<御教え>
世界救世(メシヤ)教早わかり
(昭和25年11月20日)
救世主
抑々(そもそも)、救世主とは何か、いう迄もなく文字通り世を救うべき大使命を負って生れたる大聖者であって、事実は歴史有って以来、未だ顕現したる事のないのは勿論である。之に就て私自身の偽らざる告白を、赤裸々に露呈し、現在私が行いつつある聖業に就て書いてみようと思うのである。
私というものが今行いつつある救世的活動は、人類全体からみれば何万分の一の小範囲かも知れない。然し乍(しかしながら)日に月に救はれる人が殖えつつある現状からみて、将来は如何に大規模に救われるであろうかも想像され得るのである。
私は見えざる力を盛んに行使してゐる―というと唯物教育を受けた現代人はそんな馬鹿な事があるかと、山師的とみるかも知れない。何となれば見えざる力などとは余りに非現実的であるからである。それも無理もないが、もし真に現実であり、実證的であるとしたらどうなるであろう。実に空前の一大センセーションを捲き起さずには居れないであろう。
私が信徒を介して行う間接的力によって、絶望と決した難病が治り、決定的死の運命が復活され、健康人間として活動されるようになった実例は、実に今日迄何万何十万を数えるか判らない程である。古往今来人間の寿齢なるものは運命のままに委せられ、文化の進歩も医学の発達も、之ばかりはどうにもならないとされて来た事は言う迄もない。処が右(上記)に述べた如く、人類唯一の欲求たる生命の延長が、可能となったとしたら、此(この)実相を把握し、信じ得る人の歓喜は如何ばかりであろうか、恐らく形容の言葉もないであろう。然し此(この)事実を人の言葉や本教刊行物によって知ったとしても。直に受け入れられない事は致し方あるまい。或者は迷信とし、或者は大山師と見るのも亦(また)当然であろう。
併し乍ら精神病者以外、如何なる人間と雖ど幸福を冀(こいねが)はぬ者は一人もあるまい。凡ゆる幸福条件が具備されたとしても、ひとり健康を得ないとしたら、その幸福は零以外の何物でもない。キリストは曰った。「人、全世界を贏(もう)くとも、己が生命を損せば何の益あらん。又その生命の代に何を与えんや」とは宜(むべ)なる哉である。実に健康程貴重なものはあるまい。人生幸福の全部は、健康の二字に尽きるといってもよかろう。
本教によって救われた処の幾多の実例は、本教刊行物に満載されている。勿論病気ばかりではない。危険に直面した災害から救われたり、貧困が解決されたり、不幸な人も幸福者になった等々、感謝感激の報告は机上に山を成している。
私が今行いつつある救いの業は、養成された幾万の弟子に行らせているが、彼等は日々数え切れない程の奇蹟を表わしている。その結果としての教線の拡張進展は世間の問題とされる程に見ても明かであろう。
人類史上、古来大宗教家も大聖者も幾人か表われた事は文献によっても、現存せる事蹟によっても知らるる処であるが、今私が行っているそれとは比較にならない程の異いさがある。そうして彼のキリストの再臨もメシヤの降臨も彌勒下生も、転輪菩薩の出現も、上行菩薩の出生も、時の問題であろう。何となれば現実性のない荒唐無稽の予言を、数百数千年以前からされ給う筈はないからである。
元来、私は大聖者たろうとも、救世主になろうとも望んだ事は些かもない。何となればそれほどの自分とは思っていなかったからである。只若い頃から人類愛に燃える余り、宗教人となって大いに世を救いたいと思っていたばかりである。処が宗教界に入り或程度の修業が終った頃、私は神霊の啓示を受けると共に、時の推移するまま不思議な事が次々に起て来た。そうして予想だもしなかった驚くべき霊力を与えられた事である。而も途方もない運命の転換は私をして驚嘆せずにはおかなかった。実に奇蹟から奇蹟へと進んでゆく、之を例えていえば、私が何かを冀(こいねが)うと必ずそれが実現する。私が墨で紙へ文字をかくとその文字が生きて躍動する。その紙を畳んでお守りとして懐へ入れるとその刹那から気持が明るくなり、奇蹟が起り始める。人の病気を治し得る力も発現する。不幸な境遇の人も漸次好転する。又私が書いた文字を床へ掛けたり、額にかけたりするとその文字から光を発し、肉眼で見る人もよくある。勿論家庭も明るくなり、農家に於ては忽ち収穫が増したりして、家庭は漸次天国化するという実例は多くの信者達が常に異口同音に唱える処である。
以上述べたように、不思議な神業が行わせられる私としては、救世の大使命を遂行させんが為、神の代行者としての神護を与えられていると思っている。従って今後の本教の活動を充分観られん事で、それを以て批判の的とされたい事である。
以上は、本教の大体をかいたのであるが、猶(なお)一層深く研究されたい方の為に別紙の如き一覧表を添えてありますから、誰方でも気軽くお訪ねになればよく教えて呉れます。又本教刊行の新聞雑誌を初め、書籍類も当所に種々ありますから、精々御講読あらん事を御勧めするのであります。
(以上で「世界救世(メシヤ)教早わかり」は終了です。)
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≪解説≫
真の『幸福感』に包まれる
メシヤ教代表 楳木和麿
1.「信仰読本」改訂の意味
前回の「御神体ご奉斎」特集に併せて、メシヤ様の“御神格を確定”という表現に触れたこともあり、問い合わせが多くありました。「信仰読本」に記してある参拝の姿勢を再確認していただければ幸いである、と強く感じたところです。また、御教えをよく拝読している方ほど様々な問い合わせを寄せてくださいました。
中でも、御神体そのものに対する「我々人間が主神様に直接ご祈願をするのは恐れ多い、というご趣旨の御教えが気になります。」や「そのご存在を考えると、主神様をご奉斎するのに、一般家庭のお床や壁が果たして相応しいのだろうか、ということを感じます。」などという声は、もっともな感懐であろうと思います。
しかし、御教えによって私達は主神様の御経綸ということを知り得ることができました。そして、「主神」、「経綸」という言葉は度々口にするのですが、これまで主神様に感謝するという心の営みは具体的になされていない面がありました。また、その御経綸に沿って生活する上で御力をいただく祈りも捧げて来なかった面があります。
メシヤ様は『表現し奉る言辞もなく、文字もなく、ただ無限絶対の力徳の中心であり、一切の根源であると申すほかはないのである』と御教えくださっております。限りなく高く貴く大きい御存在に対して感謝申し上げる術を提供している、ということが第一点にあります。
次に、「宗教宗派を超えた浄霊力伝授」ということがあります。このことに関わる御神体のお話は、重々しく伝わるきらいがあるのでこれまで控えていました。
宗教宗派を超えて浄霊力を授けるご啓示をいただいた折りに、御神体のお文字を示されました。ですから、御神体と宗教宗派を超えた浄霊力伝授はセットなのです。かと言って「宗教宗派を超えて浄霊力が伝授される」ということは、一旦体験してしまえば私を通してでなければならないということではなくなります。
宗教宗派を超えての浄霊力伝授は、各地で体験を重ねている人が急増していますので、ご啓示が確かであるということに外なりません。“間違いないものであった”のですが、これは 先ほども述べましたようにお伝えした時点で私の専売特許ではなくなってしまう性質のものです。
大勢の人がその恩恵に浴すことができることこそが喜ばしいことなのです。しかし、「素晴らしいことになった」と有り難がったり、「本来そうあるべきだ」としたり顔で論評するだけで良いものでしょうか。意義を承知すればする程、日々感謝の祈りを捧げ、御心に適う生活を送らせていただこう、と考えるのが本来の信仰者です。
もっとも、それならばメシヤ様のご尊影が御神体として相応しいと結論付ける方々も大勢いらっしゃいます。ご昇天後幾つかの教団で御神体としてご奉斎させていただいています。メシヤ様を求めるあり方として異論のあるはずはありません。しかし、その時点では宗教宗派を超えての浄霊力伝授は許されていなかったのです。今は、宗教宗派を超えて浄霊力の伝授が許される時を迎えているのです。
三点目としては、御経綸がなければ私達は地球上に存在を許されていませんし、今後も存在を維持することは出来得ません。そのことを深く受け止めて生活する姿勢づくりを日々行なう機会を持つ、ということです。
このように、主神様、メシヤ様に真向かう本来のあり方をお尋ねした時に、その答えとして御神体のご啓示をいただいたのです。そうした意義の再確認を図るために、昨年「信仰読本」を改訂したのです。
無限絶対の宇宙の主宰者という御存在に感謝を捧げ、「具体的な祈りをメシヤ様に捧げる」という姿勢が大切です。このことは、信仰読本「『祈りの栞』に寄せて」の「四、主宰神」と「五、教祖」の項に記述していますので、冒頭に述べたように再読していただければ幸甚です。
主神様とメシヤ様のご関係は曖昧なままに過ごされたことは事実です。そのために内紛が繰り返された訳ですし、分派を発生させてきました。これは人間の甘えであり、怠慢でもあります。そして、何よりも、ある企みに対する敗北でもあります。
そのことを自戒しつつ、主神様の御経綸を深く受け止め、メシヤ様の御手足として確かな歩みをさせていただきたい、と願っております。
2.情報の受け止め方
主神様の御経綸を深く受け止めて生活させていただくあり方については、『物を識る』という御教えに基づいて幅広く情報収集を心掛けることが重要になってまいります。
例えば、先般行なわれた洞爺湖サミットについて、就任したばかりの斉藤鉄夫環境大臣は内閣メールマガジンで次のように述べました。
「地球温暖化問題をはじめとする環境問題は、人類の未来に関わる問題であり、福田内閣の最重要課題です。環境の党を掲げる公明党として、最も重視している分野でもあります。
先日の北海道洞爺湖サミットでは、地球温暖化問題が中心的なテーマとなり、取組の強化に向けて大きく前進することができました。“低炭素社会”の実現に向けて、ビジョンを具体的な取組に移す時です。国民、市民団、産業界など国民各層の協力の下で、日本の優れた技術力をさらに発展させながら、日本で“低炭素社会”を実現し、世界をリードしていきたいと思います。皆様のご協力をよろしくお願いします。」
低炭素社会の実現を目指す取り組み自体には賛同できるのですが、識者からの疑問符が後を絶ちません。サミットについては、「原子力エネルギー基盤整備を進める合意を盛り込み、“環境サミット”ということに名を借りて“原子力発電所の建設”に拍車をかけるセレモニーになった。」、「二酸化炭素排出権取引などは、“恐怖と利益の法則”に沿って人を動かし、新たな利益を生み出すことで、これらは逆説的にサミットらしいものだ。」と酷評する人もいます。
また、東京大学の松井孝典(たかふみ)教授(地球物理学)は「われわれのように宇宙から俯瞰(ふかん)した視点でみる者は、(二酸化炭素)排出権取引で地球温暖化が解決されるという議論はナンセンスの極みだと考えています。(文芸春秋・八月号)」と述べています。
その理由について、そもそも環境問題というのは、地球と人間と、それから両者の交わる「人間圏」にかかわる問題で、宇宙から地球を見る俯瞰的な視点が必要だということを強調しています。その視点から言えば、実は地球そのものの気候が温暖化しているかどうか、専門家であっても断言できない、というのです。気候変動には様々な要因があるからでもあります。
現在の人間は、一年間で地球が本来なら十万年かけて循環させる量の物質を移動させているそうです。しかも人間が石油を使い始めてから、わずか二百年足らずで、地球史でいえば数千万年ぶんの変動が起きてしまい、これが地球環境問題、食糧問題、資源エネルギー問題などの本質だと指摘しています。
これは「地球システム」という考え方を認識しなくてはなりません。地球システムを構成する要素の一つに植物や動物などが作る「生物圏」があります。元来、人間も生物圏の種の一つにすぎなかっが、約一万年前から食物連鎖を離れて人間圏という新しい構成要素を作り上げた、とする考え方です。
最初は「人間圏」も雨や太陽光など、自然の物質やエネルギーの流れを利用していたので、地球システムとも調和していたが、化石燃料を利用するようになって急速に人間圏が拡大しました。人間は自分達の欲望を満たすために地球システムが長時間かけて生み出した石油などの資源を短期間で消費するようになり、その消費量も右肩上がりに増加して、先程の話のように現在の人間は、一年間で地球が十万年かけて循環させる量の物質を移動させていることになるのです。
3.物を識らないと勘違いが起きる
その意味で、「環境問題を考えるためには、人間圏のみを研究対象とする工学や経済分野だけではなく、地球と人間の両方を理解している人たち、地球物理学者や哲学者などが議論に参加しなければなりません。ところが現在は政策決定はおろか、学術会議の議論からも締め出されている状況です。」と述べる同教授の話から、ものの捉え方を新たにさせられます。
また、話の中で解説される学会の状況については、「地球システムの理解の曖昧さについて議論されると困る人たちがいることでしょう。たとえば“環境科学”なるものを標榜している工学系や農学系、あるいは経済学系の人たちです。彼らは自分達の活動分野を拡大して、予算の獲得を目論んでいるようにも見えます。こういった人たちが政策決定や学術会議などの議論を牛耳っているのです。」と述べており、大変考えさせられます。
総体的に身辺の課題となるのは、次の話です。
「ここ十年ほどですが、やたらと素人の意見が重要視される風潮がありますね。政府の審議会に行ってもそれを感じます。専門家より、市民代表といった立場の人の意見が大切にされる。これだけ社会が複雑になっているのに、自分が見聞しただけの知識で情緒的な判断を下してしまってよいのでしょうか。ある時から日本には、プロフェッショナルがいなくなってしまった。」
「物理を選択する高校生が10%を切ったという。私の時代では60~70%はいた。物理というのは『もののことわり』と書くように、合理的に物事を判断する能力を養う科目なんです。」
地球環境を教える地学にいたっては、選択率は1%を切っているというのです。地球環境を考える前提が綻(ほころ)びているのです。地学で得る基礎知識は、メシヤ講座で主神様の御経綸を学び合う場合に必要な知識の一つでもあります。
そうでなければ、大きな地震が来るとその地震自体を最後の審判のように捉えてしまうのです。日本列島北部には3つのプレートが交差していて、プレートは動き続けています。地震のエネルギーは周期的に蓄積されているのですから、何時かは地震が起こります。過去大地震は繰り返されており、それは最後の審判とは言えません。
地震が起こることを前提にして、普段の備えを怠らないことが大切ですので、その取り組みの不備さの度合い、あるいは対応の仕方のあり方に“型”を見い出さねばなりません。御教えによれば、物事の不備は“精神病”からくるのです。そして精神病の要因は『薬毒だ』と警鐘を鳴らされております。
こうした薬毒による精神病に加えて、突然変異原性による疾患の蔓延が、最後の審判の型なのです。
今回気候変動に対する考え方を長々と取り上げたことには、現代人に覚醒を促す願いがあります。多くの現代人が市場原理主義の濁流に流され、しかも世界情勢は猛スピードで変容しているために視野狭窄状態に陥っているからです。幅広い情報を基に柔軟な思考を心掛けることを願っております。
≪参考HP≫
温暖化問題って「ワナ」なんですか?
4.どのような問題にも対応できる御教えに基づく知識
8月は、突然変異原性による疾患の代表である癌について面接する機会がありましたが、その方は、創価学会に長年所属されて、確固たる信仰をお持ちの方でした。
この場合、私達は大要三つの観点からお話ができます。一つは、癌そのものの発症メカニズムです。突然変異原性によって遺伝子に傷害を受けた細胞はアポトーシス死するか、遺伝子の突然変異による細胞の癌化を招くことが判明しています。そのことから、自らの健全な細胞が突然変異を起こし癌細胞に変異することは広く知られてきました。
また、突然変異原性のあるものは、環境ホルモンなどの名称で知れ渡り、薬品類をはじめとする毒性の強い化学物質であることも知られてきました。ご本人の衣・食・住の中に特定される原因を見い出してもらいます。
二つ目は、毒性の強い化学物質を生活の中から排除する努力を心掛けることが予防の眼目であるということです。薬毒と無縁の生活を心掛けること、自然農法による農産物や食品添加物を使用しない食品による食生活の推奨などです。
また、精神生活によって自らの体内に各種化学物質が作り出される角度から、何気ない生活の中で続けられる心・言・行を見直すことも重要です。無意識の内に続けられる精神活動が大きな要因になることもあるからです。
そして、三つ目には絶対的な救済力である浄霊です。幸いにも入会しなくとも浄霊力を授かる時代を迎えており、改宗する必要がない訳ですので、学会の方へも気軽に話すことができます。
しかも浄霊力に対して、長いスパンで見るならば日蓮上人も関わっていることになります。何しろ『夜昼転換』の黎明期は日蓮上人の出現によってなされたことは、御教えによって知るところだからです。以前のメシヤ講座とも重複いたしますが、日蓮上人は万巻のお経全てに目を通し仏教の真髄を会得し仏教改革に立ち上がりました。
日本の伊都能売神皇が釈迦に仏教の教えを垂れたことも知り得たのです。だからこそ、仏教改革のための祈願を伊勢神宮で執り行なっているのです。因みに本来の日蓮宗の僧侶は天津祝詞を奏上することができます。
日蓮上人の仏教改革は、当時為政者と癒着し堕落していた僧侶達の企みによって迫害されたことは周知の通りです。面接した相手の方が“日蓮上人の精神”を求め“自らの信仰の延長線上に浄霊力がある”と認識することができるならば、浄霊力を拝受することができるのです。
親子で面接したのですが、80歳を超えるご本人は浄霊の話を受け入れるにはまだハードルが高いようでした。娘さんの方は、柔軟に捉えることができ浄霊に関心を示されました。御教えに基づいた話や最新の医療情報には大いに理解を示す訳ですから、ご案内された方の取り組みによって、必ずや許されることと思います。
ところで、面接の際に印象に残ったことがあります。“お題目を唱えると薬師如来が働かれて服用した薬がより良い効果を上げる”というように、教えられていることでした。『夜の時代』を象徴するような教え方でした。この話の内容から、『散花結実』の意味を噛み締めさせられると共に、時期の到来を痛感したのでした。
どのような方にも自然な形で対応できるのは、御教えによって真理を知らされているからであります。また、『宗教と科学の一致』という御論文をいただいていることで、御経綸という大きな視座で科学の発展を捉えることができるという幸せな境遇にあるからでもあります。
5.御教えのお蔭で大きな視座でものを考えられる
「メシヤ講座」参加者の中には、先駆的情報を発信し続ける人々もいます。幸い神戸会場ではこうしたことに関する情報を豊富にお持ちの方がいますので、示唆に富む話し合いがもたれます。
8月には、地球の中心付近で大きな働きを持っているコアの変化が報告されました。一つの警告ですが、地球上で磁場の変化が生じ始めるというものです。
奇しくもその週にテレビで映画「コア」が放映されました。それを視聴した方は、コアの変化によってどのような現象が起きるかが具体的に理解できたのではないでしょうか。
映画といえば、7月26日公開の「THE HAPPENING ハプニング」も一つのメッセージを発信しています。PG-12指定ですので目を覆いたくなる場面も出てきますが、風によってフォトン・ベルトを連想させるような手法を取っています。ある日ミツバチがアメリカ全土から姿を消したのを皮切りに、異常現象が始まるという組み立てです。日本でも、ミツバチが突然消えてしまった場所があります。フォトン・ベルトとの関連性から警告を発している人々もいます。
映画内で描写されている異常現象には疑問符ですが、科学者の姿勢に対して警鐘を鳴らすような台詞が立て続けに出てきます。また人類への問い掛けも幾つか出てまいります。その点を注視すれば、映画評論とは別の鑑賞の仕方ができます。
数々の情報は、下記の≪参考HP≫を参照していただけば詳細にわたって掌握できると思います。種々様々で、しかも膨大な量ですが、大きな節目が2012年の12月23日であることは共通しています。不思議な日付である訳です。しかも、マヤ歴の終末がその前日になっている点が、大きく注目されるところです。
フォトンは銀河系の中央から放射されているもので、太陽系は周期をもってベルト内を通過していると言われます。研究者の啓発は“次元上昇の時を迎える”“更なる進化を促す”等々です。恐怖感を覚えるような内容のものもあり、人類がパニックに陥る可能性もあります。
こうした情報を垣間見る時に、改めて『御経綸』という意味が重要になります。一切は宇宙の主宰者によって仕組まれたものであるからです。そのご意図をメシヤ様によって知らされております。最大の関心事は地上天国を樹立するということと、その天国に住する有資格者をつくるということです。
また、どのような時期に存在が許され、どのような時期に淘汰されてゆくのか、人間の身である私達は御教えを拠り所として状勢を見極めねばなりません。かと言って覚りが開け過ぎると、『解脱』の御教えにありますように活動力が鈍りますので、御神体について触れた項と併わせて考えていただきたい、と願います。
≪参考HP≫
フォトン・ベルト、宇宙の法則研究会
独立党
宇野正実氏講演ビデオ
話が前後しますが、創価学会の方と面接した日は、広島の「原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」の前日であったので、63年前の当日の惨状を直接聞く機会にもなりました。生々しいお話に戦争の悲惨さをまざまざと思い知らされました。
御教えによって、戦争による死亡者は霊界では特別の配慮を受ける記述がありますので救われる思いがいたしますが、改めて死没者の御救いをお祈りいたしました。
そして、その時大変印象深いお話を聞くことができました。ご本人に原爆による外傷はなかったそうですが、その方の同級生の姉が被爆して、二人で探し歩いたそうです。直接被爆した方々の顔は爛(ただ)れており、誰が誰とも判別がつかず見つけ出すことは困難だと思えたそうです。しかし、その同級生は「お姉さんに間違いない」と、特定したそうです。同級生のお姉さんは、九死に一生を得てその後に結婚もされたそうです。
姉と妹の余人を寄せ付けない絆を強く感じた、としみじみと語ってくださいました。非常に因縁深い話でした。前回の話に繋がる思いがいたしました。
6.因縁使命
前回の話を受けて、三重支部では「因縁使命」「因縁」「使命」をキーワードとして過去の「メシヤ講座・特選集」に収録した内容をプリントアウトして待ち構えてくれていました。
因縁使命については、三重支部で御神体の御光を拝した出来事そのものが因縁使命に基づいて起きた事象であると受け止めることができます。また、各会場で出た内容の中でも、前回の報告者に関わるものが大変参考になります。
横浜の中村吉郎さんは、お父様が教団の要職にあった時にご本人はまるで違う世界に興味を持ち、娯楽・エンターテイメント業界に身を置いていたそうです。お父様も「好きなように生きたら良い」というスタンスだったと言います。
ご家族やご親戚からも「御神業とは関係のないところで生き続けるだろう」と思われていたようです。
そんな時に、前回の報告の中で「母方の祖父がメシヤ様とのご縁を許されるきっかけともなったのが、祖父の長男の右手親指の瘭疽の浄化でもあったのです」と述べた、その“祖父の長男”である叔父様と御神業に関わることを願うお母様の間で、中村さんの生業のことが話題になったそうです。
その場面で、瞬時に叔父様が「因縁というものがある」と、ピシャリと言われたそうです。中村さんは、その話を聞き「因縁」というものの意味が充分理解できない中でも、非常に印象に残ったそうです。
時が経ち、その「因縁というものがある」という言葉通り、中村さんはあれよあれよという間に御神業に身を捧げることになりました。「因縁使命」ということを深く考えさせられるエピソードです。
また、松本勝代さんがご縁をいただいたきっかけにも不思議な出来事がありました。島根県松江市では当初、岡田裕子さんという方お一人とご縁が生まれ、そのご家族やご親戚が集いメシヤ講座を行なっていました。諸事情により文化センターやヒーラーの事務所などをお借りして開催していたのです。
昨年5月、その岡田さんと松本さんがあるお宅でバッタリ出会ったのです。それまで、そのお宅には二人ともしょっちゅう訪ねていたのですが、お会いすることはなかったそうです。しかし、松本さんご夫婦がメシヤ様の説かれた“本来の信仰”を求め始めて様々模索している中で、出会いが生まれたのです。
お会いした時に話題が尽きることはなかったそうです。そして、自然な形でメシヤ講座へ参加する運びになったのです。『すべて必然である』という御教えに照らしてお二人の出会いを考えると、両者にいただいている「因縁使命」というものを強く感じさせるエピソードです。
それ以来の取り組みは報告にあった通りです。
奇しくも、今回の御論文にある『私が書いた文字を床へ掛けたり、額にかけたりするとその文字から光を発し、肉眼で見る人もよくある。勿論家庭も明るくなり、農家に於ては忽ち収穫が増したりして、家庭は漸次天国化するという実例は多くの信者達が常に異口同音に唱える処である。』をそのままに体験されたのです。
貴重な体験は言うに及ばず、現在松本さん宅では工夫を凝らして門構えを設置しつつあります。月次祭へご参拝する皆さんを迎えるに相応しい佇まいを築くお考えからです。
7.お言葉『浄まった者それぞれに因縁通りに諸々の御用を申しつける』
前回「地上天国祭」を執り行なわせていただいた際に『いよいよの時、初めて諸々、浄まった者それぞれに因縁通りに諸々の御用を申しつける。』というお言葉が、胸に迫った旨の話をしました。
それは、地上天国祭で集団浄霊を取り次がせていただいた際に、整然と座す参拝者の姿を目の当たりにして大変な感動を覚えたからです。“零に近い形で発足してこのように素晴らしい人材がよく集まったものだ”という思いが込み上げてきて、胸が熱くなったのです。
御祭りを前に、各支部責任者の方々から「支部月次祭の御玉串料は言うに及ばず、家庭祭、大黒様のお祭り、家庭慰霊祭それぞれの謹書された御玉串料が感謝献金と共に届けられるようになり、真摯な信仰姿勢に感動しながら歩ませていただいています」という報告が届くのと相俟って、一人ひとりが静かながら熱気を帯びる佇まいに大きな力を感じたのです。
また、メシヤ様がフランス「パリ・マッチ」誌主筆のレイモン・カルティエ氏とご面会して『私が生きているうちに、世界をその必要がないくらいにしますからね』とお答えなられた内容を考察する時に、その判断は今回の情報サイトの内容とも関わってまいります。
それらには、世界や日本の闇の部分を明らかにする内容も含まれているからです。庶民が翻弄されてきた数々の裏事情が掌握できます。しかし、判断が分かれる点も多分にありますので、明文化せず口頭で伝えるのみに留めておきます。
情報過多はともすると混乱を招くものですが、私達の思想の根底には真理の御教えがあります。迷いが生じないことこそ、“真の『幸福感』に包まれる”ということです。
数々の情報を踏まえて、より『浄まった者』を目指すために人間形成に努める意欲が膨らみます。そして、主神様の御経綸に感謝の祈りを捧げつつ、絶対的存在を意識して各分野で献身している方々と手を携えて、理想世界実現を目指してゆく決意を強く促されました。それはメシヤ様からです。
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