メシヤ講座・特選集no.63(平成18年4月分)

<御教え>
医学試稿
(1939年文創のまま)

第一篇  森羅万象の構成

生と死

古来、凡人は固より、先哲、聖賢も此(この)死の問題に就て程、如何に論議し説得され、又解決しよふと努力したものはないのである。いふ迄もなく、如何なる幸福も、如何なる希望も、此(この)死によって万事休すで、此(この)事以上に恐るべき事はあり得ないのである。然るに此(この)恐るべき死なるものは、特殊の事態は別として、その大多数は病気といふ不可抗力ともいふべき事によるのである。少くとも九十歳以下で死ぬのは、病気によるのであって、いはゞ、不自然なる死である。人間が、人間の天寿とは、病気の為でなく自然に衰えて死ぬ―之が天寿である。従而、天寿による死は、何等の苦痛がなく、その多くは前以て死期が判るのである。此(この)理によって、死に際して苦痛を伴ふのは、天寿でない証拠であって、よく世間でいふ事は、一種の諦め言葉に外ならないのである。先年百十二歳で物故した有名なる禅僧鳥栖越山師が、死の直前死期を予言し、家族、親戚知人等、数十人に取巻かれ、一人一人に遺言なし、予言の時間が来るに及んで何等の苦痛なく、静かに冥目して死したる如きは、自然死の最も好き標本であらふ。私は何故に、現代の人間が自然死の人間は寥々として暁の星の如く、殆んどが不自然死に畢(おわ)るといふ―この悲惨なる原因に就て、之から項を累(かさ)ねて述べよふと思ふ。

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「景仰」を如何ように拝読するか(4)

メシヤ教代表 楳木和麿

はじめに

私達の実践徳目というものは、メシヤ様のご在世中のご日常を拝することにより自ずから明確になってまいります。

『乱雑にすると頭の働きがにぶる』の項

≪本文≫

明主様(メシヤ様)はよくお身廻りのものを整理されながら、『私は物の区分けや始末(しまつ)がうまいまら、屑屋(くずや)とか道具屋なんかやればいいな』とご冗談(じょうだん)をおっしゃいましたが、場所と物に応じ、整然と処理されるその周到(しゅうとう)さ、それは全くひとつの芸術でもあったと思います。そして、『どの戸棚の何番目の物を持って来い』とお命じになられても、決して間違いはなく、実に驚くべき正確さでありました。

かつて明主様(メシヤ様)は、『人は平素から自分の持物は、いつでもまに合うように始末しておく心がけが必要である。暗がりの中でも、入用なものを自由に取出せるくらいでなくてはいけない。放任乱雑(ほうにんらんざつ)にすると、それだけ頭の働きを鈍(にぶ)くするものである』と、静かに御教え下さいました(側近奉仕者)

≪解説≫

この文章からメシヤ様がご日常で何を心掛け、私達にどのようなことをお求めになられていたかを拝察することができます。

整然としたお方付けは『芸術でもあった』

まず、身の周りのものの整理の仕方が『ひとつの芸術でもあった』と記述されております。

「芸術」と言えば、とかく芸術品のことなど特別なものを連想しがちですが、片付け方や収納の仕方が『ひとつの芸術であった』とあります。メシヤ様の写真集を拝すると、花器をはじめお部屋の調度品等が名作揃いなので芸術品に囲まれた生活という観がありますが、所作そのものが芸術的だったのです。

『天国とは芸術の世界』という御教えが私達の胸に強く迫ってまいります。ご日常のご様子から、天国天人のお姿を垣間見る思いがいたします。

私達は日々メシヤ様を求めております。そして自らも天国天人に近づきたい、と願い精進に努めております。この項にあるお姿は、信仰者としての実践徳目を私達に指し示していると思われます。

私達の日常生活に対して『芸術的』な片付け、清掃、整理整頓を求められているのです。まずは課題として受け止め、実践に取り組みながら、やがて何気ない振る舞いの中でそれができるところまで極めたいですね。そのような境地に達することを目指さねば、本物の信仰者とは言えないことになります。

頭の働きを鈍くする

次に『放任乱雑にすると、それだけ頭の働きを鈍くする』と、御教えくださった旨が記述されています。

私達は知恵を磨きたくて御教え拝読に没頭します。ところが、拝読しようとする部屋やテ-ブルが乱雑であると、どうやら目的は達せられないようです。何故なら、放任乱雑は頭の働きを鈍らせる、ということですので、知恵を磨くことに繋がり難いのです。

前回、字面にとらわれてはいけない、というお話をいたしましたが、私達の御教え拝読が知識としてだけの習得に終わったのであれば、本来の在り方ではないことは周知の通りです。実践が伴わなければなりません。

また、整理整頓は健康な人でないとでき難いところがあります。微熱などがあると面倒臭くなりがちです。また、身体がだるかったりすると、まめに動けません。この御教えの実践のためには、浄霊をいただくことを普段に心掛け、真の健康を確保する必要があります。

さらには、人体というものは脳のために動いているという側面を持っていますので、逆説的に言えば、清掃を怠らず整理整頓を心掛けていなければ真の健康を維持でき辛いということになります。

在家信仰のあり方

そして、今回の項で特に考えておかねばならないことがあります。それは、教団施設の奉仕についてです。ここでは清掃奉仕ということについて触れておきます。

奉仕という意味合いも少し受け取り方が変わってまいります。もちろん、自らの有する時間や身体を神様のために捧げ、奉仕する取り組みは大きな徳積みの一つです。そしてその結集が、御神業推進を支えております。大変尊いことです。

ところが、奉仕は徳積みに止まらず、また御用奉仕の意義として説かれたことに止まらず、取り組む者自身にとって大きな利益となるのです。

教団施設は小規模ながら「地上天国の雛型」を目指しております。美の象徴的なところを目指しておりますから、そこで奉仕することは清掃の練習を重ねていることになり、清掃全般の在り方を身に付けていることにもなります。学んだことを家庭や職場、地域で実践してゆく―それが信仰生活であり、天国化の具体的取り組みの一つになるのです。

教団施設などで清掃奉仕に取り組む場合、このことが根底になくてはなりません。当然教団施設では誰でもが清掃奉仕できるように、清掃用具などは誰でも扱えるように判り易く整備されています。すすんで奉仕させていただく、ということが前提となっているからです。家庭でもどこでも同じことが言えます。

また、整った施設の奉仕は取り組めば取り組むほど気持ちのよいものです。大勢の力で取り組んでおりますので、美化のスピ-ドも格段に早まります。役割を持って行なうので、‘遣り甲斐’というものも生まれ、充足感も湧きます。

そうすると、仮に家庭で問題を抱えていると、その奉仕にのめり込むことが起きることもあります。これは熱心な信者さんに当てはまることですが、現実から逃避することになってしまうことがあります。真面目であればあるほど、そうしたことも起き得るということを老婆心ながら付け加えておきます。しかし逃避してしまうと現実の問題は解決致しません。

奉仕には様々な意味合いがあることを承知して、教団施設での清掃奉仕は‘練習の場’であるという面も加わっており、実践は家庭や職場、居住地域で行なう、という姿勢が大切であるということを心得ておきたいものです。これが在家信仰の基本なのです。

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≪問題解決するための留意点≫
体験記に学ぶ

前回に続き体験記を通して「問題解決」を図る具体的な手法を紹介いたします。体験者の赤裸々な報告に感謝しつつ、学びの一助としていただければ幸甚です。

<体験記・3回続きの最終回>
『御守護の前渡しと精神のバネ』
大分県日田市 久民広喜

自分のこれから先のことをジックリと考える時間

前回の体験記で隔離された環境で数ヶ月を過ごしたことに触れました。その原因は自分の考え方が幼稚であったからに外なりません。自分の置かれている状況から逃げ出したいがために、愚かなことをしてしまいました。

親や可愛い子供、そして弟や妹のことなど何も考えておりませんでした。自分の行動が周囲の人々にどのような影響を与えるかなど、全く考えずにとった行動でした。いえ、考えずにではなく、考えることができなかったのです。その時残った傷を見ると、自分のやってしまったことを昨日のように思い出します。

一般社会で生活ができるようになり、楳木先生に今こうして面談を続けていただいているお蔭で、その行動それ自体も全て神様、ご先祖が‘このままでは一生立ち直ることができない’ということで、立ち直るためには隔離された場所で自分のこれから先のことをジックリと考える時間を与えてくださったのではないか、と最近思うようになってきました。

過去の自分であれば、全てを人のせいにして「自分は被害者の立場にあるのだ」と自分を美化するだけで、自分を振り返り、反省することなどできませんでした。過去何か問題を起こすたびに「自分は悪くない。親や弟、妹がうるさく言うのが悪いのだ」と思っていました。それらが全く間違っていたことのも気付きました。

自分の考え方が全て幼稚だったのです。「どういう結果を生むかというところまで考えが及ばないで行動してしまうということは、幼稚であると共に依存心の裏返しである」ということを楳木先生に教えていただき、最近‘なるほど’と受け止めることができるようになりました。まったく面談を継続していただいているお蔭です。感謝しております。

また、言われても言われても同じ過ちを繰り返す癖、それは心の底に根深く染み付いたものです。周囲の人がいくら指導やアドバイスをしてくれても本人の精神が強くならなくては取り除くことができない、とつくずく感じます。

毎日、清掃に励み、どんなに疲れていようとも片づけをして、ノ-トに学びや反省を記入してから休むということが、実は「精神のバネ」を鍛えることだ、と楳木先生から解説していただいておりましたが、最近やっと解ってきたように思います。それは仕事の面で顕著に現れている、と思います。

マイナスからの出発という肚積もり

一般社会で生活するようになり、自分の中で‘本当に仕事に就けるのだろうか?’と不安な気持ちになるばかりでした。周囲の人は、口では「頑張りなさい」と励ましてくれるが、‘本当にそう思ってくれているのだろうか’と悪い方へ考えてしまうようになりました。

当然のことながら、現実は厳しいものでした。就職活動を始めて数社の面接を受け、自分の中では‘ここは大丈夫だ’と思っても不採用の通知が来ました。その時は‘どうして?’と思うだけで、何も考えることができませんでした。今振り返ると、考える力がなかった、と素直に感じます。そして自分がやってしまったことが如何に重大なことであったかを改めて感じました。

気持ちを絶えず切り替えることができたのは、何も知らずに明るく過ごす子供のお蔭でした。そして、楳木先生からは「落ちるところまで落ちたのだから、マイナスからの出発という肚積もりを持ちなさい。そして後は上を目指すだけだ」と、言い続けられました。

そんなこともあって、今の会社に採用された時は、自分でも本当に驚きました。社長は自分の過去、そして今置かれている立場を知った上で採用してくれたのです。そして逆に、これから先の自分に期待してくれました。

この時も、楳木先生は「自分一人の力でこうなったのではない。神様、ご先祖様のお導きのお蔭であることを忘れてはいけない」と諭してくださいました。自分もその通りだと思いました。

耳を疑うような役職を任ぜられる

就職が決まったことに自分自身驚いたのに、1年後さらに信じられないことがありました。現場のサブリ-ダ-を任ぜられたのです。作業の段取りや指示も任せられるようになりました。立場が変わることにより経験のない問題や悩み事が増えてきました。

部下の育て方、作業効率の上げ方、自分では判っているつもりでも、現実問題になると全く解決することはできませんでした。楳木先生からアドバイスをいただき、それを会社で実行することにしました。自分が入社した時よりは少しずつではありますが、社内が変わっていることを感じるようになりました。

他の宗教では決して教えていただけないことをメシヤ教、そして楳木先生との面談を通して教えていただいたと思っています。自分の中で、‘素晴らしい’と正直に思えるようになったのは約9ヶ月前のことです。

昨年の8月に管理という立場を任ぜられました。社長から「新しい風を吹き込んで、会社を変えて欲しい」と言われた時は、耳を疑いました。そして、自分にできるか不安でした。しかし‘楳木先生に相談すれば大丈夫だ’‘これも自分が進む道だ’と思えて、不安な気持ちもなくなりました。

一つひとつ丁寧に取り組むことにより、過去の仕事よりも遣り甲斐というものを感じるようになりました。また、目標を持ち取り組むことの大切さも痛感しております。目標が高ければ時間は掛かるが、努力すれば必ず何時か実現する。そう思いながら毎日を過ごしております。

今年になってから、さらに忙しい日が続いていますが、このように仕事が順調に行き残業ができるのも、父や妹夫婦の助けがあるからだと思います。かつて‘口うるさい’と思ってしまった時もありましたが、決して自分一人の力では今の立場を与えてもらうことにはならなかったでしょう。本当に感謝しています。

これから取り組むべきこと

これから自分のやらなければならないことは、今まで継続してきた課題はもちろんですが、さらには御神業です。過去妹を通して楳木先生にご縁をいただいた人の中で、私の行動で遠ざかった人がいます。その人達に今日までの私がいただいた御守護を報告して、再びご縁を繋いでいただくということです。

その方々は私の親戚筋に当たり、私の家の内情や私の行動をつぶさに見てきています。それ故に、再びご縁をいただくことは至難なことだと考えられます。そのために今自分がやらなければならないことは、口先だけで奇麗事を並べても通用しない、自分が面談を通して本当に生まれ変わった姿を見ていただく以外にはありません。

実現するかどうか、実現するにしても時間が掛かるか否かは、自分の努力次第だと思います。面談に対して真剣に取り組むようになって少しずつ変わってきていると感じるようになった今、その成長のスピ-ドを加速させ、早めに年相応の考え方ができる人間になり、離れた人達を呼び戻したいと願っております。

宗教に対して信じる気持ちなど全くなかった自分の気持ちを変えたのは、メシヤ教の教えと力の凄さではないかと思えるようになりました。また、面談を通して生活面、仕事の面においてここまで細かく指導をしていただける宗教はないと思います。自分を成長させるには、変える強い意志を持ち、継続させていくことが大切だと学びました。

楳木先生から「体験記を書いてみよう」と言われた時は、‘今の自分はまだ成長できていない。無理だ’と思いましたが、書かせていただいて判ったことは‘成長したからではなくて、学びを整理するため’ということです。

過去を振り返り反省することの大切さがあります。そして反省するだけでなく、同じ事を繰り返さないためには何をしていけばよいのか考えなければなりません。考えるということは、具体的に事例を上げて実行に移さなければなりません。

自分はまだまだ観念的な抽象的な学びの域を出ていない面が多々ある、ということです。「具体性がなければ、本当に考えたことにはならない」と常日頃から指摘されていましたが、そのことを体験記を通してさらに理解でき、肚に落ちた感があります。ありがとうございました。

≪学び≫

御守護の前渡しの意味

『毒と神様は舐(な)めたらいかん』ということに気付いた時点で、神様のことが少し判ったと言えます。久民さんに信仰が芽生え始めたのも、そうした経緯を経てのことです。そして、本気で手を合わせるようになってまいります。

就職のことを祈った時に、御守護の前渡しのような形で仕事が見つかります。何故‘前渡し’という言い方をするかと申しますと、神様は人間に幸せになってもらいたい訳ですし、進歩向上をしてもらいたい訳ですから、職場を与えることが本当の意味での御守護ではないのです。

大切なことは仕事をしっかりやり、自分づくり(人格形成)もしっかりやる、ということなのです。そのために相応した場を提供してくださったのです。また、『この方向で歩んでゆけば間違いない』という方向性を示してくださったのです。

そして、その道をしっかり歩むか歩まないかは本人次第なのです。

よく縁結びの祈願をしますが、祈願すると必ず出会いがあります。ところが、出会いに気付かなかったり、何らかの理由をつけて結ばれない場合があります。これは祈願者にその気がないのです。

どこまでも本人の決心が重要なのです。また、決心がなければ知恵も出てきません。後でも触れますが、決心が弱いと、考えたつもりでも具体的な考えが出てこないのです。

精神のバネ

さて、歩み始める時に大切なことは、精神のバネが強いか弱いかということになります。久民さんは、約束したこと、設定した課題を不定期ながら継続してきていました。そこで、曲がりなりにも精神のバネは鍛えられてきました。

毎日、出勤する前に決めたことをやる。また、帰宅したらどんなに疲れていようとも、その日のうちにやるべきことを必ずやる。片付けをし、学びや反省、感謝をノ-トに記入するということです。この積み重ねは精神のバネを鍛えます。鍛えられたバネを持っていますと、少々なことが壁となって立ちはだかってもへこたれませんし、逃げません。

また、面談を通して、自らの陥りやすい‘勘違い’や‘取り違い’がおぼろげながらも把握でき始めました。一つひとつ指摘され続けたので、本人には辛いことだったでしょうが、自分の特性や弱点が明確に判ってまいります。

そうしたことが明確になりますと、本当の意味で‘自分づくり’の出発点に立てたことになります。そして、それらの成果が初めて職場で活かされることになります。最も顕著に現れたのは、社長の話す様々な内容を理解できるところまで、総合的に何とか成長できていたということです。それ故に大抜擢があったのです。

それがご自身述懐されていた「相談すれば大丈夫」ということに繋がります。信仰は「安心立命」の世界である、というところへ入ることができたのです。しかし、これはあくまで入り口に立てたということです。これからの引き続いた努力が大切です。

体験記に「マイナスからの出発」という表現がありましたが、この段階で「マイナス」から「ゼロ」になったと言えるでしょう。ここからやっと、「プラス」を積み上げてゆくことになります。

体験記を書く意義

この度、体験記を書いていただいた理由もそこにある訳で、入り口に立てた時点での学びを明確にして、これから歩むべき方向をしっかりと定めておいていただきたいからです。

耳障りのよい表現ができたとしても、具体性に乏しいものは「理解できていない」ことに等しいし、それでは勿体ない訳です。具体的に事例を挙げて整理してゆかねば、本当の御守護は何なのか、人としての成長は何なのか、学びは何なのか、ということが見えてまいりません。見えてきませんと、魂の進歩向上に繋がらないのです。

人間は勘違いをしたり、取り違いをしたり、慢心したりしてしまうことがあります。自分では気付かなかったことが、体験記を書かせていただくことで浮き彫りにされることがあります。大変有り難い作業なのです。

久民さんは努力はしているけれども、今日までできてきたことと、生活の中で疎かにしてきたことがあります。疎かにしてきたことは、将来において新たな問題の火種になるかもしれません。しかし振り返る心を持ち、間違いを修正する意志の強さがあれば、容易に乗り越えることができます。

決心の強さが問われます。決心が弱いと「気付き」ありません。また知恵が湧いてまいりません。すると表現が抽象的観念的になってしまいます。どこまでも具体的でなければ、問題に対処することができないのです。

また、問題解決できつつある現在ではありますが、精神の癖を来世に引きずらないように、更には子孫への因縁とならないように、一層の向上を目指して、学びと実践を積み重ねられることを願っております。そういう意味では、今やっと人生設計のスタ-トラインに立ったところだという自覚を持って、神様へ真向かって、自分の意志で学びを重ねるように努めていただくように祈っております。