メシヤ講座no.127浜松(平成23年8月)

<今月の御教え>

『文明の創造』総篇 救い主と贖罪主 (文創 昭和二十七年)

 

【メシヤ講座 浜松支部】

楳木代表

それでは改めまして、月次祭おめでとうございます。

御論文を拝読して心に留めたいこと本日拝読していただいた御論文『救い主と贖罪主』で、特に心に留めておいていただきたいことを先に話しておきたいと思います。

いつもお話している通り、私は中学2年生の4月半ばからメシヤ様の御論文を真剣に拝読するようになりました。

拝読を続ける中で、中学生の頃の一番の疑問は何かというと、神様という御存在は、ここに書かれている通り、『愛と慈悲の権化であり乍(なが)ら悪人を作ってをいて罪を犯させ、それを罰するといふのは大いに矛盾してゐるのではないか』 ということでした。“それだったら最初から悪を作らなければよかったのではないか”という思いが、純粋な若い時にはあったのです。それに対する答えが実は今までの宗教にはなかった。解答はなかった訳ですね。それをメシヤ様が解説してくださっています。

その事に大変な感動を覚えて、“この教えこそ真理を開示してくださるのだろう”ということで、それから益々御教えをずっと拝読していったという経過があります。

とりわけですね、7行目くらいから『“一体神や仏は愛と慈悲の権化であり乍(なが)ら悪人を作ってをいて罪を犯させ、それを罰するといふのは大いに矛盾してゐるではないか。それならいっそ最初から悪など造ってをかなければ、罰を当てる必要もないから、それこそ真の神の愛ではないか”といふのである。成程此(この)質問は尤(もっとも)千万(せんばん)で一言もないが、実をいふと私にしても同様の考へ方であるから、其(その)都度私は斯(こ)う答へる。”成程それには違ひないが、元々私が悪を作ったのでないから、私には説明は出来ない。つまり神様が何かの訳があって悪を作られたのであるから、何(いずれ)神様はそれに就(つい)ての、根本的理由をお示しになるかに違いないから、それ迄待つより仕方がない“と曰(い)ったものである。』とあります。これがメシヤ様の御心境であったということですね。だから純粋なひとの心境とメシヤ様の御心境とは共通しているものがあります。

そして、その次に『処が愈々(いよいよ)其(その)時は来たので神は其(その)事を詳しく啓示されたので、私は喜びに堪(た)へないのである』とあります。

ここに『啓示された』 というのは、メシヤ様には昭和元年からずっと主神様から御啓示を受けていらっしゃいます。その御啓示の中にその内容があったので喜びに堪えなかったのであるとお書きになっています。

しかし、それを時々御講話や御論文の中に内容をお書きになっていますが、今回のように『文明の創造』として統括的にお書きになったというのは何故かというと、この昭和27年頃に言論の自由が保障されたということですね。第二次世界大戦が終了して、信教の自由が保障されて、さらに言論の自由も。もう何を言っても問題が起きないだろうということで、愈々という御心境でメシや様が論立てをされたのが、昭和27年であったというように解釈しておいたらいいのではないのかな、と思います。この点をマーカーなり、線なり引いて、繰返し拝読して、自分の肚の中に入れておいていただきたいと思います。

『そうして右と同様の疑問を有(も)ってゐる人も多数あるであろうから、之を読んだなら、暗夜に燈火を得た如く豁然(かつぜん)と眼を開くのは勿論(もちろん)であらう』とあります。私は中学2年生の時に豁然(かつぜん)と眼を開くことができたのです。御教え拝読をしたお蔭で・・・。

そして『では何故今迄の宗教開祖の悉(ことごと)くが悪を非難したかといふと、曩(さき)にも詳しくかいた如く、或(ある)期間悪が必要であったから其(その)深い意味を主神は知らさなかったのである。』ということですから、主神様が知らせなかったために悪の発生原因などが、それぞれの聖者や教祖というのはわからなかったということです。

 

浄霊が絶対力であるという所以(ゆえん)

楳木代表

次の段落に『処が愈々(いよいよ)悪の期限が来たので、主神の直接的力の発揮となった事で、茲(ここ)に私といふ人間を選び、善と悪の根本義を開示されたのである。それといふのは今迄の各宗開祖は力が足りなかった。』とあります。だから、メシヤ様が主神様から御啓示をいただいて、いただくと同時に絶対力を授かった訳です。

これは一般的な宗教の開祖と同じなのですが、御啓示をいただくと同時に力を授かるのです。啓示が降る神格に相応して、力が出てくるので、今までの教祖という人たちの神格は最高位でないので、力があまり強くなかった訳です。

しかし、メシヤ様は主神様からの御啓示だったので絶対力をその時点で授かったという訳ですね。この御啓示を受けた時から、メシヤ様の腹の中に光の玉が宿ったということです。そして、その光の玉から我々に霊線を通して、浄霊力を授けてくださったということですね。そして更に、昭和25年の6月15日にその光の玉に『みくらたなの神様』という御存在が宿ったために、『メシヤ』という御存在になれたということです。だから、そのメシヤ様という御存在を認識することが、より明確になるごとに我々の浄霊力が更に強化されていくのだ、という点において、この点は非常に大事なことだと思います。

それで、イエス・キリストついては『つまり万人(ばんにん)の罪を一身に引受け、主神に謝罪をし、赦(ゆる)しを乞ふ役目である。早くいえば万人(ばんにん)の代理者であり、赦(ゆる)される側の神で、赦(ゆる)す方の神ではなかった。其(その)為罪の代償として十字架に懸(かか)ったのである』ということですね。それで、イエスキリストが十字架に懸(か)けられたときに、どのようにして懸(か)けられたのかは、いろいろな映画でだいたいみてきたと思いますが、その描写を言える人はいますか・・・?

最初十字架を背負って丘に上がっていくでしょ。それも鞭で打たれながら、くたくたになりながら、よろよろと大きな木を担いで登っていって、その十字架の上にのせられて、掌に大きな杭を打ち込まれるわけです。その痛みだけでも大変なことでしょう。両手に杭を打ち込まれて次に足首に杭を打ち込まれて、それでその十字架を立てられたらどうなるかというと、体の重みで裂けていって、裂けてしまわないから止まるのですが、これがイエス・キリストの最期の御姿で大変お気の毒なのですが、これが人類の代理者として罪を主神様にお詫びしたということですから・・・。

このお詫びする内容は一体何かというと、これは『文明の創造』 の前半に出てくる禁断の木の実に手を出してしまったということです。これが人類最初の薬を手にして、その薬を手にしたことによって悪が発生して、悪がずっと今日まで来たということが一つと、それからもう一つは『文明の創造』 でこれから12月に出てくる場所ですが、12月にみなさんにお渡しする『文明の創造(三)』 のところですが、素盞鳴尊が日本に押し寄せてきます。日本という聖域を制覇したいというのが世界の権力者の願いでありますので、武力をもって制覇してきましたが、伊都能売神皇は絶対平和主義だったのでひそかに日本を出てインドの補陀落山(ほだらかさん)に辿りついて、その山上に結跏趺臥しておられるところにお釈迦様がたずねていって、教えを請う事によってお釈迦様は段々悟りを開いて仏教というものを開いたのです。そうした一連のことも、人類の代表としてお詫びをしたということです。それが十字架の型です。

しかし、キリスト教の信者さんたちはそこまでを知りませんので、我々メシヤ様の御教えを拝読した人間しか、この主神様の御経綸というのは理解できていないのです。キリスト教を一生懸命勉強しても、そこまでは理解することができないのです。だから我々は大変なことを知らされているということです。

で、次は仏教になりますが『“吾七十二歳にして見真実を得た”と曰(い)はれた通り』というところから『法滅尽経であり、彌勒(みろく)出現成就経であり、法華経二十八品(ぼん)』の御記述。ここの部分が仏教のなかで真理の部分だというふうにお釈迦様が告白をしていったということです。実は○○先生が『文明の創造』 を英訳して世に出しました、そのときに実はキリスト教側と仏教側から註文を受けて、この部分は削除せざるを得なかったところです。だから『文明の創造』 はそういう意味からすると、まだ世に出ていないのです。それから禁断の木の実の部分もキリスト教側から削除するように言われて削除して出していますから、『文明の創造』は真に世に出たということには、まだなっていません。『岡田茂吉全集』によって、この『文明の創造』の部分は世に出ていますので、『文明の創造』はそういう意味では出ていったということにはなりますが、きちんと『文明の創造』 を仕上げた形で世に出たということにはならないので、今、我々がメシヤ教をとおしてこの『文明の創造』 を世に出そうとしているのです。そういうふうに繋いで解釈していただけると有難いと思います。

そして、最後のところになりますと、もう一度『主神は深奥なる真理を愈々(いよいよ)開示される事となった。此(この)著に説く処明快にして些かの疑点なく、何人も容易に真理を掴み得るのである。そうして今迄強大なる悪の力が一切を九分九厘迄掌握し、後一厘といふ間際(まぎわ)に来て、意外にも茲(ここ)に一厘の力が現はれ、邪神の謀略を一挙に覆(くつが)へすのである。』ということでありますので、メシヤ様が我々に揮ってくださっているのは『一厘の力』ということでもあるのです。その認識を強めていけば強めていくほど、私たちの浄霊力はさらに強まっていきます。

 

医学を是正するのが御神業

それから、さらに2行下になると『即ち九分九厘の悪とは現代医学であって、之も曩(さき)にかいた通り必要悪であるから、今迄はそれでよかったのである。然(しか)し其(その)結果として人間の最大貴重な生命を完全に握って了(しま)った。若(も)し医学が誤ってゐるとすれば、生命の危険は言語に絶するといってもいいであらう。之程世界人類から固く信じられてゐる医学を是正するのであるから、容易な業でない事は言う迄もない。』 とあります。

だから医学を是正しなければ、御神業になっていかないわけですね。

今、箱根を管理している教団が医学の言いなりになっています。是正するどころか、大変な状態になっていると判断せざるを得ないと言えますので、医学を是正するということが我々の御神業の中心になっていくのだというように受け止めていただいて、今後とも一層御神業に臨んでいただきたいと思います。

医学を是正するということは医学を否定することではありません。医学が解明してくること、あるいは、今たくさんの新しい薬ができてきていますけれど、薬理学が解明してきたもの、それから人体のいわゆる生理学とか、様々な人体のしくみを解明している学問が発表するものは、非常に貴重なものがあります。それらを御教えに沿って解釈すると共に、医学の考え方を是正するということです。

医学を是正するということにおいて、日本のことを考えてみると、まず一点は日本の医療は延命治療だということです。延命治療ということと、もうひとつは対症療法だということです。これが真の医療にはなっていかない根本原因があります。それは何故かというと、いつもお話していて、今回も載せてある、血圧の解釈の部分です。せっかく血圧降下剤のしくみがわかったにもかかわらず、降下剤だけを使うという手法で治療に当っていくから、降下剤を投与すればする程、腎臓は弱まっていって、腎臓が弱まっていくと次は利尿剤を使っていかなくてはならなくなります。

そして利尿剤を使っていくと、腎臓はさらにクタクタになってしまうので、次は透析を受けなくてはいけなくなってしまいます。透析を受け始めると、生涯透析を受け続けなくてはいけないということになっていきますので、人体を真に健康にしていくということには繋がらなくて、これがいわゆる対症療法によって延命を続けていくという、今の日本の現代医療だということです。

ここを是正しない限り、日本人を始め、世界人類が健康になるということができませんよ、ということをメシヤ様は我々に教えてくださっていますので、そこのところを今回の御教えを拝読する中で、何回も何回も確認しておいていただければ有難いと思います。そういうことをお願いをさせていただいて、質疑応答に入りたいと思います。

今日のところは全部を読んでないと結構難しいところがあると思いますが、これから外国人の方々やキリスト教圏の方々と付き合うときに、慎重に話していかなくてはいけない部分なので大変だと思います。

 

御教えを中心にしていると浄化してくる

参加者

話は変わりますが、聖書と御教えを一緒に開いて、訳してみようかなと思ってやってみると肩が重くなって、気持ちが悪くなってできなくなってしまうのですが、それはどうしたら良いでしょうか。

楳木代表

それはまず御教えを中心にしていると浄化してくるので、光をいただきすぎていると解釈してください。そのときにはしばらく休憩して、時間をおいてからやったら良いです。

参加者

2・3日調子が悪くなるのですが。治ってからで良いですか。

楳木代表

(頷かれてから)それから無理に聖書と結びつけようとすると、解釈の違いが出てくるので、できるだけ御教えに沿って英訳をして、どうしても言葉が足りない時にだけ聖書を見るという感じで対応したほうが良いと思います。先ほどの信楽焼と備前焼との関係(祭典前に話されたこと)で、時々向こう側が気に入らないことが起きるから。要するに、もうトップは主神様の御教えを理解しているけれど、その下の人たちの執着がまだあるのです。自分達こそ最高神をお祈りしているのだと。それは△△さんのところにある文章にも書いてあるでしょ。聞いたことないかな?要するに、乙姫はお詫びをして改心したけれど、乙姫の手下たちがまだ執着を持って悟りを開いてない為に、その者たちがまだうごめいている為に、日本をよからぬ方向へ引っ張ろうとする部分が残っていると。そういう解釈と共通しています。その点は・・・。

 

メシヤ講座・特選集 (No.52 平成17年5月分)より

<神界通信>

昨年6月元伊勢へ参拝した折に、日室嶽(ひむろだけ)遥拝處で不思議な感懐をもちました。「禁足の聖地である。」「一願成就の信仰が強い。」「夏至の日、太陽が頂上に沈む」という表記がされており、元伊勢の本社はこちらだと思いました。しかも御陵であると感じました。神宮関係者も謂れを知らず、今日まで確かめることも叶わずにいましたが、伊都能売神皇様から『間違いない。しかし、今日まで世に知らしめると危険であった』とご教授いただきました。

 

また、平成12年9月16日に神上がられた乙姫様について『神格をはずされた状態だが、執念は残っている』と、ご教授いただきました。そのことにより、昨今の内外の情勢についての因果関係が明らかになりました。しかも、私達の因縁の正体もそれぞれの執念であるとのこと。

 

この点については、カナメ神宮(静岡県引佐町奥山)の村松神息宮司との4時間に及ぶ会談でも同様のことが話題に上がりました。昭和40年マスコミに大きく取り上げられましたが、その後も‘因縁切り’法の修行に取り組まれ、「因縁の元は魂の執念」であることを強調されていました。

霊界の修行は我と執着を取ることが第一義であるとする御教えに合致しており、この時期に強く認識させられました。

この会談で日本近代の皇室に関わる裏面史も知ることができましたが、ここに記述することは時期が来るまではできません。

 

さらに地域に光をいただけるように

楳木代表

だからより光を我々が間配っていくということが大事なので、そのために週に一回支部へ来て、御神前で光を燦々といただいて自宅へ帰る。その光を地域へ間配るという方向でね。将来、ご主人の了解を得たら、我が家にも御神体をいただくと良いです。そして、そこで光を、さらに地域に光をいただけるようにしていくと・・・。そういうことを目指して生活をさせていただくということがそういういわゆる眷属たちを改心させるための力をどんどんまくばられていかないと改心できないのでね、そのように願ってしてください。子どもさんのおかげでここに来るようになって、実は自分自身が本来の役割を担えるようになってきているから、ここに来たときと顔立ちが変わってきています。自分の顔を鏡でみると、顔が変わったと思うようになったでしょう。

参加者

変わったと思いますが、時々またイライラしてしまいます。家にいるとみんなイライラしてしまいます。

楳木代表

それだけにね。神床がありますか?床はありますか?

参加者

あります。

楳木代表

2階にありますか?

参加者

1階です。

楳木代表

その上に部屋はありますか?

参加者

あります。

楳木代表

そうすると、そのお床には御神体を御奉斎することはできないので、やっぱり二階に御神体を御奉斎するとなると、御額の御神体とかになるので、そういう小さい御神体をいただいて、そういう罪穢れの多い地域に光が燦々といただけるようなことを目指してもらいたいと思います。

ご主人との話し合いをしながら、御神体をいただけるように目指していただきたいと思います。地域を浄めるというよりも、お家柄そういう恨みとかそういうものが悶々としている。その地域は光でしか改心できないから。「そんなことではいかん」という説教では改心できないから、光によって救ってあげるしかないのです。その地域を。そのためには御神体にお参りをして、祝詞を響かせることによって、その地域が浄まっていくのです。それがそこでまだ執着をもっている人たちが救われていくということに繋がっていきますので、是非そういうところを目指してください。

参加者

後から土地を買ってきた人は良いのですが、ずっとその土地に住んでいる人にわざわいが多いような気がします。

楳木代表

そうだね。だから○○さんが取り組んでいけば、その地域は救われていくと思います。

 

御教えと聖書の置き方

参加者

キリスト教の聖書と御教えを一緒に置いているのですが、別に置いたほうが良いですか?

楳木代表

家に帰ったらバックから出してちゃんと書棚に置いて。あるいはデスクの上に。そのときには御教えの方を高く置くようにして。その位はなぜかと言うと、メシヤ様は主神様から御啓示をいただいたということなので、そして力を直接授かったから神格は上だというふうに解釈をして、そして格差をつけてもらいたいと思います。そういうことでお願いします。

 

目の浄化

参加者

私の浄化ですが、右目が白内障、左目が視神経の萎縮であると易学の方から言われました。治療よりも御浄霊をいただくようにしているのですが、家族全員が○○○○教団で、私と長男が浄霊力拝受させていただきました。長男に浄霊を取り次いでもらうと気持ちがとてもおだやかになりまして、全体の視野が何となく白っぽくなります。見えないということがあるのでかなりイライラしてしまい、いろいろなことに当ってしまうことがあります。長男に浄霊を取り次いでもらうと、左目だけがかなり痛くなり、激痛でとてもいられないくらいです。あと側頭部から耳の後ろを通って、首すじと肩の交わるところ、肩甲骨の下がとても痛くて、普段もチクチクしています。関連がよくわからないのですが、御浄霊をどのように取り次いでもらえば良いでしょうか?

楳木代表

痛いところに毒素が下りていくので、そっちを先に浄霊したほうが良いですね。しかもその降りていく経路は腎臓まで下りていくので、腎臓を浄霊して、その痛む場所をご長男に教えておいてそこを浄霊して、目を浄霊する。そしてまた、今の順序で浄霊をします。例えば一時間浄霊する場合、目だけを一時間しないで、腎臓をして、胸とか首とか肩とか痛いところをして、後ろ頭をして、目をする。という順番で浄霊をすると良いと思います。

参加者

次男は手に感じるので、感覚的に浄霊をしてくれますが。

楳木代表

基本的には自分の毒素が腎臓におりるように自己浄霊を徹底するということが大事です。次男さんも親のことを思って浄霊をしてくれているのであって、だからそれはしてもらうときにも、自分が先によく腎臓を浄霊しておいて、それから浄霊をしていただけば、下りるルートができるので、だから下りるルートを確保してから浄霊をしてもらう、と。そのようにしてください。

参加者

浄霊をいただけるだけでもありがたいと思います。

楳木代表

そっちの気持ちのほうを膨らませていくと。“何でこの子は浄霊力伝授していただかないのだろう”というような気持ちを持たないように。できればメシヤ様からの浄霊という認識が強まったほうが良いですが、それに越したことはないですが、そこまでは理解できない状態でいるので、そこに曇りが発生するような材料を持たないというのは非常に大事です。だからどこまでも自分が毒素の下りる経路を確保するようにきちんと浄霊をしておいて、それで浄霊をしてくれるのであれば目をしてもらうというようにしていったら良いですね。

参加者

背中の辺りがとにかく痛いのですが。

楳木代表

それは腎臓の働きがまだ弱いので、肩から下へ下ろすことができていません。腎臓も位置を確定することはできないので、前からするときには、胃のところから鼠蹊部の間のお臍の両側をよく浄霊してください。そうすれば、この中に走っている大動脈、大静脈も浄霊しつつ、腎臓も浄霊できますので。これが大事ですので。

どうしても視神経を毒素が圧迫すると見えにくくなりますので。その圧迫する毒素を絶えず下に下ろすようにしておかないとね。

参加者

浄霊を続けていこうと思います。時間はかかるかもしれませんが。

楳木代表

当然かかります。視神経というのは、赤ちゃんが産まれてくるときに、一番最後にできてくるところが視神経なのですね。何故最後なのかというと、肉体が完成した状態のときにしかできてこないということなのです。

だから体がいつも健康を維持していかないといけないということが一方ではありますので、体が健康を維持するための一番根本は腎臓ですので、腎臓をやはりよくしておかなくてはいけないということですね。

 

神社のお参り

参加者

神社にお参りをするときに、天津祝詞を奏上したときには二礼二拍手で良いでしょうか?

楳木代表

それで良いですよ。

参加者

ご神名はどのように言ったら良いですか?

楳木代表

その神社に書いてあれば、看板とか立て札にご神名が書いてあれば、そのご神名の中の一番高位のご神名を唱えれば良いです。三柱とか書かれている場合。看板とかがなければ『産土(うぶすな)之大神守り給へ幸倍給へ』と唱えてから、今日お参りにきた理由をお参りして、『惟神霊幸倍坐せ』と言っていただければ良いです。

参加者

産土の神というのは個人個人それぞれ違うところだと思いますが、それはどうやって・・・・・。

楳木代表

大体、自分の生まれたところが。生まれたときに誰と誰のもとに何年何月何日にこういう者を生まれさせるという会議を産土之大神方が決めて、そして生まれてくるのだから、その出てきた土地の氏神様が自分の最初の氏神様になります。

参加者

自分の産土の神社をさがしてくれるという霊能者がいるのですが、その方によると解釈が違うとのことですが。

楳木代表

何のために探すのですか。

参加者

産土の神様は一日何回も見回りしてくださっているので、御礼をしなくてはいけないので、探すという事です。

 

月次祭の参拝

楳木代表

現在住んでいるところの氏神様が自分の氏神様です。だからその神様で良いのです。探す必要はないです。霊能者で探すのは、別の霊統を探すはずなのでね。氏神様とあまり関係のない霊統になってしまうので、どこまでも氏神様は自分が今住んでいるところが主体の氏神様です。そのように解釈していったほうが良いと思います。

それで先ほどのように、月次祭でお参りしている時に祝詞をよく聞いていると、主神様に対する祝詞ではないように聞こえてくるでしょう。『祓戸大神等諸々の枉事罪穢を祓ひ給へ淨め賜へと申す事の由を』とあるでしょう。そうしたときに自分達はどういう想念を以って神様に真向かうべきかということになってきます。そうすると、そのときにいろいろな過去霊能者たちがずっとメシヤ様のもとにみんなが額づいていくということを霊能者たちが見た過去がいっぱいあるのです。

それを延長線上に解釈すれば良いのです。参拝する時に認識すべきことは・・・、主神様という御存在が181段の一番上に御鎮まりになっていてすべてを主宰してくださっているわけなので、そのまえに神々が位に応じてずっと並んでくださる訳です。その配下のなかに祓戸の四柱の大神様がいらっしゃるのです。その祓戸の神に向かって『祓ひ給へ淨め賜へと申す事の由を』と。主神様に手を合わせているのだけれど、その配下の祓戸の大神様に『祓い給へ淨め賜へと申す事の由を』と唱えて祓い淨めていただくのです。その祓い淨められたところから、メシヤ様の御作りになられた善言讃詞を『敬しく惟るに…』と奏上させていただくと、そういう段階になってくるのです。祝詞のあげ方というのはそういうことです。

だから、主神様の御前でお参りすると、その時点でこの支部に関わる氏神様たちも整然と並んでいるということです。だからこの月次祭はいかにありがたいかというと、氏神様たちはその前に、見た目には御神前が一間しか見えないけれど、実は霊的には広い御神前の中に整然と神々が並んで、一番後ろの一番高いところに主神様がいらっしゃるというイメージでお参りすれば。そういう気持ちを広めていくと、月次祭の前日には氏神様にご挨拶に行って「明日は主神様をおまつりしている浜松支部というところに行ってまいりますので、よろしくお願いします。」とご挨拶を

すると、ベストな月次祭の参拝になるということですね。

そして、当日の朝は仏壇にお参りして「今日、主神様をおまつりしているところにお参りに行きますので、共々ご参拝ください。」というようにしてからここに来ると、ここへ来た時に自分の中で、想念の中で霊界がきちんとできたうえでご参拝ができるということです。

そして、先達はそういうことをきちっと思ってお参りをしているので、いくら冷房をかけても体の表面は涼しいけれど、体の中からカッと暑くなります。それは、魂に直接光が入ってくるので、カッカ、カッカとしてくるのです。そういうようにして霊界のイメージ作りを重ねてください。

時間が過ぎましたので終わらせていただきたいと思います。ありがとうございました。

 

[メシヤ講座no.127 浜松支部 2011(平成23)年8月]