メシヤ教にふれて(中)

名古屋市 M.M(元他教団所属)

 

私の抱えた悩みの一つが、2005年6月~7月分メ-ル交換の内容です。つまり、明主様(以後メシヤ様)が嫌われていた宗教臭さ、歪んだ上下関係、御神書の内容が組織の在り方に反映していない矛盾点。新たに繋がった人達がこれらの問題によって戸惑い、浄霊の本質を覚る前に数多くの方々の縁が切れていくことでした。

ようやくこの組織での浄霊活動に限界を感じ、気持ち良く浄霊のありがたさを伝えられるよう、学んでいきたい人が気持ち良く矛盾なく歩んでいけるよう、御神書にある気持ちの良い組織運営のなされているところを探し始めました。望みといえば、それだけだったのです。

平成17年3月8日。たくさんのメ-ルのやりとりから、後は直接代表にお会いして確認するしかないと、大分まで足を運びました。短い時間でお人柄や深いところまではわかりませんが、言葉と行動の端々を見れば、何を大切にしている方なのか多少はわかるものです。楳木先生はメシヤ様の御論文、御神書に基づいた運営を心がけているとのことでしたので、後は、私自身が歩みながら、折々の質疑応答の中で判断していこうと感じ、心新たに御神縁をお願い致しました。

そうした運営方針のメシヤ教にふれて、と言いますか、先生との質疑応答を通して、一番強く感じることは、メシヤ様御自身の御指導や組織運営の在り方が、守るべきところは厳しく守りながらも、実に大らかで懐深いものであったことを、私はほとんど知らなかったということです。驚きの連続でした。大らかで楽だから居心地が良い、というのではなく、どこまでも常識的であるから気持ち良く歩んでゆける、ということです。これまで、随分窮屈極まる中で過ごしてきたことを痛感すると共に、縁切れていった方達への申し訳なさが湧いてきます。こうした方達への対応も検討していきたいと思います。

次に感じることは、メシヤ様の精神を根拠に、個人の悩み苦しみを解決していく新しい動きをしようとした場合、柔軟に判断がなされ、多くの場合、そのまま実行させて頂くことになる、ということです。メシヤ様の精神から著しく逸脱、拡大解釈し過ぎているものは別ですが、こうした柔軟性は大変良いところだと思います。メシヤ様は「どこまでも個人の悩み苦しみを救いたい」と仰っておられます。その実現に向けて、熟慮しつつ柔軟な判断、行動に移せるということは大変重要なポイントだと私は思うのです。

また、当初はお守り様(おひかり)をかけないで浄霊ができるものか不安がありましたが、お守り様を外して、強く祈り、そして取り次がしていただくとちゃんと結果をいただけるのです。外したことを内緒にしてお取り次ぎをしましたので、フラシ-ボ効果というか、精神的な作用はありませんから、不遜な表現ながらおよそ間違いないでしょう。現に、今も精一杯の人に対応して結果が出ていますから、お守り様が無くてもお取り次ぎができるという、すごい時代に突入したものだと思います。

こうした環境の中で、気持ち良く伝えられる、気持ち良く神様へ結ばせていただける幸せを感じながら、新たに御神縁を許された方々も増え、限られた時間の中、再び多用な日々を送り始めております。

 

[御蔭話(御神業の変遷)メシヤ講座・特選集no.59 2005(平成17)年12月]

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