メシヤ講座・特選集no.92(平成20年9月分)

<メシヤ様対談記>

メシヤ様が教団内外の人々との間で執り行われた対談内容は、私達の御神業推進の方向を再確認させていただけるものです。数多くの対談記中から、「世界救世(メシヤ)教」開教後になされた内容を順次掲載いたします。


人類の救済と世界平和に貢献
(救四十八号 昭和25年2月4日)
世界救世(メシヤ)教誕生の意義と使命
自観教主開教の心境を語る

今回、宗教法人日本観音教団及び日本五六七教は発展的解散をなし、広遠な理想の下、世界救世(メシヤ)教が宗教法人として新発足、ここに本教はさらに新しい歴史の首途に立つことになった、想えば昭和廿二年八月、信教自由の旗の下呱々の声をあげてから二星霜余、実に短期間ながら宗教界稀にみる興隆発展を遂げたのであるが、しかし世の戦後的羨望嫉視の風潮に禍され、これまた意外な苦難と障害にいくたびか逢着、全信徒の焦慮と苦悩は筆舌に尽せぬものがあったが、ただ正義の前にはそれら邪神の群は次第に消滅、漸く本教の真価燦然と輝く段階に入ったのであった、このとき本教の転換はまことに感無量のものがあるが、これ新時代に対処すべく、すべて神意にもとづいたものであり、神への奉仕と、救世の『誠』はより強大に推し進められ、信仰による世界平和と人類救済の大業に向って新たなる威力と光芒を放つであらう、この歴史的な興奮漂う浅春の熱海別院で記者は自観新教主からしたしく『開教宣言』の意義と将来の使命についてきくを得たのである、新教主の居室『サンルーム』の窓外には早ざくらがもうチラホラ咲き始め新しい希望が満ち溢れていた=以下対談の要旨

仏力衰退の兆
開教の使命重大

 「開教と改教はどう違いますか」

 『今度の場合は開教であり、改教でもある、そのどちらにも通ずるが、しかし使命の本質からみれば開教の方が正しいかもしれない』

 「では開教はいかなる意義をもって誕生したのですか」

 『すべてこれ神意によるもので、使徒たる私の意志によって発露したものではない、まあ神の御都合上、こういう新しい段階に入ったものと信ずればよい』

 「その御都合とは大先生の御霊感にどんな風に顕はれましたか」

 『第一に仏力衰退の兆頗る顕著です、もちろん仏教そのものの存在理由は大いにありますが、たんなる経文を読んで、極楽浄土への来世御利益を願ってばかりいては到底複雑ないまの人間は済度し難いものがあると思います、現にいまの仏教界、お寺の有様をみれば誰でも理解がつくように、有為転変の移り方あまりにも惨めすぎる、敗戦のための人間下落を嘆いて責任を廻避するかごときは大乗の仏法のとらぬところと思うが、それにしてももう少し生きるものへの救いの業がなければならぬと思う、そこに仏力廃頽(はいたい)の一因が蔵されているといわねばならない、第二に神社凋落の趨勢愈々激しいことだ、これは仏力よりも低下し、神社にほんとうの神威あるやとさえ疑問を抱かざるを得ない、まことに寂寥(せきりょう)の感深いものがある、従って本教が観世音菩薩を信仰の象徴とすることには変りはないが、しかしこれ迄の観世音菩薩とはその御使命の方途が非常に変られたといいたい、またミロク大神もそうだ、解り易く言うならば観世音菩薩は化身仏であらせられたが御本体である神のお働きとなり給い、いままでよりはさらに位が上位に御成り遊ばされたと言った方が至当であらう、従ってその御救いの御力がいままでよりいく倍か強くなったという観方ができるのである』

キリスト教と呼応
東洋に洽(あまね)く布教

 「大先生がこんど教主になられた理由は・・・・・」

 『神の代行者として表面へ出たまでである』

 「新教の新教理を御伺いしたい」

 『世界全人類の救済を最大の理想とし、ことに善悪の区別をハッキリして悪を滅し、善を大いに助けてゆきたい、これが神の御意志である、善にして酬はれざるもののいかに多きことか、実に慨嘆にたえない、新教はまづ善人をあらゆる手段を尽して救済し、人類世界から暗黒面を徹底的に除去するトリデとしてゆきたい、そのためには悪鬼どもとのたたかいは依然つづくであろうが、これは一つの過程として忍ばざるを得ないだろう』

 「世界救世(メシヤ)教の世界的な意義は・・・・・」

 『信仰によって世界人類を幸福にみちびくのがその最大の目標です、しかし西洋にはキリスト教があります、そのキリスト教の曰く「天国近づけり・・・・・」はわが教理と最も近きにあり、わが教理は「現世の天国」を一日も早くつくることにある、キリストの遺訓まことに立派で、やはり世界人類救済の神力や偉大です、私はわが新教はこのキリスト教と呼応し、東洋において、わけてもまづ日本で、人類の善導と救済に全知全能をあげて働いてゆきたい、従ってこのことが今後の世界平和に必ず大きな寄与をなすものと堅く信じています、まことに本教こそ日本で生れた最初にして最大の世界平和推進に役立つ宗教であらう、宗教に国境なしという言葉がある通り、本教の真面目と現実の霊験が納得できれば必ず日本人は勿論東洋人全体が真に平和に徹した高邁、純粋な精神を保持することが可能である、世界平和のために、人類世界の争闘をなくするためにも本教将来の活動が活潑にならなくてはならない、この真理を了解できざる人々こそ平和を希求しない不幸な人々だといえよう』

 「いまの御説は前からの大先生の持論だったと思いますが・・・・・」

 『その通り、神の御力が増したからこの理想はさらに現実的に大きくなるわけである』

神威さらに強し
病貧の不安一掃

 「病貧への救いの業も更に威力を増すことになりますか」

 『いまより以上に最大の力を発揮するであろう、善の心をもてる者はいかなる難病、苦労からも必ず救はれる、これが開教宣言真実の告白であり、疑うものはまず試されてのち、批判されるがよかろう』

 「本教がここに第二の発展段階に入ったのでありますが、それにしては未だに本山というものがないが、今後これをどう処理されますか」

 『本山になるべき、熱海瑞雲郷にご承知のごとき建物の造営を急いでいるが、資金が思うようにできぬのでおくれている、然しいかなる宗教と雖も本山のないのはおかしいし又、全信者の熱望もあり、可及的速かに聖堂の竣工を計ることにした、建物と共に、瑞雲郷にも一大花園を展開することにし既に準備に着手した、熱海随一の景勝の地に春来りなば繚乱たる百花の園が新たなる光彩を放つであらう、かくして地上天国の構想は夢から現実へたくましい歩みをみせるのである、神意の広大無辺に全信徒も心を安んじておすがりしてゆけば道は必ず拓けるのである』

*     *     *     *     *     *

≪体験報告≫

「指の切断を免れる」は私のこと
初めて浄霊のすごさを体験

久民広喜  大分県日田市

「メシヤ講座・特選集」6月分の体験談で掲載をしていただきました「指の切断を免れる」の中でケガをした本人の久民と申します。

今回のケガを通して初めて浄霊のすごさを体験いたしました。それは、大分県日田市の病院から救急車で福岡市内の病院に搬送される車内で同乗してくれた妹が傷口に向い浄霊をしてくれているとき、全く痛みを感じなかったからです。地元日田市内の病院で左手人差し指の第一関節が皮一枚で繋がっていることは知らされていました。約90分くらいで福岡市内の病院に着き、担当の医師が傷口を診断し、「時間はかかるかもしれませんが大丈夫です」と言われました。

手術室に入り、左の脇から局部麻酔をされ、左手の指1本1本の感覚が麻痺していくまでははっきりと覚えていましたが、その後は覚えていません。意識が戻ったときは、病室のベッドの上で麻酔が切れ掛かって本当は痛みがあるはずの傷口がポカポカする感じで目が覚めました。その感じは、うまく言葉では表現できませんが、このときも妹が浄霊をしてくれていました。そしてまた眠ってしまいました。自分のなかで半信半疑であった浄霊の力を再び強く感じることができたのは言うまでもありません。

入院して2日間、妹は側で浄霊をしてくれましたが、傷口の痛みは全くと言ってよいほど感じませんでしたし、気持ちも楽になりました。一番心配されていた指先の色も問題なく、4日目に医師から「もう心配しなくて良いですよ。指先まで血液は流れていますよ」と言われた時、直ぐに妹へ携帯で伝え、妹から「良かった」と言われた時、知らずに涙があふれてしまいました。

入院して3日後、自分の指先のケガの状態がどれだけ悲惨であったか術前の写真を見せられて解りました。これが本当に自分の体の一部かと思うくらい目を疑いました。毎日、傷口の消毒をしてもらう時、少しずつ指先に感覚が戻っていることも感じるようになり、「動くようになれ」と願いながら、自分で指先に向って浄霊を続けました。ベッドで1日過ごすことや、右足から点滴を受けているためにトイレに行くのでにも看護師さんに車椅子で連れて行ってもらうことが本当に情けなく感じました。「自分1人では本当に生きていけない。人間は助け合って初めて生きていける」と思いました。

入院して5日目、医師から退院の日が告げられた時、父親より先に妹に連絡をしたのは無意識のうちでした。そして、そのあと楳木先生にも連絡しました。指先の切断を免れたのも、退院できるのも、楳木先生、妹のお蔭であるという感謝の気持ちで一杯になりました。

退院後、「仕事復帰まではリハビリを行っても約2ヶ月は必要」と言われたとき、正直“本当に仕事ができるのか?”という思いで不安になりました。しかし、今回のケガの原因は自分の不注意なので早めに復帰したい気持ちになり、週に1度の通院を続けました。退院後、10日間で骨を固定していた針金が取れたとき、予定より1週間も早いのには自分でも驚き、これもメシヤ様、御先祖様のお蔭である、そして浄霊のお蔭であると改めて実感し、感謝しました。

自分の中で早く仕事に復帰したいという気持ちが高ぶる中、5月の中旬ごろ病院に行ったとき、担当の医師に確認したら「無理をしなければ来月からでも良いですよ」と言われ、本当にありがたいと感じました。

今回のケガを通して信仰に対する考え方が変化

そして、今回のケガを通して指の切断を免れ、仕事復帰を許されたことで信仰、そしてメシヤ講座で報告されていた数々の体験談や浄霊に対しての考え方が変わりました。

冒頭で浄霊に対して“半信半疑”と書きましたが、信仰をする気持ちも当初はありませんでした。“信仰に対する不信感”というような表現を用いたりもしましたが、結局は勉強不足以外の何物でもありませんでした。

楳木先生にお世話になりだして8年以上が経過します。面談を受けるようになったのは、大学以降つい最近まで自分が歳相応の精神年齢に達していなかったからです。面談を通して数多くのことを学びました。

4人妹弟の長男として生まれ、喧嘩をしても”兄ちゃんが一番”と親から育てられました。地元の県立高校を卒業するまでは、何も問題を起こさず育ってきました。しかし、大学進学のとき、自分の中で親元から離れて自由な生活をしたいと思うようになり岡山の大学に行きました。それから自分の精神年齢は止まってしまったと思います。2年から3年に進級するときに留年してしまい、時間に余裕が出来、パチンコをはじめたのは、長男である自分が厳しく育てられ、親の目の届かない場所で自由な生活を送るようになったからです。

毎月の仕送りでは足りなくなり、返す当てもないのに借金をしてしまいました。結局、母が父に内緒で返済してくれ、どうにか大学を卒業し、再び自宅から通える会社に就職しました。そして33歳の時に結婚。親とは同居せず暮らしはじめました。結婚して1年後長男、そして翌年次男が生まれ4人で楽しい生活を送っていましたが、そのころからまた仕事帰りにパチンコをするようになってしまいました。このときの原因は、子育てに夢中で自分に余りかまってくれなくなった妻に対して欲求不満となり、そのはけ口をパチンコにもっていったのです。

楳木先生との面談でパチンコが原因で借金を繰り返すのは、自分では気付かなかった依存症であると教えてもらいました。勝ったときは気分が良くなり、負ければ、それを取り戻してやると思い、借金をしてしまった自分の考え方、2人の子供の将来など何ひとつ考えることなく、自分の欲求不満を解消していただけだと思います。これは、自分の育った環境、「長男だから一番」、そして自分の中でも「何かあっても親がどうにかしてくれる」とすぐに考えてしまうことを先生からは面談で幼児性であると教えてもらいました。

結婚して4年目、母が突然血を吐き、入院。検査の結果、胃がんであることがわかりました。母がこのような大病になった原因は、自分の大学時代、そして社会人になってどれだけ苦労をかけてきたかなど忘れてしまい、父が原因であると思い込んで自分にはなんら原因は無いとそのころは思っていました。

手術を受け、胃を摘出。回復に向かいかけていた矢先、再発転移し再び入院。その時、妹が「助けたい」という一心で楳木先生に浄霊をお願いいたしました。この時の様子は妹の体験記に以前記述していますが、当時は四つの臓器を摘出していたので、時既に遅く帰らぬ人になりました。

私は責任転嫁をして、“浄霊では治らないじゃないか”と逆恨み的な感情を持ったのです。自分では何も努力をしないで、楳木先生、いや宗教、信仰に対して不信感を強くいだきました。

また、母親の罹病に伴い親と同居をはじめましたが、先程の理由で離婚。このときも先方は裁判を起こし親権を得る手段に出ようとしましたが、長男を引き取ることが出来たのも先生が仲裁してくださり、協議離婚にしてくれたおかげなのです。しかし、お世話になりながらも“宗教にたいする不信感”と称して、勝手な感情でごまかし心から感謝することはありませんでした。

それから妹が自分の幼児性やパチンコ依存症を取り除くためにはどうしたらよいかを考え、先生との面談をお願いしてくれました。最初はいやいやながら受けていた面談でしたので自分には、何ひとつ指導されることの意味が理解出来ず、面談でそのことを指導されたときはわかったように感じても、時間が経過すると忘れてしまうことを繰り返していました。

子供の保育園、そして小学校で大役を平気で引き受け、その都度問題を起こしては親が尻拭いをしてくれて自分では何一つ解決できずに時間が過ぎました。楳木先生から「歳相応の精神年齢に達していない」と繰り返し指導を受けましたが、最初は“違う”と心の中で否定し、“親が厳しいからだ”と呟(つぶや)いていました。

窮地に追い込まれて面談内容を理解

しかし、あることで数ヶ月間別世界に隔離され、その時少しずつ自分の中で「いい年になって同じあやまちを繰り返して親、妹弟に心配をかけるのは、自分の考え方が本当に精神年齢に達していない。大学時代に習得すべきことをパチンコに熱中して怠ったからだ」という、先生からの指導の意味がわかるよになりました。

”お前が一番”という育て方をされ、自分の中でも”どうにかなる。いざとなれば親がどうにかしてくれる”という思いを捨てきれずに無意味な人生を送って来ましたが、どうしても自分が生まれかわらなければいけないと思うよになりました。

そのためには自分では、何もできないから先生との面談で本当に生まれ変わるためには、なにをすればいいのかを指導してもらわないといけない。このままでは残りの人生を有意義に送れないと思い、先生からは見放されそうになっていましたが、頭を下げてお願いして面談を続けてもらいました。「毒と神様は舐めたらいかん!」と幾度となく言われていましたが、自分が窮地に追い込まれてはじめてその意味がわかったような気がしました。

自分では、絶対にばれないと思っても必ず妹の耳に入り、ばれてしまう。そのとき妹からは、「夢に必ず母が出てきて教えてくれる」と口うるさく言われていました。

“隠し事やごまかしはできない”と自分に言い聞かせながら、生まれ変わりたいと思うようになって、自分が長男であるということも思わずに生活しはじめました。妹からの指摘も、“兄”“妹”という概念を捨てて素直に聞き入れるようにしました。

そうした心になって初めて、楳木先生との面談を通して本当の意味で生まれ変わるために必要な事が、理屈ではなく心底わかるようになってきました。自分一人では決して生きていけない。しかし生きていくうえで人間として最低限やらなければいけないこと、それは普段の掃除と整理整頓である。これは、妹からの指摘を受けながら毎日続けられるようになりました。また、隠し事も全くなくなりましたので自分自身日々気持ちよく過ごせることができています。心が初めて晴々として、明るくなったと言われるようになりました。

人間とは、不思議なもので後先のことを何も考えず、自分の欲求、そして幼児的な考え方しかできなかったころ、パチンコをやりたいがために借金をつくり、隠し事やごまかし事をしてきましたが、今、楳木先生との面談を通して本当に生まれ変わりたい気持ちが強くなり、そのことを言い聞かせる事で自分も日々気持ちよく過ごせることが出来ています。自分の行動に対してあれだけ口うるさかった妹から最近、「兄ちゃん明るくなった、元気が出てきた」と言われるようにもなりました。しかし、自分がここまでこれたのは、何があっても見捨てずにいてくれた妹夫婦のお蔭であると感謝しています。

今回のケガを通して自分の過去を振り返ることができ、楳木先生との面談を通して大学時代で止まっていた精神年齢が少しずつですが歳相応になっていると感じられるようになりました。

切断を免れた指先、傷口の後は決して消えませんが仕事に復帰できて、自分では予想もしていなかったチャンスを与えてもらいました。それは、新設備の導入が決まり、責任を任されたことです。それを確実に自分のものにするには、今後どうしていけば良いかを楳木先生に面談を通して指導を受け確実に実行しています。

「毒と神様は舐めたらいかん!」このことを肝に銘じて残りの人生を有意義に過ごしていきたいと思います。本当にありがとうございました。

≪解説≫
浄霊の恩恵と『宗教改革』の意味

メシヤ教代表 楳木和麿

1.幼児性、依存性、勘違いの修正

精神の癖を取る取り組みについて、以前の久民さんの体験記を通して触れたことがあります。三千年来の罪穢れと並行して、私達の精神活動にも癖というものが染み付いております。そして、その上に成長過程で刷り込まれたものが本来の魂を曇らせています。この刷り込みで付いた精神の癖は自己教育の積み重ねで変容でき、魂の本来の輝きを取り戻すことができます。

ところが、三千年来の罪穢れからくる魂の曇りは自己教育や努力だけでは容易に取り除くことはできません。

また、一口に言う「宗教に対する不信感」というものは、宗教団体が本来の宗教の使命を全うしていないことに加えて、そうしたものの複合で生じております

久民さんには原稿の後半部分を数度書き直してもらいました。私は体験記というものの添削を余りしないように心掛けておりますが、今回は精神の変容を重視したいために書き直しを依頼しました。取り分け生活における変化は、信じることで変わったのでも、宗教への不信感をなくしたから変ったのでもありません。自分自身の愚かさ、無知さ、勘違い、幼児性、依存性に少しずつ気付き始めたから変化したのです。

ご本人には酷な表現ですが、面談を通して指摘されたことがやっと理解でき始めたからです。その辺りの記述が短絡的過ぎるので書き直していただき、皆さんの参考にしていただきたかったのです。

短絡的になるところは幼児性が抜けきれていない点でもあります。指摘されたことを軽く見て、できてもいないのに“お前が一番”という親の育て方のためにできると錯覚してしまう癖が原因にあるのです。経済的に恵まれてはいても、不幸な環境で育ったことになります。大分県日田市は天領地として知られている通り保守的なところがあり、未だ封建的な考え方が残ってもいます。そうしたものの中で“負”の部分として刷り込まれたのが、“長男のお前が一番”という言葉なのです。

また、大学時代に懸命に学習を重ねなければ、他の人の優秀さと自らの浅学さに気付きません。何故なら、選抜された人が集まるからです。やっと入学できた人でも良き教師と出会うことにより開花します。より上の大学を目指した人も諸事情で入学してきます。様々な才能が交じり合い切磋琢磨するところなのです。それを称して“人脈を得る場”というのです。バイトや遊びに呆(ほう)けていると、肝腎なことが見えてこないのです。

だから、本来幼稚園や学校の役職を受けてはいけない立場であるはずなのに、平気で受けてしまう。少し調子が出てくると大柄な態度になる。できもしないのに約束をしてしまう。そうしたことが続けられてきたのです。勿論借金も、できもしないことをできると勘違いするところから膨らんでしまいます。

借金の場合、大変な苦労をしてでも、例えば親から見捨てられたかのように感じても自分の力で完済すれば、依存性は生じないのですが、仮に親が尻拭いをすると、その瞬間に依存性が生まれます。生まれるというと誤解を招きますが、依存性が親子間にあり、それが浮き出てくるのです。

尻拭いをするのは、親の当然の心情からのもののように受け取られがちですが、実は子供へ依存していることの裏返しなのです。そうしたことを総合して推察すると、久民さんの場合はお母さんがご自身の命を引き換えに立ち直らせようとされたように受け止められます。何故なら、久民さんの隠し事を悉く妹さんへ知らせているからです。久民さんは当初、それを鬱陶しく感じていました。その感覚が実は幼児性なのです。

以上のような勘違い、依存性、幼児性を丁寧に指摘しながら、染み付いた精神の癖を取り除いてゆかねばならないのです。それが宗教の本来のお世話です。しかもお世話に当たる側も、その作業の中で自分自身の精神の癖に気付き、向上を目指すことができるのです。それが、『因縁の人が因縁の人を導く』ということの一つの意味です。

ですから、そうしたお世話をしない宗教は存在意義がないことになります。また、信仰をさせていただいて、人様のお世話に取り組まないということは、学びの機会に恵まれず“もったいない”ことになります。

話を久民さんへ戻しますと、絶体絶命の窮地に立たされたことで立ち直る心が芽生え、自らの指を切断せねばならないところを浄霊によって御守護いただいたことによって本物になりました。実は、絶体絶命の窮地は大学の時だったのですが、お母さんが尻拭いをしてしまったために、ごく最近まで持ち越されてしまったのです。また、浄霊の奇蹟は現実の危機を救いますが、神様の存在を認識することができ、『隠し事はできない』と心底思えるようになり人生の大転換を迎えることができたのです。

自分の危機を救ってくれた神様のお言葉であるからこそ、御教えを本気で学ぶ姿勢も生まれるのです。しかも、評論的に読むのではなく、自分自身を立ち直らせるために拝読するのです。そして御教えに基づいた話を素直に受け入れることができるようになるのです。

指の切断を免れたことは一時的な御守護と言えますが、人生の大転換を図れたことは永遠の御守護なのです。浄霊は、現当利益であると共に永遠のものを私達に齎(もたら)してくれるのです。大変素晴らしいことなのです。

(「メシヤ講座・特選集」は本部月次祭で読み合わせをし誤字脱字などを校正してアップしますが、今回はご本人に読み上げてもらったところ感極まって声を詰まらせてしまいました。感動を呼びました。また、面談は月次祭当日以外は電話での面談に終始しています。)

2.浄化を乗り越える子供の姿に喜び

素晴らしいということでは、8月のメシヤ講座でも大変なことがありました。大阪会場のメシヤ講座にご参加の30代のご婦人がいます。神慈秀明会所属で「自己放棄」体験者です。この方のお子さん(小学4年生と幼稚園年長)がアトピー性皮膚炎で、これまで中々治らず悩んでいました。

3年前より薬を止めるように心掛けてはいるものの、“神慈秀明会式の浄霊”では解決を見ないままでした。メシヤ講座で体験談を写真入りで紹介したこともあり、本来の浄霊で取り組んでみようという決心をされました。そして、いざ“神慈秀明会式でない浄霊”を始めますと毒素排泄作用が始まりました。4月には以下のような質問メールをいただきました。

<質問メール>

子供の事で相談があるのですが、春になってアトピーが酷くなり困っています。

二人とも首、肩、ひじの裏、背中、ひざの裏が特に酷く、毎日かきむしっています。お腹にも湿疹がいっぱいです。目もかゆがってこすってしまうので今度は痛いと言っています。たぶんアレルギー性結膜炎だと思うのですが、痒みが治まらない限りまたかいてしまってなかなか治りません。

上の小学生の娘は体中かさぶただらけで肌の色もどす黒く変色してしまっており、下の息子は痒い痒いと毎日夜中に泣き出して夜も眠れません。主人はこれでは眠れないので医者に行って痒み止めでも貰ってきた方がいいんじゃないかと言うのですが、どうしても薬漬けにして浄化をおさえてしまうのも抵抗があります。

そろそろ暑くなってくるので半そでを着ることも増えてくるし、昨日は幼稚園で半そでの体操服を着せたら同じクラスの友達にひじの裏をみられて、「ここどうしたの?うつるの?」と言われていて悲しくなりました。

毎年春は酷くなるのですが、今年は特に酷いです。もうすぐ健康診断もあるし憂鬱です。

もしこんな時の浄霊の急所があるなら教えていただきたいのです。お忙しいところすみませんが宜しくお願いします。

<返信メール>

二人とも首、肩、ひじの裏、背中、ひざの裏が特に酷く、毎日かきむしっています。お腹にも湿疹がいっぱいです。

アトピーの場合、肝臓、腎臓、小腸をしっかり浄霊してください。そして、症状からは脇の下と鼠蹊部を加えてしっかり浄霊することも大切です。

>目もかゆがってこすってしまうので今度は痛いと言っています。

目に出る場合は、加えて後ろ頭と首筋をしっかり浄霊してください。

今月12日は、三重支部発会式でした。田中さんや高井さんも参列しました。この三重支部の責任者は濵口さんと仰いますが、娘さんがひどいアトピー性皮膚炎でご神縁をいただいています。一年で奇麗になっています。次回「メシヤ講座・特選集」に収録し、写真も掲載しますので、参考にしてください。
お大事にしてください。御守護をお祈りいたします。

<質問メール>

子供達は相変わらず毎日かきむしっていますが、教えて頂いたとおり、頑張って浄霊してあげようと思います。ありがとうございました。

――というメール交換をしてご本人は継続して取り組みました。ある時は、ご主人が腹を立て自室のドアを穴が開くほど殴ったと言われました。その話を聞いた時には、失礼ながら“途中で挫折するかもしれない”という思いがよぎりました。

それが、8月の月次祭には夏休みだったので二人のお子さんを連れて参拝されたのです。二人のお子さんは見事に浄化を乗り越えられていたのです。知らなければアトピー性皮膚炎であったことは判らない程にきれいになっていたのです。

お子さん(長女)に「よく頑張ったね」と声を掛けると、「ハイッ」という返事と共に爽かな笑顔を返してくれました。私の胸は大変な喜びに満たされると共に、メシヤ様へ感謝させていただきました。そして何より、お母さんであるそのご婦人のメシヤ様の御教えを信じる心、浄霊の実践に徹する姿勢、信仰心に敬意を持ちました。

今後も、毒素がある間は再浄化を繰り返すと思われます。お聞きするところでは保湿剤を使っていた時期があり、知らずに医者からステロイド系の薬を使用されたこともあるそうなので、残留する箇所に痒みが出ることもあると思われます。今後もご婦人の根気が続き、メシヤ様をまっすぐ求めつつ御守護をいただかれることを願っています。

3.「夜の時代」の癖を消滅

このように浄霊で素晴らしい御守護をいただくのですが、大切なことは御守護を賜った後も『浄霊』の文字の如く霊を浄める取り組みを続けることなのです。それが、冒頭述べました精神の癖を取り除く作業です。

その作業の中で、注目していただきたいのが浄霊の御力の発露です。浄霊の御力は『夜昼転換』がなされたからこそ、私達に授けられたのです。また浄霊なくしては、『夜の時代』であった三千年間の罪穢れを解消することはできないのです。ですから、浄霊の究極的な目的の一つには『夜の時代』に染み付いた精神の癖を取り除くことにもあるのです。

薬毒と三千年来の罪穢れからくる魂の曇りを甘く見ては大変なことになります。『夜の時代』の象徴的な精神の癖は、闘争心、敵愾心といった形で浮き出てきます。御神業に臨ませていただいていても、認識不足で進めていると『夜の時代』に染み付いた精神の癖に翻弄されてしまうのです。

そのために明主様(メシヤ様)教団であっても“和”が乱され、内紛・分裂が繰り返されてしまうのです。これの始末が悪いのは、自分が正しいと思っていることです。“和”を乱すことが目的で、その経緯は二義的なことであることが、御教えを深く求め続けなければ認識できません。御教えは、そうしたことを前もって教えられているのです。

取り分け布教師は因縁が深いと言われております。因縁は『夜の時代』に高位にいた者ほど深いことは自明の通りです。当然世渡りの上手さやある種の力も有しております。しかし、メシヤ様に出会って、善言讃詞にあるように『天魔羅刹も服ひて・・・』ということになるのです。この認識のあり方が肝腎なのですね。

以前「ご参拝の時に善言讃詞を唱えるのみならず、日頃から善言讃詞を心掛けることが大切である」ということをお話してありますが、言葉と共に中身を自らに質(ただ)してゆく姿勢が大切なのです。そのためにメシヤ様は、先達に『布教三訓』や『るナ三訓』の基になるご指導を繰り返されているのです。中でも『裁くなかれ』は必須中の必須なのです。

それは、『夜の時代』に高位であったことが、威張る、怒ることを常とし、自分を正当化する癖が残っているからです。それ故に三訓は深い意味があります。

4.浄霊に関する問い合わせ

9月は、浄霊に関する問い合わせの中で特徴的な話が幾つかありました。一つはまじめな性格の人ほど、「私のような穢れ多き人間が果たして浄霊力を身に付けられるでしょうか」と訊ねます。「何時も人様の幸せを祈ってあげるほど高尚な人間ではない自分が、浄霊力を身に付けられるでしょうか」という問も多くあります。

これも『夜の時代』の癖の一つからくる問いですが、絶対他力ということの認識を重ねてお伝えしなくてはなりません。しかし、これらの質問は一面示唆に富む内容でもあります。それは、浄霊のいただき方が病気治しに偏らないということです。そして、浄霊が浄霊の奇蹟のみに終わってしまわないためということです。

浄霊という御力を見せられて、神様のご存在を認識するようになり、そのお言葉である御教えを信ずるようになります。信仰する上で大切なことは浄霊で奇蹟をいただいた後の姿勢です。浄霊の力の源であるメシヤ様の垂れた御教えの実践が真の救いをくださるのです。

また、段階を経て御経綸を学ばせていただきますと御経綸に沿って生きることを許されるようになります。そうした時に感謝や生き甲斐に満たされ、明るい生活を送ることができるようになります。

また、「浄霊の際にズーッと相手のことを念じなければいけないのでしょうか?」や「浄霊の際に雑念が出た場合どうしたら良いでしょうか?」という質問もよく受けます。祈祷のような既成概念がそうした疑問を生むのかもしれません。

浄霊は絶対他力ですので「メシヤ様からの光が自分の中をスーッと通り抜けるような気持ちで、手の力を抜いて取り次ぐことが大切です」と念を押します。「手の力を抜く」ということと「相手を光が貫くように」ということの両立を心掛けることが大切なのです。

また浄霊をいただく場合は、どなたからいただく場合でも直接メシヤ様からいただいている気持ちでいただきます。これに勝る姿勢はなく、取り次ぎ者の手の平からスーッと光が自分の中に貫かれてくる気持ちでいると余計なことを考えずに済みます。

5.厳粛な気持ちにさせられる子供の姿

また9月には厳粛な気持ちにさせられる出来事がありました。広島支部におきまして8月に一家で入会を希望されたご家庭で起きたことです。

8月下旬に、その奥さんから電話が入りました。「主人が“何時御神体が来るのか”と聞くのです。私は“まだ申し込んではいない”と答えると“わしが入会するということは、御神体をいただくということだ”と言うのです。我が家で御神体をいただけますか?」と尋ねてきたのです。

支部の月次祭に毎月参拝し「メシヤ講座」での学びも重ねてきており、一家で入会されたので「よろしいですよ」と答えました。そして、9月初旬にご主人のお母さんと面談する予定がありましたので、その際に奉納金をお預りする約束をしました。

9月の面談時にご主人のお母さんとの話を終えると、奥さんが「実は・・・」と口を開いたのです。御神体の申し込みをした夜に、一歳余のお子さんが御神体をご奉斎する予定の壁に向かって「まる」と言いながら指先で「○」と書くのだそうです。「どうしたの」と聞いてみると、御神体のお文字が見えると言うのだそうです。この話を聞いた瞬間にハッと厳粛な思いになりました。

兼ねてより「御神体を申し込むと同時に御神霊のお働きをいただける」とお取り次ぎをし、三重支部発会式でも責任者の報告で同じように拝されたことが告げられましたが、まだ字も読めない子供の目に映じたことに驚かされました。

そして先程来の話同様、地上天国建設の必須である神様のご存在の認識について深く考えさせられ、否応なしに御神体ご奉斎の意義を学んだ出来事でした。

6.お彼岸に纏わり「おくりびと」鑑賞

9月の出張中に、彼岸入りの午前中に空き時間ができましたので映画「おくりびと」を観ました。

「横たわる遺体に死装束を着せ死化粧を施す。その身のこなしは歯切れよく威厳を保ち、なおかつ静謐な優しさに満ち溢れている。人として生まれてきた者が、現世での役目を終えて静かに旅立っていく。その支度をととのえる役目を背負った主人公の姿を通じて、死と向き合うとはどういうことかを問う。若い命を散らして両親が泣き叫ぶ死もあれば、大往生して笑顔でサヨナラという死もある。葬儀の場で遺族の見せる表情が故人の生き方を饒舌に物語り、それを見つめる主人公もまた、さまざまな死から自分の人生を問い直していく。」と評されており、涙と笑いを適度に誘う中々の力作でした。

館内は三世代のご婦人連れや熟年カップル、老夫婦など、老若男女が入り混じる不思議な光景でした。中には場に似合わぬ風体の人もいましたが、その人もしきりに涙を流していました。

主人公が“メリハリの利いた所作を身につけ、故人の希望をかなえるうちに遺族に感謝されるような納棺師となっていく過程で、プライドすら持つようになっていく”様がよく描かれており、“「死」の一つの本質を見極めた見事なラストシーンだった”と評されるだけのことはありました。 しかし、映画を楽しみつつも別の感懐にも浸ったのです。

もともと納棺は遺族の勤めであり、その前に遺体を拭き清めるのも遺族のすることであります。その際、ご遺体を衆目に晒さないように線香の煙を内輪で扇いで見えないようにするのが死者への礼儀でありました。それが他人に任せざるを得ない社会になりつつある、という現実でした。

出産から他界まで人任せになり、その場面に立ち会えなくなってしまった現代人の現実は、果たして人間の尊厳性を維持しているのだろうか、と思わされます。また、お坊さんが引導を渡せなくなったことにも起因しているとも言われています。既成宗教は経済至上主義に押し流されて事業展開に現(うつつ)を抜かし、新興宗教は現当利益を狭義で捉えてしまっています。

『死者の顔の相が霊界の行き場所(天国、中有界、地獄)を示している』と教えられているだけに、本来そのお姿を直視して慰霊に取り組む姿勢づくりを明確にせねばなりません。そのためには、霊界の存在、霊界の実相を知らせてゆかねばならないことは自明の理であります。

7.『宗教改革』の意味の深さ

今回取り上げた事例から御神業の方向性を改めて考えさせられます。『宗教改革』の持つ意味の深さも痛感させられます。

浄霊の絶対的救済力は本来のあり方を求めてゆけば更に強化されます。強化されればされる程、私達は御教えの確かさを認識し、御経綸に沿った取り組みをせねばなりません。御経綸は『夜昼転換』ですので『夜の時代』に染み付いた精神の癖を取り除く作業を自己教育の中で進めてゆかねばなりません。

そのためにはまず本来の浄霊法の宣布です。「2.浄化を乗り越える子供の姿に喜び」で触れましたが、神慈秀明会のあり方は“もったいない”ですね。“自己放棄”まで取り組むということは、純粋であるということです。その純粋な信者さんへ本来の浄霊法を教えてあげれば、どれほど幸せの輪が広がるかわかりません。

因みに“もったいない”ということでは、天聖真美会でも同様なことが言えます。会長側近者であった人の話では、『浄霊法講座』(もしくはそれに近いもの)を発刊予定だったそうですが、発刊準備ができた段階で時の総長が“信者が楽にお蔭をいただいてしまう”と言って発刊中止を指示したそうです。『浄霊法講座』及びそれに類する御教えは、当然発刊できると思われます。何故なら、『岡田茂吉全集』が世界救世教から贈呈されているからです。

それにしましても、両団体ともメシヤ様信仰では考えられないような風聞を耳にします。それは単なる批判という領域を超えているということです。メシヤ様のご精神から離れて教団運営をしてしまうと、『夜の時代』の癖で宗教を形成してしまいます。文言ではメシヤ様の言葉を用いながらも、所謂既成概念で信仰を形成してしまうのです。私達は今それを目の当たりにしていることになりますので、適切に対応しなくてはなりません。

その点を鑑みれば、現在進めている「世界救世(メシヤ)教」復興事業は、もっと深いところを見つめ、踏み込んだ取り組みをせねばならないと痛感させられます。以前発表した趣意書を作成する段階では、各団体の深い闇まで知り得ていなかったからです。そしてこのことは、前回触れた「ある企み」とも密接に繋がってもいます。

心ある人々と共に祈りを一にして取り組んでまいりたく存じます。

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