メシヤ講座・特選集no.155(平成25年12月分)

 <御教え>
『文明の創造』科学篇
総論 手術

(文創  昭和二十七年)


本文は『文明の創造』225ページに記載されています。(『文明の創造』購入方法は「出版案内」を参照ください。また、研鑚資料『文明の創造 二・下』では72ページです。)

なお、『総論 手術』は1月に拝読し学び合う御論文です。今回は「メシヤ様御降臨祭」特集ですが、12月に学んだ『小児病』に関する内容は各支部メシヤ講座を参考にしていただければ幸いです。

「メシヤ様御降臨祭」特集

≪体験報告≫
妻の信仰を辞めさせるために入会
広島支部 百合野秀治

氏を変更する取り組みから家庭天国へ
鎌倉支部 川延京子

多重人格に悩む娘に光明
浜松支部 Y.K

精神的浄化を経て御用にお使いいただけるように
大阪支部 N.J

お世話の御用を通して信仰の醍醐味を味わう
岡山支部 原田多津子

≪代表挨拶≫
『文明の創造』拝読により新年度「御神業推進」の在り方を一層明確にさせていただける

メシヤ教代表 楳木和麿

神山の麓(ふもと)箱根強羅で感謝の祭典

本日は「メシヤ様御降臨祭」まことにおめでとうございます。

メシヤ様は全人生をおかけになられて、『救世の聖業』を担うべく人として多大な苦労を重ねて、その上で私達に人を救う方法と人を救う力を授けてくださいました。そのことに対する感謝を捧げ奉り、メシヤ様の御手足として御神業を担わせていただくお誓いを捧げさせていただくのが本日の御祭りであります。

そういう御祭りである中で、更にメシヤ様から多大な恩恵をいただいていることを実感させていただけるような御参拝をさせていただき、心から感謝を申し上げたいと思います。

本日は、この神山の麓の箱根強羅において、祭典を執り行わせていただくのが二回目ですが、“大変有難い”とお参りをさせていただきながら込み上げてくるものがありました。昨日、ここで会場の準備などをさせていただいている時に、「放送施設がかなり古くなっているので、引き続きメシヤ教がこの会場を使っていただけるならば、さらに充実した放送設備を準備します」という約束をしてくださいましたので、次回月は更に素晴らしい会場になるのではないかなと思います。

せっかく五人の方に報告していただきましたので、五人の方々の顔の十分見える形で、正座してではなく椅子席を用意していただいて発表できるように整えていただきたいと思います。月の発表者も既に私の中では何人か候補を決めておりますので、その方々が引き続き御守護をいただきながら、発表できるようにお世話に取り組んで行きたいと思います。

さて、五人の方々が、溢れてくる涙が止まらないような貴重な報告をしてくださいました。その発表内容だけで本日の「メシヤ様御降臨祭」の意義というものを求めることができるのではないかと思いますが、本日は平成26年度の御神業の出発の日でもありますので、発表の方々の学びを整理させていただき、26年度の御神業をどのように進めさせていただくのか、そうしたことをお取り次させていただいて挨拶に変えさせていただきたいと思います。

本来は人間生活そのものが宗教ということ

最初に百合野さんが正直な入信動機を語ってくださいました。

この原稿ができるまで、百合野さんがそのようなお気持ちで毎月月次祭に参拝に来られていたことを実を言うと存じませんでした。

新婚当初から参拝に来られていましたが、可愛い奥様を何とかして間違った宗教であるならばやめさせてやろうと、そんな愛の深い男とは知りませんでした。(会場大笑い)そして、実際に御浄化をいただいて、先ほど写真を回していただきましたが、非常に酷い皮膚の状態になりました。膿が下着に付きますので、それを洗って、尽くした奥様の熱い想いを聞かせていただいて、ご夫婦共々“深い愛の持ち主だなあ”と感じさせていただきました。

百合野さんの冒頭の話というのは非常に大事なので、次の『文明の創造』に続く『天国の福音書』続編の「はしがき」に書かせていただきました、原稿を読ませていただきます。

『この著は宗教書です。ごく当たり前の記述ですが、宗教とか耳目にした際に、宗教団体を連想する方は多いのではないかと思われます。宗教観が随分と改められて来たとはいえ、まだまだ宗教を宗教組織と関連して理解し違和感を覚える傾向が日本人にはあるようです。近年日本の文化が見直され、円安の影響と相俟って日本を訪れる外国人が増加し、取り分けイスラム圏の方々が訪れるようになり、食事に関して戒律があることを知るようになりました。そして、戒律の起源を求める人もあり、宗教と人間生活の根源的な関わりへの理解も深められてまいりました。当然のことながら、世界の宗教と民族の関わり合いも掌握できるようになりました。

そうしたことから宗教学者の岸本英夫氏の「人間生活が宗教である」とする考え方に対する理解を深めました。また、古代の人間生活というものを、縄文遺跡を通して探れば「人間生活そのものが宗教である」という理解も深まりました。それは、古代宗教の役割や、首長を中心にした集落の運営が一体となって、生活の秩序が保たれ安定した社会が約三千年続いていることが判明したからです。これこそが人間生活そのものが宗教であるとする所以です。さらに豚を食べないとする戒律や、輸血を拒否する姿勢は、それ自体純粋性を持っていますが、更に『主神様が必要あって創唱の御啓示を許可なされた』と受け止めることができるならば、学ぶ姿勢を以て接することが更にできます。』

という書き始めで「はしがき」を今構成しております。ですから、メシヤ様が進められようとなされた『本筋の御神業』というのは、こういうところから出発する訳でもあります。しかも『夜昼転換』の御教えというのも、こうした論立ての上に唱えられている訳であります。しかし、今までの指導者があまりにもそうした幅広い見地から『夜昼転換』の御教えを取り次いで来なかったために、私達は狭い範囲での『夜昼転換』の御教えの受け止め方になって来ております。

信仰の始まりというものが先祖供養

二人目にご発表いただいた川延さんですが、氏に対することを考えた時に私達が信仰の道に入った時に、真っ先に進めないといけないことは我々の祖霊様をいかに丁寧に祀らせていただくかということです。

しかし、丁寧に祀るといっても離婚した相手の姓を引き継いで先祖供養をさせていただくと言っても、御教えからしますと『相手とは縁が切れている』にも関わらず、その縁が切れている相手の先祖を祀るという、非常に可笑しな現象が起きてしまう訳であります。それで元の実家の姓を名乗るというように進めて行くということで話し合いを始めたのであります。

それで、その中で「これが正しいからすぐにその方向で行かなければいけない」ということですと、今までの信仰姿勢と全く変わりませんので、「十分息子さんたちと話し合いをしながら、進めていただきたい」ということをお願いした訳です。

お聞きになりましたように大変な御守護をいただきましたが、この御守護とメシヤ様御在世中に教会長や支部長が歩んだ道と非常に繋がりがあります。

私は世界救世(きゅうせい)教の専従者時代に幸いなことに当時の教会長、支部長になったご家庭で育った専従者(当時、常任理事になっておられた方々もおられました)に「メシヤ様と御縁をいただいて、家庭が信者になったという、その変化は何からだったのですか」という同じ質問を大勢の先達のご家族に問い合わせてみました。そうしたところ、まず「家に仏壇が来たことが最初だった。」あるいは「仏壇の中のお位牌が整理されたことが、最初だった」という返事が大半でした。御教えに基づいてそういうことがなされたのだということが、出発でした。

このことを考えて行った時に“日本の仏教がどのようにして日本に定着して、そして、仏教を通して先祖供養がなされているのか”という考え方の基に先祖供養ということに取り組んでいかないと、私達は“道を踏み外してしまう”ということを、専従者時代に私は強く思わされました。

それはどういうことかと言いますと、本来日本というのは、伊都能売神皇様時代に神道の基が創られておりました。そして、それに基づいて慰霊というものが日本には出来上がっておりました。しかし、その頃は木片、木の板に先祖の御神霊名を記述して、先祖供養をしておりました。一番尊い御神業を担った方には命という「みこと」を付けて、普通に人生を30歳以上まで全うした方には「毘古」「毘女」を付ける。そしてそれ以外の方で15歳以上生きた方には「比古」「比女」を付けるような形式ができておりました。

しかしながら、『夜の時代』になるために、素戔嗚尊が朝鮮半島から押し寄せてきたために、伊都能売神皇様はインドに降られて、お釈迦様に仏教を教えられた訳ですが、仏教が日本へ逆輸入される時に中国を通って来て、中国で儒教を拾って儒教と仏教がくっついてまいりました。そのために儒教の形式であります、“黒塗りに金泥で記す”という今のお位牌の形式になって入って来ました。

日本で元々木の板に記述していた御神霊名の書き方よりもより立派なものであるということ・・・、“こんな良いことは、すぐにやろう”という日本人の性格のためにお位牌がすぐに定着して行った訳です。

“それほどのものであるにも拘わらず、それに代わるものをどうして作って行くことができようか”ということをまず考えながら、進んで行かないといけない部分があろうかと思います。

勿論、幽世大神様もかつては國常立尊様が裁かれておりましたけども、大國主尊様が裁かれております。大國主尊様をズーッと、見つめて行きますと、素戔嗚尊から数度迫害を受けた御方でありますので、素戔嗚尊から迫害を受けるとは一体何かと言いますと、その姿勢に異議を申し立てたということでありますので、そういう方が現在霊界で審判を担っておられる訳ですので、その御存在に向かう姿勢を私達は気付かないといけないにも拘わらず、形式のみに囚われてきた部分が今までの組織にはあります。そうしたことを整えつつ、本来の慰霊の仕方はどういうことかということを、根底に置いて川延さんと話し合った結果、霊界から数々のお知らせをいただきながら、現在を迎えていただいておりますので、大変ありがたいことだと思います。

参考資料・・・岡山支部で年末にアップした内容

『抑々(そもそも)、世界の創造主たる主之大御神(エホバ)は、この地上に天国を樹立すべく、大初より経綸を行わせ給いつつある事を吾等は信ずるのである。』

この信じるが故に、私達は信仰をさせていただいている訳ですね。だから、全ては、主神様が、この地上に天国を樹立するためにこの信仰を創って今進めてる訳です。で、これに対して必要なる人間と必要なる宗教を、主神様は御用意した訳ですので、人間というもは用意されたもので一方である訳ですね。

それから、宗教も、過去の宗教も全てそのために用意されたものであって、その時代時代を担ってきた訳ですね。だから仏教というものもずっと縄文時代から変遷してる訳です。元々神道であったものが、神道の主催者であられる伊都能売神皇様がインドへ行って、そして仏教として形を変えて、いわゆる(物=仏=ブツ)の世界、『夜の時代』の世界を救うために仏教は、物質の教えだということで仏教を創って『夜の時代』を、人々を救ってきた訳です。

で、日本人はなぜ仏教をすぐ受け入れることができたかというと、<中略>

ですから、日本人のこの三千年以上の歴史をずーっと見つめてきた時に、この仏壇という形は今最上の形なんだ、と。で、そこでまだ仏壇をきちんと整えてない人は、きちんと整えるようにお世話をさせていただく。で、位牌が亡くなって50年までの方々は、一人一人お位牌が必要だ、と。でこれをですね、今の仏教は、宗派によっては掛軸にしてみたりですね、それから繰出し位牌にしてみたり、派によって色んな祀り方をしてるので、それでは本来の日本型の仏教ではないので、それを一つ一つ整えていって本来の日本型の仏教にしていきましょう、というのがこのお世話な訳です。)

後光とはメシヤ様がお創りになった祝詞を奏上する者に射す

それと同時に宗教というのは、人間が本来神様から与えられた生活というのを、『本来の在り方にさせてあげる』というのが宗教の在り方の一つであります。ですから、家庭が本来の在り方からずれて行きますと、家庭の中で様々な事が起きてくるということがあります。

それでY.Kさんの体験発表というのは、特殊なのですけどもお話の中に出てきましたお母様の叔母様という方は、メシヤ教の「神界通信」をいただいた当事者であります。その方は今霊界に還って、メシヤ様の御神業を自分の後に続く子孫が担ってくれることを願うということは当然であろうかと思います。そうした中で、このような事が起きてきたのです。

しかも、海外で数々の霊を娘さんが背負って帰ってきておりますので、それを救う方法は如何にあるべきかと言いますと、こういう場合浄霊と強い御光に包まれた場所に足を運ぶしか解決される道はないので、「浜松支部に週に一度は必ず参拝するように」ということと、日常の課題について話し合った訳であります。

私に後光が射したというのは、その頃まだ、メシヤ教というのは数える程しか信者さんがいらっしゃらなくて、周りからは「いつやめてしまうのか」と囁かれていた時期でありました。しかし、その時に、その地域にまつわる、そこは古戦場なのですが、古戦場の中で犠牲になられた方々が、救いを求めてきたので、そこに塚を立てて、そしてメシヤ様の御光によって救っていただこうということで慰霊祭を行いました。メシヤ様のお創りになられた善言讃詞を唱えるからこそ、そうした神秘的なことが起きてくる訳であります。

メシヤ様の力をいただいて慰霊に取り組みさえすれば、私達は日々大変な御守護に包まれた生活が許されるということでありますし、このように二進も三進も行かなくなっていた問題も、メシヤ様の御光によって御守護をいただけるということでありますので、大変参考になるのではないかなと思います。また、ご本人が述べたようにご先祖のお働きは大変有難いものでした。

新年度「御神業推進」の姿勢、二例

そして、大人の立場で同じような状況になられていたN.Jさんも、先に集会所を開設したお兄さん、それから月次祭に取り組んでくれています大阪支部の木原さんのお導きによって、その浄化を乗り越えることが許されて、大変良かったなと思いながら、聞かせていただきました。

その取り組みと同時に岡山支部の原田さんが支部の専従者として、二年間を過ごしたことを報告してくださいましたので、その取り組みから私達は本日から進めさせていただく、平成26年度の御神業の大枠を皆様方に確認をしていただきたいと思います。要はメシヤ様が示された通りに、私達は進めさせていただければ、それで大変な御守護に包まれつつ、大勢の方々を救わせていただける訳です。

(N.Jさんは「最後になりましたが、代表先生の御指導で、「メシヤ様の看板として、自分達の言葉が即メシヤ様の信用に係わってくるという気持ちをもって」というお言葉を深く受け止め、メシヤ様に少しでも近づかせていただける自分にならせていただけるよう、起きてきたことに素直に取り組み、“今日一日、何をしなければいけないのか?”、“こんな時、メシヤ様ならどのようにされるのか?”ということを求め、御教え拝読と学びをすることに、これからも日々努力してまいりたいと思います。」と、まとめとして述べてくださいました。これが、個人としての平成26年度の御神業を担う上での姿勢の一つになります。

そして、原田さんが「感動し、涙が止め処も無く溢れてきました。」と話された御教えは、お世話の御神業に臨ませていただく者の心に絶えず言い聞かせなくてはならない内容です。お世話側に確認していただくため引用します。

『大乗宗教』からの抜粋、

(前略)抑々大乗とは大自然という意味である。大自然とは、万有一切の生成化育のあり方をいう事は勿論である。故に大乗とは一切を包含して余す処がない。此意味に於て、今私の説く大乗は大乗仏教ではなく、大乗道である。即ち宗教も哲学も、科学も政治も、教育も経済も、芸術も、その悉くが含まれている。そればかりではない、戦争も平和も、善も悪も包含されているのは勿論である。(後略)

『宗教に自由はあるか』からの抜粋、

「世間一般の宗教観は、宗教というものは、非常に自由がないように思い、窮屈を恐れて触れない者も相当あるようである、処が之は大きな誤りで、斯ういう誤りの原因は全く既成宗教の中の小乗信仰に因るのである、小乗信仰は難行苦行と禁欲主義を実行する事によって、魂が磨け悟道に徹するという建前であるから、吾々からみると一種の宗教地獄に落ちるのである、之は何によって起ったかというとその信仰の本尊である神仏に力が足りないからで、本来なればその本尊の御光によって左程苦しまずに悟りを得、安心立命の境地になるのが本当である、とすれば、小乗信仰は自力であり、大乗信仰は他力という事になる、そして此小乗道は印度のバラモン宗から起った物である。

以上によっても分る通り、小乗信仰は自由がなく、大乗信仰は無碍の自由がある訳である、といってただ単なる自由ではない、叡智が働かなければ我儘的自由となる危険がある、真の自由とは他人の自由を尊重する事であるから、そこに自らなる限度がある、所謂一定枠内の自由で、此自由こそ真の自由である、何となれば他人に些かでも障害を与えるとすれば気が咎める、不愉快であるから、そこに天空海濶的の気持にはなり得ない、どうしても他人に愉快を与える事によって自分も愉快になる、之が真の自由である事を知るべきである。」

最後になりましたが、本日、御尊影を新たにさせていただきました。

そして、各支部各出張所は来年の月、節分祭、立春祭以降に新たにさせていただきます。より一層手の修正が無くなった御尊影になりました。左目に光が当てられた状態の御在世中の御尊影であります。

メシヤ様の左手の甲が筋までクッキリ出ているお写真になりました。この写真を綺麗な状態に修正してしまったために世界救世(きゅうせい)教は可笑しくなっております。何故可笑しくなっているかと言いますと、実はメシヤ様の御尊影を拝する時の拝し方の問題であります。メシヤ様を拝する時、過去の教団は「耳が大きい。福耳である」と。これは「東方之光」という本に出ております。そして、メシヤという御存在になられた時に、手相が各指に全部一直線に伸びて行かれたと読んでいると思います。そのために、手の平側には重視しましたけども、手の甲側を重視していない訳です。

あるいは耳の形には重視したけども、なぜメシヤ様の耳がこれほど大きかったのか、ということには余り触れていない訳であります。

耳は『人の話を聞く』ということであります。そのためにメシヤ様の耳は大きかったのだ、というように捉えていかなければ、私達は人の話を上手に聞くことができるまでになれません。人を救うためには人の話をよく聞くことができなければ、人を救って行くことはできない訳です。家庭を円満にしていくためにも家族の話をよく聞かなければ、幾らこちらの思いを伝えたところで、天国になって行きませんので、「メシヤ様の耳は『人の話をよく聞きなさい』ということをメシヤ様御自らが形を持ってお示しになられている」というふうに受け止めて、“自分は人の話をよく聞いているか”“悩みを聞いているか”というように、いつも自分に課していかなければ、大勢の人を救って行くということが中々難しいということであります。

しかも、よく皆様方が困った時に、「どうぞメシヤ様教えてください」とお願いしますよね。「ご回答をください」とか、「何かを知らせてください」とかお願いします。神様と言いますのは、答えを教える時には人の口を使います。神様が御自ら降りて来られて語りかけるというのは特別な使命のある人しかありませんので、そういうことがない方には、人の口を使って聞こえてきます。ですから人の口にどこまで耳を傾けることができるかということが『神様の答えを得る方法』なのです。

メシヤ様の御尊影を拝した時には“人が喋っていることを自分がどこまで聞くことができるか”ということを課題にして、メシヤ様の御尊影を拝していただきたいと思います。

途中で話を切るようなことをしないように、どうしても繰り返し繰り返し話を聞かされますと「もうそれ聞いたから」と言いたくなりますけども、しかし、それを喋っているということは、心の中にまだまだ吐ききれないものがあるために繰り返し繰り返しお話しすることがありますので、そういうことを十分吸収する姿勢を持っていただきたいと思います。

メシヤ様の御姿に求める使命感

次に手ですけども、手の甲があまりにも疥癬の跡が酷いので“写真に残すというのはどうか”という思いがあったのでしょうが、修正をしてしまいました。

しかし、この御手から私達が学ぶものは何かと言いますと、メシヤ様は人類を代表してあらゆる病気を体験されて、そして、病気を治す方法というものを私達に教えてくださった訳ですので、そういう立場にある御方は、いくら主神様と御一体であろうと人間としての肉体を持った時には、そういう苦労をしなければいけないということが使命上あるということであります。

ですから、私達の身にも同じような事が、使命のある人程ある訳でありますので、皆様方がメシヤ様の御手を拝した時に“私も使命のある限り、様々な苦労がある。その苦労はメシヤ様と同じように、あるいはメシヤ様に近づかせていただくための苦労であるので、精一杯その苦労を乗り越えて、メシヤ様の御手足として、お使いいただけるような、そういうところを目指して生活をさせていただこう”という想いを持っていただきたいと思います。

そういう意味でこの御尊影を本日新たにさせていただきましたので、宜しくお願いしたいと思います。そして、来年からは御神体などもより一層神様に真向かうために、形を整えて参りたいと思いますので、これも2月以降ということになっています。

そうしたことをはじめとして、平成26年度は、より私達の生活がメシヤ様に直結するように各支部、各出張所、各会場を通してお世話をさせていただこうと考えておりますので、ここに参集された方々はその先頭に立っていただいて日々の生活がメシヤ様に直結するような、そして、その繋がったものが太くなるような心を持って取り組んでいただければ大変有難いと思います。

本日は、五人の方々の貴重な体験発表を学びとさせていただきながら、私達がより一層メシヤ様に太く直に繋がっていく在り方を整えさせていただき、更に向上させていただけるようにお互いに誓いながら、この意義ある祭典を締めたいと思います。

本日は、全国から遠路遥々神山のお膝元である箱根強羅に御参集いただきまして、まことにありがとうございました。気をつけてお帰りいただきたいと思います。それではこれで挨拶とさせていただきます。ありがとうございました。 (要旨・カッコ内は挨拶に追加した内容)