学びの資料(平成30年11月度)

日月地(五六七)大御神様とミロクについて(1)

原田 譲

10月には、メシヤ様の御教えと昨年から現在に至るまでに御垂示いただいた伊都能売大神様のことについて整理して学ばせていただきましたが、今月からは2ヶ月間に亘って「日月地(五六七)大御神様とミロクについて」を、学ばせていただきたいと思います。

 

『(前略)主神の御目的である地上天国を建設する基本条件としては、何よりも大自然の実相そのままを表わす事である。というのはいつも言う如く、宇宙一切の構成は、日月地が根本となっており、此本質が火水土であるから此三位一体の力によって、万物は生成され、化育され、世界は無限の発展を遂げつつあるのである。処が今日迄の霊界は、屡屡説く如く夜であったが為、日は隠れていたのである。つまり月土日の順序となっていた。無論之は正しい順序ではないから、之迄の世界は一切に調和が欠け、紊れに乱れて、現在見るが如き地獄世界を現出したのである。(中略)

処で私の唱える夜の世界が、昼の世界に転換するという事であるが、本来宇宙の原則としては、日月地の三段階が正しい順序であるに拘わらず、そうでなかったのは前述の如き意味であったからで、それが今度愈々完全の形となるのである。言わば世界は百八十度の転換であって、実に空前の一大異変である。従って現在の文化形体も一変するのは勿論、其大綱としては、前述の如き大自然の形となる以上、一切の機構も三段階になり、分れて六となり、又分れて九となる、つまり三六九で、之を縮めればミロクとなる。地上天国一名ミロクの世とは此事である。(後略)                              (「天国篇」文創  昭和27年)』

 

『 (前略)抑々、宇宙に於ける森羅万象一切は三大原素から成立ってゐる。即ち凡ゆるものの生成化育は、此三大元素の力に由らないものはないのである。然らば、その三大元素とは何であるかといふと、それは日、月、地である。即ち日は火素の根源であり、月は水素のそれであり、地は土素のそれである。そうして此火、水、土の力が経と緯に流動交錯密合してゐるのである。即ち、経とは天から地まで、太陽、月球、地球の三段階となってゐるのであって、日蝕の時、日月地が経に三段になってゐるにみても明かである。即ち、天界は太陽中心の火の世界であり、中界は、月球中心の水の世界であり、地は、地球中心の土の世界である。(後略)

(「発熱」明医二  昭和17年9月28日)』

 

『 凡そ、天地一切有りと凡ゆる物の原素としては、大別して、私は三つに別けます。その三つは何かといふと、火と水と土であります。如何なる物と雖も、火と水と土に関りのないものは決して在るはづがない。否、火と水土それ自体が此宇宙であり、万物の実体であるのであります。そうして、火水土そのものの中心即ち根源は何であるか、申す迄もなく、火は太陽であり、水は月球であり、土は地球であります。そうして、此火水土を経と緯とからみますと、経は日月地-即ち太陽が一番上で、中間に月球があり、一番下に地球があります。(中略)

次に、緯は如何であるかといふと、之は経のやうに段階的ではなく、全体的密合であって、火と水と物質それ自体が一つの存在になってゐるのであります。例へていへば、此空間そのものは、火と水の調和であります。即ち、火の熱と水の霊と密合調和して、生物の存在生活し得らるるやうに出来てゐるのであります。若し、火ばかりであればそれは一瞬にして爆発し、否爆発も起らないで、無の世界になって了ふのであり、水そのものばかりとすれば、氷結の塊が存在し、それ以外は「無の世界」になるのであります。(後略)(「第一篇  森羅万象の構成」医試  昭和14年)』

 

『 (前略)太陽の精なるものは、勿論太陽の霊であるのは言うまでもないが、では何故今日まで地球上それが現われなかったかというと、これには大なる神秘的理由がある事であって、それを詳しく書いてみよう。已に述べた如く人間は霊と体との両原素から成立っていると同様、地上と雖も霊界と現界との両面から成立っており、その霊界も亦二つの原素から成立っている。その一つは霊気界、今一つは空気界である。そうして前者の本質は火主水従であり、後者のそれは水主火従であり、即ち陽と陰である。この理によって万物は太陽の精と月の精が抱合一体となって地球を哺育している。つまり父と母が協力して子を育てるようなものである。というように日月地の三位一体によって生まれるこれが自然力であって、これによって一切万有は生成化育されているのであって、これが宇宙の真相である。然もその中心としての王者が人間であるから、人間なる者は神を除いての最高位の存在である。この故に万物は人間の為に存在し、人間を哺育する以外の何物でもないのである。(中略)

以上の如く火主水従の霊気界、水主火従の空気界の両素が渾然融合し大気界が構成され、この地球を囲繞しているのであって、五感で分る一日の昼夜なるものは、言わば体的昼夜であって、これとは別に時間を超越した霊的昼夜のある事を知らねばならない。これこそ最も重要な意義であり、宇宙の大神秘である。即ち現界の昼夜を無限大に拡げたようなもので、空と同様であるから人間には分らないが、併し規則正しく流転しつつある。然もそれが十年に、千年、万年といったように大中小になっている。その一期間は三、六、九合計十八になっており、これが宇宙の実相である。(中略)今までの夜の世界は月の主宰であり、月は水であり体であるから、物質文化が発展したのであるが、それに反し昼の世界は日の主宰で、日は火(霊)であり、精神的である。又これを善悪に別ければ体が悪となり、霊が善となる。これが真理である。従って今までの世界は悪主善従であったのが、今度は善主悪従の文明世界に転換するのである。(中略)そうして天国は近づけりとの予言もこれであり、私の宣言する病貧争絶滅もその基本的条件である。その又基本が病気の解消であるから、神はこの鍵を私に与え給うたので、私は現在病の解決を主眼としているのである。(後略)(「浄霊は科学療法なり」栄247号  昭和29年2月10日)』

 

『(前略)本来神霊は肉眼に見得るものではないが、霊界に於ては想像出来得ない程の大いなる光と熱とを放射し給ふもので、其御神姿は崇高善美なる人間と同一の御姿である。そうして其御本体から放射され給ふところの、その光と熱とは余りに強烈である為めに、常に水霊に依って包まれ給ふものである。

本来真の神とは火のカと水のミを称して神と云ふのである。火水の御働きをされ給ふからである。故に火の働きばかりではカミではない。水の御働きばかりも神ではない。火水一致して初めて大神力が顕現されるのである。然るに今日まで諸々の神が地上へ示顕されたが、それは何れも一方の御働きであった。それが為めに神力と云ふものが示顕されなかったのである。何となれば物質に於ても火と水合致によって動力が起るので、その動力によって機関の活動が起るのである。又草木に於てさへ太陽の光と太陰の水とによって、生成化育すると同一の理である。しかし大神力は火と水との外に土の精が加はるのであって、それを称して、三位一体と云ふのである。此の三位一体の力によれば如何なる事も成し遂げ得らるゝと云ふ絶対力なのである。此の力が現はれた時、初めて人類は更生し、歓喜と幸福とに満ちた理想世界は出現するのである。

本当の意味から云へば、今日まで出現された神も仏も、其光は月光のそれであったので、太陽の光は未だ顕現されなかったのである。月光のみであった期間を夜の世界と云ふのである。

然るに彌々其時が来たのである。太陽の光が顕れたのである。それが東方の光である。(後略)

(「真の宗教が有るか?」内外公論15巻七月号  昭和11年7月1日)(「宗教は一つもない」昭和11年5月30日)』

 

『 (前略)光とは、火と水の密合であって、火素の量が勝つ程、光は高度を増すのである。此理に由って、昼の世界は、火素の量が殖えるから光が強くなる。観世音菩薩の御働きが、光明如来と現ぜられる所以である。

次に最も重要なる点は、経緯の結合する事によって真の力が発生する。力という字は、経の棒と緯の棒と結んで曲り、その先端が撥ねる。之は結ぶ事によって、左進右退的回転力が発生躍動するという意味で、全く文字なるものゝ意義深きを思わしむるものがある。以上の如く観世音菩薩に限り、経緯両性を具備さるるのは、経緯の結合によって力が生ずるそれで、特に観音力という所以である。

序でに、今一つの重要事をかいてみよう。観世音菩薩は光明如来と現じ給い、次は、彌勒又はメシヤの御活動をなされるのである。前述の如く、光は火と水であるが、之に土が加わる事によって、火水土の御働きとなる。元来火と水だけでは霊の御働きだけで体がないが、之に土が加わって、初めて火水土の三位一体の力を発揮されるので、之が如意宝珠であり、麻邇(マニ)の玉である。又火は五であり、水は六であり、土は七であるから、五六七の数字をミロクと読むのである。彼の釈尊の予言にある五十六億七千万年後、五六七の世が始まるという事は、此五六七、即ち火水土の順序正しき世界が出現するという事でなくて何であろう。(中略)

観世音菩薩のミロクとは、応身彌勒の事で、それは仏説の通りであるが、今後此応身彌勒の千変万化の御働きこそ、刮目して見るべきである。(後略)(「観音力とは何ぞや」自叢十二  昭和25年1月30日)』

 

『(前略)善言讃詞に観世音菩薩光明如来と現じ応身弥勒と化し、とあるが、観音は伊都能売の神であり、弥勒の神の化身である。(後略)(S23・9・21)』

 

『 私は伊都能売という事を言いますが、伊都能売というのは日と月の丁度両方になっているのです。そこで明主の「明」には日月をつけたのです。それで字から言っても、日は四画で月も四画ですが、四と四は八になり、八は五、三、火と水で、伊都能売という事になるのです。 (後略)                         (御垂示録18号  昭和28年3月1日)』

 

『(前略)明主と言うのは、日月の主(ス)になる訳です。之は伊都能売になるのです。(御垂示録8号  昭和27年3月1日)』

 

『 (前略)極端に走ると言う事は伊都能売でないからです。それで私は、大乗にあらず小乗にあらず、経と緯を結ばなければならない。経と緯を結んだ真中が伊都能売だと言う事になるので、伊都能売式にならなければならないと言う事を常に言つてますが、処が、今迄の世界と言うのは、経と緯と両方に偏つていたんですね。そこで、それを結ぶと――結んでから初めて五六七の世になるんですからね。五六七と言うのは、経緯結んだ形ですね。一切がそうなるんだからして、兎に角宗教でもそうならなければならない。宗教と言うのは思想的なものですからね。だから精神がそうならなければならない。私は「文明の創造」を書いてますが、そう言つた思想ですね――何々思想――それは伊都能売思想ですね。両方に偏らない、極端にいかない――そう言う一つの思想を段々世界の人類に教える様な方法を取るんですがね。(後略) (御教え集6号  昭和27年1月3日)』

 

『 (前略)五と三――イズ、ミヅとなる。伊都能売神は五三の神と書いてもいい。火水の神━光、火水では土が加はっていない。仏では光明如来様となる。土が加はって五六七大神。(後略)

(「八人男女と伊都能売神の御関係」講話集補 昭和23年11月11日)』

 

『 今度、今迄の観音教団から別れて五六七教会といふものが出来たんであるが、名称は異っても内容は同じものである。ただ観音様は段々進むに従って光明如来様になり、彌勒になられる。ミロクといふと-。彌勒菩薩といふのは釈迦の弟子にあった。ミロクといふ名となると、神様になる。日月地大御神……。そういふ時期が来たんで、今度五六七会が誕生した訳である。いろいろ神秘があるが、段々分るようにする考えである。彌勒は五六七、日月地、火水土-三位一体。今迄の宗教でも他のものでも、二つの働きだった。

火と水の力といふのが光で、光とか、光明如来といふのは光の力である。それへ土の力が加はらねば、本当に絶対力は出ない。例えば、今迄観音様をお願して、御利益はあるが薄かった。痛い、苦しい、治して下さいといふても、さて、すぐに治らぬ。それよりは、浄霊すればすぐ治る。それは土の力が加はる。土は人間の肉体力で、火は霊、水は体だが、液体で固体でない、漿液で、人間の体は七割が水としてある。後三割が固体の肉である。故に人間の身体は火水土で出来てゐる。死ねば霊は霊界へ、水分は急に蒸発するようなもので、水蒸気になって発散する。亡骸は土に還元する。故に肉体は土とみてよい。

火と水と肉体を通して初めて力が出るのであるから利益がある。故に五六七となると、凡ゆるものに対する力が強くなる。それで凡ゆるものが出来る。(中略)

三六九は、宇宙凡ゆるものの原則である。(後略)(「五六七教会発会式御言葉(速記)」昭和23年11月1日)』

 

“天照皇大神と伊都能売大神の御経綸に就て―伊都能売大神に就きましては古事記にも出て居りませんが―

 

“伊都能売大神の事は昔は言へなかった。いゝ加減にボカしてあったんです。天照皇大神は太陽神で、位は上だが御働きは限られる。伊都能売大神は火と水で、仏界では観音様になる。之に土の御働きが加はって弥勒になるのです。天照皇大神は一つの力であり、伊都能売大神は二つ、弥勒大神は三つの御力となり、之が三位一体で完全になる。(後略)(御光話録  昭和23年5月18日)』

 

『 (前略)つまり三十年三月三日で、ミロクです。それで今年の二十九年では数字が悪いのです。とに角ミロクというのは数字です。それで今までのミロクは五六七と書きましたが、これからは三六九になるのです。それで五六七は日月地です。つまり基本的の数字ですが、今度は現界の経綸になると三六九になるのです。あらゆるものが三六九が基本になるわけです。(後略)(御教え集32号  昭和29年3月23日  春季大祭)』

 

『(前略)三十年の三月三日、即ち三、三、三という、そういう数字でなければいけないという事なのです。というのは、ミロクというのは、今までは五六七ですが、五六七は火水土で、つまり根本的の意味です。ところがこれから現界にミロクの世を造るのですが、そうすると現界は凡て三の数字で支配されるわけです。三、六、九です。ですからこれからは三六九の数字のミロクという意味になるわけです。これは前にも話しましたが、一切は三階級で、それが霊体で、つまり六になり、霊界、現界、それが六になり、それから三位一体になって九になる。ですから三、六、九は、やっぱり五が三、六が三、七が三という意味になります。 (後略)(御教え集32号  昭和29年3月25日  春季大祭)』

 

『(前略)本年二月四日立春の日を期して、標題の如き宗教法人世界救世(メシヤ)教の創立出現となったのである。

之は、非常に重大な意義があり、勿論神の深き御旨に由るのであって、人間の意図でない事は今更言うまでもない、何時も吾等が唱える処の、霊界に於ける夜昼転換の時期に愈よ入ったからである、之も吾等が常に言う処の仏教の救いは夜の期間中であるから夜の消滅と共に観世音菩薩の御救いの転移進展となるので、一言にして言えば仏滅を意味するのである、従而、観世音菩薩の御働きも救世主(メシヤ)のそれとなるのは勿論である、即ち化身仏であらせられた観世音菩薩は茲に仮面を脱いで、御本体である神の御働きとなり給うのである。(中略)

そうして、祝詞にもある如く観世音菩薩、光明如来、メシヤ(救世主)、彌勒神等も、御名は異なれど同一の御神霊である以上根本は変るのではない、いはば時期に応じて御神霊の活動範囲が拡充するのであるから、御神体も御守りも或時期まではそのままで差支えない、未だ種々発表したい事もあるが、時期の推移に従って漸次発表する段取となるので、今は此辺に止めておくのである。(後略)(「開教の辞  世界救世教の誕生に就て」救48号  昭和25年2月4日)』

 

『紫微は仏語であって、一番いい、最高の場所の事。

仏界の一番立派な都を都率天といい、七堂伽藍や多宝仏塔など、立派な建物が沢山建っている。そこの最高の御宮を紫微宮といい、観音様など一流の仏がおられる。観音様の事を紫微の主といふ。(中略)仏界でも、本当には都率天は出来ていなかった。

紫微の主は主神であり、五六七大御神はやはり紫微の主である。(後略)(「紫微、七堂伽藍」年代不明)』

 

[研鑽資料no.30 学びの資料 2018(平成30)年11月2日]

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