伊都能売大神様と伊都能売について
原田 譲
(前略) 伊都能売大神はネ、日本に居られた時迫害をうけてお逃げになった。その時姿をかくすため頭巾をかぶり身を包んだ、そのお姿が絵に書いてある。古事記には世を浄める神と出てゐる。で、日本を脱出して支那から印度に渡り庵を作り観自在天となられた。観音様は日本人ですよ。だから釈迦や阿弥陀は頭の毛が縮れてゐるが、観音様は縮れてないんです。何故逃げたかと云ふと、それは素盞嗚尊に命をとられ様としたからです。(中略)
伊都能売大神は天照大神の頃かそれ以前の神様です。素盞嗚尊は世界へ出て行きユダヤへ行ってユダヤ人の祖先となった。で素盞嗚尊の代りになったのは乙姫だ。観音とは、乙姫――音姫を観てゐる事を意味する。そして何れは日本に帰り、素盞嗚尊の実権を取り返さうとする時期を待って居られた。千手観音がそれです。(中略) 国常立命とは以前世界の実権を持って居られたが、節分の夜鬼門の方に押し込められ艮金神となられた神様です。国常立命が伊都能売大神になる。国常立命は霊界で閻魔大王になり、裁きの役をやるが、それが苛しくて可哀想だといふ事から半分は閻魔大王に半分は観音になる。神は厳格だが仏といふのは慈悲だから、伊都能売大神は、仏界で観音様になったんだ。即ち善悪無差別の慈悲である。本地垂跡説も今迄のは間違ひで、日本へ再び帰って来られて衆生を救ふことの意味である。 (中略)
伊都能売大神の御働きは、イズ=火、ミズ=水です。ミイズといふでせう、之は逆なんです。火と水で光になる。夜の間は本当の火がない。月の光ですね。太陽は月の六十倍の光を持つといふが、今迄観音様をお祀りしても少ししか御利益がなかったのはそのためです。イズ、ミズが五、三、それでも足らず更に土の力が加はってそれが日月地の御力になる。今迄はニロク=二力だった。夜の間は三界(天界、中界、地界)は殆ど水だった。六、六、六だったが、今度は五六七になり、天の六が地に降り土の力が加はる。金剛不壊の力だ。絶対力になる。いかなることでも自由になる。神道で云ふマニの玉とは完全な玉の事ですネ。これから先は神秘になるから又時期に応じて説く。(後略)(御光話録 昭和23年2月28日)
(前略)終には観音様の御本体は伊都能売といふ神様である事を知り、何れ時機が来れば、観世音菩薩は或期間救ひの為に化身されたのであるから、最後には元の神位に復帰さるるといふ事なども判ったのである。(中略)全く私を機関として一切衆生を救はせ給ふのである。(後略)(「私の告白」自叢四 昭和24年10月5日)
(前略)善言讃詞に観世音菩薩光明如来と現じ応身弥勒と化し、とあるが、観音は伊都能売の神であり、弥勒の神の化身である。(後略) (S23・9・21)
(前略) 善と悪とを結べば悪はなくなるのである。善を結んだ中心が則ち伊都能売である。善悪を結んで火水(カミ)となる。(中略)
善悪結ばれし時より、悪は消えて完全なものとなるのである。
伊都能売大神様の世則ち大光明世界が造られるのである。宗教の卍は右廻りなるが、是が今迄の右進左退の世則ち悪の世界であったのである。
伊都能売の大神様は左進右退になるのである。(中略)
真(スとなり)マコト、善、虚仮空、美、実相世界。
真善美の世界を造ると言う事は真はマコトである。
今迄は虚の世界、仮の世界、空の世界である。一切空、仮の娑婆である。何故かと言えば善悪両方を許してあったからである。或目的のものを造る迄の仮の世界であったから仮の娑婆である。真は霊返しで読むとスとなり実である。(中略)
国常立尊は昔善一方で世界を治め様としたる為に、非常に他の神々に反感を買い、隠退遊ばされる様なことになった。
真の字を離すと直と人となる。真直な人即すなほな人、シン、心、中心、神、信とて非常に権威のある言霊である。
中心となると此度の御経綸を伊都能売の神様にお托しになった。是が観音様である。(観音講座「第一講座」昭和10年7月15日)
(前略)伊都能売神様は、一方印度にて観音になられ、一方は兄の花姫尊(梅の花)となられて富士山に御鎮りになられ、又、一方は金龍となって近江の国の琵琶湖へお隠れになられたのである。其故富士山と琵琶湖を邪神に占領されたならば、日本は危険であるからである。富士山は何故大切かと言うと、人間で言うと富士山が臍であるからである。人間の体としても臍は一番大切な処とすればその意であるからである。この為兄の花姫と成られ、金龍となられてこの二ケ所を守られたのである。(後略)(「第三講座 観世音の本体」昭和10年8月5日)
(前略)伊都能売というのは数でゆくと「五」「三」です。「イズ」「ミズ」です。「イズ」という事は五つ、「ミ」という事は三つという事ですから、「ヒ」「ミズ」という事です。「ヒ」「ミズ」という事は「カミ」です。「ヒ」は「カ」「ミズ」は「ミ」ですから、伊都能売が本当の神なのです。(後略) (御教え集27号 昭和28年10月15日)
(前略)私は伊都能売ですから「八」になるのです。伊都能売というのは、数で言うと「五」「三」ですから「八」になるのです。そして「八」という数字は富士山になるわけです。ですから「八」という数字を書くと、富士山の形になります。(中略)それで静岡の裁判であっちの留置所に入った時に大きな神秘な事があったという事も、そういう因縁なのです。そうしてあの時も話したとおり、夢で、私が富士山に乗っかって景色を見るという話もしましたが、その時が私が生まれた、第二の誕生です。そこで、出てから「散花結実」という事を言いましたが、花が散って実を結ぶで、散花結実という事は種が宿ったという事です。それから私の力とかいろんな、そういう事が違ってしまったわけです。それからが本当に開けたわけです。ですからあの時に救世教というものはすっかり壊れてしまったわけです。もうこれで駄目だというくらいに見えたのですが、それが花が散るという形です。 (後略) (御教え集33号 昭和29年4月7日)
(前略)伊都能売神は五三の神と書いてもいい。火水の神━光、火水では土が加はっていない。仏では光明如来様となる。土が加はって五六七大神。(後略) (「八人男女と伊都能売神」S23・11・11)
(前略)経であり、緯であり。経にあらず、緯にあらず。経緯結んだ真中ですね。之が伊都能売です。私が伊都能売で、伊都能売が応身彌勒です。応身彌勒が観音様です。そこで、観音さんと言うのは男であり、女であり。男にあらず、女にあらずと言うんです。応身の彌勒と言うのは、如何なる事でも自由自在――千変万化ですね。(中略)
それが分ると、実に良く解る。先方が堅苦しかつたら、堅く。女なら柔らかく。頑固なら頑固に――私はそう言う様に性格に変化があるので、変だなと思つていたが、応身の彌勒の働きが判ると、良く分ります。ですからメシヤ教の凡ゆる事が――決して何んにでも捉われない。宗教の様な処もあるし、それから今私は鉱山をやつているが、金儲けもあるし、芸術もあるし、何でもあるんですね。今迄は、宗教と言えば馬鹿に堅苦しくなつていた。之も伊都能売式なんです。凡ゆる色んな様相を備えているんですね。之によつて初めて、一般人類が救われる。民族にも色々ありますからね。
ですから、凡ゆる病気――肉体の病気も精神の病気も――それから貧乏、経済に関係しますが、経済も政治もあります。(中略)無論、論文なんかも私は始終書いている。今は伊都能売の働きなんです。之が本当のものです。真理ですね。ですから常識を尊ぶ。常識と言うのは、偏らない考え方ですからね。ですから、宗教的に非常に厳格な処もあるし、又非常にくだけた点もある。と言う事も、そう言う事なんです。(後略) (御教え集3号 昭和26年10月1日)
(前略)力と言うものは、何時も言う通り霊体が、つまり経緯ですね。経緯が結ぶんですね。するとこの真中から力と言うものが出るんです。真中の力が主(ス)ですからね。この真中の主の力と言うものは、之も何時も言う伊都能売ですね。伊都能売になるとその力が出る。それが観音力と言うものですがね。結局、ですから力なんです。私はその力を神様から貰つている訳ですね、こう(御浄霊)して病気が治ると言う事も、その力の現われです。今迄はその力が出なかつたから本当に救われなかつたんですね。そこで、こう言う地獄の様な世界になつているんです。(後略) (御教え集8号 昭和27年3月17日)
(前略)今年から特に、信者の人は、方針と言つては変だが、今迄知つては居乍ら、どうも実行し得ない点ですね。その二、三の事を、今年の座右の銘とでもして聞いて貰いたい。何時も言う通り伊都能売ですね。伊都能売の働きにならなければいけない。と言う事は、つまり大乗と小乗――大乗が緯で、小乗が経ですからね。それを結んだ真中が伊都能売だと、始終言つてますが、処がどうしても、大乗になつたり小乗になつたり、片つ方にずれちやうんですね。結ばない。結べないんですね。そう言う人が沢山ある。之が根本なんですよ。メシヤ教の意味と言うのは。そこにあるんです。(中略)
それから「今の世は、自分さえ良ければ人は何うでも良いと言うむごい心になり居るから――」とある。ですから、大本教では「我良し信心」と言うのがありますね。之は勿論いけないですね。私の信仰雑話にある通り、自分が幸福になりたければ、人を幸福にする。何処迄も愛ですね。他人を幸福にすると言う――之が欠けていてはいけない。之が伊都能売になる。自分を捨てて人許り良くすると言うのも極端で、自分さえ良ければ人をぶつつぶしても良いと言う――之も極端です。(後略) (御教え集6号 昭和27年1月1日)
(前略)観音行は要するに伊都能売で、完全無欠なんであります。本当の人間の行で、そこまで人間は行くべきもの、発達すべきもので、そこまで行くのは、今迄の道徳等教へなければならぬ。
伊都能売に至って本当に人間としての行が出来る。今日文化とか文明とかいふけれど、実は未だ未だ四ツ足から放れてゐない。今の人間は警察や軍隊などなかったら、どうなるでせう。泥棒、強盗、殺人等で、到底生きて行かれぬ。そこを考へると、未だ人間でない。(中略)
弱い人を助ける。之が人間の思想で、弱い者を食ひ殺さうとしてゐる。今は物質的に発達した様だが、精神的には野獣で、どうしても観音様が之から本当の人間にする。伊都能売の身魂にするといふのが、観音様の思召しなんであります。
「何事も程の一事を守りなば たやすかるべき此世なりける」
何でも程度といふものがあります。いくら信仰といっても程度があって、あんまり熱一方になると触ると火傷するやうになり、あまり冷いと触れない。暑からず寒からず、湯のやうでなくてはならぬ。それが程であります。(後略) (「御講話」昭和10年8月1日)
(前略)数字で解釈しますと「二十」という字は、文字でも数字でもそうですが非常に意味があるのです。これは「天地の結び」或いは「霊体の結び」という様な訳で、われわれの方で言う伊都能売です。(後略) (御教え集18号 昭和28年1月1日)
(前略) 強羅は西と東の真中になる。(中略)東西の真中といふことは、観音といふことになる。東西は火と水で云へば、火は五で水は六で五六即ちいづのめの神となる。五六が五六七でミロクとなる。東西に分けると、東陽西陰となる。いづのめ神は仏に化身して、観音となられる。(後略)(「箱根、熱海の意義」S23)
※五は日(火)で天照皇大御神様、六は月(日は月に含まれ、火(五)+水(六))で伊都能売大神様、七は地(火(五)+水(六)+土(七))で日月地大御神様。十月二十六日とは、十は神、二十は天地霊体を結ぶ、六は伊都能売大神様とすれば、十月二十六日とは、主神様のご指示で天地霊体を結ぶ働きを伊都能売大神様がご出世なされる日ということになるのではないでしょうか。
また、現界において裁きを担当される国常立尊様と救いを担当される伊都能売大神様は、霊と体・経と緯・昼と夜の関係になり、同時に存在された事はこれまでの長い歴史の中では一度もなく、この二神は別の時代にそれぞれの御経綸においてお働きになられていましたが、いよいよ昼の御経綸を進めるに当り、数字の二十六とは国常立尊様と伊都能売大神様とを結ぶために、夜の六の御経綸を進められた伊都能売大神様がご出世になられる日ということも言えるのではないでしょうか。
(大本教 大正15年9号 神の国より引用)
『伊都能売神は慈愛の本源であつて、如何なる罪悪者をも救済して、一人も漏さない絶対無限の慈悲の神である。精神界は勿論、現界に於ける人間一切の苦悩を払ひ清めて、天国に導き玉ふ愛善神であつて、その愛善たるや絶対無限である。故に既成宗教の唱ふる如き、審判的思想は全然無いのである。善悪を超越し且つ審判思想を打破する、大愛大善大慈悲神であつて、一人と雖も蒼生の滅亡するのを忍ぶことの出来ぬ愛の生神である。而して霊肉の調和に就ても、難行苦行の修行を経過せず、信仰と歓喜との内に実現せしめんとする、真の絶対愛に住する神である。
悪人を悪人として罰し、善人を善人として賞するは、是現実界即ち自然界の人為的法則であつて、愛善そのものとは非常に遠いものである。罪悪に苦しみ、痛み、憂苦に沈んでゐる蒼生は、宜しく大本大神即伊都能売の神を信仰すれば、優窕しき慈顔を向け、温かき御手に、罪を負つて救つて呉れる神である、(中略)
厳の御魂五柱、瑞の御魂三柱(又は五柱)活動力を総称して、伊都能売の御魂と奉称するのである。而して伊都能売は即ち、観音にして木の花姫の顕現である。天地宇宙の間に、斯の神より外に何ものも無いと云つても良い位である。或る時は天神となり、地神と現じ、八百萬の天使と変じ、千変萬化五六七の活動を為し玉ひ、宇内を光被し、開発し、整理し、天国霊国に日月神と化現し玉ふは、皆伊都能売神の大神格の活動である。』
伊都能売大神様について
我々は、昨年から現在に至るまでの間に伊都能売大神様のことについて、色々と教えていただきましたが、それを振り返って少し整理をしてみたいと思います。
「地上天国」とは「大光明世界」であり「水晶世界」であるということですけれども、それは「伊都能売大神様の世」ということでもありますから、我々が伊都能売大神様をお迎えするということは、どういう人間になるように努めなくてはいけないのでしょうか?
また、人間を本当の人間に、伊都能売の身魂にするというのが観音様の思し召しということですから、伊都能売大神様の横(体)の働きが観音様であられるわけなので、伊都能売大神様のお働きは裁きと救いの両方でありますが、我々人間は裁きは許されていないけれども、救いの部分で動く働くことが出来るので、救いということを考えれば、人間を通して観音が現れなければならないということであり、我々人間が伊都能売の身魂になるように精進して善悪というものさしで人を裁かず、観音様のような慈悲に満ちた人間になることを求められているのではないでしょうか。
そもそも観音様の位が菩薩となっている為に低いなと惑わされてしまう部分がありますが、この高等技術を展開していくことができるのは、縦横・日月両方併せ持っていた伊都能売神様の横である観音様なのだから出来るわけで、円転滑脱融通無碍というのは宇宙規模の高さや幅の広さ、奥行きがあり、その中で自由に、かつデタラメではなくきちんと法に則った行を実行していくのであるから本来は大変難しいものなんだと・・・だからこそ、大きな御神意を汲み取り、そういう仕事をこれから人間がさせて頂かなければいけないのだから、毎日礼拝して最高神と霊線を太くしなければ出来ないということを学ばせていただきました。
そういう伊都能売大神様に対する祭典を行わせて頂いた昨年の祭典では、
・ご神名をお唱えするにしても、どういう神様で、現界にて(自分達人間に向けて)どういうお働きがあるのか、更にはお退きになったのは何故なのか、今お出ましになる事の意味は何なのか、それらを掘り下げていく事。
・その上でお迎えさせて頂く側である人間として何を申し上げるのか、お詫びも含めて考えなさい。
とのお言葉をいただきました。
そうしたことを踏まえて今一度過去に眼を向けてみると、前回の昼の時代、主神様のご意思が強かった時、地上は火が強かったので、その時は五であり善の国常立尊様の時代で、そのお働きで良かったという事になるのですが、それがあまりにも強過ぎたので、3000年前にその次の御経綸として六である伊都能売大神様→観音様がお出ましになる夜の時代が必要になり、主神様が霊的太陽の強さを絞って黒点の力を弱められ、その時の昼の時代を終わらせる段階に入ると、それが影響して地上では火の力が弱まり、その結果、国常立尊様の統治力は衰えてしまい、それまで国常立尊様に黙って従っていた八百万の神々には反発心が芽生えて、ついに他の神々の排斥に遭って芦別山に押し込められてお亡くなりになるのですが、この時に善だけではいけないと思われ、また地上では夜の時代に入り世界中で悪が優勢になる世を可哀想であると思われた時に善と悪が交わった“慈悲”が生まれ、次の時代に必要な“中庸”“救い”という働きを表す伊都能売大神様の“慈悲”の部分となりました。
そして、昼がほぼ終わって夜に転換する、ほんの一瞬だけ日本に火と水を結ぶ伊都能売大神様がお働きになられ、本格的夜の時代になった2600年前からは、伊都能売大神様は水の要素が多い世界で慈悲を施す仏の観音様(結び)としての救いのお働きになられましたので、この二神は接点があまりありませんでしたが、どちらも主神様のご意思による霊的太陽の強弱によってお働きが左右されており、それまでの昼の時代と今までの夜の時代は、それぞれ愛情と慈悲という二つを創り上げる為のものでありました。
そして、その両方を合わせて弥勒の世を建設していくということが主神様のご意思であり、今という時代でありますので、伊都能売大神様は、国常立尊様の経の裁きと一体化してこそ本来のお働きがなされる様に主神様が創造され、その本来のお働きをなさる時の御神名が伊都能売大神様という事でありますから、『伊都能売が本当の神なのです。』というメシヤ様のお言葉も理解できると思います。
また一方、2600年間も観音様として位を落とされていた伊都能売大神様は、弥勒の世が建設される時を迎えた今、夜の時代を通り抜けた人間に対して裁きだけでは可哀想であるという、裁きの時を迎える人間へ向けた主神様の慈悲の姿でもあって、その時が来るのを我々人間の為にずっとお待ちになられていた御存在であるという事も理解できるのではないでしょうか。
そしてそれを結んで過去と現在、五と六を結んだ七の時代が昭和で、それを開くのが八の平成で、それを受けて最後まで行くところまで行くのが次の世の九で、大浄化を乗り越えて出来上がった世界が十で、地上天国、弥勒の世であるというわけなので、そうであればこそ、伊都能売大神様に対して、その御存在を深く認識し御神名の意味するところを理解しようという思いに至らず、今まで過ごしてきた我々の認識不足を深く反省し、最大限のお詫びと共に我々に心を掛けて下さるその御心に最大限の感謝を申し上げ、そしてお迎えさせていただくことが我々の務め、姿勢ではないかと思います。
口先だけの感謝やお詫びにならないように、そういう思いが自然と湧き上がるように、何度も御教えを拝読させていただいて、そうした思いを心にいただいて祭典に臨ませていただければ大変ありがたいと思います。
また、天津金木を使って簡単に説明すると、下の十字形になっている部分の真ん中に立っている経棒は、主神様のご意思を反映した霊的太陽の力の明るさ、黒点に込められたご意思そのもので、地上に対して向けられた熱(愛情)、火素の強さを表わしたもので、天照皇大御神様のご存在を表しています。
この力が地球に反映されると、地上では火の力が強くなり、それによって神様のご意思そのものを表現しようとするお働きが始まり、それが具体的には国常立尊様の“裁き”のお働きとなります。
次に、下の十字形になっている部分が緯の働きを示しており、“慈悲”を指しており、これは善と悪の二つが交わって成立するものであります。
この慈悲は私達が普段目にしている丸い太陽そのもののお働きで、その光とは火と水の密合したエネルギーで、太陽自体が月の水分を吸収して明るく光を発している存在である事から、日月・火水両方を持ち合わせているお姿を表わす意味で二本を交差させており、地上に向けられたそのお働きは森羅万象を育んで下さる力であり恵みであり、光となって地上を照らしています。その御存在が観音様であり、“裁き”と“慈悲”の両方のお働きをなされるのが伊都能売大神様であります。
さらにもう一言付け加えるならば、我々は昨年より、大切な祭典を通して重要な神々をお迎えさせていただいてまいりました。
平成29年6月15日の「メシヤ降誕仮祝典」に於いては、我々人間の無知、認識不足の為に誠に申し訳なくも、日(火)の神様であられる天照皇大御神様御自らお出まし下さいましたが、今年の平成30年6月15日には、「新紀元祭」として、我々人間の意思で以って御神名を奏上申し上げて天照皇大御神様を現界の体にお迎えさせていただくことが許されました。
そして昨年、平成29年10月26日には、『伊都能売大御神様御出世奉祝大祭』として日月(火水)の神様であられる伊都能売神様(光明如来様)を、この時も無知で充分な認識もないまま、メシヤ様のご配慮によってお迎えさせていただきました。
さらに昨年、平成29年12月23日には、『御降臨祭』として五六七大御神様の体であられる日月地(火水土)の神様、日月地大御神様を、我々の無知、認識不足の中、霊界からのお力添えのお蔭でお迎えすることが許されました。
このように、それぞれの祭典を見てみると、6月15日は『日の祭典』、或いは『五の祭典』『神界の祭典』とも言えると思いますし、10月26日は、『日月の祭典』、或いは『五六の祭典』『幽界の祭典』とも言えると思いますし、水の働きも考え合わせれば『六の祭典』と言えるとも思います。また、12月23日は、『日月地の祭典』、或いは『五六七の祭典』『現界の祭典』とも言えますし、我々人間の決意が求めれることから『七の祭典』と呼んでもいいのかもしれません。
天照皇大御神様にお出ましいただかなければ、伊都能売大御神様の御出世も日月地大御神様の誕生も、メシヤ様の降誕もないわけでありますので大切な『五の祭典』でした。そのように見てくると、この度の10月26日の『六の祭典』も大変重要な祭典でありまして、伊都能売大御神様の御存在への認識を新たにして、今までのお詫びと感謝を申し上げ誠心よりお迎えさせていただかなければならない大切な祭典であります。
心新たに、当日を迎えさせていただきたいものであります。
皆様、よろしくお願い申し上げます。
[研鑽資料no.29 学びの資料 2018(平成30)年10月7日]