<御教え>
『文明の創造』総篇
地上天国
(文創 昭和二十七年)
地上天国とはバイブルから出た言葉であり、仏教ではミロクの世といひ、西洋ではユートピヤなどといふが、勿論(もちろん)意味は同一であって、つまり理想世界である。之が曩(さき)にかいた如く神の目的であるから、現在迄の歴史は其(その)世界を造る過程であったので、幾変遷を経て漸(ようや)く天国の一歩手前に来たのが現在である。此(この)世界を一口にいえば、病貧争絶無の世界である。処が此(この)三大災厄の中の王座を占めてゐるのが病気であるから、病気さへ解決すれば、貧乏も争ひも自ら解消するのは、言を俟(ま)たない処である。
如上(じょじょう)の意味に於て、私は病気に就(つい)て根本原因を、凡(あら)ゆる面から徹底的に解剖し明かにするのである。而(しか)も之は医学と異って、人智によって生れた学問上の研究理論ではなく、神の啓示を土台とし、実験によって得たる真理であるから、毫末(ごうまつ)も誤りはないのである。そうして実験とは今日迄何万に上る私の弟子が、毎日何十万に上る患者の治療に当ってをり、其(その)治癒率の素晴しい事は、医学の一に対し百といっても、決して過言ではない程である。
右の如く驚くべき治病の実績が、此(この)地球上に出現したに拘(かか)はらず、全人類は治る力のない医学を無上のものと誤信し、病苦に悩み、長く生きられる生命を中途に挫折して了(しま)ふ其(その)無智悲惨なる現状は、到底黙視出来ないのである。此(この)様な末期的惨状を神として、そう長く放任して置けないのは当然である。といふ理由と来(きた)るべき理想世界の住民としての健康人を作らんが為との二つの理由によって、茲(ここ)に医学の迷盲を発表するのである。
『岡山支部』発会式特集
体験報告
「メシヤ教に出会って」 岡山支部 佐藤和江
支部責任者挨拶
「岡山支部発会挨拶」 岡山支部 責任者
≪代表挨拶≫
信仰姿勢を高めさせていただける
御論文『文明の創造』
メシヤ教代表 楳木和麿
支部発会に際してのお願い
皆様、岡山支部の御神体御奉斎式並びに支部発会式、誠におめでとうございます。
岡山支部発会までの経緯は、責任者から今述べていただきました。他支部からお祝いに駆け付けた方々は、先ず御真筆の御書の数々に圧倒されたのではないかな、と思います。こういうご家庭がメシヤ教の支部として、新たに発会が許されたことを非常に嬉しく思います。
初めに、この岡山支部を支えてくださる方々にお願いしておきたいことがあります。
私も子供の頃から世界救世(きゅうせい)教の家庭の中で育ちまして、我が家を出張所、それから布教所というふうに提供してきた関係で、信者さん方の出入りというのが非常に多く、私も小学校、中学校時代から度々浄霊に借り出されました。一番恥ずかしかったのは、近所の椎茸組合の事務所に信者さんの娘さんがいらして「おなかが痛いので浄霊をお願いしたい」ということで行ったら、なんと生理痛だったんです。子供なので何でおなかが痛いのかさっぱり分からないので、ただひたすら浄霊をしていたら、それで治まったので「ありがとうございました」と言うことになり、後で御守護報告をしたんですけれども、当時の小学生には良くわからなかったんです。
このように、家族というのは結構御神業に引っ張り出されていた訳です。それから調子の悪い人が家に泊まって、その人達の面倒も見せられたりしたこともあります。(結果的には、布教師を目指す上での学びになっているのですが・・・。)
総じて世界救世(きゅうせい)教時代での大きな問題点というのは、メシヤ様の御力が非常に強くて奇蹟がものすごく現われるために、その奇蹟が強いだけに他の宗教が積み上げてきた精神の修養とか人格の形成というところが疎かになっている部分があります。(教会、支部によっても違いますが)力が強いだけに・・・。
そのために、その提供のご家庭に配慮する部分が弱かった面があります。何時でも電話してきますし、それから我が物顔で自分の家に上がってきて、自分の勉強部屋まで乗り込んできたりする人もいまして、非常に迷惑に感じた学生時代でもありました。岡山支部のご家庭の子供さん方は皆さん成人されているので、私の若い頃とはちょっとは違うかもしれないけれども、他人が出入りしてくる点においては随分と思うところがあると思います。
ですから、それだけに、支部へお参りする時には事前に連絡をしてですね、そして「今日は、この時間のご都合はいかがでしょうか」というような問い合わせをして、ご案内活動とか、そういうことをしていただければ大変ありがたいと思います。
これは、どこの支部でも同じなんですけれども、メシヤ教の場合、個人のご家庭をお借りておりますので、その点をより一層配慮しつつお取り組みいただきたいと思います。
岡山の地で宗派を超えて「浄霊力伝授」ができる喜び
それから、〇○さんはじめ「浄霊力拝受」お願い書を今まで本部の方へ直接お送りしていただいておりましたけれども、これからはこの岡山支部で「浄霊力拝受」お願い書をこの御神前にお供えして、そしてメシヤ様に奉告申し上げて「浄霊力」を伝授していただくようになります。
で、こういうことがこの岡山の地で、許され始めるということが、非常におめでたい訳なんで、「おめでとうございます」と言うのは、メシヤ様からいただく「浄霊力伝授」が今日からこの御神前で許されるということが何よりもめでたいということなのです。そして、そういうめでたさに遠方の方から足を運んでいただいて、共々に祭典を祝っていただけますことを、心から感謝申し上げたいと思います。
今、責任者に挨拶していただきましたが、実質的には奥さんが日々御用を担っていただけるので、大変ご苦労をお掛けします。一つ、皆さん方のご協力をいただきながら、メシヤ様の揮われる御光をですね、この地に益々間配っていただくように願っております。
そして「浄霊力伝授」をしましたら、ここでも奉告をさせていただくと共に、私にも念押しでしていただけると二重にメシヤ様に奉告申し上げることになりますので、益々「浄霊力」の拝受をいただけると思います。私の行き場所にFaxを入れるか、本部にFaxを入れて、そして原本を月次祭の時に渡していただければ、二重三重にメシヤ様へ直に太く繋がることが許されて、一層強い浄霊力を授かると思いますので、そのようにお願いいたします。
それで今度は、○○さんに御願いしたい内容なんですが、○○さんの所には○○○○教団専従者及び△△△の方々が魂の救いを求めて来ておりますので、そこでワンクッション置いていただいて、その方々に、先程の責任者挨拶のように「メシヤ様の本筋の御神業とは何か」ということを少しずつアドバイスしてあげて、組織にがんじがらめになっている中でやらざるを得ない人達の魂を救ってあげていただきたいと思います。
そしてまた、信者の方々にもそういう話をしながら、その中でもう少し深い勉強をしたいという方は、この支部へ繋いでいただく、そういう役を担っていただければ大変ありがたいと思いますので、一つよろしくお願いいたします。
十字架の型を通して自覚せねばならないこと
それで、そうしたことを考えた時に、実はもう一度我々が世界救世(きゅうせい)教時代から取り組んできた信仰の見直しをしておかないとなりません。
たとえば参拝は先程のように、自分の好きな時に、来たいように参拝するという姿勢は、参拝者が中心の参拝になってきます。しかし、支部の都合はどうかということをお尋ねして参拝すると、支部を中心のお祈りになってきます。それから月次祭は、これから私の移動に合せて月次祭をしていただくことになるので、代表の都合とか、それから神様側の都合によって月次祭の日時が設定されます。
そうすると、その月次祭にお参りするということは、神様側の都合に合わせて参拝するということになります。ですから、どこまでも自分中心の参拝にしないで、『神様側、あるいは支部側に合わせた参拝をさせていただく』という姿勢を先ず培っていただきたいと思います。そして、支部へお参りしたら必ずどこか、いわゆるプライベートな場所へ立ち入らない程度で清掃奉仕をしていただいて、この家は十分掃除が行き届いていますけれども、尚且つ、“どのように掃除をしているか”ということまでも学びながら、掃除をさせていただいて、その学んだことを家で実践する。これが奉仕のですね、実は支部での奉仕のあり方であります。
今までは、センターとか、布教所とかあるいは県本部とか、そういう所の日直のように「当番だから行く」というような奉仕の体制だったと思いますけれども、奉仕だけの目的で出向き“我が家で活かす”姿勢というものが希薄であった、と思います。実は、そこの奉仕で学んだことを我が家で取り組んで、家がきれいになってくる、家の霊界が整ってくる、あるいは家が幸せになってくる、これが奉仕として成り立っていかなければ奉仕をした意味がほとんどないという位まで受け止めていただいて、我が家を天国にするという、そういう信仰を培っていただきたいと思います。これが参拝とか奉仕を支部でさせていただく時の大原則として持って置いていただきたいのです。
それから、次に「メシヤ講座」の今月分はもう読んでいただいたと思うんですけれども、出雲支部の発会式挨拶で「入会の概念」について書いておりますので、十分ご理解いただけていると思います。入会とは、○○○○などの他の教団からメシヤ教に転籍するとか、転会するとか、そういう概念ではなくて、「本来の『世界救世(メシヤ)教』の御神業を推進するところに参加する」という、そういう概念を持っていただきたいとお願いしました。それプラスですね、本日責任者に拝読していただいた『救い主と贖罪主』という項に出てきます、イエス・キリストのお立場は何だったのか、ということですね。
今、世界で大体7億人から8億人位の非常にまじめな信者さん、それからそれを取り巻く信者さんによってキリスト教(統計では20億人余)は成立しておりますけれども、このイエス・キリストが何故十字架にかかったかというと、これは人類を代表して主神様に、いわゆるお詫びをしたということ、このお詫びは何かというとずっと、この『文明の創造』の中に書かれておりますように『禁断の木の実に手を出した』ことから悪が発生したことへのお詫びであります。
このお詫びをイエス・キリストがまず二千年前にした訳なんですけれども、しかし、まだ物質文明の発展がその時には十分ではなかったので、ずっと続いております。メシヤ様が御出現になられて、そして御神業は進展しましたが、その中でまた薬に手を出していくということを繰り返してきております。これがしつこい程、目覚めた人に対しても再度下からずっと引っ張るようなことをやり続けております。だから、目覚めてもちょっと油断すると、ずっとそちらへ引き込まれるようなことを、いつも我々は狙われています。
真理が解明されて、各宗がステップアップを図るように導くのが御神業
それからもう一つは、お釈迦様のことに今回触れていただいていますが、お釈迦様がどうして悟りを開くことができたかというと、これは日本の神様である伊都能売神皇様がインドへ降って行かれて、そして布咀落迦山(ほだらかさん) という所で結跏趺座(けっかふざ)されているところへお釈迦様が訪ねてきて教えを請います。そして、仏法というものをお説教の中から積み上げてきて、72歳の時に見真実に達せられて、さらに真理を説き始めたという経過があります。
こういうことを考えてゆくと、出雲支部でお話した入会の概念と同様に、他の教団からメシヤ教に移るのではない、世界救世(メシヤ)教の御神業に皆ステップアップするんだという取り組みと同じで、釈迦の説法からこう来るのとキリストの教えからずっと来たのを、(ピラミット型の斜面の中腹という)その中で解き明かせなかった内容をメシヤ様によって解き明かしていただいたので、仏教からもキリスト教からも、この世界救世(メシヤ)教にステップアップしていただくという想念を確立していかないと、色んな宗教の方々に声を掛ける掛け方が変わってきます。
低いレベルで声を掛けてしまうことのないようにしていただきたい、と願っております。「素晴らしい浄霊というものがあるよ」ということはどこまでも入り口であって、本来の意味をその人達に伝えてゆかねばなりません。メシヤ様が主神様から御啓示をいただいたものを我々に提供して下さっています。そうであるからこそ、この世界救世(メシヤ)教の御神業というところへ皆を繋ぐために布教というのはある訳なので、そうした想念を確立しながら御神業に臨んでいただければ大変ありがたいと思います。
そういう意味でゆくと、布教とか御神業を担う時にお願いしたいことがあります。「信仰読本」を中心になる方が読んで、その内容をもう一度自分の腹の中に入れていただきたい、ということです。宗教とはいったい何が役目か、というと・・・。薬毒のない時代に人類が育んできた美しい心とか、それから人生というのは非常に不思議なものなんだと、ある存在から導かれる中で良い方向に人生というものは展開していくんだと、それから自分で考えたものよりも、より深いものが人生なんだと、そういうことが感じられるようなことを、薬毒が出てくるまではずっと人類は約600万年位かけて育ててきた訳ですね。
脳細胞の分裂が非常に細かくなってくるのと同時に、精神が育っていって、そして言葉が生まれてきて、その言葉によってさらに思考するようになって、この思考によって人生というものをそういうように考えられるようになってきました。
ところが、薬毒によって、美しいもの、素晴らしいものよりも、実利的なもの、直ぐ解決するもの、奥深さよりも即効性と、そういうものを求めるようになって、約二、三千年間を歩んで来ました。
そのために、本来根っこにあった宗教というものを現代人は忘れてしまって、宗教と言うといわゆる宗教団体を連想してしまいまして、本来の宗教というものを理解できない状態で現代人は、精神活動をしています。
現代教育の問題点を自覚して善導する
このことと関連して、この前ですね、日曜日に都知事とそれから「国家の品格」の著者である藤原正彦氏が対談をやっていた番組を見ましたか?
その中で一番大事なことは、今日本の若者に教えてないことがあり過ぎる、ということでした。第二次世界大戦は問題の部分もあるんだけれど、しかし東南アジアの国々が植民地から独立できたのは、第二次世界大戦で日本が参戦したからだという側面があります。そうした功績を全く無視してというか、覆いかぶせて、第二次世界大戦について、中国で大虐殺を行ったとか、日本の負の部分ばっかりを教育として教え込んでいる。しかし、実際は、東南アジアをずっと見ると、その時は米国の植民地ではなくて欧州の植民地だった訳で、その欧州の植民地から開放していったのは日本軍だったのです。そういう日本の功績というものを若者達にほとんど教えていません。
それからこの前、最後のですね、スペースシャトルが飛びましたけれど、スペースシャトルの中にはNASAとか色々アメリカの国旗とか貼ってあるが、あれを全部剥ぐとメイドインジャパンばっかり、と揶揄されています。(小惑星いとかわ探査機「はやぶさ」の帰還でもお分かりのように)日本の技術が無いとスペースシャトルは飛べない、と言われています。
それくらい日本の技術は非常に素晴らしいにもかかわらず、その素晴らしさに自信を持たせるような教育を日本はほとんどしないでいます。「駄目な国だ」、「駄目な国だ」という教育をして来ているために、今の若い人達に日本人として生まれてきた喜びや誇りというものがどれ位膨らんでいるのか、ということに疑問を持つという話でした。非常に良い話をしてくれてた、と思いました。
特に今日、東大阪から来ている人達がいらっしゃるけど、東大阪の下町に行った時、鉄を磨く、鉄板を磨いてカーブを付けるという技術がありますけれども、これはもう東大阪にしかない技術、その技術の一番の、薄さ、曲げ具合を計るのは最後は手の平で計っていく、計器で計っても全く旨くいかないので、手の平で触って「これで間違いない」という状態で、熟練工が太鼓判を押したものだけが製品化されます。それくらい素晴らしい日本の手先の技術という、世界にないものが日本人にはあります。で、そういうことをもっともっと日本人が自覚して、そして、それを磨くということに皆を導いていかないといけないんですけれども、昨今の教育ではそうしたところは非常に重視されないまま、教育がなされている部分があります。
それから、ここにヨーロッパに長く住んでいた方もいらっしゃるけれど、ヨーロッパの近代画は日本の浮世絵から学んで育っていった面があります。また、もっと遡れば、平安時代から江戸時代を見た時にヨーロッパで書かれた小説の量と日本で書かれた小説の量とどっちが多いか、日本の方が圧倒的に小説の量が多い訳です。それ程、日本は文学性がものすごく長けているにもかかわらず、その素晴らしさを教える学校教育がほとんど消えて行ってしまっている。
それは何故かと言うと、第二次世界大戦中に日本は、神国だという、神の国だということを余りにも前面に出しすぎて、それを利用しながら軍部が日本人を戦争に引き込んでしまったという、間違った使い方をしてしまったために、今はその逆の「日本人は駄目なんだ」という教育方針に変えてしまっている。それが非常に残念ですので、これから私達を中心に日本人の本来の素晴らしさを磨くような、そうした導き方をですね、させていただきたいというように思います。
「祈り」そのものである『善言讃詞』
それからもう一つこの御教えを、今日拝読していただいた御教えの中からもう少し取り入れたいというのは、この本ずいぶん勉強したと思います。「善言讃詞のてほどき」を皆さん持っていると思います。これには善言讃詞の中身の説明を書いてますが、実は改竄(かいざん)した後に作ったものなので、善言讃詞の言葉の後半はメシヤ様のお作りになった文言とは違うものを使っています。これは、意味するところを当時の指導者たちが分かってないために勝手に変えてしまったということなのです。
それで今日もですね、天津祝詞と善言讃詞を私が代表で奏上させていただきましたけれども、善言讃詞とは何かということを考えた時に、実は、この善言讃詞はメシヤ様がお作りになった時に、この中では観音経を縮めて、そして現代人に合うように祝詞風に作り変えたという説明がありますね。それに基づいて考えてゆくと、この善言讃詞とは一体何かというと、これは「祈り」そのものなのです。
そして今日の、責任者に拝読していただいた御教えに照らしてこの善言讃詞をもう一度見つめてゆきますと、「世尊観世音菩薩此土に天降(あも)らせ給ひ光明如来と現じ。応身弥勒と化し。メシヤとならせ。大千三千世界の三毒を滅し。五濁(ごじょく)を浄め。」とあります。
ですから観音様として先ず表に出られて、そして最後はメシヤ様という位にまで上がって、それから「三毒、五濁(ごじょく)」を浄める、という経綸上の話が前半出てきます。それに伴って天国の形が出てきますね、「実(げ) にも天国浄土なり。」という件(くだり)です。
だから天国浄土とはこういう形なんだということが、次に詠みこまれています。そして、天国浄土になると「歓(えら)ぎ賑はふ声々は。津々浦々に満ち弥(わた)り。国と国との境無く。人種(ひとぐさ)等の憎しみや。争闘事(いさかいごと)も夢と消へ一天四海観音の。仁愛(みろく)の御手に帰一され。仁慈の御胸に抱(いだ゙)かれん」という状態になってゆくことが詠み込まれている訳です。
そして、最後にですね、この「仁慈の御胸」というのは、「仁」とは「仁斎」ですから、メシヤ様の大愛に包まれるとということです。「吾等が日々の施業にも」とありますので、皆さん御神業にも身を捧げておりますが社会人として仕事を持ってます。そうした「日々の施業にも。妙智を賜ひ真覚を。得さしめ家は富栄え」ということですから、我々が働く場に叡智をどんどんいただいて、そして、仕事に対する自分の能力がさらに発揮されて、その職場で益々活き活きと自分の特性が発揮されて、結果的にその仕事が発展してゆきます。それによって自分の給料も上がるので、家は富み栄えてゆくということですね。
「寿(よわい) は永く」は、先月『(本来の人間の寿命は)120歳』ということを示されています。ですから○○さんも後50年は頑張らないといけない。後50年は・・・。しかも「無医薬に」ですから、薬は一切いらないということです。切なる願い、御祈願が善言讃詞には詠み込まれているのです。
そういう中でいよいよ○○さん位の年になると、善徳行を積み重ねれるようになるんだ、と先月学びましたね。まだ我々位の50代からはやっと徳を積むスタートくらい。70代位になって初めて徳が積めるんだ、と。先月学んだ項にメシヤ様が書かれています。そういう境地に愈々立たれたんだと。これからが活躍の場なんだ、ということですね。
<参加者:そう思います。>
ねっ!実に良い返事を聞かせていただいたので、私は今日は安心して、発会式を終わらせていただけるかな、と思わせていただけます。それを聞いただけで・・・。
そして「福聚海無量の大功徳。垂れさせ賜へ座(ましま) せと」ということですから、希(こいねが)っている訳です。この「善言讃詞」をそういうふうに奏上すると、人間というのは仕事をするために生まれてきておりますので、その仕事の中に叡智をいただいて、そしてその叡智を発揮することによって職場がより繁栄する。また、それと同時に我が家が富み栄えていく、ということです。
で、こういうことを「垂れさせ賜へ座(ましま) せと。念々従心下座頓首(ねんねんじゅうしんげざとんしゅ) 。跪伏(きふく)礼拝願ぎ申す」という祈りなのです。「善言讃詞」というのは御祈願で占められているのです。
だから、この後に祈るものはない。ほとんどない訳です。以前の参拝形式は、「大光明真神守り給え幸倍賜へ」「おしえみおやぬしの神守り給え幸倍賜へ」と奉誦(ほうしょう)して、折角こういう素晴らしいお祈りをした後に個人的な祈りとか、質の余り高くない祈りをしてしまっていたために、信仰が高まっていってない訳です。“これこそが祈りだ”という概念を持たずに、「善言讃詞」を奏上しているために祈りが高まっていってない訳です。
重ねてお願いいたしますが、もう一度、この「善言讃詞」の中の意味をずっと噛みしめながら奏上していただきたいと思います。そして、“これが自分自身の祈りだ”という思いで、「善言讃詞」を奏上していただいた後がまた大切です。出雲支部の発会式挨拶の一番最後に書かせていただいているように、この世の中で一番高い御神格の御神名を唱えることによって、燦々と光を戴けるという、そういう意義を踏まえて、“最高最貴の御神名を唱えさせていただきます”という想念で「主之大御神守り給え幸倍賜へ」と唱えさせていただくと、その想念に応じて光がずっといただけます。
で、いただけた瞬間に自分の魂の中に光が入ってきます。すると、この魂から霊線を通じてその光が、例えば○○さんだったら三人のお子さんとか、それから自分のご兄弟とか、そういう所に光が瞬間に流れてゆきます。そういうイメージで「主之大御神守り給え幸倍賜へ」と唱えていただきたい訳ですね。
そして、「光がいただけた!」という事に対して感謝を申し上げながら「惟神霊幸倍坐せ」と奉誦(ほうしょう)し、最後の締めのお祈りにしていただきたい、と思いますね。
「惟神霊幸倍坐せ」も出雲支部の発会式挨拶に書いておりますように「惟神」は「神様の御心のまにまに」ということですので「御神意の通りに生活をさせていただきます」ということになります。そこで“自分自身は真に御神意通りに生活をさせていただいているのか”ということを問いながら、お祈りしつつ、言葉に出していただきます。そうして日々そういうものをチェックしながら生活をさせていただけると「霊幸倍坐せ」ということが実現してゆきます。
「霊幸倍坐せ」の霊は魂ということなので、魂が大きく充実して来るほど、幸せに恵まれてまいります。だから、その思いで「霊幸倍坐せ」というふうに御願いをしていくと自分の魂がより膨らんで充実してまいります。その姿を象徴したのが鏡餅の餅ですのでね、あの餅のようにイメージして自分の魂がずっと充実してくるように、そういうイメージで「惟神霊幸倍坐せ」と奉誦(ほうしょう)していただければ、この支部を通してより一層、幸福者が生まれてゆきます。
今の話を、どうか参考にしていただきながら、奥さんには大変ご苦労をお掛けしますけれども、皆さんのお世話に取り組んでいっていただきたいと思います。またそれを、支えていただけるように○○さんも△△さんも一つよろしくお願いいたします。
そういうことをお願いさせていただいて、私の挨拶にさせていただきます。
本日はおめでとうございました。(要旨)
[print_link]