<研鑽資料 骨子>
太陽神2
猶予期間の一年間位はみっちりと太陽神に取り組めとの事ですが、余りにも大きな御存在に対し何処から切り込んでいいやら途方に暮れてしまいますが、太陽神と言えば夜の世界では大日如来となられた方ですから、そちらの方から何か書けないかとの想いが湧いて来たのです。読者の皆様には独断と偏見をお許しいただきながら、何かのご参考になればと進めていこうと思っておりますので、宜敷くお願い申し上げます。
<ある疑問>
「今天国にいる坊さんは弘法大師くらいなものです」
という一節が妙に印象に残っていて、こんなにさらりと言ってのけられるその奥にどんな事が隠されているのか前から興味があって、何時か密教についても調べてみたいと思っていたのでした。
それがひょんな事から始ってひょんな巡り会わせになるのですが、それは後ほど記させて頂きますが、とにかく有り難い事に今はネットでいくらでも調べられますから便利です。ある事を追及している(ひょんなことがあって)時に新聞に「1200年後の和解」として高野山と延暦寺の和解の記事が載ったのでした。これは何かあるとの感触で、法華経、般若心経、は少し深入りしたのですが、大日経はサッと目を通しただけでした。
私の「浄霊会時代」に野沢氏より浄霊会は「浄霊医術普及会」として宗教色を抜きにした布教を行うのに対し、宗教的に目覚めた人には宗教部として「救世(メシヤ)観音道光友会」を設置していたのでした。「観音道」というからには仏教的なものはある程度勉強しなければというので、光友誌に仏教的なものを掲載された事もありましたし、浄霊会には江川勝利氏という世界メシヤ教時代メシヤ様から客員の厚遇を受けた論客、作家?も光友紙上で仏教的な健筆を奮っておられましたから、割合すんなり入る事が出来たのでしょう。
<空海と最澄>
密教を語るには空海と最澄を語らなければなりません。空海は胎・金両部の伝授を受けて帰国します。そして、物質原理と精神原理の一元化を特色とした、東密と呼ばれる密教を確立しました。嵯峨天皇(52代)より東寺を下賜された弘法大師空海が、東寺を真言密教の根本道場とするために「教王護国寺」に名称を改めたのです。東密は東寺所伝の密教と言う意味で、真言宗系の密教です。それに対し、天台宗系の密教は台密(天台の台をとって)と呼ばれています。
台密は完成するのに少し時間がかかりました。最澄が中国に渡った主な目的は、天台教学を学ぶことにありました。密教関係は弟子の円仁と円珍によって深められ、さらに安然によって整えられ、台密は東密と並ぶ密教となりました。
空海と最澄は唐に同期留学で、最澄は官費で、空海は私費での留学ですから空海の父方と母方の裕福さが覗えます。僧は昔、知識階級であったと思われますが、空海は恵まれた境遇で僧を目指しますが南都奈良仏教に飽き足らず七年間修験道を学び、漢語、サンスクリット語にも通じる状態で密教を目指します。知識階級の中でも群を抜いていたでありましょう。最澄は一年足らずで帰国しますが、空海は二十年の修学期間で申請していますから、その費用は大変な額に登ったであろう事は想像できます。四叟仕立ての船団で空海は大使と同乗の第一船、最澄は第二船で残りの二船は嵐に遭い沈没。船団は上海を目指しますが最澄の船は無事に着いたのですが、空海の第一船は台湾の対岸福州長渓県赤岸鎮に漂着するという命がけの渡唐でした。空海は二十年のつもりが二年で帰国し、支那滞在期間の短さで朝廷との背信行為となり、国禁を犯した罪に問われ九州に留め置かれます。桓武天皇(50代)の密教に対する関心の深さや最澄の入京の尽力などで数年で許され入京を果たすのでした。
密教を志すのに必須条件の洗礼が二つあります。
一つは、受明灌頂(じゅみょう かんじょう)といって、 修行して密教を深く学ぼうとする人に対して行われ、弟子としての資格を得る灌頂なので弟子灌頂ともいう。
今一つは仏と縁を結ぶ結縁灌頂(けちえん かんじょう)といわれるもので、
投華得仏(とうけ とくぶつ)といい、目隠しをして曼荼羅の上に華(はな)を投げ、華の落ちた所の仏と縁を結ぶところから結縁灌頂の名があるという。空海の投げた華は三度行い三度とも曼荼羅中央の本尊大日如来に落ち、師である恵果(えか)を驚嘆させます。そして密教は何年も師とマンツーマンで修業しても仲々阿闍梨(あじゃり・法を教授する師匠や僧侶のこと)にはなれないのを僅か三か月で恵果阿闍梨から正統密教の師位を受け、大日如来を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂(仏教での洗礼みたいなもので、五海の水を灌ぐ)名を与えられたというのですから、如何に空海が優秀であったかが判ります。二十年の予定が僅か三か月でクリア出来たのですから、驚嘆の一語に尽きます。
この事に就ては面白い話が残っています。恵果の師匠は不空三蔵(空海の師の師)といって中国密教の大成者で(玄奘三蔵とは違う)臨終間際に「恵果よ、わしの命はもう絶える。そなたには金・胎両部の秘法を伝えたが、この密教は唐ではやがて滅ぶであろう。そこでわしは東の国へ密教を伝えたい。わしの命は東の国へと移りそなたと再びめぐり合い、そなたの弟子になるだろう。」と遺言というか預言をして亡くなります。故に恵果は空海を一目見るや否や「お前の来るのはかねてから予想していた」と言い、「空海は自分の師匠の不空の生まれ変わり」と判って僅か三ヶ月で印可を与え、自分の後継者である事を宣言したのでした。
その不空三蔵の入滅の日が6月15日で、その日に空海は生まれ、その日は、天照皇大神様と同じ誕生日であったというのですから、投華得仏といい、誕生日といい、遍照金剛(=大日如来)と言う灌頂名といい、如何に天照皇大神様と御縁が深いかが判ります。
この空海の優秀、頭脳明晰を物語るエピソードとしてラジオ放送(武田鉄矢の三枚おろし)が忘れられません。たまたまそういう放送と出会うのですから神様から聞かされたみたいです。「渡唐での難破漂着時、大使がいくら役人に書面を以てしても海賊か怪しい者としか思われなくて相手にされなかったため、大使の依頼で空海が書面を書き提出したら、役人が余りの名文にびっくりし、都に送ったら『直ぐに船を回すから丁重に扱うように』との返事が来るほどであった」
というものでしたが、放送にはなかった後日譚があったのです。それは
「折角唐政府の迎えの船が来るというのに、乗船名簿に空海の名前が無いというのでさすがの空海も驚きどういう事かと問うと、役人が余りに優秀なので自分の部下として使うつもりであったという事が判り、それをまた相手を唸らせる程の名文でお断りし無事名簿登載に至る」というものでした。
「恵果は空海の言語の異能のほかに奇瑞を起す霊威的気質にも目を見張りながら、胎蔵界大日と金剛界大日それぞれの秘印と秘明を授けた」というのですから、もはや凡人の及ぶところではありません。そして恵果は全てを授けた後、出来るだけ早く帰国を促すので二年で帰国の途に就くのですが、その後の遣唐使は難破したりで結局唐との関係は空海の帰国を以て最後となり、恵果の進言は見事に当たったのでした。でないと難破で命を亡くすか、阿倍仲麻呂(超優秀な役人)と同じく大陸に残されたまま彼の地で生涯を閉じるしかなかったのです。もしかしたら大納言小豆の美味も伝わったかどうか、空海が支那から持ち帰った小豆が朝廷を始め広く行き渡ったのですから、恵果さんと空海さんには大感謝ですね。
不空三蔵は空海として生まれ変わり、30年後に遺言どおりに恵果の弟子になるために唐に遣って来ることになりました。そして唐における密教の巨人であった恵果は、空海に「私たちは過去世において何度も互いに師になり弟子になりしながら仏法を修めてきた。次回は私が日本に生まれてあなたの弟子になります」と語ったとされています。
さて、余りに空海の話が長くなり最澄が疎(おろそ)かになりましたが、最澄も真言密教は勉強されましたが、受明灌頂(じゅみょう かんじょう)といって、 修行して密教を深く学ぼうとする人に対して行われ、弟子としての資格を得る灌頂なので弟子灌頂どまりで、免許皆伝までは至りませんでした。
最澄(生誕:766年頃、死没:822年享年:56歳)、空海(生誕:774年6月15日、 死没:835年4月22日享年:62歳)で最澄は空海より8年年長でありましたが、帰国して空海の弟子になりました。然し元々真言密教は師とマンツウマンで修業しなければならず、比叡山延暦寺に八万四千のお経を集め仏教の殿堂に籠らねばならず、自分の優秀な弟子を代わりに数人空海のもとにやり修行をさせて、弟子を介して自分が学べばよいと考えましたが、一番優秀な弟子が密教に心酔してしまい、最澄と袂(たもと)を分かってしまうのでした。
結局最澄にしてみれば、密教の経文があればそれを勉強すればよいとの思いが強く、密教は頑として口伝での修行を求めたのですから、それぞれの使命の相違がそういう状況を作ったと言ってもいいのでしょう。
<密教とそれまでの仏教の決定的違い その1>
抑々仏教は、バラモン教を摂取したヒンドゥー教の隆盛に対応するため、これ等と妥協し回生を図ろうとしたところに密教学は確立され、やがて大日如来を中心に釈尊の禁止した呪術(じゅじゅつ)や印喫、壇を設(しつらえ)る修法を取り入れバラモン教・ヒンドゥー教の諸神を多量に包摂したのでした。
それまでの仏教は釈迦如来(しゃかにょらい)を中心とした大乗仏教で、阿弥陀(あみだ)、薬師、弥勒(みろく)の諸如来が住むそれぞれの浄土世界、つまり彼岸(ひがん)にある聖なる理想の世界を表現する、いわゆる顕教でしたが、密教は現世において如来の境地に達しうるとする即身成仏の考え方にたっていました。
密教の密は秘密の意で、定められた儀軌(儀式と法規)に従って修法を行わなければならない。修法は他見を許さず、秘法秘儀とし、呪術(じゅじゅつ)的要素をもち、その世界は曼荼羅(まんだら)図で表現されます。壇を築き、法具を配し、儀軌に従って本来は土に本尊以下の諸尊を描いたが、日本では念ずる仏の姿を描いた画幅が掲げられました。このように密教の修法が諸尊の図像を不可欠としたところから造形美術の発達を促し、これに伴い仏像の種類が増大しました。
大日(だいにち)如来に帰一する諸尊の体系化が進められ、仏教以外の宗教の神々も積極的に取り入れられ、それぞれに異なった性格や力をもつ仏が、大衆の現世利益的な信仰にこたえました。
観心寺如意輪(にょいりん)観音坐像(ざぞう)にみられるように、雑密系の観音像にも及んでいます。さらに、大衆のさまざまな願いにこたえるために多面多臂(たひ)の像が生まれた。十一面・千手(せんじゅ)・准(じゅんてい)・不空羂索(ふくうけんじゃく)・如意輪の観音像、普賢(ふげん)・延命(えんめい)菩薩、孔雀(くじゃく)明王像などです。
曼荼羅とは密教美術に特有なもので、ものの本質、中心、宇宙、道場を表し、完全無欠な世界の象徴として描かれ、掛幅として道場の堂内にかけられた。
曼荼羅には、大日如来を中心に『理の世界を表す胎蔵界』(大日如来経)と、円と方形を組み合わせて『智の世界を表す金剛界』(金剛頂経)の二系統があり、これを一対として両界(りょうがい)曼荼羅という。
<密教とそれまでの仏教の決定的違い その2>
渡唐同期で、国禁を犯した空海の帰京を早めた最澄の尽力を見ても、仲が良い二人がどうして別れてしまったのか、何故元に戻るに1200年もかかったのか、
その仲違いが決定的になるのは、最澄が弟子を通じて、「理趣釈経」(りしゅしゃくきょう)」の借覧(しゃくらん)をねんごろに申し入れたのに対して、空海が厳しい言葉を以て、それを断ったことにありました。
なぜ、空海は、最澄の申し入れを断ったのでしょうか?
この「理趣釈経(りしゅしゃくきょう)」は、「理趣経(りしゅきょう)」の注釈書で、「理趣経」には、欲望を肯定する教えが書かれていて、曲解をすれば危険な方向に進みかねない教典でした。
それを、ただ文を読むだけで解釈してもらっては困るというのが、空海の言い分でした。
「それ秘蔵の興廃は唯(ただ)汝と我となり。汝、若し非法(正しい手続きを経ずに)にして受け、我、 若し非法にして伝えば、将来求法(ぐほう)の人何に由て求道の意を知ることを得む。非法の伝授せる、是(これ)を盗法と名(なず)く。即ち是れ仏をあざむくなり。又秘蔵の奥旨(おくし)は文の得ることを貴しとせず。唯(ただ)心を 以て心に伝ふるに在り。文は是れ糟粕(そうはく・残りかす)なり。文は是れ瓦礫(がれき)なり。糟粕瓦礫を愛すれば粋実至実(純粋な真実)を失ふ。真を棄てて偽を拾ふ。愚人の法なり。愚人の法に汝随(したが)ふ べからず、求むべからず」(高野山 超人空海の謎 百瀬明治 祥伝社より抜粋)
空海は、誤った思想が生まれて来るのを予想し、怖れていたといえるでしょう。
<理趣経とは>
性的な欲望を肯定する「理趣経」
異性のハートを射止める愛欲の矢、異性と抱擁すること、異性と離れがたいこと、異性に対して思いのままに奔放に振舞うこと、異性を見ること、異性との抱擁の喜び、異性に対する本能的欲望、異性との性交に満ち足りること、異性のために身を飾ること、異性と抱擁して満ち足りること、異性への本能的欲望によって目の前が明るくなることなどを意味している。
これは通り一遍の無機質な言い方ですけど、空海に言わせればこう成ります。
(『理趣経』第二段「覚証の法門」大日如来の巻:五つの根本の知のさとり)
と、この五つの根本の知がもたらす生の究極の喜び、
1、(五つの根本の知の自他無二平等をあらわす)性交の妙なる一体感は、命のもつ無垢なる知の力の働きである。
<妙適(びょうてき)清浄句是菩薩位>
2、愛欲のはやる思いも、命のもつ無垢なる知の力の働きである。
<慾箭(よくせん)清浄句是菩薩位>
3、愛撫し合うのも、命のもつ無垢なる知の力の働きである。
<觸(しょく)清浄句是菩薩位>
4、離れたくない愛の縛りも、命のもつ無垢なる知の力の働きである。
<愛縛(あいはく)清浄句是菩提位>
5、その身のすべてを任せることも、命のもつ無垢なる知の力の働きである。
<一切自在主(いっせいしさいしゅ)清浄句是菩提位>
6、愛おしく相手を見ることも、命のもつ無垢なる知の力の働きである。
<見(けん)清浄句是菩提位>
7、交わりの心地好い悦びも、命のもつ無垢なる知の力の働きである。
<適悦(てきえつ)清浄句是菩提位>
8、互いに恋い慕い合うことも、命のもつ無垢なる知の力の働きである。
<愛(あい)清浄句是菩提位>
9、愛の誇り高ぶりも、命のもつ無垢なる知の力の働きである。
<慢(まん)清浄句是菩提位>
10、その身を美しく飾ることも、命のもつ無垢なる知の力の働きである。
<荘嚴(そうげん)清浄句是菩提位>
11、満ち足りて、心が愛情で一杯に潤うことも、命のもつ無垢なる知の力の働きである
<意滋澤(いしたく)清浄句是菩提>
12、満ち足りて、心が光り輝くことも、命のもつ無垢なる知の力の働きである。
<光明(こうべい)清浄句是菩提位>
13、満ち足りて、充実した身体感覚も、命のもつ無垢なる知の力の働きである。
<身楽(しんらく)清浄句是菩提位>
14、美しさを愛でることも、命のもつ無垢なる知の力の働きである。
<色(しょく)清浄句是菩提位>
15、心地好い声も、いのちのもつ無垢なる知の力の働きである。
<聲(せい)清浄句是菩提位>
16、芳しい香りも、命のもつ無垢なる知の力の働きである。
<香(きょう)清浄句是菩提位>
17、甘美な味わいも、命のもつ無垢なる知の力の働きである。
<味(び)清浄句是菩提位>
(『理趣経』初段「大楽の法門」金剛サッタの巻:十七の清浄なる生)
「要するにここでは、性の快楽というもの、あるいは性に対する欲望ということが全面的に肯定されている。なにしろ、そうしたものは清らかなものとされている訳だからである。
一般の仏教、それは顕教においてということになるが、性的な欲望や快楽の追求は煩悩としてとらえられ、否定すべきものと考えられている。だからこそ、僧侶は出家し、そうした欲望を断つ訳である。
ところが、『理趣経』は、性的な欲望を全面的に肯定している。それは、顕教(仏教の中で、秘密にせず明らかに説かれた教えのこと。密教の反対語)を否定し、さらには仏教の教えを真っ向から否定することにつながっていくのである。
※顕教は、お釈迦様が聞く人の能力に応じて、分かりやすい言葉で顕(あら)わに説いた教えです。それに対し密教は、真理そのものの現れとしての大日如来が、究極の教えを示したものです
密教は、この大乗をさらに超えた仏教であるとされる。金剛乗や真言乗という言い方をするのも、新しい乗り物であることを強調するためである」と。
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性的な欲望を真っ向から否定すれば、メシヤ様流に言えば人類滅亡に繋がる。また、人生で恋愛がなければ花の咲かないつまらん人生と言われる。メシヤ様は大日如来でも在られる訳ですから「儂はそのように人間を作ってはいない」と仰られる筈です。とすれば密教は御神意に叶う訳ですが、何事も程で、貪(むさぼ)らなければお釈迦様でもお許しになられたであろう事は勿論です。
この性に就ては暴走すれば大きな悲劇を生む事は万々承知する処で、そこで空海は師匠口伝を譲らなかったのです。実際にそういう裏教団の様なものが出来て、その内容は読むに耐えない程のグロテスクなもの、所謂淫祠邪教(いんしじゃきょう)に成り下がる危険性を孕んでいる訳で、非常に気を付けた訳です。
理趣経の「理」はことわりで「法であり、理性」を意味し、「趣」はおもむきで「感情」を意味しますから、理性と感情のバランスの取れた伊都能売でなければその恩恵を十分に享受できない事になります。何しろ両親が生んでくれたことに感謝しない子供は居ないでしょうし、子宝と言って、子供が出来て喜ばない親が居ないように結果が良ければ、その原因も悪い筈はない訳で、天照皇大神様の恩恵を取り入れた所に空海の天国行きが決まったのでしょう。
<真言密教と大祓祝詞の共通点>
大日経をサッと眺めた時の直感に大祓い祝詞に似ている事を感じました。
大祓祝詞をお奏(あ)げするといきなり母が子を犯す罪とか、子が母を犯す罪などという穏やかでない語句が並んでびっくりさせます。解釈はいろいろあるようですが、何故神聖な祝詞にその様な語句が入っているのか。的を得ている解説は無いようですので自分なりに思った事は、人類の祖先がアダムとイブで在ったら2名しかいません。ノアの箱舟の時は8人の兄弟が夫婦となり子孫を増やしました。そのように徐々に人類は増えたのですが、ある程度に増えるまでは秩序という観念は無かったのかも知れません。それを教えてくれたのが大祓い祝詞という訳で天照皇大神様は大日如来になられますと、「顕教と密教」の処で「真理そのものの現れとしての大日如来」という事で、「大日経」を見ると、人間の心理を語る事60項目もあり、どんな心も分析出来ており、なればこそ人の心はお見通しで、その時期場所によって人間を教育された来たという事なのでしょう。全くお手数がかかっている訳でして、唯々感謝申し上げるしかないのですが、顕教にしても密教にしても結局難しすぎて消化不良のまま人生を終わるしかなく、メシヤ様の浄霊の力と御教えによって霊籍を上げる事がどれだけ有り難い事かを知ればよいので、それによって徳を積み霊性が向上すれば霊主体従の法則によって自ずと霊籍が上がり、上がった分だけは霊体一致で幸せになれるのですから、霊性を磨く以外に道はないのであります。それによって神様への御報恩も叶うという訳で、御報恩に対し神様に借金したまま霊界に帰ったんではこれまた肩身の狭い思いをしなければならず、霊体一致の原則で結局は霊籍降下の憂き目を甘受しなければならない事も知るべきでしょう。結局最高神とのパイプを如何に太くするかにかかっていると言えると思います。
最後に
最澄の天台宗からは鎌倉仏教と言って様々な宗派が登場します。僧侶以外の『一般民衆』も、厳しい修行などしなくても仏の加護を受けられると説いたことが大きな特徴で、その為、鎌倉仏教は多くの一般民衆に受け入れられ、仏教が『大衆化』しました」という事ですから、仏教的には最澄の働きは大きなものがあります。空海の真言密教は、空海のみで完結しているようで、恵果さんも出番がなかったのかも知れません。結局真言密教は「大日経」が主となり、天台宗は「法華経」が主となったとすれば、天照皇大神様と伊都能売神様との御経綸上の流れに沿って出来た仏教という事が出来るのかも知れません。
日蓮は「不空三蔵は誤る事かずをほし……此の人の訳せる経論は信ぜられず」と、低い評価を下しています。日蓮は延暦寺での修行で、八万四千のお経を確か10回読んだという事ですから凄いものがあります。「元寇の役」を予言し、御教えによれば「最奥神界の幽かなる夜明け」の神事にお使いされたのですから大したものです。然し乍ら日蓮は法華経を知らしめる為に狐霊を使って、狐霊界の棟梁になったという事らしいですから、矢張り減点もあったのでしょう、空海と共に天国行きとは仰られていないのです。日蓮の書いた文字は狐のひげのような字体で、その文字には狐が沢山憑っているとの事で、日蓮宗は太鼓を打ち鳴らしますが、その音は狐の大いに喜ぶものと聞いております。
空海が弟子を集めて遺言するのですが、「私は兜率天(とそつてん)へのぼり、弥勒菩薩の御前に参るであろう。兜率天にのぼって私は雲の間から地上をのぞき、そなたたちのあり方をよく観察している。そして、56億7000万年後、私は必ず弥勒菩薩とともに下生する」というものですが、天照皇大御神様が現界にお出まし頂いた以上、空海も最澄も、日蓮も大いに御活躍が期待される所であります。1200年目に和解したという事は、弥勒(日月地)様が生まれられて、金剛界に入られた事をお互いに認識されたが故に、お互いが力を合わせてメシヤ様の下にに馳せ参じる事を示した和解という事になるのでしょう。
<今月の余話>
今年の地上天国祭は、去年の地上天国祭で昭和29年6月15日のメシヤ降誕仮祝典のやり直しを行わせて頂き、主神様で在らせられる天照皇大御神様をお出しさせて頂き、今年の3月3日にはメシヤ降誕本祝典も何とか無事に執り行わせて頂き、来年の元号が変わる前の平成最後の地上天国祭になる訳で、御経綸が新たに進展する節目でもあり、パワー全開の天照皇大御神様をお迎えさせて頂き、昭和でやり残した新紀元祭と銘打って執り行わせて頂いたのでした。
ところがこの新紀元こそが正真正銘の最後の石戸開きとも言うべきお目出度い日である事を知らされました。
思えばメシヤ様が昭和元年(1926年)の神憑りによる御啓示を受けてより、昭和は64年(1989年)で終わってますから、昭和は63年間です。そしてメシヤ様が明主様に戻られたのが昭和29年(1954年)8月11日ですから、去年は2017年で恰度63年という事で昭和の時代と同じ年数を経過したのですが、後者の63年は 岩戸隠れの63年という事で、昭和の年数と 岩戸隠れの年数が共に63年で、今年に至り新紀元元年という事は意味深長なるものを伺わせます。昭和と、そのやり直しの平成が終わり、それ等の元号が来年変わると愈々御経綸の完成期に突入という事でしょうから、新紀元は最後の石戸開きという事になれば、パワー全開でお出まし頂けた事は、その目出度さも尋常じゃないものがあるでしょう。
ここまでのはっきりした年数が思い浮かぶ前に、何かお目出度い日に違いないとの意識は高まって、15日の御参拝後に長野の皆神山に向かったのでした。15日は上田で一泊したのですが、どうしてもお目出度い日の乾杯がいるなと思い居酒屋へ入ったのですが、14日からは殆んど寝てませんから姉は生一つを飲むと食べたものを全部上げてしまい、普段はそんな事はないのですが、やはり疲れが出たんだと思います。隊長(O・M)は日本酒でしたが調子は良かったようです。私は居酒屋の二件隣りのホテルに戻るや否や風呂も入らず爆睡でした。翌日の16日の朝食は昨晩の姉の失態もどこへやら、3人とも美味しく頂きました。天気にも恵まれ皆神山は9時頃に着きました。実は去年も石戸開きで戸隠に行ったのですが、下調べもしないで先入観だけで行ったら飛んでもない間違いをしてしまいまして、もう一回やり直さなければと思っていたのでした。それで今回はネットでよく下調べをしていきました。皆神山の頂上に消えかけた立て看板があり、皆さんに読んでいただこうと消えかかった文字を2時間近くかかって写したのですが、何と、帰ってこれを書いてる最中にもう一回ネットを開いたら、調べた時には出て来なかったのに看板の文がいきなり出て来て驚きました。
それを見て頂ければいいのですが、一応それを載せます。
〇長野最大で最古の皆神山ピラミッド
・皆神山の造山方法はエジプトのピラミッドのように人の労力ではなく初歩的な重力制御技法(部分的干渉波動の抑圧)により、当時長野盆地が遊水湖沼(最後のウルム氷期の終末期で東・南信の氷解水による。)となっておりその岸のゴロタ石等堆積土砂石を浮遊させ空間移動させるといったダイナミックな方法でした(従って現在でも皆神山山塊だけが非常に軽くて負の重力異常塊となっています。)。
・この皆神山の盛土的山塊が自重により不均衡凝縮=ねじれ摩擦現象=起電=電流発生といったダイナモ機能山塊となり、電磁波が生じこの磁力と重力制御(反重力)により物体(電磁反発飛昇体)が垂直に離着陸するようになったのです。古文書に出てくる「天の羅摩船(アマノカガミブネ)」等がこの飛行体です。
〇謎の皆神山ピラミッド物語
・皆神山は、古い古墳時代や弥生時代更に遡って縄文時代やエジプト・インダス・黄河・シュメール各文明よりずっと古い、今から約2~3万年前(浅間山、焼岳ができたころ。飯綱・妙高・富士は約九万年前)の超太古ともいうべき遠い旧石器の時代に造られました(人口造山=ピラミッド、ピラミッドはギリシャ語源で三角型のパンの意。)。
・この皆神山を造った人間は、古事記に出てくる須佐之男命(自然主義的な科学技術者の集団の総称)で現代科学とは全く異質ではるかに優れた高い知的能力をもつ人類でした(旧人ネアンデルタール人系)。
・では、何のために造ったかというと、墳墓ではなく地球上の各地や、宇宙空間への航行基地として造られたのです。
〇皆神山ピラミッドの祭神は知力体力の神
・超太古の宇宙航行基地である皆神山の祭神は従って高度の知的能力集団でみんな宇宙航行や宇宙基地に関係する次の四神です。
1、熊野出速雄命(クマノイズハヤオノミコト)
宇宙船「天の羅摩船」等の航行の技術・管理を引き継いだ最後の集団で、北信地方の開拓祖神
2、少名毘古那神(スクナヒコナノカミ)
宇宙船で皆神山航行基地を離着した大国主命(オオクニヌシノミコト)の参謀集団
3、泉津事解男神(ヨモツコトサカオノカミ)
皆神山航行基地をはじめ全宇宙基地を管理した集団
4、速玉男神(ハヤタマオノカミ)
地球周回軌道の人工衛星(宇宙航行の中継基地)の技術者の集団
・・・・・・・・・・
上記は少し現実とかけ離れているとも思えますので下記(現実的見解)も載せておきます。
「皆神山(みなかみやま)は、長野県長野市松代、標高659メートルの溶岩ドームである。麓の平地からの比高は280メートルほど。
30~35万年前の安山岩質の溶岩ドーム。安山岩は粘性の高い溶岩であったため、火山灰の噴出や溶岩流の流下は起こらなかった。
1965年から1971年にかけての松代群発地震が皆神山の直下で起り、この地震活動に伴い約1m隆起している。この地震は地下水脈の影響による岩盤の破壊と見られる。松代群発地震に伴い1967年に付近の重力分布調査が行われ、皆神山付近には低重力域があり地下には、短径800m、長径1500m、深度200ないし400mの楕円形陥没構造の存在が推定される。ボーリング調査により、皆神山溶岩は150m程度の厚さがあることが確認されており、その下に湖水堆積物が見つかっている。また、山頂部には河床礫が見られる。
第二次世界大戦末期には日本の戦況が悪くなり松代が大本営・政府・皇室を含む首都移転の予定地となり、皆神山と周辺の山には多数の地下壕が掘られた。
その周囲の山並みと異なる溶岩ドームの山容から、人工物と思い込む者が現われ、「太古に作られた世界最大のピラミッド」という説が起こり、一部信仰の対象になっている。毎年5月5日には、地元自治会により『ピラミット祭り』が開催される」
・・・・・・・・・・
上記は一寸荒唐無稽な感じがして取り上げるべきではないと思いましたが、周囲8キロという山はどうみても自然に出来た山という感じがしないように思えるのです。それも台形で頂上が陥没しているようで何か違和感を感じます。人海戦術で盛土した山と言われれば、上記はそれなりに何かいわくつきがあるとの現実味を感じさせます。
上記の四神は御祭神とは違います。神社名と御祭神は
〇熊野出速雄(くまのいずはやお)神社
〇御祭神
出速雄命(いずはやおのみこと)
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
伊邪那美命(いざなみのみこと)
豫母都事解男命(よもつことさかのおのみこと)
脇座に舒明天皇(じょめいてんのう・34代)・古人大兄皇子
大日如来坐像があるらしかったのですが確認はできませんでした。
その代わり•皆神山の西北の登山口に大日堂という小さなお堂があり、
「江戸時代初期に開山され、かつて山頂の和合院に祀られていた大日如来を安置したことから大日堂と呼ばれた。山火事によって焼失し、慶応4年(1868)に再建された。かつて、ここは松代藩主の野遊び場となり、能舞台もあったといわれている。現在は無住のために荒廃し、雨漏りもあって仏具などは始末されているが、牛を描いた絵馬が掛けられている。」
という事が写真と共に記されています。
又、私達が登った「平林登山口」からは中腹に岩戸神社なるものを発見したのですが、下調べの写真には「天照皇大神」の傾いた看板が洞窟の前にありましたが、帰り道に見逃してしまう程の小さなお堂でそのまま通り越してしまいました。帰ってからネットで見た写真には直ぐに行き止まりで洞窟の上には小さな石の社が2つありまして「岩戸神社」と明記されていました。勿論御祭神は「天照皇大神」で西に「大日如来」堂があるのですから、御教えの通り天照皇大神様は素盞鳴尊に追われこの地で崩御された事は確かでありましょう。
皆神山のメインの神社は「熊野出速雄神社」で大日如来坐像は確認出来ませんでしたが、手つかずの「天照皇大神宮」の大麻(お札)が置いてありましたので天津祝詞をお奏げし、天照皇大神様に「素盞鳴尊に追われて何のお力にもなれず誠に申し訳ございませんでした。昨日6月15日は新紀元節に天照皇大御神様がパワー全開でお出まし頂き天の岩戸開きとなりました。天地合わせ鏡で天の主の大御神様がお出ましなられたからには地の総大将(地の主神又は大弥勒大御神)として何卒御用にお使い頂きます様宜敷くお願い申し上げます」と心からお詫びとお願いをしたのでした。写真ではありましたが、洞窟の脇にあった傾いた天照皇大神様の看板を見た私にとって、余りのご苦労を偲び思わず目頭が熱くなるのでした。
参拝も終わり山を下りようとした時に、車で登って来たお爺さんと孫と思しき方に声をかけて見ました。「中腹にある御社はあんな洞窟に天照皇大神様は居られたんでしょうかねエ、地底人のように」。返事は「そうでしょうねエ」と肯定してくれました。車のナンバーを見て「新潟はどちらからですか」と聞かれるので「市内です」と答えると「そうですか」で終わったのですが、近くであったなら話が弾んだかも知れません。
メインの「熊野出速雄神社」神社の右奥に浅間神社があり木の花咲耶姫が祀られており観音様は大日如来でも在られ、天照皇大御神様にもなられるのですから主だった神様が皆一応お隠れになられたのかも知れません。そうするとこの皆神山は奥深いものがあるようです。
<天地カゴメ之宮建立由来>
「昭和49年1月23日、旧暦1月元旦、国常立大神お立ち上がりの神示あり。
諏訪大神より、2月5日節分から信州神業に発てと神示を受け、2月6日大雪の聖山神社へと向かう。
「皆神山へ行け。元の元の大元の大神様のお立ち上りと成りた。コトの大事の秘められし、その頂上なる神の御出現じゃ。」と神示あり、ついで戸隠中社に於いて「この信洲、神の洲と書いて、神洲と読むことを知っているか、皆神山へ参れよ。」と神示を受けて、翌2月7日積雪の皆神山に初登山をする。
皆神神社神前にて午前10時入神状態となる。大勢の神々参集されたなか、神業は新しい大神様地上神界天降りを出産の型で示され、戴冠式の形となり全ての神儀終了は正午、この皆神山は古代より地球上において、神界で選ばれた唯一の聖地であり、宮も又同じなり。
天地カゴメ之宮は、上に元津御祖大神、また、ヒマラヤから国常立大神の元津神霊を宮の御大将と迎え、日之出大神はじめ天地八百万の神々、龍神眷属、モーゼ、キリスト、ギリシャ神話の神々に至るまで参集され、現在は伊都能売神業にあり、此度神々より皆神山守護のため宮の建立を許され、ここに謹んでお受け致した次第を印す。」
という石碑と、もう一つは
「世界の中心山脈十字形せる
珍(うず)の神山
天霊の聖地に些(さ・少し)しも違わざる
尊き神山 皆神の山
出口王仁三郎」」
との石碑が建てられていました。そして上記の文字の多い石碑には、しっかりとカゴメのマークが刻まれていました。
文字の尠ない石碑には大きな意味があるようですが、これは次回に送りたいと思います。
最後にO・Mさんとは16日長野の駅までお送りし、お昼を一緒にしてお別れしたのでした。
姉は「善光寺に行った事がないから行きたい」というので、帰り道でもあり寄ったのです。駐車場がない様でしたので、私は車番で行きませんでしたが、門前町はすっかりきれいに整備されており、境内の雰囲気は誰をも包み込むような大らかさがあると言ってました。
メシヤ様も昭和17年にここへ行かれた時に阿弥陀様に「もうじき帰るから日本にいる間はあまり悪く言わないでくれ」と言われて「それからあまり悪く言わないようにした」との御教えがありますが、阿弥陀様は照った時は月読尊様であり、陰った時は素盞鳴尊になられる訳で、矢張り皆神山には天照皇大神様の対比たる善光寺が繁栄された事に合点が行った思いでした。メシヤ様が昭和16年に伊勢神宮へ行かれた時に「これにて私は故郷に帰ります」と留守番の素盞鳴尊が仰せられると「ご苦労であった」とお答えされた神様こそ天照皇大神様であり御経綸の絶妙さが伺い知れて興味は尽きません。
K4・p508に「皆神山にも立派なお宮が出来るでしょう」と書かれていますから楽しみですね。
2,018年・平成30年6月30日ãm3時55分
新潟出張所
庭山光太郎
[研鑽資料no.28 太陽神についての学び 骨子その2 2018(平成30)年8月18日]