メシヤ講座・特選集no.114(平成22年7月分)

<メシヤ様対談記・23>

メシヤ様が教団内外の人々との間で執り行われた対談内容は、私達の御神業推進の方向を再確認させていただけるものです。数多くの対談記中から、「世界救世(メシヤ)教」開教後になされた内容を順次掲載いたします。

明主様(メシヤ様)と
法大文学部長・美術評論家
谷川徹三氏との御対談(完)


(栄光二百十三号 昭和28年6月17日)

支那陶器について

谷川氏 この前もありましたが、第五室のはいるとすぐ右手にあった越州窯(えっしゅうよう)の鶏頭壷(けいとうこ)は良い物ですね。今年も去年と同じ所に出てましたが、越州窯では天下の名品ですね。何時見ても良いです。

明主様(メシヤ様) それに大きいですから良いですね。

谷川氏 大きくて強くて実に堂々たる物です。

明主様(メシヤ様) あれの小さいのはアメリカにもありますがね。

谷川氏 それから郊壇窯(こうだんよう)というのは、何処(どこ)の物何処の物と分ってますからね。幾度も問題にした物です。郊壇窯では岩崎さんの香炉、横河さんの鉢ですね。

明主様(メシヤ様) そうでしょうね。

谷川氏 南宋哥窯(かよう)の研究ができたのは近頃ですから、郊壇窯の研究はまだだったのです。そう言えば今度新しく出た袴腰の哥窯は良いですね。私は岩崎さんの香炉は見ていませんが、色刷の写真によると、色は私が以前に見たのに非常によく似てます。岩崎さんのを一度手にとって見たいと思っているのです。

奥様 やはり天下の名器となりますとね。

谷川氏 そうですね。しかし横河コレクションと言って随分沢山ありますが、天下の名器となると、そう余計にはありませんね。

明主様(メシヤ様) そういう意味では、あるのは白鶴ではありませんか。

谷川氏 私は具体的に並べて見たことはありませんが、或(ある)いはそうかもしれませんね。

明主様(メシヤ様) そうでしょうね。私は、あそこにどうしても欲しいという物が二、三点あるのですが、なかなかウンと言いません。

谷川氏 それで良い物は黒いですね。

奥様 やっぱり名工が焼くのでしょうね。

谷川氏 それは官窯ですからね。

明主様(メシヤ様) 王様に気に入られようと思って心血をそそぐのでしょうね。

谷川氏 今郊壇窯として知られているのは、不孤斎(ふっこさい)の「そう」と岩崎の物と横河コレクションの物ですね。

明主様(メシヤ様) そうというのは何ですか。

谷川氏 日本でよく三(算)木手(さんぎて)というあれです。

明主様(メシヤ様) 三(算)木手のあれは良い物ですね。

谷川氏 昔は日本に砧青磁(きぬたせいじ)つまり龍泉窯(りゅうせんよう)は沢山来ましたが、それで不孤斎が寄附した「そう」というのは砧青磁よりもっと貴重な物だということが分らなかったのです。伊達家にありましたが、伊達家では水差(指)に使っていたそうです。シャーマン・リーという向うとの連絡で来ていた人が不孤斎が寄附した「そう」を見て、この人は気に入った物を見ると舌打ちをする癖がありますが、舌打ちをして、デヴィットのコレクションにもあるが、それよりずっと良い。これならニューヨークに持って行ったら四万弗(ドル)でも、五万弗(ドル)でも、好きな値をつけられると言ってました。

明主様(メシヤ様) デヴィットには非常に大きなヒビ手がありますが、あれは何ですか。

谷川氏 最初の秦の帝室の宝物だった物が大分ありますが、そういう物については多少問題があるのです。ですからあそこには南宋哥窯としてある物の種類が沢山あります。黄色っぽいのが随分いろいろとありますね。

明主様(メシヤ様) しかし青磁というものは難しいものではないですか。

谷川氏 難しいですね。私も約三十年くらい焼物をいじってますが、青磁の本当の面白さが分ったのは五六年前からです。難しいからなかなか分りませんね。

明主様(メシヤ様) 私も青磁が好きですが、後から後から疑問が出てきます。

谷川氏 しかし今からしてみますと、支那人が一番珍重しただけあって、やっぱり焼物の頂点ですね。

明主様(メシヤ様) そうです。 品格がありますね。美術館に出ている鉢は随分ほめられますよ。

谷川氏 修内司窯(しゅうないしよう)のですね。あれは良いです。

明主様(メシヤ様) 去年あった袴腰の青磁も良い物でしょう。

谷川氏 良い物でした。昔砧(きぬた)と言っていた中から、だんだん研究して修内司窯と選り分けるようになったのですが、少し白っぽくて実に品格の高い物です。

明主様(メシヤ様) そうですね。細工も、形とか、薄手のキッチリとした所とか、実に良いですね。

谷川氏 そうですね。

明主様(メシヤ様) この間名古屋に行った時に鳳凰耳花生(ほうおうみみはないけ)のを見せてもらったが、色は良いですが、細工が悪いです。要するにゲテ物作りです。それに片方の耳が取れて、新しくこしらえた物のようでした。

谷川氏 私は手にとって見たことはありませんが、しかしあれは堂々たる物ですね。

明主様(メシヤ様) そうです。見映えがあります。

奥様 白鶴の浮牡丹(うきぼたん)もなかなか良いですね。

谷川氏 しかし私はそういうゴテゴテした物より、無文(むもん)の方が良いです。

明主様(メシヤ様) しかし白鶴の浮牡丹は良かったです。これはちょっと違っていて、非常に強いのです。

谷川氏 そうですか。私ははっきりと記憶にありませんのですが、普通言っているのはゴテゴテしてますからね。

明主様(メシヤ様) そうです。ゴテゴテしてます。しかし白鶴のは非常に鋭いのです。その力強さが何とも言えません。白鶴の磁州(じしゅう)の龍のはどうですか。

谷川氏 あれは良いですね。アメリカに行っても巾がきいたらしいです。私は長い間写真で見て、大した物ではないと思っていたのですが、実物を二つ並べて見ると龍の方が上です。龍の方が男性で、細川さんのは女性です。力強さから言っても違いますね。

奥様 三彩(さんさい)の鶏頭壷も良いですね。

明主様(メシヤ様) 良いね。三彩では日本一でしょう。

谷川氏 しかし三彩の鶏頭壷とかいろんな物があっても、私は箱根美術館にある越州窯のが第一等だと思います。あの力は大変なものです。

明主様(メシヤ様) そうです。それにサビの工合から、古さから言っても良いです。

玉器、銅器について

谷川氏 玉器(ぎょっき)はまだお買いになりませんね。私は今玉器に興味を持っていますが、玉器や銅器になると、漢以前でなければ弱くて駄目です。三国、漢の物を、殷や周の中に入れて見ていると、だんだんいやになります。焼物ですと漢のは強くて良いのですが、玉器とか銅器というのは漢までの物で、漢以後の物はまるで駄目です。銅器は戦国時代にもありましたが、漢以後の物は弱くなります。

明主様(メシヤ様) 全く銅器となると、漢以後は駄目ですね。私は、不思議に思うのは、周代に周銅などとあれほどの物ができたということです。

谷川氏 その前の殷、商でもそうです。殷の物でも立派なものですね。

明主様(メシヤ様) 立派ですね。ですから陶器でも、ほとんど銅器を写してますね。殷から周時代の文化というのは、大変なものですね。

谷川氏 このことは私共も一番興味のあることです。結局銅器は、古代の宗教に結びついた祭器ですから、漢以後になると仏教がはいってますからね。ですから支那は、仏教がはいってからと、その前と区別します。仏教は北魏(ほくぎ)の時に盛んになったのです。

明主様(メシヤ様) ですから魏には仏像の良いのがあるのですね。

谷川氏 日本の飛鳥ですね。そうして奈良朝は大体唐ですね。日本でも飛鳥の物というと強いですからね。

仏像について

明主様(メシヤ様) 仏教美術の方はどうですか。

谷川氏 私は何でも好きです。今度お買いになられた三体の金銅仏(こんどうぶつ)では、小泉さんのでない後の二つの方が良いですね。私が見た時には白鳳としてあるが、飛鳥の方が美しいと思いました。飛鳥の方が野蕃(蛮)な顔をしてますが、良い物と思いました。肩から背中から、力があって良い物ですね。小泉三伸の仏は大分劣りますね。それから五室の四十八体仏の中に、ああいう野蕃(蛮)な顔をしているのがありますね。

明主様(メシヤ様) 四十八体仏の中ではどれが良いですか。

谷川氏 図録を見ないと宙では言えませんが、しかしそれぞれに良いですね。初めは妙に線のつまった物や、野蕃(蛮)なのは、いやだと思いましたが、やはりそれぞれに良いですね。金銅仏とは言いますが、あの中に木彫のが一体はいっているそうです。

明主様(メシヤ様) 金銅仏は推古と白鳳とはまるで違いますね。

谷川氏 しかし随分多方面にいろいろお持ちですから大変ですね。私も、一つの物しか蒐めないというのは蒐集の邪道だと思います。何でも相通ずるものがあると思います。

明主様(メシヤ様) そうです。

谷川氏 私は今日は風邪を引いたかして、汽車の中でも憂鬱だったのですが、美術品を見ていると疲れません。

明主様(メシヤ様) 私も、いろいろ用事はありますが、こういう時間だけは特別です。

谷川氏 私もそうです。他に用事があったりしますが、骨董屋に行く時だけは別です。いろいろ見せていただきまして有難うございました。今美術館に陳列してある物で、ゆっくり見たい物もありますから、又お伺いします。

一同 どうも長い間有難うございました。

(人物及び美術品の振り仮名、説明書きは原本に付加いたしました。また、原本で文章の繋がりが悪いところがありましたので、入れ替えてあります。)

 

≪「地上天国祭」挨拶(後半)≫
神界の秘儀を知った上での御神業

メシヤ教代表 楳木和麿

永遠に御守護を許され続ける

そのために今日は3人の方に報告していただきました。その報告内容に繋がってゆきます。どのように繋がってゆくかと言いますと、メシヤ様が本来推進されようとした御神業に近付かせていただくということです。

メシヤ様が昭和元年に御啓示をいただいて、昭和10年に御立教されて御神業を進められてきましたけれども、あらゆる妨害に遭いながらでの御神業推進でありました。そのため、昭和20年当時の信者数というのは非常に少ない状態でした。それが、終戦を迎えることによって、少しずつメシヤ様の御発言も歯に衣を着せないでも済むようになってゆき、信者数も急増いたしました。

そして、昭和25年に「世界救世(メシヤ)教」を開教されたというのは、何でも語ることができる時代を迎えたということに繋がってゆきます。そうした時に、弟子というものは、更に新たな気持ちで浄霊力を行使してゆき、メシヤ様の御教えに基づいて御神業を推進してゆくはずなのですけれども、現実に起きたことは世俗的なことに囚われてしまったためのものでした。

そのため、先ほどお話したように、メシヤ様の御神格に関わる神界の秘儀が今日まで明らかにされませんでした。そのため推進すべき御神業も異なってしまいました。

私達は本来の御神業を担わせていただこうと願っていますので、本来の御神業を推進する上で、松本さんが報告してくださった内容が大切になってまいります。

松本さんの報告というのはですね、「こんな病気で浄霊したらすぐ良くなりました」という報告ではない訳ですね。御守護をいただいた時点から2年経って、更に御守護をいただいている、という内容です。要するに、単発的な御守護ではなくて、継続して御守護をいただいている、という証として松本さんに報告していただいたのです。

我々の信仰というのは、単発的な御蔭をいただきたい、とか、急場を良くしていただきたい、とかいうことのみではなくて、神代の時代から継続して来て、愈々(いよいよ)この地上に天国を樹立する、という、そういう御神業なんだという、継続性のあるものだというように捉えていただき、皆様方の気持ちをより一層高めていただきたい、ということで報告していただきました。

これが先ず第一点です。

夜の時代に染み付いた精神の癖を取り除く生活

それから次はですね、船井さんに報告していただいたのは、総じてメシヤ様の救いの御言葉の中の『浄化作用』ということをより認識していただくように願ってのものです。

「岩戸開き」というブログでの一番最近の書き込みで、御教えと三好医師の解説を踏まえて次のように述べられています。

『メシヤ様(岡田茂吉教祖)の御教え、三好基晴先生の御著書・御講演について、私(当ブログ管理者)の思っていることを書かせていただきます。

一、浄化作用は、病気を治癒すべき、人間自身の工作である。

一、薬剤は、一時的に苦痛を緩和させるが、いつしか病気を悪化させる。

このことは、非常に重要であり、我々メシヤ様(岡田茂吉教祖)の信徒は常に忘れてはならないことと思います。浄化作用の理を知り得たことにより、救われたと判断してもよいと思います。それは、病気が不幸な出来事、忌み嫌うべきこと、悪化作用と考えていたものが、感謝すべきこと、祝福すべきこと、薬毒等を排除する浄化作用と知らされたのであれば、このことは何にも弥増す救いであると考えるからであります。』

中々の名文でまとめられています。

これは、実は私達のいただいている御教えの中でですね、具体的な救い面からいくと、我々にとって非常に有り難い御教えです。『浄化作用』と考えられるということ自体が救いである訳です。悪化作用と考えるから病気で悩み苦しまないといけないのですけれども、浄化作用と捉えることによってすべてを感謝して受け止めることができます。

そうすると、この感謝というのは『感謝が感謝を生み、不平が不平をよぶとは正に真理だ(光25号 昭和24年9月3日発行)』というような、生活に根差した御教えに繋がってゆきます。

そのような生活への繋がりの一番根っこに、この『浄化作用』という御教えがあります。そうすると、今度は『浄化作用』の御教えに照らして日々の生活というものを見つめてゆくと、船井さんと私がやった個人面談ということに繋がってゆきます。

そして、その面談を重ねることによって、先ほど涙ながらに報告していただいたような御守護へと展開が繋がってゆくという訳です。

それで、この『浄化作用』の中にはですね、おおよそ私達は薬毒が出されるということが一番念頭にあります。ところが薬毒に加えて、船井さんが報告したように過去の夜の時代に染み付いた精神の癖、既成宗教的、カルト教団的な信仰形態を引き摺っている信仰に身を置いたことのある者の心の中に根付いてしまった心の癖、というものの改善があります。

これは、百合野さんも報告していただいたように「全ては自分の罪だから、その罪を許されるために献金しなさい」とか、そういうようなことに全部繋げていくようなやり方ですね。その中で信仰していると、自分の中に答えがなくても、謂わば「まだ罪が許されないんだ」という諦め型になってしまいます。

これはですね、仏教の役割の典型的なものです。仏教というのは最近の言葉では「しずめのエイトス」と言って、イライラしたり不平不満とか出ても「まあまあ落ちつかせる」ということが日本の仏教の中の根底にある、それを解説した言葉です。そういった信仰と何ら変わらない。もっとそれを悪用したような信仰を残念ながら営まざるを得なかった過程があります。そうすると、『夜の時代』の“ものの考え方”の象徴的なものが消えないままに、心に抱えながら生活していかないといけない、ということが生じてまいります。

まさに、その部分を取り除く作業を数カ月した訳です。

そのことに真剣に取り組んでくれたお蔭で、今日のような報告の御守護に繋がるようになってゆきました。こういうことを私達は日々これから取り組んでゆくということです。これはメシヤ様を教祖と仰ぐ教団だけではなくて、『夜の時代』の典型的な宗教がたくさんこの世の中にはあって、日本人はその教団に約2億人以上が信者として、重複して登録されております。

そこまで夜の時代の宗教形態を植えつけられているので、それをメシヤ様の御教えに基づいて、心の癖というものを取り除いてゆくのが救いに繋がる御神業の一つなんだ、と捉えていただきたいがために船井さんに報告していただきました。

因縁の人が因縁の人を導く

それから、百合野さんに報告していただいたのは、船井さんが御守護いただいたきっかけを作っていただいたのは、やはり、出会った時に、気になった人に、気になったような話をした、ということを再確認していただくためです。

ですから、気になった人には必ず声をかけるということが肝腎です。声を掛けた時に、百合野さんが広島支部責任者の茶谷さんから何と言われたかというと、「船井さんの魂をメシヤ様に繋いで上げないといけない」ということです。

あるいは船井さんの魂がメシヤ様に繋がることを求めていると、あるいは救いを求めているということです。心というものがそこまで行っていなくても、魂自体がメシヤ様を求めている、ということです。心の表われとして、文字通り表情があって、その表情を見た時に、その人のことが気になるということは、相手がメシヤ様を求めているのだ、というように解釈して、そして、メシヤ様のことをお伝えしてゆく手立てを創意工夫しながらやらせていただくことが必要です。

これが、「因縁の人が因縁の人を導く」とか「因縁の人が因縁の人を救う」ということに繋がってゆきます。これから更に、我々の感性を豊かにしながら、敏感にしながら、魂の訴えとか、魂の叫びというものを察知して、そしてメシヤ様の御光を届けてゆくような日常生活をお互いに送らせていただきたいと思います。

そういう願いで、百合野さんと船井さんをくっつけて報告していただきましたので、願いとするところを受け止めていただいて、今日の参拝を意義あるものにしていただきたいと願っております。

『文明の創造』の頒布

それでは最後になりましたけれども、先ほど布教したくなるという話をしました。その手立てとして、ここにお供えさせていただいてある御論文『文明の創造』を拝読するということがあります。

先ず『文明の創造(一)』の総篇が出来ましたので、次は12月に『文明の創造(二)』の科学篇を出してゆきます。この御論文を様々な角度から分析してゆく時に、先程お話しましたように、メシヤ様が終戦後まで非常に気を使いながら御発言されましたが、信教の自由が保障されて不自由のない御発言が出来るようになりました。

いろいろ邪魔をされることはあったけれども、おおよそ思っておられることを御発言できる環境が整った時に、もう一度御教えを集大成なされようとして、この『文明の創造』を御執筆になられました。ということが充分拝察されるということですね。ですから、この『文明の創造』を拝読することによって、今まで私達はメシヤ様の教えをいろんな角度で拝読してきましたけれども、それが自身の中で集大成されるという方向に導かれてゆきます。そして、布教したくてうずうずしてきます。自分の魂が。

同時にメシヤ様は『文明の創造』を御執筆されながら、御講話で最後の天国篇の内容を明らかにされておられます。それに基づいてこれから御論文を全て区分けしてゆきます。しかし、歯に衣を着せてお話になっておられる御教えというのは、そこには入れてゆきません。

メシヤ様が集大成するのに必要な御教えを、御講話で『こういう構想で天国篇を書くのだ』と言われたことに全部当て嵌めていって・・・御教えそのものには私は一切手を加えませんけれども・・・組み立てをそのようにしてゆく作業の打ち合わせが終わりました。その作業を同時にスタートさせた訳です。

ですから、『文明の創造』の編纂と校正をしつつ、その天国篇を仕上げてゆく作業にこの「地上天国祭」から着手できる、ということです。

そして、御論文の最後にですね、御教えを我々がいただいて、浄霊力という絶大な救済力を自分達が行使させていただく中で、天国天人になるためにどうあるべきかという解説を私が補足として載せてゆきます。それで大体『文明の創造』の仕上げということにする、と考えています。

その時点では、内部資料としての研鑚資料ではなく、一般書籍として出して参りたいと思います。公に出してゆきたい、と今計画しておりますので、それが出たら、それに基づいて更に宣べ伝えやすくなってゆくのではないか、と思います。

メシヤ教の論立てについてのお願い

それから、メシヤ講座に対しては最近いろんなご意見があります。話の内容が最近教団の体制に関わることに集中し過ぎている、と、それから中身が高度になってきているので解り辛いところがある、という声があります。

そういうことのために、今各支部で勉強会の内容をホームページでアップしていただいているのです。ですから、「そちらを参考にしてください」ということを絶えず私は話しております。皆様方も私自身の解説と各支部のホームページやブログをできるだけ参照していただきながら、信仰というものを深く、そして高く培っていただきたいと思います。

また、そういう意見が来た時には、そのような論の展開で話していただきたい、とこの場をお借りてお願いしたいと思います。

祭典が終わったら『文明の創造』を頒布させていただますので、各支部各拠点ごとにお持ち帰りいただいて、皆様へ頒布していただければ有り難いと思います。それでは時間となりましたので、本日は「地上天国祭」という意義ある祭典に遠路お集りいただいて、そして、厳粛な祭典を執り行わせていただけましたことを心から感謝申し上げて、挨拶とさせていただきます。

ありがとうございました。

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