<御教え>
文明の創造
(文創 昭和二十七年・未定稿のまま)
総篇
悪の発生と病
前項の如く悪の九分九厘に対して、善の一厘が現はれ、絶対神力を揮って既成文化を是正すると共に、新文化を打ち樹てる。早くいえば掌を反えすのである。之が今後に於ける神の経綸の骨子であって、其(その)破天荒的企図は想像に絶するといってよかろう。之に就(つい)ては彼の旧約聖書創生期中にある禁断の木の実の寓話である。勿論之は比喩であって、エデンの園にゐたアダムとイブの物語は、実に深遠なる神の謎が秘められてゐる。それを追々説いてゆくが、之を読むに就(つい)ては全然白紙にならなければ、到底分りやうがないのである。言う迄もなく木の実を食ふ事によって悪の発生である。といふのは木の実とは薬の事であって、薬によって病気が作られ、病気によって悪が発生する。処が人類は紀元以前から、病気を治す目的として使ひ始めたのが彼の薬剤であって、禁断の木の実とは、何ぞ知らん此(この)薬剤を曰ったものである。といふ訳を知ったなら何人も愕然として驚かない者はあるまい。ではそのやうな到底想像もつかない程の理由とは何かといふと、之を説くとしたら理論と実際から徹底的に説かねばならないから、充分活眼を開いて見られん事である。
茲(ここ)で曩(さき)に説いた如く、人間は霊と体とから成立ってをり、霊が主で体が従であるといふ原則も已(すで)に判ったであらうが、そのやうに悪の発生源は霊に発生した曇りであり、此(この)曇りに元から憑依してゐた動物霊と、後から憑依した動物霊と相俟って、人間は動物的行為をさせられる。それが悪の行為である。早く言えば霊の曇り即悪である以上、悪を撲滅するには霊の曇りの解消である事は言う迄もない。処が曇りの因こそ薬剤であるから茲(ここ)に大きな問題がある。勿論霊の曇りは濁血の移写で、濁血は薬剤が造るのであるから、人間薬剤さへ用ひなくなれば悪は発生しないのである。斯う判ってくると禁断の木の実、即ち薬剤こそ悪発生の根本である事が分るであらう。
茲(ここ)で今一つの重要な事をかかねばならないが、之も曩(さき)に説いた如く文化の進歩促進の為の悪を作った薬は、他にも大きな役目をして来た事である。といふのは血液の濁りを排除すべき自然浄化作用である。勿論曇りが溜ると健康に影響し、人間本来の活動に支障を及ぼすからである。処が人智未発達の為、右(上記)の浄化作用による苦痛をマイナスに解して了ひ病気の苦痛を免れやうとし、薬を用ひはじめたのである。といふのは浄化作用停止には身体を弱らせる事であって、弱れば浄化作用も弱るから、それだけ苦痛は緩和される。それを病気が治る作用と錯覚したのである。といふ訳で抑々(そもそも)此(この)誤りこそ、今日の如き苦悩に満ちた地獄世界を作った根本原因である。
右(上記)によってみても、薬といふものは其(その)毒によって単に苦痛を軽減するだけのもので、治す力は聊かもない処か、其(その)毒が病気の原因となるのであるから、其(その)無智なる言うべき言葉はないのである。処が驚くべし此(この)病気に対する盲目は、実は深い神の意図があったのである。それを之から詳しくかいてみるが、先づ文化を発展させる上には二つの方法があった。其(その)一は曩(さき)に説いた如く悪を作って善と闘はす事と、今一つは人間の健康を弱らす事である。前者は已(すで)に説いたから省くとして、後者に就(つい)て説明してみれば、先づ原始時代からの人間の歴史をみれば分る如く、最初はありのままの自然生活であって、衣食住に対しても殆んど獣と同様で、健康も体力もそうであったから常に野山を馳駆(ちく)し、猛獣毒蛇やあらゆる動物と闘ったのは勿論で、之がその時代に於ける人間生活の全部といってもいいのである。そのやうに獣的暴力的であった行動は漸次其(その)必要がなくなるに従ひ、今度は人間と人間との闘争が始まったと共に、漸次激しくなったのであるが、それらによって人智は大いに発達すると共に、長い年代を経て遂に文化を作り出すまでになったのである。このやうな訳で若し最初から闘争がなく平穏無事な生活としたら、人類は原始時代のままか幾分進歩した程度で、知識の発達はなく、相変らず未開人的生活に甘んじてゐたであらう事は想像されるのである。
処が前記の如く禁断の木の実を食った事によって病が作られ悪が作られたのである。処が今日迄全然それに気が付かない為、今日の如く根強い薬剤迷信に陥ったのであるから、最も大きな過誤を続けて来たのである。而も一面原始人的健康であった人間は、前記の如く動物を征服し、生活の安全を得るに従ひ体力も弱ったと共に、智識は進んだので茲(ここ)に平坦な道を作り、馬や牛に車を牽かせて歩行せずとも移動出来るやうになったのである。右(上記)は日本であるが、外国に於ては石炭を焚き、レールの上を走る汽車を考え出し、一層進んで現在の如き自動車、飛行機の如き素晴しい便利な交通機関を作り出すと共に、多面電気ラヂオ等の機械を作る事になったのである。尚又人間の不幸をより減らすべく社会の組織機構は固より、政治、経済、教育、道徳、芸術等、凡ゆる文化面に亘って学問を進歩させ巧妙な機関施設等を作り、それが進歩発達して、現在の如き文明社会を作ったのであるから、帰する処来るべき地上天国樹立の為の準備に外ならなかったのである。
以上の如く医学の根本は、人間の悪を作り健康を弱らす目的であるので、予期の如く現在の如き世界が出来たのである。処が之以上進むとしたら、逆に人類破滅の危険に迄晒されるので、最早之以上の進歩は不可とし、茲(ここ)に神は文明の大転換を行はんが為、私に対し真理を開示されたのであるから、之によって悪を或程度制約し、善主悪従の文明世界樹立の時となったのである。
* * * * *
「祝詞奏上」について
メシヤ教 代表 楳木和麿
掲載要望に応えて
五月度の「メシヤ講座」では、「広島支部」開所式における挨拶で割愛した「祝詞奏上」の内容についての問い合わせが多くありました。掲載要望の声も数多く寄せられたので、今回加筆した上で掲載いたします。
祝詞奏上
ただ今「御神体」をお迎えいたしまして、ご一緒に祝詞を奏上させていただきましたが、作法の動きや奏上の仕方が多少違うと思います。少しずつ慣れていただきたい、と願っております。
以前のメシヤ講座で触れていますが、祝詞奏上については心に深く刻んだ想い出があります。前の教団で布教現場の責任者になったのは、若干25歳でした。若い、小僧でしたので古参の信者さん方から色々と小言もあった訳です。その中には祝詞奏上に関することもありました。
今のように声が高いですので、「中々ついていけないからもう少し低く上げてくれ」という声がありました。それから、言葉をはっきり上げてゆくので、「もう少し判らないように上げた方が有り難味がある」などという声も寄せられました。
私は「これは自分の地声だし、神様へ誠を持って真向かえば真向かう程こうした祝詞奏上になってしまうが・・・」と悩み始め、メシヤ様へお祈りした時期があります。「どうしたら良いでしょうか?」とお尋ねしていましたところ、夜中にメシヤ様が出てこられて『わしの祝詞を聞きなさい』というご表情で天津祝詞を奏上してくださったのです。
ご尊影のような和装のお姿でした。その後ろ姿は私の脳裏にクッキリと焼き付いています。今でも瞼を閉じるとそのときの情景が鮮明に浮き上がります。
そして、その直後に「祭事講習」に出席する機会が許され、その席でご在世中の祭事の様子やメシヤ様の姿勢を垣間見ることができました。“奏上の仕方はこのままの姿勢でゆこう”と確信を深めた次第です。
その天津祝詞の奏上の仕方が、ただ今の参拝のような声と調子であった訳です。私はそのお姿を鑑として、何時もそれを目標にして絶えず祝詞を奏上させていただいているのです。絶えず求めているということをご承知おきいただければ幸いです。
それぞれ地声がありますし、キーの高さもありますので、合わせるのに難のある方もいらっしゃると思います。大切なことは神様へ真向かう姿勢です。誠を込めて奏上するという姿勢です。
天津祝詞
まず、朝拝では天津祝詞を奏上させていただきます。天津祝詞は「祓い詞(はらいことば)」ですので、神様の御前で御力をいただいて「言霊によって祓い浄めていただく」ということです。それならば、そうした想念で、しかも祓い浄めるように高らかと奏上することが大切です。
しかし隣近所のこともありますので(笑い)、その当たりは常識的に執り行なっていただきたいと思います。ただし想念だけはしっかりと持って臨まれるようにお願いしたいところです。
メシヤ様は『天津祝詞の創られたのは、神武天皇よりも古い昔のことで、天照皇大御神の系統の神様、大和民族の系統の神様によって創られたもので、非常に言霊が優れている。浄める、天地浄化の言葉の働きが強いのである』と教えてくださっています。
『大和民族の系統』とありますので、覇権主義が入り込む前の絶対平和主義、徳によって治まっていた時代のことを念頭に置くことが重要です。天津祝詞を奏上する者の心に「あいつは憎い奴」だとか「あいつをやっつけたい」、「懲らしめてやりたい」、「征服したい」などという思いが仮にあっては相応しくない訳です。
日頃から「大和民族の系統」の神様に真向かうに相応しい想念を持っていませんと、御神前へ額ずいても場違いになってしまいます。(参照 メシヤ講座・特選集no.56)
善言讃詞
次に善言讃詞ですが、夕拝で奏上させていただきます。メシヤ様は『あれ(善言讃詞)は仏教の観音経を土台にして、和歌のように創ったものですよ』と仰っておられます。
また『観音経を縮めたものです。この経はもとはインドの言葉である梵語(ぼんご)で書かれ、二千数百年前のインド人の生活に合っていた。・・・現代には現代に適応する方法でなければならない。それで善言讃詞を創ったのです。・・・仏教のよい点を神式にしたのが善言讃詞なのです』という御教えもあります。
観音経というお経はどういうものかと考えてみますと、大宇宙をも動かすと言われております。
仏教の中で「一切は空なり」ということがあります。解説は種々ありますが、解ったようで解らないことです。「空」ということについて考えてみる時に、五輪塔というものがあります。五輪は空、風、火、水、地という要素から成り立っています。
これは、神代文字の母音の要素と共通しています。そして「空」は「あ」行に当たります。一切の諸元、源、初めを表現します。始まりなのに空ということはどういうことになるのだろうか、と思います。この「空」とは一体どのように考えればよいのでしょう。大きな意味を有していることは確かです。
火・水・土の火の根源は太陽ですが、ここで太陽のことを考えてみましょう。皆さん太陽とは何だと思いますか。熱の固まりのようなものだとイメージしますね。表面温度は約6000℃と言われていますが、仮にその高熱に耐え得るモノで太陽に突入したとします。どうなると思いますか。
理論上、入って行くと突き抜けてしまいます。それは水素とヘリウムガスからできていますので、そういうことになります。核融合で光と熱を発しています。表面温度は約6000℃ということですが、中心部の温度は不明です。実は熱がないと主張する人もいます。それはさて置き、突き抜けてしまう。「空」なのです。
絶対的な光と熱を発しているにも拘らず、ガスの集合体で、モノとして考えればぶつかる物は何もないということになります。物体としては何もないのだが圧倒的な存在であり、「一切は空なり」とは正にこのことなのだ、と思わされます。私達の地球に光と熱を与えてくれているのだけれども、実体はガスなのだということです。
こうしたことを考えた時に、観音経は大宇宙おも動かすという意味合いがおぼろげながら感じ取ることができるのではないでしょうか。太陽は、向こう50億年は核融合を続けると言われていますので、益々解らない存在です。しかし、太陽系は規則正しく運行されています。そのお蔭で私達は地球上で平穏無事に生存することができている訳です。
この地球は太陽系に所属していますが、太陽系は銀河系の一部ですね。銀河系は直径約10万光年と言われていますし、その中を太陽系は2億年掛けて回転しています。また宇宙には他に銀河系が1000億以上存在していると推定されていますので、気の遠くなるような話です。
神性人間に向上する
今この銀河系をフォトンベルトなるものが通過しているそうで、2012年12月23日に地球はスッポリ入ると言われています。「ウムッ!」と思わされる日ですね。
フォトンベルトに入ると、我々人類をはじめ地球上の生命はどうなるかわからない、と懸念されています。全く未知なことなので、何もないかもしれないが大変な事態を招くかもしれません。その先端がすでに地球に掛かり始めて、各地で異変が起きていることと関連付けて語られる報告会なるものもあります。
エネルギーの高い光子の渦巻く領域で、磁場、重力場などの変化があり、動植物の細胞のバランスにも影響があると専門家は指摘しています。「今こそ次元上昇すべき時だ」と警告を与えている研究者もいます。
宗教者としては、御教えにある「霊性の向上」ということで受け止めて、「現在ただ今、そのことに取り組むべき時期を迎えている」と考えなければなりませんね。
御教えに『文化の進歩とは、獣性人間が神性人間に向上する事であると私は信ずるのである。従って、神性人間の集まる所―それが地上天国でなくて何であろう』とあります。目指す所を明確にして、日々向上を心掛けねばなりません。
しかし、こうしたことは殆んど報道されません。恐怖心を煽ることになり兼ねないからです。ただ、最近では細菌類は宇宙の果てから飛来する、という説がマスコミで取り上げられてもいます。かなり前からインフルエンザは太陽風(太陽から秒速800kmで噴出す帯電粒子の絶え間ない流)に乗って飛来する説があります。それで毎年型が異なると言われてます。
それに対してタミフルが有効であると取り沙汰されていますが、これは何時もお話していますが、日本人が大半を使っています。世界の7割を使用していると言うのですから狂気の沙汰です。通常インフルエンザに罹ったら栄養を摂って1週間休養を取るというのが世界の常識です。風邪ならば3日です。
高熱に上がらなければウイルスに対応する免疫力にスイッチが入らないことは判明しているのです。一定の熱に達する前にタミフルを飲んでしまうと、免疫力にスイッチが入らないのでかえって身体の変調を招くのです。中には妄想とか幻聴を引き起こし、不幸な事故が起きたりすることもあるのです。
日本人は急かされた生活を強いられていますので、薬に依存せざるを得なくなり、可笑しな状況に追い込まれているのです。
話がそれましたが、善言讃詞を奏上するというのは、そのように秩序正しく運行されている宇宙の動きまでに関連することなのだという認識ですね。そして美しい響きを聴いてゆくと、自分の周辺が天国になってゆく姿が詠み込まれていますので、善言讃詞を奏上する時には自分から、あるいは我が家から天国になってゆく祝詞なんだという自覚を持って毎日奏上してゆきますと、その言霊によって天国の霊界づくりが許されてまいります。
しかも善言讃詞を奏上する者は、日常生活が大事なのだということです。天津祝詞についても触れた通り、日常的に発する言葉が善言讃詞に通ずるように言葉を練ることに努めねば、参拝時のみの善言讃詞では誠があるとは言えない訳です。古来より大和民族は言霊を大切にして、言葉を慎み、美しくあらしめてきました。
メシヤ様が『信者たる者、常に魂を磨き、言葉を練り、上魂の人間たることを心掛けるべきである』と教えられている所以です。(参照 メシヤ講座・特選集no.56)
神前と仏前での違い
本日は御神体を初めて拝する方ばかりですので、天津祝詞と善言讃詞の奏上の仕方を改めて認識していただきたいと思います。
そしてお祈りする時には御光をいただく訳ですが、いただく御光が自分の中にスーッと入ってくるような気持ちで祝詞を奏上することが大切です。拍手もあまり早くしないで、ゆったりと構えて朗々と奏上させていただき、しかもその間御光がスーッと入ってきて、魂から心、そして霊体に充満されるような想念を持っていただきたいのです。
また、御神前で奏上するのは神様のために執り行うことではないことも是非判っておいていただきたいと思います。自分のため、家庭のため、地域のために奏上しているのです。神様の御前で御力をいただき、優れた言霊を奏上することに意義があり、その言霊通りのお働きをいただくのです。
一方、仏壇等祖霊様の前では、祖霊様に聞いていただくために奏上しているのです。そのことを想念として明確に持ち、祖霊様方に気持ち良く聞いていただけるように相応した奏上を心掛けていただきたい、と願っています。
<資格者資料>
【教修第三講・主宰神とメシヤ様】
メシヤ教
<信仰行とはメシヤ様の追体験>
第二講では、「我が家を天国にする」ために「メシヤ様とご縁をいただいた」という入信の意義がより明確になった。「メシヤ様とご縁をいただくことで自らが我が家の救世主となり、我が家を天国にするために精進邁進することを決心している」ということであった。
入信動機は様々ではあるが、また複雑多義に渉る背景がお互いにはあるが、「我が家を天国にする準備段階を経て来たからこそ、メシヤ様に出会うことが許されたのである」という認識も共有した。
その背景には祖霊のお導きもあり、また当然ながら自らの魂が希求して、やっと辿り着いたということもある。
我が家の救世主となるためには、メシヤ様の御姿を鑑として追体験するように心掛けることが必要である。そこで、メシヤ様のお姿を客観的に見つめる作業が不可欠となる。
<共に読み、確認する>
第三講では「信仰読本」の「四、主宰神」と「五、教祖」を共に読み合い、相手の理解度に応じて補足を加える。第二講同様に大切なことは、「なるほど」と理解を示した後である。補足を加える上で心しておくことを確認したい。
信仰生活で誰もが気になるのが、神様への祈りの内容である。祈り方、祈る姿勢と言ってもよい。これまでの神様への既成概念によって勘違いや取り違いを起こしている場合があるので、相手に安心感を与えることを心掛けつつ、自らの体験に基づき神様へ真向かう在り方を取り次ぐ。
主之大御神様のご存在を既成概念で捉えようとすると、そのご存在を限定してしまうことになるのである。既成概念とは、例えば「罰(ばち)が当たる」といった躾けられ方をされたり、「怨念」を封じ込めるために神社仏閣を建立したとする解説書を読まされることを通して刷り込まれる概念である。それらは最高位の神様のお姿とは程遠いものである。
『表現し奉る言辞もなく、文字もなく、ただ無限絶対の力徳の中心であり、一切の根源であると申すよりほかはないのである』というメシヤ様のお言葉を心にして、御神体に向かう姿勢をもちたい。
メシヤ様というご存在―『私の名前を呼びなさい』
「教祖」の項で、メシヤ様というご存在を学ぶ時に大切なことは、大きく高い存在ではあるが、正しい願いは必ずお聞き届けくださるということである。正しい願いとは何かということを知るために御教え拝読がある。御教え拝読が日常生活に定着するように導きたいところである。
また、『困った時、助けてほしい時は、すぐその場で私の名前を呼びなさい』とメシヤ様は仰ってくださっている。安心感を与えてくださるお言葉である。身近にメシヤ様と共にある生活を心掛けていただきたい。
空理空論ではなく、実在する神様を身近に感じながら生活するという『信仰の醍醐味』を味わっていただくように導きたい。
メシヤ様というご存在―『神様にも感情がある』
その上で、私達が忘れてはならないのは『神様にも感情がある』というお言葉である。これは、“困った時の神頼み”式のあり方ではなく、常日頃から絶えず自らを顧みつつ生活する大切さを説いてくださっているのである。
そして、何処に身を置いていようとも、神様の御心を求めて、御心に適う生活を送ることが大切なのである。神様と共にあるという安心立命の生活を実現できる歩みである。
新たに信仰の道を歩み始める人に、特に確認しておくべき内容である。顧みる鑑とはメシヤ様のご精神である。
メシヤ様というご存在―『私の心が共通し拡大されること』
私達は自分が救われるだけに止まらず、この地上が天国になることを切望している。
地上天国とはメシヤ様の御心が共通し拡大されることである、と本文中に引用した『私というもの』で示されている。神様である身でありながらも、尚且つ実践されている内容である。繰り返し拝読したいところである。
しかも、メシヤ様は生涯一貫して実践されたことがある。幾つか列記してみると、
・挨拶をする
・嘘をつかない
・時間を守る
・約束を守る
・整理整頓をする
・物を大切にする
・無駄をしない
・人の話を根気よく聞く
・言葉を大切にする
等々である。やろうと思えば誰にでもできること、一見簡単な、至極当たり前のことを途中で止めることなく、継続されて取り組まれたのである。救世主として偉ぶることなく、人としての心掛けを貫かれた。
人間の理想像として、特にそのお姿を鑑としたい。
メシヤ様からいただくもの
私達の入会までの苦労は、メシヤ様が教祖となるまでのご苦労には比べようもないが、少なくとも救いの力と言葉を身に付けさせていただく準備期間であると捉えた時に、どれ程救われる思いに浸れるかということである。
ご縁をいただくまでの苦労が大きく感じれば感じるほど、「だからこそ、メシヤ様に辿り着いたのだ」という繋がりを確認していただくことが欠かせない。
そしてまた、教祖となる方は苦労して得た「救いの言葉」を絶対に忘れない、ということである。私たちも同様「忘れない」ということが最重要課題なのである。「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」であってはならないのである。
メシヤ様の追体験をさせていただく際に、大前提として救いの力である浄霊力を授かった感動、感謝を忘れないという心構えがなくてはならない。
メシヤ様の信仰概念
最後に、メシヤ様は『(他の宗教に)何時転向しても差支えない』と仰っており、自由なる信仰を強調されていることを確認しておきたい。同時に、他宗教の教師(牧師や僧侶等)であっても、それを止めることなく入会しても良いということである。
全く自由な雰囲気の信仰を求められたのである。冒頭「自らが我が家の救世主となり・・・」という表現を用いたが、救世主であったとしても独善的ではなく、常識的な普通人としてのご日常であったことを肝に銘じておきたい。
そうしなければ、変に宗教臭くなり、如何にも思い込みのきつい雰囲気、一方的な頑なさや偏屈さだけを漂わせてしまう。
また一方、宗教のあるべき道について『宗教は霊肉を完全にする。それ丈(だけ)やればいい』とメシヤ様は簡明にご教示されている。何と判り易いことであろうか。人々の心と身体を真に健康にすることを願い、そのことに貢献する。
浄霊を中心にして霊の曇りを解消し、薬禍薬害を知らせ自然農法、自然食品を普及し、心身を健康にして差し上げる。更には、霊主体従の法則、浄化作用の原理などの御教えを宣べ伝え、幸運者へと誘う。「芸術による天国化」、「芸術による人格の向上」を唱導し、地上天国建設に寄与する。
何と心躍る行為だろか。それを共に取り組んでゆくことを通して自他共に幸福へとなってゆくこと、それが入会の意義であることを確認したい。次回から、その具体策に触れてゆく。
(次回は四講を掲載。)
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