メシヤ講座no.100日月地(平成21年5月その1)

楳木先生への質疑応答2〜メシヤ様の御神格

 

質問者 本日は、メシヤ様の御神格について様々な解釈が生まれてしまっている事についてお話を御伺いします。これは、私の勝手な解釈である事をお断りした上で申し上げるのですが、二代様は、奥様と言う立場にいらっしゃったという事もあり、人間としての、岡田茂吉教祖の部分を知り過ぎていたが故に、灯台元暗しとでも申しますか、実際に、メシヤ様の御神格を理解するに至らなかったのではないかと思われるのですが。また、人間「岡田茂吉」としてのメシヤ様のお話を、いろいろな方にされたとも思うのですけど。

 

楳木先生 二代様は、信仰の形態がまだ出来ていないという風に感じられて、メシヤ様の御昇天後、それを整えられようとしたのです。この、形態が整っていなかったという事は正しいのですが、その整え方が間違っていたという風に解釈せざるを得ないのです。それが、

今回の事と非常につながっているというのは、メシヤ様が発表された「世界救世(メシヤ)教教義」を拝読してみると、これは、それまでの「日本観音教団教義」、「五六七教教義」と比較してまとめ方に格段の差が見られます。本来、それを基にして教団作りをしていく

予定であった筈なのが、御法難に遭ってしまった為に、結局、信仰の形態を整える事が出来ずじまいになっているのです。それで、そのまま、メシヤ様は御昇天されてしまった。そして、二代様が、それを整えようとした時に、メシヤ様の御神格を認識しないまま、まとめようとしたので、おかしなまとめ方になってしまったという事でしょう。

 

質問者 外側だけが形式的にまとまってしまって、中心に何があるのか、見えないままにまとまっているのがその後の教団の状態だと思うのです。だから、1983年に始まる教団浄化が起こってしまったと思わざるを得ないのですが、実際、この1983年の時点で、メシヤ様の御神格は教団内でどのような位置付けになっていたのでしょうか。

 

楳木先生 どこまでも、「大光明真神(みろくおおみかみ 注:当時のまま表記)」様と、「おしえみおやぬしの神」様という事でしたけれど、何故御神名を二回唱えるのかという事(大光明真神守り給え幸倍賜え 二回奉踊、おしえみおやぬしの神守り給え幸倍賜え 二回奉踊)、この事に疑問を持った人間が一部にはいたのです。しかし、全く疑問を抱かずに「そういうものなのだ」と思っている人達もいる訳で、この時に色々と話し合いをした内容では、「大光明真神守り給え幸倍賜えで一本化すればいいのではないか」と、そういう所迄話がいったのだけれど、結局、それは、話が出ただけで、整えるという所迄は行かなかったのです。

 

質問者 そもそも、おしえみおやぬしの神守り給え幸倍賜えと唱えられ始めたのは何時からなのでしょうか。

 

楳木先生 メシヤ様が御昇天された時からです。

 

質問者 そう唱える事を決められたのは二代様なのでしょうか。

 

楳木先生 それははっきりとはわからないので、二代様時代にそうなったとしか言い様がありません。当時離脱が相次いだので、二代様直筆の御神体を下附し統制を図ろうとした様です。その際に、御神名をどのようにするかを決めたのでしょう。

 

質問者 メシヤ様の御神格というものを考えた時に、この唱え方そのものが、二番手の御神格という風に捉えられてしまいますよね。

 

楳木先生 この御神格という事を考えた時、御昇天祭、人間で言う所謂お葬式を執り行った時に、祭壇が、メシヤ様が願った祭壇とは違った祭壇になっていた。これが決定的であると思うのです。大本教式の祭壇で執り行なった訳だから。メシヤ様が何故大本教を離れられて、世界救世(メシヤ)教というものを開教されたのかという事に、これでは、全くつながっていきません。

 

質問者 そもそもメシヤ様は大本教に入信されて、それからいろいろな事が起こって、昭和9年に大本教を離れられ、翌昭和10年に大日本観音会を設立、その後も、名前を変えながら、昭和25年には世界救世(メシヤ)教を開教されたのにも関わらず、何故、御昇天された昭和30年になってから、大本教式に戻してしまうのかが、今となってはよくわからないのですが。

 

楳木先生 どこまでも大本教は産婆役だったという事なのだから、メシヤ様という御存在を、世に送り出す為の産婆役が大本教だったのだから、そのようにメシヤ様が仰っている以上、それ以上でもなくそれ以下でもないという解釈を持って、二代様が事に当たって下さればよかったのに、という思いで一杯です。

 

質問者 そうなると、メシヤ様御昇天後の世界救世(きゅうせい)教は、世界救世(メシヤ)教とは別の方向に向って行ったとも言えますね。今回のメシヤ講座の中で、「ぼかしてあります」と仰った重要な部分を明確にする事なく、逆に、更にぼかして、より社会的に受け入れられやすい団体に変貌はして行ったのですが、教団が発展すると共に、メシヤ様の御神格を始めとする信仰の核となるべき部分はむしろ奥に押し込められてしまった様な気がするのです。この事に関しては、先生はどのように思われますでしょうか。

 

楳木先生 これは、問題としては、信教の自由が許される前は、民間療法的にやっていた訳です。その頃の信者さん達は、ほんの数百人でした。これが、信教の自由が許されて宗教法人となると同時に、瞬く間に、昭和27年の時点で、30万人から40万人という数字になったのです。僅かの期間でそれだけ大発展するという事の中に、メシヤ様が偉大であるという事、メシヤ様という偉大な存在が一つにあって、それと同時に、メシヤ様を支えた人達がいて大勢の人々を導き、教団としては信者さんを獲得した時に、何がその人達の心の中に起きてくるのか。それに対して、メシヤ様は、先生と呼ばれる様になってからこそ決して慢心しない様ご注意されていらっしゃるのですが、そのご注意が自分の中にどう留まっていったかという事です。

 

質問者 教団の発展と共に、メシヤ様の御教えは、「下座の行」や「裁く勿れ」など、人を裁いたり批判したりしない様にご注意されるものが多くなりますね。これは、御神業は、人間を通して神様が行なうものであるという事を忘れて、ついつい自分がやっている事の様に錯覚してしまう人間の性であるような気がするのですが。

 

楳木先生 これは、絶対の力はメシヤ様という存在から流れてくるのだけれども、中には、神様から流れてくるという事を、その神様の存在を、「メシヤ様以外の神様」という風に認識してしまうと、メシヤ様という御存在が、御神格としてではなく、自分達と一緒に神様から使われている集団の「長」ぐらいの認識になってしまいます。こうなると、信仰の形態が全く別のものになってしまう。

 

質問者 この事は、私も昔からずっと疑問に感じていた事なのです。皆が「明主様」と呼び、御尊影に頭を下げていますけれど、この方は一体どういう存在なのだろうという事。神様なのか、神様ではなく教団の創始者とうだけの存在なのか。とてつもなく偉い御先達なのか。人の姿をした神様そのものなのか。いろいろと模索する中で、「岡田茂吉という御方こそメシヤ様、最高最貴の御神格が宿った御方なのだ」と確信を持って断言出来る様になる迄、随分時間がかかりました。

 

楳木先生 非常に示唆に富む内容としては、「世界救世(メシヤ)教教義」が出来る前に、「日本観音教団教義」と「五六七教教義」という二つの教義があり、この教義の中で、共通しているのは、「主神」という存在です。この「主神様」という御存在があり、「みろくおおみかみ(当時は、五六七大御神、日月地大御神とご表記)」という御存在があり、そしてメシヤ様という御存在があると、自分の心の向け方が何処に行くかという事によって、信仰の形態が変わってきてしまう。

 

質問者 例えば、主神様への信仰を強く持っていて、そして、主神様とメシヤ様を別に考えてしまうと、あろう事か「メシヤ様が主神様に愛されている以上に、自分は主神様から愛されているかも知れない」と思い始める人が出て来てもおかしくはない訳ですね。「メシヤ様と同様に、自分は主神様にお使い頂いている。だから、このように沢山の奇蹟が起こせるのだ」と。

 

楳木先生 そうなってくると、やはり間違いが発生してしまうのです。この事を、もっと具体的に考えて行くと、一番中心の背後に「主神様」がいらっしゃって、そして、地球を救済する為にメシヤ様が主神様の代行として、肉体を持って現界に出て来られた。そのメシヤ様に、自分は使って頂き世の中を救わせて頂いている。そのように一直線で見て行かないと、これを二方向にしてしまうと、例えば、「主神様」と自分を直接結びつけて、メシヤ様と並列にしてしまうと、ずれて行ってしまいます。

 

質問者 そこの理解を間違えると、例えば、「裁く勿れ」の御教えの内容は理解しても、自分は別だと思ってしまうのでしょう。

 

楳木先生 と言うより、指導に使ってしまうのです。自分に頂いた御教えという様に理解しないと、教会長が支部長達に「お前達、信者さんを裁いちゃいかんよ」と指導し始めるのです。

 

質問者 そう指導している本人が、そもそも裁いている訳なのですけどね。それでも、教団は昭和27年の時点での40万人から更に信者さんが増えて、教団浄化が起きる直前には80万人の信者数となりました。これを発展と見て良いのでしょうか。浄霊は医学と同等の扱いとなってしまい、教団の自然農法は肥料やEM菌を使用して本来とは別の方向に行ってしまい、地上天国は未だ実現していない。

 

楳木先生 おおよそ発展していないという風に見た方が正確に捉えていると思います。ただ、分派が出来て、別教団が沢山出来ているから、メシヤ様を教祖と仰いでいる人は増えているのです。

 

質問者 そうなると、益々、その増えた人達、分かれた教団の方々が、メシヤ様の御神格を認識する事が重要課題になってきます。しかし、中々そこが難しい所だと思います。そして、現在の様に、誰にでも浄霊が許される時代となり、その浄霊の力が何処から来るのかを説明する時に、大自然や宇宙ならわかるがメシヤ様だとわからないという声を聞く事もあります。教団内ですらメシヤ様と呼ばない現状では、無理もないのかも知れませんが。

 

楳木先生 メシヤ様だとわからないという事自体おかしな事です。浄霊を世に出したのはメシヤ様なのだから。自然栽培を提唱されたのもメシヤ様なのだし。

 

質問者  浄霊、自然栽培、そういったものが世に広まる中で、勿論、それが広まる事自体が急務な訳ですけど、それを世に出した人に行き着こうとするとぼかされてしまう事が意外と多いのです。肝心の核がいつも背後に隠されてしまうのです。どうして、そこに抵抗を感じられてしまうのでしょうか。

 

楳木先生 その抵抗感が、実は、メシヤ様を世に出したくないという働きなのです。

 

質問者  本当にそうですね。教団も教団以外も、何故メシヤ様の存在を出そうとすると二の足を踏んでしまうのか。そもそも、それが問題の根源である様に思うのですが。

 

楳木先生 「夜の時代」の象徴的なものが、メシヤ様という存在を出したくないという事なのです。

 

質問者  人間、本当は、皆、地上天国を望んでいると思うのです。幸せを求めない人はいない筈です。なのに、そうはならない所が、その一点に絞られると思います。絶対的な真実に対する反発心とでも申しましょうか。そういう部分が、メシヤ様を世に出す役割がある筈の世界救世(きゅうせい)教にもあるという事ではないでしょうか。

 

楳木先生 メシヤ様を世に出したくないという事に取り憑かれた結果が、所謂権力欲、金銭欲といったものにまみれてしまう最大の原因ではないかと思います。

 

質問者  素直に、メシヤ様を世にお出しすれば良いのにと思います。そうすれば、自分の中にあるつまらない権力欲、金銭欲などはなくなってくる筈なのです。

 

楳木先生 前回の質問でお答えした事なのですが、私が教団を退職し、教団改革を本の出版だけで行こうと思っていた所、諸事情によりゼロからスタートせざるを得なかった時に、ゼロからのスタートであるからこそ、メシヤ様とお祈りする事の真価が問われる訳です。

 

質問者 確かに、教団裏面史を公開する方が、皆の興味も引くでしょうし、面白く書こうと思えばいくらでも出来る事です。教団浄化に対して、週刊誌や新聞の三面記事的興味を求める人も多いですし。しかし、それは本質ではないですよね。そういったものよりも、『信仰読本「祈りの栞」に寄せて』の方が宗教というものの核心をシンプルに書いた素晴らしい書物だと思います。

 

楳木先生 それでは、あなた自身はどうなのかという事を、神様が私に示したのだと思います。

 

質問者 結局、自分の因縁使命を認識し、それに取り組んで行くしかない訳ですね。役割は人によってそれぞれ違う訳ですが。

 

楳木先生 各教団と言うと語弊がありますが、皆、やっている事が非常に勿体ないのです。只、メシヤ様と唱えて、メシヤ様に直に繋がる様に信者さん達を導けば、皆大奇蹟を頂ける筈なのに、教団方針みたいなものを出してしまうと、結局信者さん方の幸せというものが、狭まっていったり、限られたものになってしまったりする。

 

質問者 「枠」を作ってしまうのですよね。

 

楳木先生 そういう事です。

 

質問者 「お光り様」もそうです。教団の方に、我々は「お光り様」を持っているから明主様(メシヤ様)と直々に繋がり光が強いのだと言われた事がありますが、それも「お光り様」という限定された「枠」以外の何物でもない。その理屈からすると、「お光り様」がなければメシヤ様とつながる事は出来ないという事ですから。そんな狭い「枠」は取り外して、私達は、只メシヤ様と唱えれば人類救済の御力を与えて頂ける訳ですから、今流行している新型インフルエンザに対する恐れもなくなりますし、メシヤ様との御縁がつながった以上、新型インフルエンザが流行ったとしても、助けられるのではなく、助ける側に立たなければなりません。

 

楳木先生 新型インフルエンザのニュースは異常ですね。NHKのニュースの時間の大半が新型インフルエンザ関連の事ばかり(2009年5月3日現在)で、他のニュースを見る事が出来ないのは困ったものです。NHKも話題性ばかりを追い求めて、本来、伝えなければならない情報が伝えられていないという現実があります。

 

質問者 極端な報道ばかりなのですよね。ああいった根拠のない不安を煽る様な報道か、目を覆いたくなる様な忌まわしい殺人事件のニュースか。人々に必要な、正しい情報は報道される事が少ないと思います。例えば、インフルエンザ・ワクチンは効かないとか、新型インフルエンザは只の風邪であるとかいった情報を報道する番組は一つもありません。

 

楳木先生 そして、相変わらず、インフルエンザの予防法は、手を洗う事とうがいをする事と報道していますが、インフルエンザのウィルスにはそんな事をしても全く効果はありません。こういう、何が真実かわからない様な情報が氾濫して行く状況を見て行くと、まさに、今、最後の審判に突入していると、まさに、その真っ只中にいるという風に考えなければいけませんね。

 

質問者 それは、今の時代を生きて、日々いろいろな場面で感じております。

 

楳木先生 そして、真っ只中にいるという事は、もう既に「救われる人」と「救われない人」の立て分けが始まっているから、自分達がそのどちら側に立つかという選択が狭まっているという事です。狭まっていると言うより、今、その渦中にいて、日々の生活が、その選択になっているのだという事です。少なくとも、御教えを拝読している人は、そういう認識に立っておいてもらわないと、困りますね。

 

質問者 そして、私たちは一人でも多く「救わせて頂く」側に立たなければならないですね。今や、夫がわかってくれない、家族がわかってくれない等言っている場合ではなく、一人を一生懸命わからせる時間があったら、その間に十人でも二十人でもわかって頂かないと間に合わない。

 

楳木先生 わからない人をいくら説得しても徒労に終わる事が多いですから。それよりも、一人でも多くの理解して下さる人達に、本物の情報をお伝えして行く事が重要ですね。

 

質問者 メシヤ様の御神格がまさにそうだと思います。理解される方は一言でわかる。あの人はわかる、わかってくれない等と言っていないで、日々、浄霊、自然栽培、薬毒といった、メシヤ様が世に出そうとされた事を広めて行き、メシヤ様の御神格を一人でも多くの方にご理解頂ける様な取り組みを、続けて行く所存です。

 

[メシヤ教本部にて 2009(平成21)年5月3日]