと思って国常立尊様と自分達を切り離した事で、同じことが双方向から行われた話であって、その根幹にあるものは先に述べたような自己中心的な考え方であり、何事においても自分と他人との「分離」、言葉を換えると「排他性」ということが根本にあるということであります。
それがどんどん加速して行ったのが夜の時代であり、その表れが三千年前に限らず、近代までずっと続いてきた人間生活に、また我々の歴史に現れているのであります。その時の罪があるから自分達と他を切り離してしまい、互いに認め合う、和合する事が出来ずに現在まで来ているのであり、自動的に自分の中では自分が善で他人が悪だという思考になってしまい、本来神様の慈悲の働きを担わなければならないのが人間であるのに、恐れ多くも神に代わって人間が人間を裁いてしまっているということであります。
そういうことを考えた時、我々人間の心の中には、自分の中には果たして一体何が存在しているのでしょうか・・・他人に対する嫉妬、妬み、優越感、そうした悪の心でしょうか、それとも自分の事を後にして他人の幸せを考える優しい善の心でしょうか・・・両方の善と悪が混在したのが人間ですが、信仰者として自分の心に神様をいただいている存在であるのであれば、どうあればいいのでしょうか。利他愛の心を養い、自分を見つめ言い訳をせず神様の御神意を求め、間違っていれば素直に反省しお詫びして、御教えに沿った生活をさせていただくというふうに変わっていくならば、善言讃詞にあるように
『生とし生ける億兆の 歡ぎ賑はふ聲々は 津々浦々に滿ち彌り 國と國との境無く 人種等の憎しみや 爭闘事も夢と消へ 一天四海觀音の 仁愛の御手に歸一され 仁慈の御胸に抱かれん 吾等が日々の施業にも 妙智を賜ひ眞覺を 得さしめ家は富榮え 壽は永く無醫藥に 善德行を重ねさせ 福壽海無量の大功德 垂れさせ賜へ』
となっていくと思います。今一度自分自身を見つめて下さい。国常立尊様という一流の神様でさえ、自らを見つめ裁きと慈悲を持った伊都能売大神様という御存在になられたわけですので、自分を悪として自分を省みる作業がなされないと人間としての本当の進化はなく、自分の中に善と悪両方をきちんと揃えて、神様のお力によりその善悪を交わらせ、第三の道を切り開いていく御知恵を頂きながら真となるべく進化向上していく事を目指していかないと、自分自身、人間としての向上はないと思います。そうしたことを思う時、
(6) 自分達の中に神が不在である罪(人間が神様を押し込め続ける事)。
(7) 押し込めている神だけが善であるのに、神に代わって自分以外を勝手に裁き続ける罪。
(8) 自分の非を認めず言い訳する罪
(9) 神意を受け取ろうとしないで神様の意思に背き続ける罪。
という、そういう罪があることも理解できると思います。
このように一つ一つの御事跡を振り返って見ますと、我々人間は、国常立尊様の慈悲に縋り続けて生き続けてきているのでありますが、こうした事を知った時、わがまま放題に生きてきている自分達であったのだということを分からせていただけるのではないかと思います。
そして人間であれば、人から嫌われて撥(は)ねにされたり押込められた場合、仇討(カタキウチ)というか仕返しをしますが、国常立尊様の場合の仕返しは人間と違って、そうした者達を「喜ばせて返報返しする」ということであります。
また、渋井先生がご子息に話された言葉の中に、「自分の一番嫌いな人ほど大事にしなければならない」という言葉がありますが、これこそ慈悲の極みと言ったらいいのではないでしょうか、我々はこういう心に一日も早くならせていただけるように魂を磨きたいものであります。
そして、罪ということについては、ある先達の先生が昭和29(1954)年2月にメシヤ様に質問されたことがあります。その内容は、
質問:「人間の罪は薬を服んで霊が曇ることに発するのでしょうか、神を押し込めたことに発するのでしょうか」
御垂示:『もちろん、神を押し込めたことが罪の根本です。薬毒というものは浄霊をすれば取れるものです。みんな神を押し込めた罪がある。教団も幹部ほどその罪は重い。私を世に出してその罪は消える。要するに私というものが分かればよい。(しかし私は化けているからな。)』
というものでした。神を押し込めた罪の中には、よく分からなくても押し込めた側に加担した事も含まれると思いますが、それが根本の罪だということでありますので、既に列記した(1)~(9)の罪をより深く考えて、之に対するお詫びの言葉を捜してみると、
①押し込めてしまい申し訳ありません。
②ずっと押し込めたまま、何も感じない自分達で申し訳ありません。
③もう二度と押し込めたりしません。
④人類の代表としてお詫びしますと共に、今度こそ御手足となりお出し致します。閉じ込めたままには致しませんのでどうぞお許し下さい。
という言葉にたどり着くのではないでしょうか。
このように過去の御経綸を眺めてみますと、本当に想像以上に国常立尊様と我々人間の繋がりは深いと思いますので、お詫びを申し上げなくてはいけない意味合いが理解できるのではないでしょうか。
そして昭和においても人類は、『私のことをメシヤ様と言いなさい』と言われたメシヤ様に対して、「はい」と言えばいいものを、明主様と呼ぶように戻していただいたという事は、結果としてメシヤ様というご存在を押し込めたということですので、まだそのお詫びが済んでおらず依然として罪があります。
火素の増量と共に光が強くなると、当然色々な面で今まで許されていた事が許されなくなり、ある意味段々厳しくなり浄化が強くなってきますが、それに伴って御神格を上げられた御存在に対して、“そんなに厳しくしなくても”というような、こうした「甘え」、自分を見つめず他に依存するような、そういう姿勢こそが、実は三千年前に国常立尊様を押し込めるに至った最大の要因でもあります。そうした自分を甘やかす体質が人間には染み付いており、他人には厳しく接するけど自分を甘やかすという体質から抜けきれず、そうした姿勢を変えることなく、平成においても過去と同じことを繰り返してしまう存在であったので、それでは人間の向上、霊籍の向上には繋がらないのでありまして、そうしたことをお許し頂く為にも心からのお詫びと、二度と同じ過ちを繰り返さないためにも悔い改める決意を申し上げた上でお許し頂き、そして働かせて頂くことのお許しを賜ることが肝要ではないかと思います。
御教えに、『私は立春祭の大祝をする。国常立の尊はすでに御出現になっているからである。』というお言葉があるように、メシヤ様御自身「節分祭」は執り行わず「立春祭」のみ祭典を行っておられましたが、それはメシヤ様御自身が観音様として、また伊都能売大神様として、そしてメシヤ様としてお働きになられていたからであります。
神様は、幾度となく神を押し込め、そして体主霊従で数千年の長きに亘り生き変わり死に変わりしてきた我々人間に対しても、さらなる愛情とお慈悲を持って神様の御神業の一端を担わせながら、更に罪を減らしてやろう、幸を与えてやろうとして下さっておられます。そして更に64年前に再度押し込められても尚その思いで持ち続けてお待ち下さっておられます。
そうした神様の我々人間に対する御心を思うと、ただただ感謝申し上げる以外言葉が見付かりませんし、如何に無知とはいえ誠に大変な大罪を犯してきていたわけでありますが、そうした我々人間に対しても再び慈悲の御心をお持ち下さって、お詫びの祭典である「節分祭」を我々メシヤ教にお許しいただき、現在まで執り行わせていただいてきたわけではありますが、来月の「メシヤ降誕本祝典」を人間の側でお迎えさせていただくためには、来年以降「節分祭」というお詫びの祭典はないかもしれない、或いはこの度の祭典が最後のお詫びになるかもしれないというくらいの強い思いを持って、一人でも多くの信徒の方々にこの度の祭典に集っていただければ大変幸いに思います。
資料(1)の6ページ下から17行目に、『メシヤという神は国常立尊という審判の神様で、之は永久的のものでない。或時を限られたお働きで、長い。』という御言葉がありますが、五六七世界が完成するまでは主神様の御神意を地上で表わす人類全てを浄める必要が出てくる為、浄める必要がなくなるまで国常立尊様の裁き、縦のお働きをなされるという事であり、そのお働きに比例するように天津金木の下の十字型の結びのお働き、大きく広い慈悲のお働きをされる観音様の様な人間にならせて頂く事をお誓いしなければならないという事であります。またメシヤ様にバージョンアップされた国常立尊様と結ばれる人間にならせて頂くには、まずは本当に心からお詫びを申し上げるのが先決であり、誠心誠意、言い訳をせず無条件でお詫びが出来るかどうか、そしてお詫びだけでは足らず同じ間違いを繰り返さないという思い、悔い改める決意も併せて必要でありますので、この度の節分祭には二度と同じ間違いをしないという真のお詫びと悔い改める決意、そして今までの感謝と共に、お出しする決意を申し上げることが大切であると思います。お詫びが通らないとどうなるかというと、二度と御奉仕が許されなくなるということになるのではないかと思われます。
そして世界メシヤ教が開教した翌日の立春祭では、国常立尊様が新たにメシヤ様に生まれた事の意味を心に刻んで、メシヤ様の慈悲のお働きを担わせて頂く出発点に立たせて頂くのだという想念を持ち、今後の御経綸を進められる上に於いてどうか救いの一部に加えて頂きたいという事を、神様に本気でお願い申し上げ、我々の神様をお出しする決意を披瀝することが大切ではないかと思いますので、祭典に臨まれる皆様には、そうした思いを共有して祭典に臨んでいただければ幸いであります。
そうして2月10日、各支部や出張所等で行われる「教祖祭」については、メシヤ様が岡田茂吉教祖という人間としての御経綸を終えられて御昇天なさった日と同日である事を受けて「教祖祭」を執り行わせていただきますが、この日は、ただ御昇天された日だと言うだけでなく、元々は人間ではない大きな御存在でありながらも我々人類のために人間として生まれて下さり、寿命というタイムリミットがある中、本来であれば神界へ一年前に帰られる予定を一年延ばされたとも聞き及んでおり、人間界へ主神様の御意思を伝えて下さると共に、人間の為に御自らが観音様として我々に手本を見せつつ救いの業を遺していただき、ご苦労を重ねながらも主神様の御神意の発動に備えて準備を整えて下さったのが岡田茂吉教祖様であり、後々訪れる裁きの時に神様のお力を行使させて救いの働きを人間に担わせる “お詫びの御神業”を用意して下さっていた、そういうご存在であられたので、我々自身、本当に世界メシヤ教を復興しようとするのであれば、ご肉体をお持ちだったメシヤ様が人間としての御経綸を終えられた日と同日である2月10日に、メシヤ様と心を同じくして、理屈抜きに“メシヤ様と同じ想いで世界を救わせて頂こう”“その想いを受け継ぎ、必ず形にしていこう”と自分達の中で意識を強くし、メシヤ様御在世当時の様な奇跡で多くの方をお救いさせていただくお力・資格を神様から頂くのだ、という強い想念を持って参拝させていただきたいと思います。祭典とは救いの力を頂く、その為の“祭典”ですので、皆様、よろしくお願い申し上げます。
[研鑽資料no.33 学びの資料 2019(平成31)年1月4日]