学びの資料(平成30年12月度)

日月地(五六七)大御神様とミロクについて(2)

 

原田 譲

 

10月には、伊都能売大神様のことについて、振り返って整理して一緒に御教え等を学ばせていただき、「伊都能売大御神様御出世奉祝記念大祭」の祭典を滞りなく執り行わせていただきました。そして11月からは、「日月地(五六七) 大御神様とミロクについて(1)」を学ばせていただきましたが、今月はさらにその「日月地(五六七) 大御神様とミロクについて(2)」を学ばせていただき、日月地(五六七) の学びをさらに深めさせていただきたいと思います。

 

(前略)神仏でも御名前が非常に肝腎である。観世音様は御本体は日月地大神様でも、観音では素晴しいお働きは出来ぬ。(中略)神仏も御名によりお働きに区別が出来る。であるから、名によって解釈すれば判る。(後略) (神のお働きと御名と想念 年代不詳)

 

(前略)観音様は光明如来となられ、応身弥勒と化される。そして次に本当のミロクとなられる。応身弥勒までが仏で、大神になられて、本当の弥勒になられる。弥勒は仏の弟子で、ミロク大神となると――五六七大神、日月地大神と書くのが本当である。今はまだ神様は早い。(「観音と弥勒菩薩、弥勒神」講話集補 年代不明)

 

“五六七大神と観音様は同じものである。光明如来、応身弥勒となり、最後に五六七大神となられる。(「五六七大御神と観音様」S23・6・27)

 

(前略)日月地大御神はエホバでありメシヤであり天帝と同じものと考へたらいゝのです。(後略) (御光話録  昭和23年10月28日)

 

“日月地大神と弥勒菩薩(法華経)とは如何なる関係でせうか。

“弥勒菩薩は釈迦の弟子です。日月地大神はこれから世に現れるのです。釈迦が五十六億七千万年の後に弥勒菩薩が出現すると予定したのは日月地大神の事です。(御光話録  昭和23年11月18日)

 

“弥勒大御神は日本神典上何大神様でいらせられますか。御伺ひ申し上げます。

“弥勒は仏名であるから神典にはない。釈迦時代の弥勒菩薩とは異ふ。五十六億七千万年の数が五六七を表はしている。又弥勒出現成就経にも説いた。

神典には、伊都能売神とあるが、之は弥勒とも違ふ。

日月地大御神は、主神の代りとか、代表神で、最高の位であり、五六七の力を持たれている。キリスト教のエホバ、支那の天帝とかである。(「五六七大御神は代表神」講話集補S24・8・18)

 

“日月地大神の御働きは国常立尊と観世音菩薩との御一体の御働きでしょうか。

“国常立尊も観世音菩薩も五六七の世を出現さすに就て、五六七大御神の御仕事を助けるといっていい。五六七大御神の御働きは全然違ふ事を知らなくてはならぬ。之をはっきり説く事は時期が早い。(「日月地大御神の御働き」年代不明)

 

(前略)仏滅後ミロクの世を造るミロクは、五六七神が本当である。五六七、日月地、三六九、三位一体の御働きをなされる。 (「弥勒神と仏の弥勒」講話集補S23・11・21)

(前略)ミロク神は、霊体両方を司る――といふので、天之御中主大神の直系である。国常立尊、豊雲野尊は傍系になる。故に、天の直系とは主神の表現神で、絶対力をもつ神といふ事になる。それが仏界へ表はれたのが観世音菩薩である。それで光明如来と現じ、応身弥勒と化し――とあるが、応身弥勒は未だ仏で、本当の意味ではない。それから、日月地大御神様となる。そして火水土三位一体の力を発揮せらるるのが、ミロクのお働きである。阿弥陀が水、釈迦が土の働きで、観音は日であるが、次に一層進んで、三位一体の五六七(ミロク)の御働きとなる。故に、観音は阿弥陀や釈迦の働きを備えられる。
もっと悉しく話せるが、時期が来ない。(「五六七大御神」年代不明)

 

“兄の花とは何ふいふ意味でせうか。

“観音様が、位が一段高くなると光明如来になられ、光明如来を尊称して大光明如来と申し上る。光明は「火と水」である。

大日如来は天照大神が仏界へ表はれ給ふた時の御名である。太陽の表現神であるから日の神になる。大日如来の方が御位は上であるが、働きは光明如来様の方が広い。神様にすると、伊都能売神となる。――火と水のお働きであるから、火と水は光明になり、霊的のお働きであるが、それに土のお働きが加はる。之が三位一体で、弥勒の神となる。

光明如来は今働いておられる。暫く経つと弥勒の働きとなる。すると力が強くなる。邪神も邪魔が出来ぬ。今では邪神が発展を妨げようと大活躍している。

兄の花は梅の花――男である。一番先に咲くから、凡ての花の兄――長男になる。木の花は桜で、女である。花の王としてある。唯花といえば桜の事である。兄の花は位からいって上である。(光明如来・弥勒・兄花の意義 年代不明)

 

“五六七大神様、伊都能売之大神様の御働きについて御教示を御願ひ申し上げます。

“伊都能売大神様は光明如来様で、火と水、五と三とになる。火と水は光となる。人間の身体を通すから、火水土になる。

五六七大神は、最後であるから御位も非常に高い。それ故にお願ひなどは光明如来様にお願ひする。五六七大神様は崇め奉るのが本当で、お願ひするのは天皇に直訴するようなものであるから、それはその御仕事をなされている神様にお願ひする。(「五六七大御神様」S24・9・18)

 

“光明如来と日月地大神の相違に就て御教へ願ひたいのですが。

“結局同じもんですがね。つまり最高の地位になられた場合「日月地(ミロク)」です。「日月地」は大神で神の位です。これで五六七となって御働きが完全になる。光明如来の方は火と水です。観音様は火水土ですが、土が少しなんです。何故土が少いかと云ふと、之は私が出てから加はったからです。観音様は慈悲の御働きで善悪無差別、一切衆生凡てを救ふ御働きであって、あいつは悪いとか、こいつはどうとか云ふのは観音様ではない。観音様の御本体は国常立命で、北海道の芦別山におしこめられてから霊界で閻魔大王となり審判のお働きをされる。従って頗る苛しいんです。所がそれだけでは人間がやり切れぬから慈悲の神として現れたのが観音様であり、神や如来の地位では高すぎて衆生済度が出来ないから菩薩の位に下がられたんです。それが一段上ったのが光明如来です。今迄は観音様を拝んでも御利益はあったが弱かったんです。(中略)そこへ土が加わると力が強くなる。土とは人体です。それが光明如来になると火と水=光が強くなる。今度離して御浄めする様になったのは、光明如来の御働きで、くっつけてしてゐたのは観音様の御働きです。そして土の力が完全に強くなられたのが「日月地」です。(後略) (御光話録  昭和23年3月28日)

 

(前略)観音様は菩薩から出世するのではなく、一時菩薩の位に衆生済度のため下げられたから、元の上の位に御戻りになるのであって、一段上の位が光明如来それから五六七大神になられる。今は仏と神との中途です。(後略) (御光話録  昭和23年8月18日)

 

(前略)伊都能売大神の御働きは、イズ=火、ミズ=水です。ミイズといふでせう、之は逆なんです。火と水で光になる。夜の間は本当の火がない。月の光ですね。太陽は月の六十倍の光を持つといふが、今迄観音様をお祀りしても少ししか御利益がなかったのはそのためです。イズ、ミズが五、三、それでも足らず更に土の力が加はってそれが日月地の御力になる。今迄はニロク=二力だった。夜の間は三界(天界、中界、地界)は殆ど水だった。六、六、六だったが、今度は五六七になり、天の六が地に降り土の力が加はる。金剛不壊の力だ。絶対力になる。いかなることでも自由になる。神道で云ふマニの玉とは完全な玉の事ですネ。これから先は神秘になるから又時期に応じて説く。

私が之を始めたのが昭和三年で、それから六年して昭和九年まで治療し、更に六年の昭和十五年まで上野毛でやり、更に六年、二十一年までが基礎工事なのです。私の修業は終った。去年からミロクの時代になった。霊界から日月地大神の御力が私の躰を通して人に働くんです。これから三年は現界の基礎工事、それが終ってから世界的になるんです。光に「ヽ」の御守りは天から地に降った事です。祝詞にあるでせう、光明如来(火と水)が応身日月地に現ずると。之は相手に合う様に働く、大きく云へば世の中に合ふ様にする。威張ってみては駄目です。その社会に合ふ様にやらねば駄目です。そうでないと爾光尊みたいに気狂扱ひされる。日月地にも三段あり、現界に対してはやはり光明如来で、日月地、光明如来、観音の三段になる。徹底して説明せねばならぬが今はまだ時期ではない。(御光話録  昭和23年2月28日)

 

(前略)光明如来様は神の分子が余計になるし、応身弥勒も神の方がよけいになり、日月地大神となると本当の神となる。(後略)   (「観音様と光明如来・五六七大御神」S24・6・2)

 

“御書体の御神体大光明如来様に向って御礼拝の場合も、日月地大御神守り給えと拝むべき?

“祝詞の通りである。大光明如来も日月地大御神も同じである。光は火、明は水で、大光明如来では土の働きがない。日月地(ミロク)は土の働きが入る

光明は逆にいって「日月の光」でもある。土が加はらなくてはならぬ。人間が拝む、そして人間の身体へ光明が入ると、三位一体の力が出る。今は光明如来のお働きである。

二十五年から先になると、日月地(ミロク)のお働きになり、如意宝珠の働きになり、絶対力を発揮出来る。 (「大光明如来と日月地大御神(光明の意義)」年代不明)

 

(前略)観音様は天之御中主大神ではない。現在としては夜から昼に転換する時の大掃除をされる。そして滅びる者を少なくする役をされている。そして今度は全霊を揮はれる事になった。今迄は夜の世界であるから出来なかった。

天照大神は、太陽の表現神で、位は一番上である。日月地が順序である。そして観音の御働きの三分の一が天照大神であるし、全部の力を合したのが観音である。又、月と土の力が夜であって、日が加わって、日月地となり昼となる。信仰が進んで来ると判る。(「観音と天之御中主と太陽」S24・6・8)

 

「国常立尊のお働きに就いてお伺い申し上げます」

審判の働きなんです。完成すれば、国常立尊は働きが違つちやう。完成の働きは五六七と言うのですね。 (御垂示録6号  昭和26年5月1日)

 

(前略)つまり、観音様が出世されて光明如来様になり、又出世されて日月地大御神様になる。出世と言うのは世に出ると書くでしよう。之が本当の出世になる。これより、神様が表面に出ると言うのですね。 (御垂示録6号  昭和26年6月2日)

 

(前略)ミロクとは五六七と書きますが、五が観音、六が阿弥陀、七が釈迦になるんであります。それで七の弥勒六の弥勒は今迄に一度肉体を以て出た。御承知の通り、七は釈迦でありますし、阿弥陀は釈迦の時代に法蔵菩薩となって現はれたのであります。観音は観音として未(イマ)だ曽(カ) つて肉体を以て現はれた事は無かったのであります。それで五の弥勒即ち観音様はお一人で六と七とのお働きをされるのでありまして、六の弥勒七の弥勒は、それ丈の限られた働きでありますが、観音即ち五の弥勒は六七共兼ねられてのお働きでありますから自由無碍如何なる活動力をも発揮されるんであります。基督教の三位一体といふ事は三人の働きを一人でなさる即ち観音様のお働きの事を言ふたんであります。ですから本当の意味での弥勒といふのは観音様の事なんであります。弥勒出現して五六七の世が成就するといふ事は観音様が現はれて、観音力を以て世を救ふ事なのであります。観音会の働きといふのは弥勒完成の運動をする機関なんであります。 (「大光明世界の建設  真のミロク」光世二号 昭和10年1月11日)

 

(前略)三身の彌勒とは言う迄もなく釈迦、阿彌陀、観音である。そうして釈迦は報身の彌勒であり、阿彌陀は法身の彌勒であり、観音は応身の彌勒となってゐる。又釈迦は地の彌勒であり、阿彌陀は月の彌勒であり、観音は日の彌勒である。

度々言う通り、右の三聖者は本当の順序からいへば日月地、火水土のそれであり、五六七でもあるので、此数を合はせると十八になる。此十八の数に就て、大本教の御筆先に斯うかいてある『今迄は天が六、中界が六、地が六でありたものが、天から一厘の御魂が地に降られたので、天は五となり、地は七となりたのであるぞよ』と。然し此意味は最も深奥なる神の経綸であって、此一厘の御魂こそポチであり、麻邇の玉であり、如意宝珠であり、之によって五六七の御代が生れるのである。(後略) (「宗教篇  彌勒三会」文創  昭和27年)

 

(前略)次に釈尊は説いて曰く、末法仏滅の世となれば、其の時弥勒出現して茲にミロクの世が成就するといふ。之は法滅尽経及び弥勒出現成就経等に詳しく出てをるから瞭(アキラ) かであるが、畢(ツイ)に其の時期が到来したのであって、其の弥勒の本体こそ之又観世音菩薩であられるのである。それで弥勒と称えても三弥勒在られ、昔から報身、法身、応身弥勒と申上げてゐるのである。報身は釈迦であり、法身は阿弥陀であり、応身は観音である。又日月地に配すれば日が観音であり月が阿弥陀であり、地が釈迦である。又地理的に配すれば日本が観音であり、東洋が釈迦であり西洋が阿弥陀なのである。又之を三尊の弥陀とも称へ基督教で三位一体と称へるのも此の事である。(三尊の弥陀に就いては孰れ詳しく解説する積りである)而して此の三位一体の力を独り具有され、大千世界の最後的救済を為さるのが、観世音菩薩即大弥勒神の御活動で被在(アラ)せらるるのである。(後略)(「全人類待望の炬光  大聖観音力の顕現  併而仏説の開扉」東光3号  昭和10年2月23日)

 

 

日月地大御神様について

日月地(五六七) の学びについては、その前提となるものが10月に学んだ「伊都能売大神様と伊都能売について」でありました。

観音様は光明如来様になられ、光明如来様は仏界の名であり、本来は伊都能売大神様であり、経と緯を結ぶお働き、応身弥勒であられるということを確認させていただき、そして、伊都能売大神様は左進右退になるのであって、今まで右進左退で進んできたものがいよいよ逆回転して左進右退のリズムとなり世界大に拡大していく、そのスタートであり世界経綸がいよいよ始まるという時の認識を学び、今という時期における我々の姿勢はどうあればいいのかということを学びました。

そうしたことを受けて11月度の学び「日月地(五六七) 大御神様とミロクについて(1)」を学ばせていただき、さらには11月の「岡山支部ミニ講座」を通して、世界経綸という視点に立ち『本教の主旨』という原点に立ち返りその学びを深め、霊肉一致の完全人間を作る「人類救済の根本的大経綸」としての「浄霊」であるということを改めて学ぶと共に、そういう観点に立ち世界人類の救済という大きな想念で「浄霊」を捉え実践していくことが大切であるということを学ばせていただきました。

さらにその中の資料によって、五六七(ミロク) 様の「御本体」が観音様であられ、いよいよ千手観音様のお働き、一厘の働きをなされる時が今であり、絶対力を発揮される時がきたことを学ばせて頂き、五六七(ミロク) 様と千手観音様の関係、さらには経緯の結びの中心のポチが伊都能売であり一厘の働きになるということを重ねて学ばせていただきました。

 

そうした中にあって今月はさらに深い内容の学びをさせていただきたく、御教えを抜粋させていただきましたが、ここに掲載した御教えを拝読させていただけば、天の直系であり主神様の表現神で、絶対力をもつ神が仏界へ表はれたのが五である観音様であり、三身の弥勒と言いますが、六の阿弥陀、七の釈迦の働きを兼ねられたお働きが観音様であり、本当の意味での彌勒は観音様であり、また応身弥勒というのも観音様であり、実は日月地(五六七)大御神様でもあられ、その観音様の御本体は大弥勒大御神様であられるという・・・そして、観音様から光明如来様へ、そして応身弥勒となられ、その後メシヤ様として或いは弥勒神様としての御活動をなされるということが理解していただけるのではないかと思うのであります。

そして、日月地(五六七)大御神様は、エホバでありメシヤであり天帝と同じものと考えたらいいという事であり、日月地大御神様となって五六七として完全な働きが出来るということであります。しかし、『御名によりお働きに区別が出来る』ということですから、一神にして多神ではありますが、御神名によってお働きに違いがあるということをしっかりと受け止めていただいて、大弥勒大御神様という御存在は全ての神々を包含した御存在でありますので、それぞれの祭典に於いてそれぞれ違う御神名を奉唱申し上げるということは、その違いを学んでお働きを理解して想念を通わせ、それぞれの神様へのお詫びと感謝の意味合いを理解して、そして自らの思い・決意を披瀝するという営みを通して霊線を強く結ばせていただくことが、地上天国建設のために神の僕として神様の手足としてお使いいただく上に於いて、土である我々人間にとっては非常に大切なことではないかと思います。

また現在、我々は観音様のような慈悲の心で応身彌勒のお働きが出来るように、そうした課題を持って日々精進しているところではありますが、そうであればこそ自分でやれることは何もなく、自らの向上も他人への許しの心も、全て神様のお許しがあっての事であるし、全て神様がなさる事なんだというふうに受け止めさせていただいて、その時その時に応じて身を以って円転滑脱に、自由自在に柔軟に対応していく姿勢が必要であり大切であると思います。

 

ここで視点を変えて、改めてメシヤ様の御神格の高まりを見てみますと、メシヤ様は、3ページ目の上から3行目、『今は仏と神との中途』というご発言をされておられて、昭和23年の時点ではまだ神様のお働きではありません。また3ページ目の上から13行目、『私の修行は終わった』という事をお話されており、昭和22年には霊界から「日月地大御神」様がメシヤ様のお体を通して人に働くということで、3年間の基礎工事を経てから世界的になるというお話をされています。この頃から御神体を「光明如来」様にされており、そして昭和25年から「日月地」のお働きになられ、メシヤ様から出るお力が観音力から神力へ、絶対力に変わるという事をこの御教えでお話になられておられます。

そして、その昭和25年の立春祭には、メシヤ様は「大先生」から「明主様」と呼ぶように申し付けられ、善言讃詞には『メシヤとならせ』と入れられましたが、その前に『応身彌勒と化し』とあり、1ページ上から9行目にあるように『応身彌勒と化される』というのはまだ仏であり、掲載している御教えを通して読むことで、本当の「ミロク神」様が人体を得てお働きになられているのが、その当時の「明主様」であられるということが分かるのではないかと思います。また、そのミロク神の変化として『メシヤとならせ』となっていると思いますので、そういう意味ではメシヤというご存在は観音様であられるミロク神様の変化の一パターンである事もここで理解できるのではないかと思います。

また10月11月度資料(10月度資料1ページの下から12行目)に掲載した御教えから『伊都能売大神はミロク神の化身』ということであり、「明主様」はミロク神様になる前の準備の為の伊都能売大神様であり、『メシヤとならせ』の後に『大千三千世界の三毒を滅し五濁を浄め』となっていることから、主神様(大彌勒神)が主催する全大宇宙をはじめ神幽現三界の浄めという意味合いからも、ミロク神様は世界大のお働きであり、世界的浄めの神である救世主(メシヤ)であるという答えも見えてくると思います。

 

それを別の角度から見ると、数字の五六七は主神様の御意思であり霊に当るので、その体が日月地で、五で日(火)である天照皇大御神様のお働きで、太陽の火素が増えることで光の量も増え、それがこの地上に届くことでその影響が現れ、日(五)と月(六)と地球(七)が三位一体となった御働きの「日月地大御神」様がお生まれになられます。

夜の時代は日が昇っていなかったので、日の天界、月の中界(幽界)、地の現界がバラバラでしたが、昼になると宇宙空間は日の光で明るくなり、強い光が地球まで届く様になりますが、それと合わせて地上でもメシヤ様の観音行の成果で人間側に救いの教えが広まり、そうした中メシヤ様御自身の観音行は終わり、日月地が三位一体化した御働き「日月地大御神」様になられ、お腹の「光の玉」からは「日月地大御神」様のお力が出る様になりました。

メシヤ様ご在世中は、メシヤ様ご自身の肉体(土)、伊都能売の御魂の完全な土(土の力)があったので、日月地のお働き、如意宝珠のお働きによって絶対力を発揮され、それが我々の肉体(土)を通ることで浄化力となって奇蹟をいただいてきていたわけですが、メシヤ様のお肉体という完全な土の力がない現在は少し事情が違ってまいります。

それは、天照皇大御神様のお働きが強くなるほど、火(日)が強くなり、それに従って火(日)と水(月)の密合した光は強くなりますが、三位一体の力、ミロクの力の発揮には土が、土の力が必要になります。

ただし、『土とは人体です』『土の力が完全に強くなられたのが「日月地」です』とのお言葉があることから、我々人間の働きが重要で不可欠な要素であると思われますが、“土の力が完全に強くなる”とはどういうことなのでしょうか?

ここで、もう一度10月に学んだ御教えの復習になりますが、力が発生する源は何かというと、

 

『力と言うものは、何時も言う通り霊体が、つまり経緯ですね。経緯が結ぶんですね。するとこの真中から力と言うものが出るんです。真中の力が主(ス)ですからね。この真中の主の力と言うものは、之も何時も言う伊都能売ですね。伊都能売になるとその力が出る。』

 

とあり、さらに11月の学びの資料の3ページ、上から5行目に

 

最も重要なる点は、経緯の結合する事によって真の力が発生する。力という字は、経の棒と緯の棒と結んで曲り、その先端が撥ねる。之は結ぶ事によって、左進右退的回転力が発生躍動するという意味で、全く文字なるものゝ意義深きを思わしむるものがある。』

 

という御教えからも理解できるように、我々が慈悲の心を持った人間として伊都能売の働きが出来る人間にならせていただけるように努力するということが「真を身につける」ということに繋がり、土の力にも繋がり、そうした我々信者の肉体、土の力を通してこそ、日(火)と月(水)の密合した光が、本来の働きである日月地の三位一体的力の発揮、絶対力の発揮につながるということが理解できるのではないかと思います。

しかし、天照皇大御神様がご出世にならなければ、充分な火素(日)がない為に、慈悲と裁きの要素を持つ浄めの神様であられる伊都能売大神様もご存在できないことになり、当然そのお働きも出来ない事になります。そうであれば「土」である人間は罪穢や曇りを清算されないままで、救いもないままの状態でありますので、神様に帰一して御手足として働かせて頂こうとするしっかりとした人類が存在してこそお働きになれる日月地大御神様も、充分な土の力が加わらない為、結局はお出ましにはなれません。

地上天国とは、神様と繋がった人間(有神論者)が存在する事で成り立つものであって、神様と太く繋がっている人間がミロクの世の必須条件というのが、ここに掲載した御教えと解説で理解できると思います。

そして、我々人間は神様にお使い頂く中で魂を高めて頂けるので、御神業に携わさせていただくことが救いであるという事で、地上天国建設の為には何としても「日月地大御神様」をお迎えさせて頂かなくてはならないので、大浄化時代がスタートする来年を目前にしたこの12月23日に我々の誓詞をお捧げした上で、「日月地大御神様」の御神名をお呼び申し上げなければならないということが理解できるのではないでしょうか・・・今という時の認識をしっかり持っていただきたいと思います。人を裁く権利は神様にあり人間は慈悲を施す存在なので、人の批判をしている時ではない、自分自身どうであるのか、しっかり見つめないと神様の試験に落第するという憂き目を見ることになりかねないことを充分認識して、日々の生活を送るということが大切になってきます。

 

話が少しそれましたが、その「日月地大御神様」がお出ましになって、三界が一つになって主神様の御意図を表現していく「大弥勒大御神様」の体的な御経綸が来年の3月3日を期して、具体的には年号が変わった5月1日からなされていきますので、善言讃詞の『仁愛の御手に帰一され仁慈の御胸に抱かれん』がこれからなされる動きであり、世界メシヤ教の復興、そして地上天国建設を目指す芯としてメシヤ教に寄せられた我々が、この善言讃詞の意味や昭和に起こった事の意味(天照皇大御神様をお隠しした事の罪であり、自分の中にある悪を意識してない事の罪)を理解していないと、これから世界メシヤ教を復興すると口では言いながらも昭和と同じ事を平然と繰り返すだけの人間に留まり、本来の芯としての役割は果たせないのではないかと思いますし、ましてや来年の3月3日以降、全信徒が「大弥勒大御神様」の御神名をお呼び申し上げさせていただけれるように取り組んでいる現在ではありますが、大変に難しくなるのではないかと思います。

そして日月地の神様をお迎えする今からは人間の心のあり方、姿勢が直接反映されてしまいますので、我々人間一人一人、その自覚が必要になって来ます。その自覚とは先ほど触れた昭和にて天照皇大御神様をお隠しした事の罪であり、そういうことを起こす要素と同じものを我々も持っており、平成において同質の罪を犯したこともあり、それこそは自分に内在する悪であり、それを自覚してお詫びできる人でないと伊都能売大御神様をお迎えして左進右退で世界大に拡がろうとする御経綸に対応することが出来ないので、この度の祭典でのお詫びが出来なければ、いつまで経ってもお許しがいただけず、曇った目でしかモノを見る事が出来ず、そういう人間であれば、今後メシヤ様の御神業にご奉仕させていただこうと思っても、その資格を得られず、お使いいただけない人間になってしまうと思います。

メシヤ様が、昭和29年12月23日に、千手観音様を御神体として御奉斎され祭典を行われましたが、その意味するところはどこにあったのでしょうか・・・それは、時期が到来したらその時に因縁がある人間がメシヤ様の御意志、その思いを受け継ぎ担えるように、そして神様の御手足として働ける資格を得させ、そして再度現界に大光明世界を建設する活動が発動する様に、そのお働きである千手観音像を御神体とされたということでありますから、せっかくのメシヤ様の愛と慈悲、その御温情を我々人間が受け止めなければ、信者としての使命を果たすことは出来ないものと思います。

 

昨年は、我々の無知のために神様が手配されて進められた数々の祭典を、今年は我々人間がその御心を慮って祭典の一つ一つを執り行わせていただいているのでありまして、この度の「御降臨祭」の祭典もその一つであります。この日はただの御参拝日ではなく、自分達一人一人が持っている使命を悔いなく果たす為にメシヤ様にお誓いする日、誓詞をお捧げさせていただく日なのだということを充分に理解して祭典に臨んで頂きたいと思います。

世界メシヤ教を復興する芯となるメシヤ教として本物に育てて頂きながら資格を頂いていくには、これらの意義や神様のお働きを掴み、そして一人一人が決心して神様の御前に立たせて頂く事が大切な事で、自分の使命を悔いなく果たす為には必要な事であると思います。

 

一年間のご猶予をいただいている我々ではありますが、この一年間先延ばしにして下さった御神意を考えますと、大変ありがたくもあり、また申し訳なくもあり、色々な思いが頭の中を駆け巡るものがあります。

メシヤ様の御心を慮ることは中々出来ませんが、少なくとも我々に対する慈悲であり、一人でも多くの人間に観音様のお働きを我々人間がさせて頂ける様に、そして神様の為に働かせて頂ける様にという想いがおありだったのではないかと思います。

そうしたことを思った時、今という時期は人の事をとやかく言っている場合ではなく、我々のこの一年間はどうであったのか、少しでも神様の御心を自らの心として「有神論者」になる努力をしてきたのか、自らの排他性は取れてきたのか、伊都能売思想は身についてきたのか、「神格をいただく道」の実践がどれだけ出来ていたのか、積み上げることは一杯あったのにどれだけ意識して自らを正そうとしてきたのか、整理すればするほど至らない自分を発見しメシヤ様にお詫び申し上げる日々でありますが、本当にメシヤ様の手足として主神様の大神業にお使いいただこうとする意志があるのかないのか、大切なのは決心ではないかと思います。

 

昨年の12月23日には、充分な理解と認識もない中、お詫びと誓詞をお捧げして早一年になろうとしていますが、昨年お捧げしたお詫びと誓詞は形だけだったのか、或いは心の底からお捧げしたお詫びと誓詞だったのか、もう一度自らに問い直していただいて、この一年間自らの向上に努めてきた我々の積み上げを、心の底から神様にお捧げする誓詞としてもう一度この祭典で捧げて、そして大彌勒様(メシヤ様)にお使い頂ける様に認めて頂かないと、来年から始まる世界メシヤ教復興への歩みには繋がっていかない事になると思いますので、今一度自分自身に問いかけていただきたいと思います。そうして初めて本日から新たな新年が始まるものと思います。

皆様と共々に大変意義あるこの度の祭典に臨ませていただければ幸いです。よろしくお願い申し上げます。

 

[研鑽資料no.31 学びの資料 2018(平成30)年11月26日]

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