メシヤ講座no.203本部(平成30年2月)

 

【メシヤ講座 本部】

 

最高の言霊『善言讃詞』

菅谷メシヤ教代表執務代行(以下、菅谷代行と明記)

立春祭おめでとうございます。

本日は先ずメシヤ講座の骨子と『善言讃詞』の現代語訳を拝読していただきたいと思います。それではお願いします。

 

司会者

メシヤ講座2月の骨子「『善言讃詞』3月3日に向けての学び」を拝読。(拝読部分割愛、全文はこちらからご覧ください。「メシヤ講座no.203(平成30年2月)の骨子」

 

原田メシヤ教代表執務代行(以下、原田代行と明記)

『善言讃詞』の現代語訳を拝読(公式版でないので非掲載)。

 

原田代行

この内容というのはメシヤ様が七十五声の言霊の配列によって、最高の言霊になっています。それを我々はあげさせていただいていると理解していただければと思います。

 

菅谷代行

改めて立春祭おめでとうございます。

今月の骨子と、『善言讃詞』についての現代語版の要約を拝読していただきました。

6月15日に、天照皇大御神様をお迎えさせて頂きました。

そして、10月26日には伊都能売大御神様をお迎えさせて頂きました。

12月23日には日月地大御神様という絶対力の神様をお迎えさせて頂き、

そして、昨日の節分祭では人類を代表してお詫びをさせて頂いて今日を迎えたわけですけども、この流れと言うのが、善言讃詞を見て頂くと、よくわかるのですが、

私達は代表が亡くなられてから、昭和のやり直しの御神業に取組ませて頂きましたけども、

神様を三千年前に我々人類が、国常立尊様という正しい神様を、八百万の神様に加担して押し込めてしまいました。

そして、閉じ込めたままこの三千年間、ズーッと神様の御存在に気が付きませんでした。

私達人間が神様を受け入れないというか、わからないという状態をズーッと続けて、昭和29年にメシヤ様がメシヤ様になられた時に、また明主様に御戻ししていただいて、その時にさらに、重ねて神様を拒否し、神様を見ず、受け入れなかった。

本来は人間というのは神様と共にあって、神様の御意思を、愛を受けて、それを体現して行くのが本来の人間の姿なのだと、御垂示頂いておりますが、我々自体も三千年間全く進歩していなかったということになります。

ですからそこを昨日はお詫び申し上げて、お詫びと共に本日は、メシヤ様の御手足とならせて頂けるよう、全員で、地上天国建設、人類救済のために、世界救世(メシヤ)教を復興させて頂くと、そのお誓いをもって今日は立春祭に臨ませて頂いたと思います。

そしてその流れがこの善言讃詞の冒頭部分の『世尊観世音菩薩此土に天降らせ給ひ光明如来と現じ應身彌勒と化し救世主とならせ』と書かれていますが、観世音菩薩はそもそもどなたなのか御存じない方は、おられませんよね。

変な質問と思われるでしょうが、そういう勉強をさせて頂いているのです。

観世音菩薩、光明如来、應身彌勒と書かれていますが、そもそも誰が地球に観世音菩薩としてお下り遊ばされて、

『光明如来と現じ應身彌勒と化し救世主とならせ』とありますが、その御存在とは一体どなたなのでしょうか。

 

『メシヤ様』という御存在

昭和25年メシヤ様の腹中の光の玉に魂が宿られたというところから始まっています。

メシヤ様が光明如来に御出世遊ばされたのが昭和25年、『明主様』になられた時ですね。

それで同年6月にメシヤ様は御法難に遭われました。

そして、日本の中心、静岡の庵原(いはら)刑務所内で最尊最貴の御魂が御降りになられましたので、その時点で『メシヤ』という御存在なわけですが、それから御魂がどんどん育って4年後の昭和29年にメシヤが生まれたと仰せになられまして、『メシヤ降誕仮祝典』をさせて頂いたのですね。その時にその意味がわかる方があまりおられなかったということなのです。

ですから、『メシヤと呼びなさい』とメシヤ様が仰られたのにも拘わらず、および申し上げたのはたった、2ヶ月だったのです。

あまりにも浄化が厳しくて「明主様に戻ってください」と取り下げをお願いしてしまったということだったのです。

メシヤ様の御存在を考えますと、メシヤ様は主神様の人間としてのお姿だということなのですね。

毎日、御神体に向かって御礼させて頂いて、当たり前のように『主之大御神様』とお唱えさせていただいて、メシヤ様の御尊影に真向かわせて頂き、まわりには、御書を掲げております。そして御教えがほゞ全部揃っております。

それを当たり前のように思って日々、すごしておりました。

しかし、自分自身が『主之大御神様』、『メシヤ様』と考えたときに、良くわかっていなかったことに気付いたのです。

よくよく考えてみると、お詫び申し上げる相手『主之大御神様』に対してどのようにお詫びさせて頂くのか、『主之大御神様』の御存在とはなんなのだろうか。考えれば考えるほど、自分が分かっていないということに気づかせて頂いたのです。

知識としては、御教えを頂いて、ズーッと学ばせて頂いておりますので、頭では分かっておりますし、書けと言われれば書けるし、言えと言われれば言えるかもしれません。しかし、自分自身が本当にどうなんだ。肚からわかっているのか。

ということと、出発前に、御神前でお詫びをさせて頂いたのですが、その時にはっきりと、自分自身が分かっていなかったということが、わかったのです。

だからこそ、神様を八つ裂きにして押し込めるようなことを平気でやったのです。

わかっていたら、そういうことが出来るはずはないのです。そういうことを反省し、泣きながらお詫びをさせて頂きました。

これで人類を代表してお詫びをさせて頂けるのかと、心底考えさせられました。

そして昨日代表からもお言葉を賜りまして、皆さんと本当に心から、今まで振り返ってみてあれだけ、心を一つにしてお詫びをさせて頂いたことは初めてだったのではないでしょうか。

私は、実は昨日浄化を頂きまして、頭がどうにもならないくらい痛かったのです。

気合を入れすぎて御光を頂いたのだと思います。御浄霊を頂いて何とか祭典に臨ませて頂きましたが、そのあと吐き気が止まらなくなりまして、昨夜は6時半に休ませて頂きました。それだけ有難い浄化を頂いたわけですが、神様はお詫びをお聞き届け下さったのだろうかと、想像しながら、とりとめもない夢を見ながら目が覚めました。

昨夜は高井さんも「メシヤ様が御出ましくださった。」と霊視をされました。

詳しくは松原支部ホームページにアップされますので、そちらを見ていただきたいと思います。

ズーッと、ズーッと神様は人間が変わって、自らの意志で、神様にお詫びを申し上げて、神様をお迎えさせて頂くということを待ち望んでいたのだということだと思うのです。

メシヤ様がご苦労をなさって御自身のお体を持って、あれだけの浄化を頂かれて、すべてお示しになられて、そして先達の先生方、楳木代表と繋がれました。私達はすべて準備をされた中でのスタートでしたので、至らなくて申し訳ないという反面、すべて用意されているのだということを、改めて理解させて頂いた上で、今日からまたゼロからのスタートだと思って共に向上を目指して、本当にメシヤ様の御手足とならせて頂けるように、スタートさせて頂きたいと思います。

 

『伊都能売神皇様』とは

(メシヤ講座no.203(平成30年2月)の)骨子『善言讃詞』に書かれておりますが、はるか昔『伊都能売神皇様』は、2600年くらい前に、インドに行かれて、そしてお釈迦様に教えを垂れられました。

『伊都能売神皇様』はどういう御存在であられたかと言いますと、国常立尊様が押し込められたときに、一方は閻魔大王となられ、もう一方は、『慈悲』をお持ちになられて、『伊都能売大神様』になられました。

ですから善一方ではなくて、善と慈悲をお持ちになられるバランスの良い神様とおなりになられました。

その時には、夜の時代に入る寸前でした。ほとんど、日が沈みかけている時でした。

素戔嗚尊様という、神様は日が昇っている時には、主神様を助ける補佐するお働きをされます。

夜になって闇になってしまうと、逆のお働きをなされます。

ですから、征服をされて行かれましたので、『伊都能売神皇様』は、日本を逃れてインドに行かれて、観音様になられました。その時には、夜の時代に完全に入ったのです。

それが、2600年近く前の話なのです。その後、お釈迦様に教えを垂れられました。

 

大国常立尊様と豊雲野尊様

地球創世の時に、国常立尊様は大国常立尊様という神様で、造物主であられたのですね。

それで、妻神様にあたる、豊雲野(とよくもぬ)尊様という神様が、大陸の形を造られまして、そして霊を入れたのが、大国常立尊様と言われています。

豊雲野(とよくもぬ)尊様が何回も生まれ変わっておりますが、稚姫君(わかひめぎみ)尊様、そしてお釈迦様にもお生まれになられました。ですからお釈迦様は土ですが、教えを西から東にグーっと押し返すようなそういう、体の働きを持たれていました。

 

聖徳太子の御事績と善言讃詞

そして、仏教が中国を通って日本に来るわけですが、そして聖徳太子の時代にそれを受けて、仏教を弘通されます。ですから、全部神様がなされているわけです。

日本から観音様になって行かれて、そしてインドから逆に日本に来たのをまた、ご自身で受け止められたのです。

壮大な話で私達にはわかりにくいですね。

その時にお釈迦様は観音様の御存在を全部、観音様からお聞きになられて、今現在のことまで、御存知でしたが、御経綸ですし、邪魔が入りますので、言えなかったのです。

そして、聖徳太子が法隆寺とか七堂伽藍を建立されて残されたこの御事跡と言うのが、実際にはメシヤ様がお出ましになられて、お造りになられた善言讃詞の内容と一致するのです。

ですからこの流れを理解していただくのが良いと思います。

文言を見ていくとちょっと難しいのですが、昼の時代から夜の時代に入ってまた昼の時代になったのですが、今度はそれが逆回転してきております。それで一旦御隠れになられた神様を、我々人間が神様の御手足となって、地上天国を作っていくので、人間が神様をお迎えさせて頂くことを我々が今、取り組ませて頂いているのです。

難しく考えてしまいますと、何をやっているのかわからなくなってしまいますので、メシヤ様を我々がお迎えさせて頂いて、地上天国を建設させて頂くのだという、そしてメシヤ様のお働き、『善を育て悪を滅する』ということで、メシヤ様のお働きで、大峠になって大浄化時代になっていくわけですが、人間も地球も、今まで汚れ切っていましたから、そういう汚れたものが一掃されるということなのです。

我々は神様の御手足としてたくさんの人を救っていくことを担わせて頂けるのです。

有難く浄化もいただいて、一人でも多くの人を御救いさせて頂きたい。たくさんの人に浄霊をさせて頂くのだということを念頭に置いて、あらゆることは、御教えに網羅されておりますので、日々しっかりと研鑽していただき、そして御先祖様を懇ろにお祀りさせていただたいと思います。そういうことを土台にこれから歩ませて頂きたいと思います。

 

教祖祭について

2月10日には、教祖祭が控えております。そして愈々3月3日はメシヤ降誕本祝典です。

昨日お詫びさせて頂き、今日を迎えさせて頂きましたけども、これで終わりではなくて今日からですね、ここからが始まりと受け止めて頂いて、二度と我々は神様を閉じ込めないとの決意を持って、気を引き締めて3月3日向かって、一丸となって、まだまだ学ぶことはたくさんありますし、本当に心からメシヤ様に真向かわせて頂いて、一歩一歩共に前進させて頂きたいなと思いますので、どうかよろしくお願いいたします。

教祖祭も各拠点では、朝11時から礼拝いたしますが、御参拝出来ない方もみなさんメシヤ様に対して、再度64年前に押し込めてしまったという我々の罪と、そのことによってメシヤ様の御命を縮めてしまったこと、これも人間が神様を拒否して受け入れなかったことが原因ですので、そこをしっかりとお詫び申し上げた上で、改めてメシヤ様の御手足とならせて頂くことを、お誓い申し上げて、お祈りしていただけたらと思います。どうかよろしくお願いいたします。

 

何か、補足ありましたら…。

 

「自分達の心の中に神がいない」という罪

原田代行

昨日は9つの罪をお詫びし、楳木代表から御教示頂いた、5項目についてもお詫び申しあげました。

それらの罪に共通していることが「自分達の心の中に神がいない」ということです。

神がいないということはどういうことかと言いますと、それは、観音様の慈悲の心を持っていないということです。

ですから慈悲の心を持ってこれから御神業に臨ませて頂くことが、観音様の御心を自分たちが頂いて、御神業を進めていくということですから、だから『日と月』の御教えも学んで、自分が引く事によって、人が引き寄せられてくるのだと学ばせて頂いておりますので、自分たちの心の中に神の存在はどうか。ということを考えて、慈悲の心をどれだけ大きく自分が膨らませることができるかということを心に入れて、家族にもそういうことで日常生活も修行の場にするという、鍛錬の場とするという言葉を頂いておりますけども、家族に対してもどれだけ寛容になれるのか、誰に対してもどれだけ寛容になれるのかということを、これから特に自分はどうなのかということを見て、日々の生活、また御神業にですね、取り入れて言っていただければと思います。そのことだけ一つここでお願いさせていただいて終わらせて頂きます。

 

「自分が正しい」という間違いに気づく

菅谷代行

ありがとうございます。

今のお話で思ったのは三千年前に神様を押し込めた時、神様は善一方で、人間たちは神様に対してやってられないなと。その考えついていけない、自分たちが正しいという思いで、押し込めてしまったはずなのです。

今の原田代行の話というのは、結局そのことなのです。

我々が日々生活御神業させて頂く中でも、人間関係でも会社でもどこにいても、意見の対立は多々あると思います。家族間でもそうですし、夫婦間というのは大抵どこでもありますね。その時に相手を認めるということですね。相手の意見を認めるということは非常に大事なことなのですね。完全に受け入れられない内容もあるかと思います。しかし、一旦聞き入れるという姿勢がどうしても大事になると思いますし、その上でこういう案があると、しかし自分はこう思っているのだと。両方合わせて良い意見を見出して進んでいくと、そういうことかなと思うのです

それが、いづのめであり、観音行に繋がって行くのではないかなと思います。

ですから、これはもう間違っているとバサッとやってしまったらそのあともう何もないわけですので…。

そもそも我々はみんな間違っておりますので、ただ御教えを頂いていく中で、そのような判断がついていきますので、間違いに気づくわけですが、ただ、自分自身に返して考えてみることが非常に大事になってきます。

誰かが、バッサリと怒られるとするじゃないですか、それを見ていて“あああいつ起こられて当然だなと。そういうやつだよ。”と思うのか、“自分自身も同じものをもっているのだ自分も怒られているのだ”と思うのか。

他人事ではなく自分のことに置き替えて反省させて頂いて、そしてともに進ませて頂く。

こういう姿勢というのが大事になってくるのではないかなと。思わせて頂いております。

ですから昨年から御垂示も頂いておりますけども、その中でも大変厳しく怒られたりすることが多々あるのです。

しかし、それは怒られた人だけの問題ではないのです。全く自分も同じ人間でありますから、その人が身をもって怒られてくれているとも言えますので、ですからその人を見るときにも、良いことも悪いことも、自分自身も顧みながら、お互いに協調しあって、進んでいけたらと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

ありがとうございました。

 

[メシヤ講座no.203本部 2018(平成30)年2月4日]