メシヤ講座no.123浜松(平成23年4月)

<今月の御教え>

『文明の創造』総篇 天国建設の順序と悪の追放(文創 昭和二十七年)

 

【メシヤ講座 浜松支部】

メシヤ教を通して、本来の民主主義を進めていく

楳木代表

今月は非常に長かったですけれども、この拝読をして私たちはどういう受け止め方をしたら良いかということを考えていただきたいと思います。

とりわけ民主主義というのは、善が悪に勝った唯一のものとしてあって、日本の場合は外国の力を借りて民主主義になったということです。で、メシヤ様は『外国と異って日本は今の処(ところ)生温(なまぬる)い民主主義で、まだまだ色々な面に封建の滓(かす)が残ってゐる』とおっしゃっています。このことを基にして本来「世界救世(メシヤ)教」というのは封建の滓(かす)のない民主主義を目指す先端を歩んでいかないといけなかった訳ですね。しかし「世界救世(メシヤ)教」は、メシヤ様が「世界救世(メシヤ)教」を開教なさった時にすぐ弟子達の不始末によって御法難が起きてしまって、本来進めようとされた、志されたことが実現しないままに今日を迎えている訳です。

ですから、このメシヤ教を通して、生温(なまぬる)い民主主義ではなくて、本来の民主主義を進めていくということが一つには『悪に対して善が勝利を得る』あり方がある訳です。そういうことを持って今の民主主義を吟味し、今回の東日本大震災を通して本来の民主主義とはどうかということを視ておかなくてはいけないというところがあります。そういうことで視たときに、巨大地震、大津波、そして原発事故で、日本人は非常に不安に陥れられています。この原発はアメリカ製ですが、このデール・ブライデンボーという設計者が「あれは欠陥製品だ。」と、インタビューに答えています。福島第一原発は設計した人がそのように話しています。このことは再三アメリカ政府にも進言しているし、日本にも進言しているけれど、ついにこの指摘は通らなかったのです。

恐らくトップの人たちはこのことを知っていたと思いますが、まず原子力政策というものが日本にはあって、日本人の健康や安全性ということよりも経済重視のために政策としてこの原発政策が先にあったから、こういう欠陥製品をそのまま温存してきたことが、今我々が不安に陥れられている最大の理由です。

メシヤ様がご指摘なさっているのは『本来の民主主義とは何か』ということなので、今回こうしてメシヤ様の御論文『文明の創造』を拝読した時に、実は「世界救世(メシヤ)教」が本来ずっとやらなくてはいけなかったことは、こういう本来の民主主義を目指すための指針を提供していくことと、政府がやっているのは本来の民主主義ではないということをずっと指摘し続けなくてはいけなかったのです。しかし途中で選挙に関係することを通して、選挙には携わってきたけれども「民主主義ではないですよ」とか「本来の民主主義とはこういうものですよ」ということを指摘するというところにこなかったために、未だに教団浄化というのはずっと続いているのだと。そういうような認識を持っていていただきたいと思います。

私がずっと「欠陥製品だ」ということとか「菅総理の原発に対する処理が間違っている」と指摘したことが、間違いないというその証の記事ですから、見ておいてください。

それから、昨日の日経新聞に内館牧子さんの記事が出ていましたが、彼女だからここまできつく書くのだろうと思いますが、〈あすへの話題〉ということで日本のリーダーについて指摘していますので読んでみますと、

【引用文】

今回の東日本大震災と大津波、そして原発事故によって、痛切に感じたのは「リーダー教育」の必要性である。

 

1000年に一度と言われる災害を前にした時、誰しも冷静な判断が出来なくなるのは当然だろう。だが、リーダーの座にある人は「誰しも」のなかには入れられない。リーダーは国を、組織を、人々をよりよい方向に牽引(けんいん)し、安定させなければならない。

 

今回の災害で、日本にそういうリーダーがいたか。むしろ、「この人は政治化には向かない」とか「原発事故の説明は、さっぱり要領を得ない」とか「結局、私たちは何をどうすればいいのか」などと思わされる一方ではなかったか。彼らは確かにリーダーの座にはあるが、実に頼りなかった。原発事故の会見でも、「そうならないように祈っている」とか「何とかしようと思って懸命にやっている」とか、こういう情緒的な言葉は、あの時点でリーダーが遣うべきではない。「新しい日本を作り上げようではありませんか」と、選挙演説もどきの檄(げき)に陶酔している政治家にも、リーダーとしての能力はない。

 

中国ではエリート教育に力を入れているそうだ。それについて、司馬遼太郎が何と言っているか。私は元・東京都教育委員の高坂節三さんから、その言葉を教えられた。

 

「(エリート教育を)中国はイデオロギーでやっているんじゃなく、中国民族はどうしたら生きられるかと問題を根源に戻してやっている」

 

これはそっくり「リーダー教育」にもあてはまる。日本は「エリート」や「リーダー」を育てることを嫌い、ただただ平等を讃(たた)えてきた。頼りないリーダーたちを見た今こそ、司馬の言葉を考えるべきだ。

 

《日本経済新聞 昭和23年4月9日(土曜日)夕刊  あすへの話題  ああ、日本のリーダー達 脚本家 内館牧子》

 

というように書かれています。内館さんらしい発言ではありますが、全く今回我々が安心した気持ちになれないのは、総理大臣を中心として発言がこういうことだからですね。だから原発の避難は「何月何日までこういう状態を続けます。そこまでに必ず解決のめどを立てます」というようにはっきり言えば「そこまで我慢すればいいのだ」ということになりますが、また避難区域を広げるか狭めるか、また等円心大ではあまり実情に合わないのではないのかということが、一ヶ月経った未だに言われています。だから、これは国民が悪いのですよね。そういう政治家しか通していかなかったから。

今回、浜松でも5月の浜松まつりを中止にしてしまった。でもほとんどの浜松市民はそれに対してブーブー言っている。言っているけれど、リコール運動は起こさない。そうでしょ。この点海外からは不思議がられています。市長の判断が間違っているのならリコールしないといけないのです。あっちこっちでブツブツ言いながら酒を飲んでいるだけでね。こんなのは民主主義ではない。封建主義だから・・・。ブツブツ言うのではなく、市長に対して「あなたの判断は間違っていますよ」というように言わなくてはいけないのに、ほとんど9割以上の人たちが「浜松まつりはやるべきだ」と思っているのに中止をそのまま飲み込んでしまっているのです。

そうかといって、東北の人たちはまつりをやってもらいたいと思っているのです。やって、東北の商品を使ってもらいたい。とりわけ東北のお酒や農産物や海産物を大いに使って祭りをやってもらいたい、と思っているのです。「それが長い目で見た我々の復興に繋がるのだ」と東北の人たちがメッセージを発しているのに、こっちの市長はいわばとぼけた判断をしているのです。その市長を無投票で通しているような浜松市民が一番駄目なのです。だから、こういうときに全体の状況をみて、人々がどういうことを望んでいるのかということを集約して、そして、その人たちの気持ちを生かして政治を進めていくのが市長たる者の役割なのです。

これが本来の民主主義です。

しかし、そうではない方向に、いわゆる情緒的にみんな流されてしまっているのです。今自粛しておかないといけないという雰囲気で。これでは東北が生き返らない。

おとといも三重県で部品がないので操業停止になっているから、若い人が休暇をとらされているのです。これが、東北が今第三のいわゆる部品工場という地域になっているので、そこでバタッと生産が出来なくなっているので部品が足りなくなり、いろいろなラインが止ってしまっているのです。それに輪をかけてこの浜松まつりをやめてしまうと仕出し屋さんなんかでは首を切られている人が大勢出ているのです。こんな方向へ持っていくために政治をやっているわけではないから、これを内館さんは情緒的と言っているのです。

本来どうあるべきか叡智を結集して、もう一度会議を開いてみんなの意見を集約してどういう方向に持っていったら良いかという会合をやっていかないといけないのです。そういうことが一つでは言えると思いますね。

だからこうした、民主主義であるけれども、民主主義も一部の人たちの利権に利用されている。これをメシヤ様は『悪に利用されている』とおっしゃっていることになるのです。みんなのためではなく、一部の人の利権に動かされている、これを利権政治と言うわけですからね。その利権にみんなしがみついていて本来の政治にいかないようにしているのです。メシヤ様はここを指摘されているのだということです。だからこのような大震災を受けて日本人が生まれ変わらなければならない一番の中心は本来の民主主義ということです。『封建の滓(かす)』を捨ててしまって、そういうところを目指していくと・・・。

その目指していく中心になるのが「世界救世(メシヤ)教」であるはずだったのですが、「世界〇〇教となって、『滓(かす)』が溜まっていてはいけないわけだから、その『滓(かす)』を除いていくというのが教団改革であったわけです。

で、「教団〇〇委員会」が目指したのは本来そこだったですが、「教団〇〇委員会」までおかしくなってしまったので、また『滓(かす)』が出てきてしまっています。それで今まで来ているわけですから、やっぱり教団改革というのを目指して、本来の「世界救世(メシヤ)教」を復興していくという取り組みを私たちが進めていくことが大事だということを、この御教えを拝読すれば拝読するほど、今の日本の現状を見れば見るほど、そういうことを感じるのではないかなと思います。そういうことをお願いしておいて、いつものように質疑応答に入りたいと思います。

 

【御教え 『悪に対する憤激』(「地上天国」二十一号、昭和二十六年二月二十五日)】

熟々(つくづく)、現在の世の中を見ると、どうも今の人間は、悪に対する憤激が余りに足りないようだ。例えば悪人に善人が苦しめられている話など聞いても、昂奮する人は割合少ない。察するに、悪に対しいくら憤激した処で仕方がない、而(しか)も別段自分の利害に関係がないとしたら、そんな余計な事に心を痛めるより、自分の損得に関係のある事だけ心配すれば沢山だ、それでなくてさえ、此(この)世智辛(せちがら)い世の中は心配事や苦しみが多過ぎる、だから、見て見ぬ振りする。それが利口者と思うらしい。而(しか)も世間は斯(こ)ういう人を見ると、世相に長(た)けた苦労人として尊敬する位だから、それをみて見倣(なら)う人も多い訳である。

又、政治が悪い。政治家や役人が腐敗している。社会の頭(かしら)だった人が贈収賄、瀆職(とくしょく)事件等でよく新聞などに出ており、特に近来非常に犯罪が増え、青少年の不良化等も日本の前途を想えば、此儘(このまま)では済まされないし、役人の封建性も依然たる有様だし、民主主義の履き違いで、親子、兄弟、師弟の関係なども洵(まこと)に冷たくなったようだ。税の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)も酷(ひど)過ぎるし、民主主義も名は立派だが、実は官主主義に抑えつけられて、人民は苦しむばかりだ。其他何々等々、数え上げれば限りのない程、種々雑多な厭な問題がある。之等悉(ことごと)くは勿論、社会的正義感の欠乏が原因であるに違いないが、何といっても、前述の如く所謂(いわゆる)利口者が多すぎる為であろう。然(しか)しよく考えてみればそういう社会になるのも無理はない。何時(いつ)の時代でもそうであるが、殊に青年層は正義感が旺盛なもので、悪に対する憤激も相当あるにはあるが、先(ま)ず学校を出て一度社会人となるや、実際生活に打(ぶ)つかって見ると、意外な事が余りに多く、段々経験を積むに随(したが)って考え方が変ってくる。なまじ不正に興奮したり、正義感など振り廻したりすると、思わぬ誤解を受けたり、人から敬遠されたり、上役からは煙たがられたりするので、出世の妨げともなり易いという訳で、いつしか正義感などは心の片隅に押し込めて了(しま)い、実利本位で進むようになる。斯(こ)うなると兎(と)も角一通りの処世術を会得した人間という事になる。

之等も勿論、悪いとは言えないが、斯(こ)ういう人間が余り増えると、社会機構は緩(ゆる)み勝となり、頽廃気分が瀰漫(びまん)し、堕落者、犯罪者が殖える結果となる。現在の社会状態がそれをよく物語っているではないか。そうして私の長い間の経験によるも、先(ま)ず人間の価値を決める場合、悪に対する憤激の多寡によるのが一番間違いないようである。何となれば悪に対する憤激の多い人程骨があり、確(しっ)かりしている訳だが、然(しか)し単なる憤激だけでは困る、稍(やや)もすれば危険を伴い勝だからである。事実青年などが兎角血気にハヤリ、人に迷惑を掛けたり、社会の安寧を脅す事などないとは言えないからで、それにはどうしても叡智が必要となってくる。つまり憤激は心の奥深く潜めておき、充分考慮し、無分別な行(や)り方は避けると共に、人の為、社会の為、正なり、善なりと思う事を、正々堂々と行うべきである。之(これ)に就(つい)て私の事を少しかいてみるが、私は若い頃から正義感が強く、世の中の不正を憎む事人並以上で、不正を見たり聞いたりすると憤激止み難いので、其(その)心を抑えつけるに随分骨を折ったものである。然(しか)し此(この)我慢は仲々苦しいが、之(これ)も修業と思えば左程でなく、又魂が磨かれるのも勿論である。此(この)点今日と雖(いえど)も変らないが、之(これ)も神様の試練と思って忍耐するのである。此(この)様な訳で理想としては、不正に対し憤激が起る位の人間でなくては、役には立たないが、只それを表わす手段方法が考慮を要するのである。即ち些(いささ)かでも常軌を失したり、人に迷惑を掛けたりする事のないように、呉々(くれぐれ)も注意すべきで、どこ迄も常識的で愛と親和に欠けないよう、神の心を心として進むべきである。

(自観)

 

『日本人の依存性』(「救世」五十五号、昭和二十五年三月二十五日)

現在の日本人をみる時、その依存性のあまりに強い事である、之を大にしては日本政府の貿易其他に就(つい)ての外国への依存である、又民間に於(おい)てもヤレ政府の補助金とか、ヤレ日銀の経済援助とかは元より、中小業者は中小業者で、銀行の貸出がなければ窒息するなどといい、一般個人にあっても親戚知人から金を借りないとやってゆけないと言うかと思えば、子は親の力を借りなければ学校の勉強が出来ないなどという、其他失業者や未亡人等にしろ、当局の援助や社会事業団体の救済を当てにしている等々、何処を見ても他の援助なくしては、どうにもならないようで、之等をみる時、日本人の依存性に驚かざるを得ないのである。

然(しか)らば、此(この)根本原因は何が為かというと、全く根強い封建思想の未だ抜け切れない為としか思われない、それというのは、昔は国民の大多数を占めている階級としては、武士役人を主なるものとし一般町人階級である、前者は殿様から支給される扶持(ふち)によって生活し、後者は少数の旦那衆は別とし、傭用人階級は何年間又は何十年間薄給ながらも生活を保証されている、そうして彼等が独立の場合暖簾(のれん)や得意を別けてもらう習慣になっている、叉労働者は今日の如く団体権等はなかったから大名の御出入りや、町家の旦那方の引立によって生活しているという訳で、殆んどは独立対等的ではなく、強力者の恩恵によって生活していたので、生存権などは勿論なかった、此(この)状態が何世紀も続いて来た以上依存心の容易に抜け切れないのも無理はないと言えよう。

又女性は女性で、年頃になっても今日のような職業婦人はないから、親に依存せざるを得ないと共に、嫁しては夫の家を一生の墳墓として絶対服従であると共に、夫及び姑の命に背く事は婦道に反するとさえ思われて来たのであるから堪らない、恰度(あたかも)蔓科(まんか)植物のようなものでしっかりした物にしがみついていなければ生きてゆかれないという状態であった。

処(ところ)が右(上記)に引換え、彼の米国などを見ると余りに異(ちが)うのである、同国建国の歴史を見ても分るが、彼の英国の清教徒数百人が十七世紀の初め、徒手空拳アメリカヘ渡航し、無人の山野を開拓し努力奮闘僅か二百余年にして、今日の如き絢爛たる文化的大国家を建設したのであるから日本人の思想との異(ちが)いさは止むを得ないものである、同国人が初めから依存したくも相手がない、如何なる困難にブッつかっても自己の力以外に援助者はない、即ち自己依存である、自力を以て無から有を生ずるより外に方法がなかった、此(この)様な訳であるから、今アメリカ国民を見る時実に羨ましい限りである。

従而(したがって)、日本国民が之ほどブチのめされた結果、此(この)国を再建するとしたら、何よりも米国民の開拓者精神を学ぶべきで、寧ろ此(この)思想の導入こそ資本導入よりも効果絶大なる事を断言するのである、そうして精神が物質を支配するという真理からみてもそれが根本的方法である、処(ところ)が、日本の指導者中これに気のつくものは殆どないと言ってもいい位で、言論機関に於ても、その説く処は反って依存心の鼓吹である、極端な言い方かは知れないが、依存心とは意気地なし的乞食根性で、人から同情心を買い、憐れみを乞う訳である、而(しか)も予期した要求が通らない時は愚痴を言い、不平を並べ、はては多数の力を借りて、反抗的にまで出て相手を倒そうとする其(その)結果、自分も倒れるという事に気がつかないようで、其(その)愚や及ぶべからざるものがある、これでは日本再建処か、現状維持さえ心許ないというべきである。

そうして、ややもすれば労資間の問題を解決する唯一の手段としてストに出るが、之(これ)も一面やむを得ない手段ではあろうが、深く考える時、斯(こ)ういう事になろう、ストに出れば出る程、その事業は衰退するから結果は収入減となり自分達の給与も減るに決っている、之(これ)では自分の首を自分で締めるようなものである。

言う迄もなく、労資双方とも目的は、幸福である、とすれば一方が不幸で、一方が幸福という論理は成立たない、どうしても相互関係に立っている以上、相手を儲けさせなければ自分も多くの支給を受ける事は出来ない訳で、之(これ)程判り切った話はあるまい、従而(したがって)、資本家が不当の利益を収得するのも間違っていると共に労務者が自己の利益のみを考える事も亦(また)誤りである、而も、今日の事業界を公平に検討する時、勿論戦争前は資本家は確かに儲け過ぎていたし又国家経済も今日とは較べものにならぬ程の余裕があったが、現在はどうであろう、事実事業家らしい事業家も資本家らしい資本家も殆ど全滅したと言ってもいいではないか、大財閥は解体し金持階級は殆んど没落して了(しま)った、故に以前のように共産主義者の敵とした地主も資本家も消滅して了(しま)ったので拳骨のやり場に困るであろう、此(この)現状によって考える時、今日の急務は大資本家は危険の存在としても、中資本家が相当出来なければ事業の繁栄は到底望めまい、昨年米国は資本の蓄積方針を日本に慫慂(しょうよう)したのも之(これ)が為であろう、彼のソ連に於てさえスターリン氏が最初資本家を打倒し過ぎた為、事業の運営が旨くゆかないので、中資本家育成の道を開く政策をとったにみても明かである、以上の如くであるから、日本の現在としては労資協調処ではなく労資の固い握手である、之によってのみ労働者の福利増進は望み得る事は断言し得るのである、然るに何もかも闘争によらなければ解決しないように思うのは恐るべき錯覚でしかあるまい、之に気付かないとしたら労資双方とも自滅するより外ないであろう。

是によって是を考える時労資問題と雖(いえど)もストという手段は依存心の表われでしかあるまい、というのはは資本家に賃銀値上を要求するのは資本家依存であるからである、もし自主独立心を発揮し仕事をするとすれば成績が向上し資本家の方が労働者に依存しなければならない事になろう、従って先ず資本家に儲けさしておいて公正なる分配を要求するこそ本当であるから、資本家も否やは言えず応ずるのは勿論で、此(この)方針を以て進めば労資の問題の解決など左程難事ではないと思うのである、然るに現在は逆の考え方で、事業不振を解決しようとしないで賃銀のみ値上しようとするのであるから無理を通そうとするとしか思われないであろう。

之を要するに、此(この)際国民一般から依存心を思いきって除く以外、最善の方法はあるまい事を警告したいのである。

(自観)

 

神界からのミロク世界の建設のメッセージか?

参加者

楳木代表から真珠が出てきたというお話を詳しく教えてください。

楳木代表

まだ見てもらっていなかったかい。

参加者

まだ見ていません。

楳木代表

そうか、浜松でまだ見せていなかったのか・・・。三重支部ではいつも時期になるとアコヤ貝の貝柱を食べるのです。支部の責任者のお母さんが浜の近くにいるので、新鮮なものを用意してくれて食べさせてくれるのですが、そのアコヤ貝の貝柱を食べている時に歯に何か硬いものが当るので“何かな?”と思ったのですが、身だけは飲み込んでその硬いものを取ってみたらどうも普通の石と違うので“おかしいな”と思っていたら真珠だったのです。貝が勝手に飲み込んで作った真珠が次から次へと出てきて3つ出てきたのです。そんなことは初めてだというのです。三重支部では。三重の人で最高齢の人も「初めてだ」といっていたので滅多にない事なんでしょうね。

それで、三つ重なると書いて三重というところで、真珠が三つ重なって出てきた、ということで「いよいよミロクの世になる」という風に枚方支部で感じていろいろ発信し始めたところで大地震が起き、しかも三重にいるときに起きて、しかも『世界救世(メシヤ)教 教義」』の発表日というのは3月11日でしょ。昭和25年の3月11日。その3月11日に地震が起きたということで、ものすごく重なっているので、みんな気を引き締めてミロクの世の建設にもっともっと懸命に取り組んでいかないといけないと思っているわけですね。この真珠が2つでもなく4つでもなく3つだったということで非常に形として出てきたのではないか、と枚方の人は言っているのです。私の口から出てきたので、私からミロクの世を作っていくのだということは自画自賛的過ぎるので言うことはできませんが、人が言ってくれるのを「そうだね」と言う風に聞いておかないと、「俺について来い」とかいうような話なってしまうから。それで真珠を見て納得しました?

参加者

 

もう少し大きいと良いな、と思ってしまったけど・・・。(笑)

楳木代表

大きいと業者が取ってしまっているね。これくらいの大きさだから養殖業者は気がつかなかったのです。しかも真珠の種を入れて大きくさせるでしょ。しかし、これは種を入れずに貝が自分で吸い込んで自分の中で作ったものだから・・・。

参加者

素晴らしいですね。

楳木代表

だから我々がそんなに強く意識しなくても、神界からはこのような形で強いメッセージを出してくださっている、ということなのでね。私がいつもやさしく言うのでアレなのですが、非常に大変な使命を皆さんはいただいているのだ、ということを思っていただいて、私がその代表ですから、代表にそういうものが出てきた以上は、みなさんに「ミロク世界を創る役割」が強く神様から使命がおりてきているのだ、という自覚を持って一層進んでいただけると大変ありがたいと思いますね。

 

浄霊布教

参加者

親戚が九州から浜松に来ました。飛騨の白川郷へ一緒に車で旅行に出かけた時に、義理の妹が車に酔ってしまいました。夕ご飯はしっかり食べたのですが、部屋へ戻ると具合が悪そうでした。私も疲れていたので、一眠りしてしまったのですが、目を覚ますとまだ苦しそうにしていたので、浄霊を御取次させていただきました。5分くらいすると寝息が聞こえてきたので、寝たんだなということがわかりました。それからもしばらく続けさせてもらいました。

次の朝、「お姉さん、何かしてくれたのでしょ・・・」と言われたので、「実は浄霊をさせてもらったら苦しそうだったけれど、眠ることができたみたいだね」と話すと「お姉さん、とても気持ちよくなったので今度またしてください」という返事が返ってきたので、朝ごはんの前にも食べ終わってからも時間がある限り御取次しました。

義理の弟は「いつもは車に酔うと3日くらい体調が悪くて動けなくなるんだよ」と話していました。車の中でも浄霊をさせていただきました。浄霊をしているとわかると言うのです。自宅に帰ってから参拝をすると「私も一緒に参拝させてください」と言うので、一緒に参拝もしました。浜松を出てからも他に寄って帰ったのですが、その道中も酔うことも気分が悪くなることもなく帰ることが出来たそうです。浄霊のおかげで良くなりましたと御礼の電話がありました。

楳木代表

それはよかったですね。

参加者

酔い始めたときにすぐ浄霊をしてあげればよかったなと思いました。義理の妹は御大師様を信仰しているそうです。

楳木代表

それなら「浄霊」の本と「浄霊力拝授お願い書」を一緒に郵送してあげてください。これに書いて一緒に送り返してくださいと。

そしたらお祈りするとあなたもできるようになるから、と手紙に書いて送ってあげてください。

参加者

そうします。

楳木代表

そうしてください。これだけのおかげをいただいたら自分も身につけていったほうが良いから。

参加者

近くにもあるかしら?と聞かれたので、他の教団はあるかもしれないけれど…と伝えたのですが。

楳木代表

即、郵送してあげてください。浄霊の仕方も少し書いて、「わからなかったら電話してください」と書いて。そうするとその人の力になるから。それで御大師様も仏教の中では最も奇蹟が多かったのです。仏教の中では親鸞という一番大きな組織を作った人と、仏教の教えをすべて理解した日蓮上人という方と、密教的に奇蹟を顕著に顕した人が空海上人、いわゆる御大師様だから。この御大師様は呪術具を持って奇蹟を出したのです。独鈷というものがあるでしょ。そういうものを持って、水のないところにはそれを持っていくとそれがグーッと動くところで、「ここを掘れ」ということで掘って、井戸を作ったり、池を作ったりしたのです。そういう風にして民衆を救っていったのが御大師様だから。

この御大師様の信仰をしていれば浄霊というものが非常にわかるのです。御大師様は呪術具を手に握って奇蹟を出しましたが、浄霊は手を広げ奇蹟を出しているのです。何も持たずに。だから御大師様と浄霊の違いはここです。

ですから、「仏教の中でも一番奇蹟を出したのは御大師様だから、あなたもその信仰をしてきたので浄霊もすぐに身につくはずだからやってみてください」と伝えてください。感激が冷めないうちに、早く浄霊力を身につけてもらったほうが良いから。それで「お願い書」が送られてきたら、「○日の○時に支部へ行ってお参りするから、あなたも家で浜松を思い出してお祈りをしてください。そのときから浄霊ができるようになるから」と言ってあげてください。そして、その人が一層メシヤ様に繋がるようにしてあげてください。それは良かったですね。

参加者

浄霊には修行が必要だよね、と言っていましたが・・・。

楳木代表

「修行なんて何にもいらないのだ」と。気楽に実践できるように導いてください。

参加者

「祈りの栞」も一緒に送ったほうが良いですか?

楳木代表

「祈りの栞」も一緒に送ってあげてください。

参加者

「祈りの栞」は以前と比べて変わっていますか?

楳木代表

メシヤ教になってから変わっています。

参加者

全部は違わないけれど、所々変わっているみたいですね。

楳木代表

そうです。ですからこちらの新しいものを持っていってください。○○さんは「祈りの栞に寄せて」はまだ買っていなかったかね?

参加者

まだ買っていません。「浄霊」の本だけです。

 

世界布教

楳木代表

「祈りの栞」は「祈りの栞に寄せて」の本に付いていくから。「祈りの栞に寄せて」の本とセットですから。アメリカに送ってあげるのは「浄霊」の本だけで良いから。

参加者

アメリカでお祈りする時にはキリスト様にお祈りすれば良いのですか?

楳木代表

キリストとメシヤということは多分わかると思いますから「私たちはメシヤ様と呼んでいます」と。そして、こちらの主之大御神様はキリスト教でいくと「天の父」です。だから「主神様という御存在は天の父にあたります」と書いてあげればわかると思います。そして「浄霊をする時にはメシヤ様とお祈りをして浄霊をします」と。いっぺんには理解することは難しいかもしれないけれど、イエス・キリストと言うけれど、キリストというのは救世主という意味でもあるのです。ですからキリスト教も本当は救世主教みたいな感じです。そして12人の弟子にしか浄霊力を伝授できませんでしたが、メシヤ様は万人に浄霊力を伝授することができるのです。それだけの高い神格を持ってこの世に生まれてこられた御方なのだ、と・・・。そこが非常にありがたいことですね。

参加者

メシヤ様がキリスト様なのですか?

楳木代表

それはイエス・キリストという人格神ですから、メシヤ様も人としてお生まれになってきたから、同一というように書くと相手は混乱してしまうと思うから、同一ではなく、さらに神格が上がった御存在であるというように書いてください。それはなぜかというと、イエスキリストは12人の弟子だけにしか浄霊力を伝授できなかったが、メシヤ様は万人に浄霊力を授けることができるからです。だから神の力としてはステップアップしているのだ、と、そういうようにして英訳して送ってあげてください。

参加者

以前亡くなった△△さんが生きている時に、3000年の闇の神の支配が終って、光の神の世界に3000年の周期で交代して、これから日本が世界を引っ張っていくと聞いたことがあります。それはこのことでしょうか?

楳木代表

そのことを伝えるということですね。一生懸命辞書を引きながら英訳してみて下さい。楽しみですね。お子さんもそういう役割があって、今回学校に行けなかったのだろうけど、親が自覚をすることによって子どもが御守護をいただいていっているわけだから・・・。子どもが良くなったと思わないように。私の自覚が変わったから、自分自身の自覚がキチンとできたから子どもが支障なく学校に行けるようになったのです。

これが続いていかないといけないわけだから、娘さんが「私もう大丈夫だわ。私、もう学校に行けるようになったからママは行かなくても良いわよ。」と言っても、ずっと光を自分がいただき続けて、継続して、今、魂が周りの罪穢れが取れてきているけれど、まだ完璧に取れているわけではないので、それが取れて、その後この前お話したように、嫁ぎ先の因縁を解消していかないといけません。「そういう役割が私自身にはあるのだ」と・・・。

「その智慧と力をいただくためにここに来ているのだ」と・・・。そういう気持ちでいてください。

でも不思議ですね。○○さんが大分県の田舎から出てきて、そこで育った私がここで出会うというのはね。こんなに長い日本列島の中でそんなことが起きるのですからね。

参加者

台湾からこちらに嫁いできている人がいるのですが、その人にも話して上げたほうが良いでしょうか?

楳木代表

台湾というところは儒教というものが家庭の中でしっかりと築かれているから。この仏壇のお位牌は儒教だから、形式が。だから日本的な信仰というのと繋がっている面があるのでね、よく話をしていけば繋がっていくと思います。

参加者

家で通訳の仕事をしています。

楳木代表

じゃあ将来また御教えを中国語に訳してもらって(笑)国際的になっていくと良いですね。それは楽しみですね。

浜松にもたくさんのブラジル人がいます。日本を頼ってきているわけだから、みんな助けてあげないといけないから、やはり手を差し伸べていくべき人がたくさんいるから、手を差し伸べていってあげたいと思います。

それでは時間がきましたので、これで終らせていただきたいと思います。

それから、もう連絡がいっていると思いますが、5月は5日が本部で「御神体御奉斎記念式典」を行いますので、来月の月次祭は第三日曜日になりますので、宜しくお願いします。

ありがとうございました。

 

[メシヤ講座no.123 浜松支部 2011(平成23)年4月]