メシヤ講座no.102日月地 (平成21年7月その1)

楳木先生への質疑応答5〜真実と真如

 

質問者  このブログを始めてから、いろいろな方からブログの感想を頂く事が多くなりました。そのような中で、前々回の「世界救世教三派について」を読んで、「真実の核心に触れていますね」という意見もあれば、前回の「宗教というもの」が最もわかりやすかったという意見もあるのが興味深かったのですが。

 

楳木先生  実際は、本部での話の核心は、「メシヤ様の御神格」と「世界救世教三派について」で語られており、前回の「宗教というもの」は、真実を語った後の、雑話の様なものでしょう。

 

質問者  それが、そうとも言えない様なのです。「メシヤ様」「神様」という表現よりも、前回楳木先生がおっしゃった「宇宙意志」の方が理解しやすいという意見が意外と多いのには驚きました。

 

楳木先生  そうした一般論的な表現が受け入れやすいということでしょうか。このブログを読んで三重支部では、「宇宙意志」ということに触れたメシヤ様の御教えを随分と調べてくれました。これは、所謂当時の高学歴の人や知識人に主神様の御経綸を示されたものと拝することができます。「メシヤ講座・三重」7月分でその内容が紹介されると思いますので、参照していただけると有り難いです。それが意外と多いのです。メシヤ様は『宗教臭くない表現』を用いられ、信者でない方々にも理解できるように苦心された跡が偲ばれます。そうしたこともあり、当時メシヤ様のもとに著名人が集ってきた、ということも言えると思います。

 

しかしながら、メシヤ様は『もしこの問題を説く人があるとすれば、それは人智から生まれた想像の範囲内であって、それ以外一歩も出ないのである。処がそれを私は茲(ここ)に解説しようとするのであるから仲々大変ではあるが、といって私の想像的所産ではなく、神示によるものであるから別段難くはないのである。というのは時期来たって地上天国建設の大任を負わされた私としては、ある程度主神の真意が感得されるからで、読者はこの点よく心に止めて読んで貰いたいのである。』とも述べられて主神様の御経綸であることを確認されています。このお言葉から、どなたにでも理解できる表現を心掛けられると共に、真実の「宇宙意志」を示されたものと拝察できます。

 

大所高所から論じられていることに驚かされます。今、皆既日食(今月22日)を目指して様々なイベントが目白押しですが、月の400百倍の大きさの太陽の位置が地球と月の距離の400倍の距離だからこそ成り立つ、という事が絶対的な存在としてあります。よく「皆既日食を目の当たりにすると、人生観が変わる」と言われます。その背景には寸分違わぬ絶対のものを否定することが出来ず、絶対的な存在を感じずにはいられないからではないでしょう。その絶対的存在に対して「宇宙意志」というと、私達が御力の根源を認識し、御力をいただくためには漠然としており抽象的過ぎるところがありますね。

 

質問者   私個人としては、「宇宙意志」では、漠然とし過ぎていて理解出来ません。「神様」の方がすっと入ってくる。そして、「メシヤ様」となると、お姿、歩き方、話し方まで浮かんで来ますので、これ以上具体的にイメージ出来る存在はないぐらいです。例えば、浄霊をお取り次ぎしている時、ふとメシヤ様のお姿を思い浮かべるだけで、その瞬間、言葉では何も伝えていないのに、浄霊を受けている方が「熱くなって来た」とおっしゃる事もある。

 

楳木先生  メシヤ様は、ほんの54年前まではこの世に人間として生きていらっしゃったお方であり、写真も映像も多数残っていますからね。キリスト様もお釈迦様も、実際にいらっしゃったお方ですが、肖像画や仏像から実際の人間の姿を一つの共通のイメージとして浮かべる事は出来ないでしょう。だから、人の数だけキリスト像、釈迦像が出来てしまう訳ですが、メシヤ様はそうではない。

 

質問者   神様が人間に宿られたのがメシヤ様なのですから、「宇宙意志」「神様」をより具体的にイメージ出来るのがメシヤ様です。浄霊という素晴らしい御神力を人類に与えられただけでなく、自然農法を世に提唱され、薬毒を説かれ、数限りない奇蹟を起こされているにもかかわらず、未だにメシヤ様の御神格がどうのこうのだの論ずる事自体が大変失礼な事だと思います。素直に神様と信じれば良いのにと思うのですが。

 

楳木先生  そこなのです。メシヤ様の御神格を認めるよりも、「宇宙意志」といった漠然としたものを信じる人間の傾向こそが、前にも質疑応答でお答えした、「メシヤ様を世に出したくない」夜の時代の象徴的な働きなのです。何事も素直に認めたがらない、メシヤ様を世に出す事を阻む働きが、学問を通して覆いかぶさっているからそうなるのです。

 

質問者  明確な真実よりも、難解な理屈の方が好まれるというのも夜の時代の働きでしょうか。何事もはっきりとさせない、すぐにぼかす、真実が出ようとするとかわすといった働きを、日々の細かい出来事からも感じるのですけど。

 

楳木先生  そうです。夜の時代は、「真実」ではなく「真如」、即ち、真理の如きものであって真理ではないのです。真理が現れるまでの、仮定的、第二義的のものであるから、難解なものや、明瞭さを欠いたものの方が有り難く感じられる、そういった「癖」が人間に

残っているから、何事も曖昧になってしまうのです。

 

質問者  曖昧にした方が楽です。はっきり結論が出てしまうと、それを実践しなければならなくなる。そこがわからないままだと、容易に断れるのですから。どれ程御浄霊の奇蹟を見せられても、何だかんだと理屈をつけて「奇蹟」と信じない。他の原因を考える。だから、すっと御浄霊に頼らず、自力で何とかしようとしたり、医学に頼ったりする。これは、物凄く勿体ない事だと思います。

 

楳木先生  浄霊だとわからないのに、ヒーリングだとわかるという方が多いのもそういった事でしょう。神様の御力で治して頂くというはっきりした事実よりも、自然治癒力といった漠然とした言葉の方が一般的ですしね。どうしても、「わからないから有り難い」という価値観が捨てきれないのです。お経にしたって、あれが何を意味しているのかよくわからないでしょう。それを、有り難がって聞いたり唱えたりしている。例えば、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経にしても「南無」の意味を知らないで唱えている人が多いですね。「南無」はインド語に対する当て字です。意味は「帰依する」です。ですから、「阿弥陀仏に帰依します」「妙法蓮華経に帰依します」と唱えている訳です。しかし、そうした自覚を以って唱えている方が幾人いらっしゃるでしょうか。ほとんどメロディのように耳に入り、そして口ずさんでいるのではないでしょうか。ある生臭坊主からお経の上げ方を教えてもらったことがあります。「何でも良いから文章をさかさまに読んで節を付ければお経になるよ」というものでした。言い得て妙なものでした。

 

また、天津祝詞にしても、メシヤ教の天津祝詞奏上は分かりやすいけれども、一般の天津祝詞は、ここまで解り易くないですし、発音もぼかしてあり、神主にしか奏上できないものになっています。私は、布教師の駆け出しの頃、祝詞奏上について信者さん方から色々小言を言われたことがあります。「神社の神官のように何を唱えているか判らないように上げた方が有り難味がある」とか「声を低く上げてほしい」とか言われまして、随分と悩みました。そんな時、メシヤ様が夢枕にお立ちになって、御自ら天津祝詞を奏上してくださったのです。“今までの在り方で間違いないのだ”と思うと共に、絶えずその情景を目指して祝詞を奏上しています。これは、天津祝詞が祓い言葉であるという意味合いが明確に理解されていないために起きている現象です。神様の御前で御力をいただいて言霊を唱えるから祝詞そのものの力が発揮される訳で、浄めていただけるのです。何か挨拶のように捉えている人が意外と多いと思います。祓い言葉ですので

ハッキリと明確に奏上しなければ本来の意味をなさないのです。意味が判ると、仰る通りに姿勢を正さなければなりません。

 

質問者   わかるという事を恐れる傾向を感じます。メシヤ様が神様であるとわかってしまうと、成すべき事はかなり限定されて来ます。それが恐いから、ぼかしたままにしておいて、自分も、人生の目的を絞り込まない。これが自由だと勘違いしているのではないで

しょうか。

 

[メシヤ教浜松支部にて 2009(平成21)年7月12日]