<今月の御教え>
「明主様(メシヤ様) 竹内四郎氏外二氏との御対談(二)」
【メシヤ講座 浜松支部】
メシヤ講座no.109の御対談記を拝読して
楳木代表
今回のご対談はたくさんの方が登場して、なかなか楽しく拝読することが出来ました。
今日拝読をしてみて、さきほど月次祭の前に話をしていた内容がここにそのまま出ています。皆さんの2ページから3ページ位になっているかね?『今の人間は注射や飲み薬をのんで始終頭を使うから、その薬が頭に上っていくのです。』ということですからね。この御対談の掲載日が昭和28年の2月4日です。それでは現代人はどうかというと、テレビをよく見ます。パソコンやゲーム機器等々、どうしても眼をずっと使っていますから、この眼の一番奥に毒素が溜っていきます。という事は、現代の子供達は後ろ頭から首、肩が余計に凝ってくるという事ですね。それで一番使う所に薬が集溜してくる訳だから、○○さんの場合は足が痛いというのも、畑仕事をして足をよく使ったからそこへ薬が集溜していると考えられます。すると、その部分の薬毒が溶けるときに痛いのです。だからその集溜した薬毒を解消するということが大事な事なのです。
月次祭の前に話をしたことが、このように対談の中で回答としてでてくるから大変有難いことですね。
それともう一つはそのもう少し下の所に『兎に角病気を無くすということは病気を起さないようにすることですが、新しく病気が起らないようにするというそれだけで良いのです。』ということだから、この点においては、 今度は教育が必要だということです。要するにさっきの話のように病気になったら動物は寝ていて治すということだから。それで病気は大体治っていくのです。
しかし元気になったら、またコンビニ弁当を食べているような人は、また病気になってしまいます。だから今度、教育的には食べ物に気をつけさせるという事が必要になってきます。で、今度食べ物だけでも駄目なのです。
『新しく病気が起らないようにする。』
楳木代表
どこで出た勉強会の話とは言えませんが、ガンが出来てしまった人がいます。その男性はものすごいストレスを抱えています。理不尽なものと戦っていますので、ものすごいストレスを抱えてしまっています。
そのストレスを抱えているという事を、御教えに照らして考えていくと、そのストレスがずっと溜ってくると曇りが発生してしまいます。その曇りが濃度を増すと細菌を作っていって、そして病原菌みたいになっていくという御教えがありますよね。それと今度、現代のガンのメカニズムというものが大体分っています。ガンというのは、本来自分の細胞がガン化したときに、ガンになった時に一番困るのは何かというと、普通の細胞が細胞分裂したときに片方が死ぬようなメカニズムなので調和がとれているのです。細胞分裂をしても片方は死ぬから極端に肥大化していかないのです。しかしガンの場合は細胞分裂しても両方死滅しません。だから肉の塊りになっていくのです。そして塊りになっていくだけではなく、栄養分を横取りしてしまうから、結局そのために他の所に栄養が行かなくなるというのと、塊りが臓器を圧迫していって機能不全を起こすよ うなことがおきて、命にかかわってくるのです。だから医学的にはそのガンの塊りを取れば良いという事になってくるのだけれども、しかしこのストレスというものがずっとあると、またがん細胞を作り出してくるから、このストレスのない生活にしていかないといけない。その時に家族の協力が必要になるという事になります。
外でストレスを抱えて家に帰ってきても、家で再度ストレスを抱えてしまうと、もうどうしようもありません。ストレスが消えなくなるから。 家ではストレスを全部とってあげないといけません。吸収してあげないといけません。で、その吸収してあげるという事をやっていかないと、浄霊でガンはよくなるが、またガンを作ってしまうという事を繰り返しかねません。食生活と精神的な生活というものをみんなでみつめて取り組んでいかないと、ガンを治すということにはつながっていかないということです。
これが今回の対談の中で『新しく病気が起らないようにする。』という事のそのための教育という事になるのです。
そうすると今度は家族の中で、そのガンが出来た人に誰がどのように浄霊をしていくか、そして一緒に生活をしている人がどうやってストレスをとってあげるかということが課題になってくるのです。あるいはストレスを抱えさせない。家に帰ってきてグズグズ家族が言っていると、ストレスだらけになっていきます。勤め先でストレスを抱えて、家に帰ってまたストレスというと、みんなで、病気を作っているようなものだから、ストレスを抱えないように、みんなで配慮していくことが肝腎です。
こうした話をすると時として、子供にしてみると、「ロボットのように、お父さんの言いなりで生きていかなくてはいけないのか。」とかいう事になってしまいますが、それもまた勘違いが起きているのです。そういうものではない。ストレスをとるということはそういうことではないのだということも解っていただきたいのです。例えばお父さんの好きなたべものがあるとする。子供が その好きなものをとって食べてしまった時に「お前、俺の好きなものを食べてしまって・・・」といった時に、 「じゃあもう僕はこれを食べちゃいけないんだ。」とか思ったら、これはもう間違いになっています。家族というものはそういうやりとりをしながら、「お前、よくも・・・」とか言いながら、ストレスをとっていくのだから、それは食べて良いのです。食べて「お前、何で俺の好きなものを食ったんだ!」とか言って、たわいもない会話をしながら「ごめんね。」と言って謝らせる事によって気分がよくなっていくのです。これが家庭生活の良さだということです。そこで怒らせてはいけないとみんなが腫れ物に触るように扱っていくと、これはまた間違いです。 家庭生活というのは非常に難しいようで簡単なわけです。そこで大体は奥さんがおおらかに受け止めて「パパ、そんなことを言っちゃ、駄目よ。当るなら私に当りなさい。」とか言って、上手に扱っていけば病気になっていきません。まあそういう風に病気を作らない、起こさないというこ
とについてはそういうことがあるのだと。 食べものだけでもない視点での話だと考えてください。 今は人間の生活というものは複雑になってきているから、やっぱりストレスを抱え込ませないようにしていくことが大切です。
じゃあ、もう家族を持たないで、一人が良いのではないかとなりますが、これまたひとりでは駄目なのです。一人は寂しいから。帰って「ただいま」と言った時に、夜真っ暗だったら「はーっ」とため息交じりで電気をつけていくということになるから。ひとりでも駄目だし、居るとうるさいし。大勢いるとテレビだけでもね、「俺はこれを見たい。」とか、「これを見せてよ。」 とかいうようなことが、いつもそういういざこざが起きます。しかし、そのことを上手に扱いながら、生活をするということが大事だね。
まあその中には諦めなくてはいかんこともあるわね。 「お酒を飲むなと言っても飲むし」とかね(笑)。まあそんなことから、今回の御対談の中では、月次祭の前に話したことの回答がこのようにあるので、しっかりこの対談を拝読すると、自分はそういう人と接した時に、どういうふうにあらねばいけないかが大体見えてくるのだというように受け止めていると、我々の生活に密着させることが出来ます。
偉い人たちばかりが対談をしているので、我々の日常生活と離れたような対談だと受け止めてしまうと読んだ価値がなくなります。この中でメシヤ様が説明されている内容を自分に受け止めていくとどうなるかという事を考えて、やっていただきたいと思います。
それとまた家庭生活の中ではね、どうもみんな、言葉にこだわる癖がありますね。会話が非常に下手なのだよ、みんなね。だからみんな言葉じりにこだわって、「ああいう事を言ったのわね!」とか言って、そんなことばっかり考えてグズグズ言っていると、家庭の中が明るくならないから、そんなことを笑い飛ばすような奥さんにみんななっていかなくてはいけません。
だから、今日はメシヤ講座を一時間も前からやっていると思っておけば良いね。さっきのお話にメシヤ様がこのようにお答えくださっていると、そのように拝読していくと、今回の対談は非常に有難いなと思わせていただけると思います。
無農薬、無肥料、適地適作
参加者
自然栽培ですが、友人のご主人が最近家庭菜園をやっているのですが、昨年はいろいろやってみても出来ないので「お金と手間ばかりかかってしまうから野菜は買ってきたほうが良い。」と言っていましたが、今年は「肥料も農薬もしないのに大根もブロッコリーも非常によくできた」と言って喜んでいました。
楳木代表
無農薬、無肥料で作る人を増やしていくということが非常に大事ですね。それはなぜかと言うと、今の日本の自給率が大体42パーセントと言っているけれど、これはカロリー計算上での数字で、実質的にはもっと低いのです。28パーセント位だといわれています。という事はもう最悪な状態なのです。それと同時にね、一日捨てる食料たるや、大変な量だという事を聞いたことがあるでしょ。いわゆるコンビニの弁当とか捨てるということは皆さん知っていると思いますが、農家も野菜を捨てないといけないのです。それは何かと言うと、例えばほうれん草でも、育ちすぎると規格の袋に入らないのは捨てざるをえない。きゅうりでも曲がってしまうともう規格外になってしまうから捨てないといけない。こうやって捨てる農作物がわんさかとあるのです。これはもうね、要するにみんなが作物を作ったとこを見たことがないので、規格にこだわってしまうのです。消費者が。作るということは、いわゆる消費者にとって一番大事なことは、作ったらいろいろなものが出来ると。天候や日の射し方によって。そのいろいろなものができたときに、形のきれいなものばかりではないのだと。かえって変化があった方が貴いのだということがわかってくるのでね。だから今のことで一番大事な事は、消費者はもっと商品を見る目とか、それから自分で作っていくとせっかく作ったものだから大事にして捨てなくなってくるから。そういう、人間の心の中に“捨てない”という、物を粗末にしないということが育ってくることが、日本で今、 一番大事な事なのです。毎日捨てている量で、飢餓で亡くなっている人たちを大勢救っていくことが出来るのですからね。こんなことをやっているという国自体が曇りを発生させているようなものです。
大きな参考にしていただきたいと思います。必ず作り出したら「絶対に無農薬無肥料よ。」と強く言っていかなくてはいけません。今度は「無農薬、無肥料」と強く言っていくのと同時に、適地適作をしていかなくてはいけないのでね。
あんまり土が固いところや小石の多い土壌で大根を作ると、 大根が二股に分かれてしまったり、曲がってしまったりすることがあるから、「その土の土壌はどんな質なの?」とか聞いて、それにあうような作物を作っていかないと上手に作っていけないというようなこともあるのでね。
やっぱり今までやったことのない人は農家の人によく相談してね、どんなものを作ったらいいかという事を尋ねていくと良いと思います。しかし、農家が「肥料をやらないと駄目」とか教えてしまうと困るのだけどね・・・。
参加者
周りの家庭菜園をやっている人が、「農薬や肥料をやっては駄目。」と言ってくれるので、やらないと言っていました。だから白菜なんかはナメクジがすごいそうです。
その奥さんは虫が嫌いなので虫のところをとっているとほとんど食べるところがなくなってしまうと言っていましたが、お姉さんに「虫が食べているから安心なのよ。」と言われ叱られたそうです。
楳木代表
その通りだね。大体ね、胃がんになったらナメクジを食べたら良いという人もいたくらいですから。飲み込んで、ガンを食べてくれるという療法もあるのです。
これは一理あるのです。今、アトピー性皮膚炎がこれだけ増えたのは、虫がいなくなったからです。ほとんどの子供に虫がいなくなったからです。
毒素を食べてくれる虫がいなくなったから、アトピーで出さないといけないのです。昔は虫が食べてくれた面もあるのです。
親から受け継いだ毒素を。それ等がいなくなってしまったので、みんながアトピーで苦しんでいるのです。
だから虫もよかったのです。それを利用して、虫をおなかに入れてダイエットをしている人たちもいるけどね。(笑い)まあそれもどうかと思いますが。
虫の原因は肥料
参加者
前にキャベツと白菜を作ったときには白菜の方がよく虫に食べられてしまいました。
楳木代表
それは白菜の方は柔らかいからです。
だけど虫について も、ここで解説してくださっているでしょ。
『虫がわくということは、肥料の為にわくのです。』と。
参加者
肥料はやらなかったのですが。
楳木代表
肥料をやらなくても、種をつくった時に肥料をやった種だから。本当の自然農法というものは種も自然農法で作るのです。種を自家採取して、初めて本当の自然農法になるのです。それをやらない限り、虫は湧きます。だからみんなでやるのでなら、種から無農薬、無肥料でやれば虫はつきません。虫の原因は肥料でつくということですからね。
だから今日はみんなの周りで起きている事に対して対談でメシヤ様からこのようにお答えをいただいているのでね、非常に有難いと思います。
一律ではない
参加者
子供の友達でもよく鼻血が出る子がいますが、それはメシヤ様がここで仰っているように、『熱が出たりすると、熱によってこれが溶けますから、その溶けたものが鼻血になって出るのです。』ということですか?
楳木代表
いや、それはね、それだけではありません。
やっぱり癇の強い子というのは鼻血が出ておかないと、もうストレスで頭の中がパンパンになってしまいますから。
だから一律ではないという風に見ておかないと。
参加者
そのときにはどうしたらよろしいでしょうか?
楳木代表
目の前でそのような子がいたら、後頭部をよく浄霊してあげれば良いです。
結核は然毒とか毒素を出すためにある
参加者
ここでメシヤ様が『その点結核はというのは、随分上手につくってますね。』と仰っていますが、そこがよくわからないのですが‥。
楳木代表
この前集団感染したでしょ。一箇所の学校で十何人か集団感染していたでしょ。
それは要するに、今、医者も結核を発見する力がないので、見抜けなかったのです。
レントゲンを撮ればすぐにわかったのだけれども、そのときレントゲンを撮らないうちに他の子にも感染してしまったということです。
それともう一つ、結核患者がなぜこれだけ毎年あるのかというと、お年寄りでも結核菌を持っているけれども押さえつけているのです。
注射して、子供のときに押さえつけているのです。
それが歳をとったときに結核菌の方が押さえつけているより強くなってしまうから、感染していくという事例が非常に多いわけですね。そういうメカニズムになっているのです。
参加者
ずっとしていました。
楳木代表
それはなかなか菌が根付かなかったということです。
参加者
菌を自分の体の中に入れているということですか?
楳木代表
そうそう。結核菌を入れているのです。だから少し温存させておくような状態にするのです。
だから予防接種は基本的にやらないほうが良いのです。今は栄養が行きわたっているから、結核菌があっても結核にはならない。基本的には。環境が悪くて栄養が悪くなると結核になりやすくなります。それから結核は頭を使うと結核になるから。
それは頭の毒素を出すために結核になるというのがあります。もう一つは霊的なものもあるけれど。そういう幾つも要素の毒素を、然毒とか毒素を出すためにある訳だから。
そのほか今回の体験報告並びに挨拶の中で疑問に思ったことや学んだこととか何でも良いですから‥。
参加者
体験報告の中で肺がんになった義理のお父様のお話がありますが、例えばガンになっても手遅れだという事になった時に、手術をしないで御浄霊をいただいていれば、最期まで人間らしく自分で食事を摂ったりすることが出来るのでしょうか?
それともガンの種類によっても変ってくるのでしょうか?
楳木代表
いやいや全部。
参加者
どんなガンでも御浄霊にお任せしていれば、もし手遅れだったとしてもモルヒネをうたないと、とても痛みに耐えられないとか、食事も全然摂ることが出来ないとかそのような事もなく旅立つことが出来るのですか?
楳木代表
うん。特に歳をとっていけば行くほど、病気が発生しても痛みが出ないから。薬を飲んでいたり、治療をしたりしていると痛みが伴います。だから老衰の一環としてガンになった場合、しかも薬毒がない場合は、痛みが出ません。
参加者
若い人はそうはいかないのですか?
楳木代表
うん。若い人はそうはいかないけれど、手遅れでも良くなっていく場合もあります。だからどうしても老衰で亡くなるのだけれども、その時に医者が診断書を書くときに病気を発見すると病名を書くから、ガンで亡くなったと書くけれども、老衰で亡くなっているのだから。ほとんどの場合。歳をとっていった場合。だからどういう病気で亡くなったのかということは、医者の書き方によって変ります。
参加者
それで治療をしてもらうから、痛みを伴ってしまったり、最期は意識がも朦朧(もうろう)としてしまったりということになってしまうのですね。
言うことを成す
楳木代表
そうだね。だから今、一番の問題は、○○教のいわゆる布教所長以上の人たちがガンになって亡くなるというケースが増えている。そのとき治療をしてしまうというのが一番の問題点なのです。手術をする人が増えているのです。だから立派だといわれていた先生方でも手術を受けて亡くなっていく場合が多いのです。
参加者
せっかく御教えをいただいていてもですか?
楳木代表
そうそう。○○教団でも親が教会長までやって、息子が役員までなっている人もガンになって手術を受けているのです。
そうすると何の為に二世代にわたって信仰しているかということになります。
信者さんに手術をしてはいけませんと私は一切言いませんが、指導者でみんなから「先生」「先生」といわれてきた人間が手術を受けるというのは、もうこれは背信行為ですから。
そうでしょ。みんなに薬毒論を説いてきたのにね、自分がいざそうなったら手術をするのですから。そういう人たちが今増えています。○○教団でも大勢いらっしゃいます。
しかしそれを極論していくと、今度、ネグレクトと言って医学拒否みたいに社会問題になっていくから、これはなかなか指導は出来ません。
自分で選択していくしかありません。
参加者
自分で選択した場合は周囲の人がそのような問題には巻き込まれないのですよね?
楳木代表
そうそう。その場合は念書を書いておかないと。
念書というか覚書を書いておかないと。
私の意志でそういう方針をとっているのだと。そういうのを文書で残しておかないと。
やっぱりね、強制したということで後になってからね。
参加者
では何かあったときには書いておいたほうが良いですね。
楳木代表
でも、そのくらい書くような人はそのようにはなりません。
神様は肚の底を見てされているのですから。
こうして話していてもね、「書く」「書く」と言っていても、いざなった時、書かないという人の肚の底はわかっているので病気になる可能性はあるけれど。
もう神様はお見通しなのです。
だから有言実行の人々を【言うことを成す】と書いて【誠】というのだからね。
本当の誠というのはそういう人なのだと。 誠のある人はね。
参加者
わかりました。では常に自分も持ち続けていきます。
楳木代表
うん。だけどそういうことを貫くためには自分の人格を高めていかないと、変った人間だと言う事で終わってしまいますから。
だからそのために朝、毎日『神格をいただく道』という御教えを拝読していただいているのです。あれだけのことができれば人格が向上していくから。
人格が向上する中で、一途さを持っておかないと問題を起こします。
偏屈な一途さは鼻ツマミ者ですから。これは。
「あの人は!」といわれると困ってしまうからね。
「あの人は素晴らしいなと思っていたらこういう一途さもあったのだ。」と思われるのは良いけれど、「あの人は本当に変っているなー。」と言われるだけの人では困ってしまうからね。
だから、そういう風な事のためにやっぱり勉強をしっかりと、学習をしっかりしていかなければなりません。そしてその学習の機会をどうやって自分で増やしていくかが大事だね。
【御教え『大乗たれ』(地上天国三十号 昭和二十六年十一月二十五日)】
私はいつもいう通り、大乗の悪は小乗の善であり、小乗の悪は大乗の善であるという事であるが、此(この)肝腎な点をどうも忘れ勝ちな信者があるが、之は大いに反省して貰わなければならないのである。判り易く言えば、何事も大局的見地から観察するのが大乗的観方である。それに就てよく説明してみるが、一生懸命善と思ってしている事が、結果に於て案外教の御邪魔になる場合がある。而(しか)も斯(こ)ういう人に限って自力的で人間の力を過信し、大切な神様の御力を不知不識(しらずしらず)忘れ勝ちになっているのは、誰でも覚えがあるであろう。
又、斯ういう事も屡々(しばしば)聞かされる。それはアノ人は随分熱心にやっているが、其(その)割合に発展しないのはどういう訳であるのかと訝(いぶか)るが、之こそ小乗信仰の為であって、小乗信仰の人はどうも堅苦しく窮屈になるので、人が集って来ないから発展もしないのである。而(しか)も一番不可(いけ)ないのは、物事が偏りすぎるから常識を外れて、奇矯な言動をする。之を見て心ある人は、本教を低級迷信宗教と思い、軽蔑するようになるので此(この)点大いに注意すべきである。処(ところ)が其(その)反対に、それ程熱心に見えないようでも、案外発展する人がある。斯(こ)ういう人こそ本当に大乗信仰を呑み込んで実行するからである。
今一つ言いたい事は、小乗信仰の人に限って、他人の善悪を決めたがる。之も私は常にいう事だが、人の善悪を云々するのは飛んでもない間違いで、人間の善悪は神様以外分るものではないのだから、人間の分際で善とか悪とか言うのは僭上(せんじょう)の沙汰で、如何に神様を冒瀆(ぼうとく)する事になるか分らないので、之程大きな御無礼はない訳である。何よりも斯(こ)ういう人に限って独善的で鼻が高く、人徳がないから発展しないばかりか時には碌でもない問題を起し勝である。
此(この)例として、終戦前の日本をみればよく分る。
忠君愛国の旗をかついで、全国民命掛(いのちがけ)でやった事が、アノような結果に終った一事であって、此(この)道理は大なり小なり何にでも当嵌る。成程其(その)当時はみんな正であり善であると思って行った事だが、此(この)善は小乗の善であるから、自分の国さえ良ければ人の国などどうなってもいいという利己的観念の為の其(その)報いである。それに就て私は先頃「世界人たれ」という論文を出したがつまり其(その)意味であって、大乗の善即ち世界的善でなくては、本当の善とはならない事を示したのである。勿論斯(こ)ういう考え方でゆけば、侵略戦争など起りよう筈がないから、アノような悲惨な目にも遭わず、今日と雖(いえど)も平和を楽しみ、世界から尊敬される国になっていたに違いないのである。
別言すれば、愛にも神の愛と人間の愛とがある。即ち神の愛は大乗愛であるから、無限に全人類を愛するが、人間愛は小乗愛であるから、自己愛や自分の仲間、自己の民族だけを愛するという限定的であるから結論は悪になる。此(この)意味が分ったとしたら信者たるものは何事に対しても、大乗でゆかなければならない訳で、即ち神の愛を確(しっ)かり胸に畳んで御取次する事で、必ず好結果を齎(もたら)すに決っている。故にどこ迄も神の御心を心とし、無差別的愛で臨む以上、誰しも快く接する事が出来、喜んで人が集って来るのは当然であり、発展するのは間違いない事を、最近感じたまま茲(ここ)にかいた次第である。
煮詰めていけ!
参加者
御教え拝読だけでは駄目ですよね。
楳木代表
うん。だから学習の機会をどうやって作っていくかということだね。
と、例えば親達は週一回とか二回、支部にお参りに来て、貴いご参拝をして、浄霊をして、御教えについての勉強会をしています。崇高な機会を持っていますが、自分にはそのような機会がないから、ご主人のいる時間に合わせて、決めた曜日の決めた時間に、支部へ来させていただいて、参拝をさせていただいて浄霊をして、この場で御教えを拝読させていただくとか、自分の家事が終わって子供達のいろいろな事を全部済ませてから出られる時間で、ご主人のいる時間にここへ来るということも一考です。3月はなかなか無理かもしれないけれど4月になって落ち着いたらそういう時間を作ってくるとかね。
参加者
その御教えはどのようにすれば良いですか?
楳木代表
それはご主人とやろうというのならば一緒に決めれば良いし。
○○さんも夜辛いようだったら切りかえてもらって、「 ○○さん、一緒にやってよ。」 と誘って巻き込んでしまうとか。そうすると○○さんは夜から昼の部にきてもらうとか。
そうすると人に無理をさせるのだから、「大変申し訳ございません。」とか、例えばそのような話をして、話し合いで決めていかなくてはなりません。自分で一方的に決めるのではなくてね。
幸い○○さんは仕事の時間を短縮しているから、自分は昼向きか夜向きかを考えてやってください。そのようにしてやっていけば独りよがりの勉強ではなくなっていきます。そういう機会を作っていくと非常に良いのではないかと思います。それで夜はどんな勉強をしているかを「どんな御教えを拝読しているの?」「どんなことをやっているの?」と聞いてください。
参考にならなければ自分で考えれば良いです。
参加者
どんな御教えにすれば良いですか?
楳木代表
日常生活に即した御教えを学べば良いわけだから。まずはこの【「祈りの栞」に寄せて】をマスターしているかどうか。最低限の信仰生活をまとめてありますので、これを全部マスターしているかどうか、チェックしてください。
また、信仰以前に【浄霊】という本があります。これはいわば未信者さん向けに書いた本だから、まずこれがマスターできているかどうかをチェックします。チェックをすべきことがいくつもあるのです。チェックをしつつ月々出てくるメシヤ講座もマスターしたかどうかというのがある訳です。その上に、レベルの高い御教えということがある訳ですから、備えているものというものはどういうものかという、自分が備えてきたもののチェックをこの機会にしてください。
じゃあ、4月からやっていこうとするならば、3月いっぱいに煮詰めておかないと間に合いません。「煮詰めていけ!」というのが私の挨拶の主旨ですからね。
参加者
体験報告を読ませていただいていると、自分がメシヤ講座でずっと勉強しているのにまだまだだと思いますので、最初から見つめなおさないといけないと思いましたが。
楳木代表
そういうところまでならなくても良いから整理していかないと。自分が歩んできた道を整理していかないと。
最初、嫌々布教所に来ていた時期もあったでしょ。私に会うたびにいつ入信するのだと言われるのが嫌で行かないこともあったでしょ。
そういうところからずっと歩んできた現在の自分は何が身についているのかということと、まだ身についてこなかったなということを整理してもらうために濵口さんにこれだけのことを書いてもらったのです。だから文章の制限を出さなかったということで私の挨拶よりも長いのだから、濵口さんの文章の方が。しかしそれは本人がじっくりと見つめた結果だから、貴いわけだね。
私がそこへ一切制限を出さなかったというのは、そういう意図があるのだという事をわかっていただいて、新年度までにそれを見つめなおして4月から新しいスタートを切っていくという時期にしてもらいたいと思います。
参拝者
3月は忙しいですね。
楳木代表
忙しいですよ。子供の事に追われている暇はありません。それをこなしつつ、やらないといけません。
【御教え『大いに神書を読むべし』(栄光八十号 昭和二十五年十一月二十九日)】
今迄、本教の宣伝方法としては、浄霊と刊行物の二つによって行われて来た事は知る通りであるが、之からは今一つ座談会、講演会等を、各地に開いて宣伝するのである。之は勿論耳からの宣伝で、今迄の病気治しと目の宣伝の外に、今度から耳の宣伝が加わる訳だ、此(この) 様に三位一体的方法によれば、大いに効果の挙がる事は、期待し得るであろう。
勿論、耳の宣伝とは言葉によって本教に関する一切を知らせ、如何に本教が優れた宗教であるかを伝えるのである、そうして相手に対し、解らせる為には、此方(こちら)も信仰的智識が豊富であらねばならない、何しろ聞く者は成程救世(メシヤ)教というものは実に立派なものだ、いい信仰だ、自分も是非入信したいという心を起させなければならない、そういう場合よく自分は喋舌(しゃべ)るのが下手だ、どうも巧く喋舌れないなどというが、之は間違っている、というのはいくらうまく喋舌った処で、相手の心は動くものではない、いつもいう通り人を動かすには誠である、此方(こちら)の誠が先方の魂に触れる、つまり魂を揺り動かす、それだけである、喋舌る事のうまいまずいは二義的である。
以上のように熱と誠で人を動かすとしても、それには充分理解が必要である、とすれば此方(こちら)も自己の智識を磨く事で、何よりも出来るだけ御神書を読む事である、又質問を受ける場合が大いにあるから、それに対し一々明確な答弁が与えられなければ、相手は納得しないに決まっている、従ってどんなに難しい事でも相手が承知するだけの解答を与えなくてはならない、そうして特に注意すべきは、よく苦し紛れに嘘の答弁をする人がある、相手が激しく斬り込んでくると、心にもない一時逃れをするが之は絶対いけない、仮にも神の信徒として嘘を吐(つ)くなどは許されない、知らない事は知らないと正直に言えばいいのである、処が知らないというと相手が軽蔑しやしないかと思って知ってる振りをしたがるものだが、之が最もいけない、そうすると反って逆効果になる、というのは、知らない事は知らないというと、先方は此(この)楳木代表は正直な人だから信用が出来ると思う事になる、いくら偉い人でも何でも知っているなんて人は恐らくない、だから知らない事があっても決して恥にはならないのである。
それから私に質問する場合、御神書の中にチャンとかいてある事柄がよくあるが、之等は平素全く御神書を読むのを怠っているからである、だから出来るだけ御神書を読む事で、読めば読む程信仰が深くなり、魂が磨けるのである、御神書の拝読を疎かにするものは力が段々減るものである、信仰が徹底すればする程貪(むさぼ)るように、読みたくなるもので、繰返し繰返し肚に入る迄読むのが可いのである、勿論読めば読む程御神意がハッキリ判るものである。
之に就て、序(つい)でに今一つ言いたい事がある、それは浄霊の場合、病原が判らないのに、判ったような顔をしたがる、之は最もいけない、そういう人に限って思うように治らないと必ず霊的だと言って逃げる、本当からいえば病原が霊的か体的かなどは、非常に判り難いものであるが、人間は元来霊体一致だから、浄霊の場合差別はないのである。というのは、霊が治れば体が治り、 体が治れば霊が治るからである、処が浄霊者は浄霊でスラスラ治れば普通の浄化と思うが、治らないと霊的と思い易いが、之は大変な間違いである、恰度(ちょうど)お医者が治りが悪い病気だと結核性にするのと同様である。
参拝の仕方
参加者
今聞いたら笑われそうなことなのですが、一月から参拝の仕方が変りましたが、家での朝・夕拝の時にはどうしたらよろしいでしょうか?
楳木代表
月次祭では一番大きい祈りを最初読むでしょ。だから朝拝の時にはね、「私には今日、こういう課題がありますので、御力をいただきたいと思います。」というように言葉に出して言って、天津祝詞を奏上すれば良いです。
これも二ヶ月前に話したと思うのだけど、「今日一日無事に過ごせますように。」と、その事に対して天津祝詞を心を込めて奏上するということです。今までは天津祝詞奏上をいい加減に奏上していて、頭を下げるときに「今日無事に過ごせますように。」 と言っていたから、 天津祝詞がもったいない奏上の仕方になっていました。ですから事前に「今日無事に過ごさせていただけますように。」と言うことを、想念を正して。だからこそ天津祝詞を丁寧に奏上しなくてはいけないのだという事で奏上し始める。こっちの方が断然ご参拝の姿勢が良いでしょ。そういうふうに切り替えて貰いたいと思います。
これは思い切って何回でも聞いて、肚に落ちるまで。で、また一ヶ月やってみてどうもしっくり来ないと思えば、また聞けば良いから。そういうのを重ねて想念を確立して参拝する方法を定着させることが大事だからね。そういうふうにして取り組んでください。
三月はお彼岸の月ですので、家庭慰霊祭を毎月やっていることと思いますが、より一層丁寧に慰霊祭をさせていただきたいと思います。
[メシヤ講座no.110浜松支部 2010(平成22)年3月]