メシヤ講座no.110日月地(平成22年3月その3)

楳木先生への質疑応答18〜伊都能売思想と地上天国

 

質問者   メシヤ様程の方が、朝起きると家族の者の御機嫌を考えられていたという事は、まさに家庭天国の第一歩と感じます。現代社会でも、家庭ではお父さんの機嫌が良いか悪いかで家族皆が気を遣い、会社では、社長の機嫌が良いか悪いかに社員一同戦々恐々としていますから。

 

楳木先生   そういう事が、我々の考えている事と、メシヤ様の日常生活は、違っていたという様に考えられます。それから、人間というものは、どうしても、「人に指示をする」「人に何かをさせる」方が気分が良いという癖があります。

 

質問者   そうですね。特に、家庭では家族の長、会社では、部長、課長と役職が上になる程そのような傾向になります。

 

楳木先生   しかし、メシヤ様は、献立の内容迄おっしゃられる様に、相手に何かをさせるというお考えではなく、一緒に行なうという考えであられた。共同でやるという姿勢をお持ちでいらっしゃいました。それをまとめて行くと、「男女合権」という言葉に集約されて行くのではないかと思います。「同権」ではなくて「合権」、やはり、「合わせて行く」という事です。向こうが聞いたらこちらも丁寧に答える。その様な関係を築いて行くという事が、大切なのです。

 

質問者   同権だと、一つの権利を主張しあう事になりますね。ところが、合権だと、一つの権利を合わせて行なう事になります。

 

楳木先生   現代の様に、共働きが増えている場合、食事を作るにしても、交替で行なう事も出て来るでしょう。家事には、炊事、洗濯、掃除などありますが、これをどうするかという事も、状況によって、割合でいろいろと考えていかなければなりません。奥さんの方が高給取りという場合だってある訳ですから。仮にそのような場合、男はどうするかという事もあります。様々な状況に応じて適宜、家事の分担を考えなければなりません。メシヤ様の御在世当時と現代とでは、そのような違いは起きて来ます。そういう事も考えておかないと、家庭天国という事への正しい答は出て来ません。

 

質問者   そういった事は、社会状況、環境を踏まえた上で、諸々考えて、時代時代に合わせて取り組んでいかなければならないと思います。

 

楳木先生   それから、例えば、人から批判的な事を言われた時、自分の機嫌が良いと、「何を言っているんだ」と笑って済ませられる様な事も、機嫌が悪かったり体調が悪かったりした時だと、同じ事を言われても「うるさい」と口に出して言ってしまいます。そういう事になると、全ての問題解決の条件には、「病気をなくす」という事があります。やはり、家庭を天国にする上においても、「健康」が一番大事という事になって来ます。

 

質問者   家族全員が、「心身共に健康である」必要があるという事ですね。

 

楳木先生   そうすると、今度は、「心身共に健康」とはどういう事かという事になります。これは、「祈りの栞に寄せて」の中にある「神格をいただく道」に抜粋されて書かれている事を一つ一つ目指して行く事が大切なのです。

 

 

【御教え『神懸り宗教』( 昭和24年5月30日「光」号外)より】

 

神とは、言い換えれば完全なる人間という事である。故に人間は、努力次第で神にもなり得るのである。そうして、本当の宗教の行り方は、一歩一歩完全人間、即ち世に言う人格完成に近づかんとする努力の生活であらねばならない。

 

然らば、完全人間とは如何なる意味であろうかと言うと、真理即ち神意を骨とし、人間生活を肉と見るのである。即ち如何なる不正にも誘惑にも動かざる確固たる精神を内に蔵し、常に天空海濶的心境に在って、日常の言動は融通無碍、時所位に応じて何物にも拘泥する事なく、千変万化身を処すべきである。又、規律を尊び、怠楕を嫌い、万人を愛し、人に接しては春秋の気候の快適の如く、何事にも極端に走らず、人に好感を与える事を之努め、親切謙譲を旨とし、他人の幸福を念願し、人事を尽くして、神意に任せる態の信念を以って進むべきである。

 

人事百般完全は望むべくもないが、一歩一歩その理想に近づく努力こそ、人として最尊最貴のものであり、斯の如き人間こそ生甲斐ある真の幸福者と言うべきである。

 

勿論、信仰の妙諦も是に在るので、此の様な人間の集団こそ地上天国でなくて何であろう。

 

 

質問者   家族全員がこの御教えを目指して行けば、家庭が天国となって行くと思います。

 

楳木先生   当然、そうなります。一人一人が、それぞれの年齢、立場に応じて、取り組むものがあるという事です。そして、世間一般で言われている様な事は、「課題というものは、少し無理な方が成り立つ」という事だから、今の自分には無理があると思う事でも、それを課題として取り組んで行く姿勢が重要です。

 

けれども、時として、無理な課題に取り組んでいる上で、「何故私ばかりがこんな事を」という気持になる事も当然起きて来ます。妻であれば、「何で私はこの人と結婚してしまったのだろう」と思い始めたり、また、子供であれば、横着になってしまうと、「自分は親を選べない、家族を選べない」という気持が起こって来ます。「こんな家に生まれて来る気はなかった」などと言ってしまう事もあります。

 

そういう時に、我々にとって有り難い御教えは、やはり、「祈りの栞に寄せて」にある「天国的生活」に抜粋して書かれています。

 

 

【御教え『信仰の醍醐味』( 昭和23年9月5日「信仰雑和」)より】

 

本来信仰の理想とする処は常に安心の境地にあり、生活を楽しみ、歓喜に浸るというのでなければならない。花鳥風月も、百鳥の声も、山水の美も、悉神が自分を慰めて下さるものであるように思われ、衣食住も深き恵みと感謝され、人間は固より鳥獣虫魚草木の末に到るまで親しみを感ずるようになる。これが法悦の境地であって、何事も人事を尽くして後は神仏に御任せするという心境にならなければならないのである。

 

 

楳木先生   私達は、少し大変な課題に取り組んだ時には、人間の弱さとして、「何故私だけが」という気持が起きかねないので、そういう気持が起きた時には、神様という御存在が、ずっと自分を見て下さって、庭の花、鳥の囀(さえず)り等を通じて、自分を慰めて下さっている、そういう気持になる事が出来れば、いつでも穏やかな気持でいられるので、「家庭天国」に近づいて行く事が出来ます。

 

先ほど(前回)のストレスは、「苦痛」「快感が得られない」「人に評価されない」などが主要原因で起こるとされます。そして、交感神経と副交感神経の上手な関わり合いが必要だとも言われています。副交感神経に切り替えるためためには脳内物質のセロトニンの分泌を上手に促すことが必要で、そのためには「朝、太陽の光を浴びる」「リズム運動をする」「人と人との触れ合い(軽いタッチ)」が効果的だとされています。現代ではセロトニンをテーマに各種道場が出来ているほどです。

 

そして、感動の涙を流すことで脳内の血流を増やすことも重要です。こうした話をすると、メシヤ様がお食事中にラジオからの音楽に合わせてタクトを振る真似をされて御家族を和ませたり、御家族、奉仕者と共に映画や演劇で大粒の涙をな出されたりされたことも印象に残ることです。中でも、御教えに血流と精神の関係を説かれていることが、科学的に裏付けられてきていることを痛感する今日この頃です。

 

自分の中で、「御教え」と「生活」を線でつないで行く、これが思想の体系化である訳だから、その、思想の体系化をする時に、もう一度「伊都能売思想」というものを考えて行くと、「伊都能売思想」とは、自分の周りを天国化して行く時に、メシヤ様が日常生活で心がけていらっしゃった事を、自分の中に取り入れる為に、沢山ある御教えと自分の課題とを線で結んで、そして、自分が目指さなければならない道筋を体系化して行く事が、実は、伊都能売思想を身につけるという事だという様に考えて頂ければ、一つ一つの御教えが自分のものになり、自分の生活に取り組んで行く事が出来るのではないかと思います。

 

質問者   そういった事が、「一歩一歩その理想に近づく努力」という事であり、「人として最尊最貴のもの」であり、「此の様な人間の集団こそ地上天国」となるという事ですね。

 

楳木先生   そうです。御教えだけが頭に入っていても、それが生活と分離していると、喧嘩になります。「御教えに照らしてみると、お前は何なのだ」と人を裁く事になりますから。その御教えが、自分の思想体系の中にきちっとした入り方をしておかないと、何かが起きた時にそれで言い合いになってしまいます。それが、分裂を生む事になります。

 

質問者   御教えは、全人類に提示された物ですから、御教えを自分の外に置いて、そこに照らし合わせて人の事を見ると必ず何らかの問題点が出て来るものです。だから、一人一人が、自分が、御教えにつながった生活を課題として目指していかなければならないという事です。

 

楳木先生   そうですね。自分の思想体系の中に御教えを組み込んで行って、御教えは決して相手を裁く為にあるものではなく、自分を育み、自分を天国人にする為にあるものだという事を理解して、取り組んでいかなければなりません。実際に、「人に接しては春秋の気候の快適の如く」という生活をしていれば、人と争う事にはなりませんから。相手にもそういう気持になってもらえば喧嘩になり様がないのです。

 

また、「時所位に応じて何物にも拘泥する事なく、千変万化身を処すべきである」とある様に、仕事をしながらでも、明日の献立を聞かれたら、すぐに切り替えてそれに答える、そういう生活をされていらっしゃったのがメシヤ様なのです。そのメシヤ様を、私達は教祖として仰いでいるのだから、自分の生活も、その様な事を目指して行かなければなりません。

 

今月のメシヤ講座に取り上げた対談の中でも、報知新聞社取締役社長竹内氏が「強羅で初めてお目にかかった時は、何か変な物を着てくるのではないかと思ったのですが、ケロッとしてタバコを吸われているので、それからすっかりおもしろくなってしまったのです。教主の人柄から見ても、救世(メシヤ)教というのは、コケおどしに人をおどしたり暗い感じが全然ないところが、私は非常にいいと思うのです。」と語られていますね。私達も、そういう処を目指して行かなければなりません。少し偉くなるとふんぞり返る様な、そういう人間に、えてしてなり兼ねない事が多いですから。この対談も、角度を変えれば、いろいろなテーマに参考になるものです。

 

質問者   「読み方」によっていろいろな事を教えて下さっている事がわかります。同じ御教えでも、何度も読むうちに、角度を変えて見るという事も大切だと思いました。「伊都能売の身魂」の御教えも、改めて、自分の生活に照らし合わせ、体系化して、日々取り組んでいかなければならないものだと感じています。その日々の実践が、個人の天国化、家庭の天国化、そして、それが広がる事が、地上天国につながって行くという事を肝に銘じて、今後も、日々の課題を一つずつ解決して行きます。

 

[メシヤ教鎌倉支部にて 2010(平成22)年3月15]

 

 

 

【御教え『伊都能売の身魂』(「地上天国」三十五号、昭和二十七年四月二十五日)】

 

私は今迄幾度となく、伊都能売(いずのめ)の身魂の事を言ったり記いたりしたが、余程難かしいと見えて、真に行える人は何程もないようである。処が決してそう難しいものではない。根本が判って習性にして了(しま)えば案外容易に実行出来るものである。実行出来ないというのは、非常に難しいと思う其(その)先入観念の為である。と共にそれ程重要な事と思っていない点もあるように思うから、幾度もかかない訳にはゆかないのである。

 

伊都能売とは一言にしていえば、偏らない主義で、中道を行く事である。小乗に非ず大乗に非ず、といって小乗であり、大乗であるという意味である。つまり極端に走らず、矢鱈(やたら)に決めて了(しま)わない事である。そうかといって決めるべきものは勿論決めなくてはならないが、その判別が難しいと言えばいえるので、言わば料理のようなもので、甘すぎていけず、辛すぎてもいけないという恰度良い味である。之は又気候にも言える。暑からず寒からずという彼岸頃の陽気で、此(この)頃が一番快いのである。というように人間の心の持方も行いも、そういうようになれば、第一人から好かれ、万事旨くゆくのは当然である。処が今日の人間はどうかというと、実に偏りたがる。之がよく表われているのが彼の政治面であろう。今日右派とか左派とかいって、初めから偏した主義を標榜している。従って物の考え方が極端で、而(しか)も我が強いと来ているから、年中争いが絶えない。という訳で之が国家人民に大いにマイナスとなるのである。此(この)意味によって政治と雖も伊都能売式でなくてはならないのは当然だが、そこに気の付く政治家も政党も仲々出そうもないらしい。何となれば吾々に近寄る迄になり得る人は洵(まこと)に寥々(りょうりょう)たる有様であるからで、又、戦争の原因もそうで、此(この)両極端の主義を通そうとする思想から生まれる其(その)結果である事は勿論である。

 

そうして信仰上の争いもよく検討してみると、ヤハリ小乗と大乗、即ち感情と理性との相違からである。だから其(その)場合、経の棒を半分短かくし、緯の棒も半分縮めれば一致するから、円満に解決出来るのである。従ってよく考えてみれば仲直りも大して難しいものではないのである。それに就いてこういう事もよくある。

 

即ち如何なる方面にも保守派と進歩派が必ずあって、宗教でもそうである。此(この)二者の争いを観ると、前者は古い信者で伝統墨守的頑(かたく)なで、新しい事を嫌う、まず丁髷(ちょんまげ)信仰ともいえるが、後者の方は進歩的ではあるが、新しさに偏して何事も古きを排斥したがる。そこに意見の不一致が起り、相争う事になるが、之等も伊都能売式になれば何なく解決出来るのである。そうして肝腎な事は宗教と雖も、時代精神を深く知る事である。処が宗教人はどうも時代に無関心で、寧(むし)ろ之を可(い)いとさえしている傾向が強い。何百何千年前の伝統を金科玉条としている。成程信仰は精神的なもので、経であり、永久不変の真理であるから、曲げられないのはいいが、経綸の方はそうはゆかない。之は物質面であるから、時代相応に変遷するのが本当である。即ち精神物質両方の完全な働きで、即ちどこ迄も伊都能売式で行かなくてはならない。

 

右(上)の意味に於て、今日釈迦やキリストの時代と同じように思って、其(その)教えや行り方を其(その)侭(まま)実行しても、現代人の魂を掴む事は到底出来ないのは言うまでもない。既成宗教の振わないのも其(その)点にある事を知らねばならない。要するに伊都能売の働きこそ、一切の根本的真理である事が分ればいいので私が常に伊都能売の意義を説諭するのも其(その)為である事を、信者諸君は充分心得て貰いたいのである。