学びの骨子(平成30年2月)

<研鑽資料 骨子>
「善言讃詞」(3月3日に向けての学び)

 

今回のテーマに就ては代表先生より11月2日に出されたものです。今は年が明けて1月7日(日曜日)ですから、2か月ちょっとが経ちました。その間に12月と1月の骨子がある訳で、代表先生からは私が困らないように早めに知らせなさいとのお言葉があったようで、誠に有り難いお言葉で嬉しい悲鳴ですが、断えず心中にはありまして、それなりにプレッシャーもあった事は確かです。然し去年の6月15日、10月26日、12月23日と、「天照皇大御神様(日)・伊都能売之大御神様(日月)・日月地大御神様(日月地)」とお迎えし、特に12月23日には奥津城で「御詫び状と誓詞」を読ませて頂いて、どこまでもやり抜く決心を致しましてからはもうプレッシャーも心地よいそよ風みたいなもんで(少し大きく出ましたが)、特に12月18日に知らされた3月3日の御神名が箱根で「主之大御神様」、熱海で「大彌勒大御神様」と決まった時には、これで最終段階に入ったとの感がひしひしと伝わって来た訳です。

この善言讃詞と大彌勒大御神様との関連、意義付けが上手く出来ますかどうか「惟神霊幸倍坐世(かんながらたまちはいませ)」で参ります。

 

※「惟神霊幸倍坐世(かんながらたまちはいませ)の真の意味」

神道の祝詞に「惟神(御心のままに)御魂(みたま)のふゆを幸倍(さきはえ)賜へ」ってのがありますがね、「ふゆ」ってのは「殖える」で太る事なんです。太ると光が多くなるから霊層界の上に登り、いい事が多くなるんです。

徳を積むには御浄霊によったり、この信仰に導いたりするのが一番いいんです。金を恵んだり、慈善を施したりするのは一時的でね、永続性がないんですよ。だから、人を永遠に救う信仰に入れるほど、徳を積むのにいい方法はないんですよ。徳を積むと大勢の人が感謝しますからね。その感謝の光りでその人の霊が太り、霊の栄養になるんです。(K2・p185)

 

<善言讃詞>

S9年12月4日、「大日本観音会」開教に当たり、法華経28品中の第25番目「観世音菩薩普門品」を元に独自の祝詞「善言讃詞」を作成されました。

そこで観音普門品とは、「観音経」の事で、内容は観音様による人間を始め生きとし生けるものすべての救済力を礼賛したお経でありますが、善言讃詞の風景は観音教の中には織り込まれていないのです。次によって両方を比較してみましょう。

〇観音経

・善男子よ、例えば無量の百、千、万、億人の衆生が諸々の苦悩を受けていたとしよう。この観世音菩薩の事を聞いて一心にその名を称(とな)えたなら、観世音菩薩は即時にその声を聞きつけ、皆は解脱を得るのである。すなわち、この観世音菩薩の名を受持している者が居れば、たとえ大火に入ったとしても、火は焼くことが出来ないだろう。それは、この菩薩の威神力に由るものである。

・たとえ大水に漂わされたとしても、その名を称えれば即時に浅い所を得るのである。

・また衆生が宝を求めて大海に船出したとしよう。仮に暴風が吹き船が羅刹鬼(らせつき・食人鬼)の国に吹き寄せられたとしても、その中にたとえ一人でも観世音菩薩の名を称える者が居たならば、全員が羅刹の難から解脱する事が出来る。このような因縁で観世音と名付けられたのだ。

・また若し人がまさに被害を受けようとした時でも、観世音菩薩の名を称えれば、悪人が持っている刀や杖は切れ切れに壊れて、解脱する事を得るのである。

・もし、三千大千国土の中を満たしている夜叉・羅刹が、人を悩ませたいと思って来たとしても、観世音菩薩の名を称える声を聞いたなら、この諸の悪鬼はその悪眼で称えた人を見る事が出来なくなる。どうして害を加える事が出来ようか。

・若し、衆生で淫欲の多い者が常に観世音菩薩を念じ恭敬するなら、淫欲を離れる事が出来る。

・若し女人が、例えば、男子出産を望んで観世音菩薩を礼拝・供養して祈願するなら、福徳・智慧の多い男子を出産するであろう。また、女の子の出産を望めば、端正な顔立ちの女の子で、前世に徳本を植え、多くの人に愛され敬われる子を出産するであろう。

・観世音菩薩の名を受持すれば、このような無量・無辺の福徳の利益があるのだ。

・観世音菩薩は声聞の身を以て得度させるべき者には声聞の身で現れて為に法を説き、縁覚の身を以て得度させるべき者には縁覚の身を以て現れ、梵天王、帝釈天、大自在天、大将軍、毘沙門天の身を以て得度させる者にはそれぞれの身で現れて為に法を解き、童男、童女、天、龍、夜叉、阿修羅等の人非人も然り、観世音菩薩は此の様な功徳を成就したのである。これ故、汝らは一心に観世音菩薩を供養せよ。

・この観世音菩薩は怖畏(ふい・おそれ)急難の中に於てよく無畏(むい・恐れをなくす)を施す。これ故に施無畏(せむい)者と言っている。

・この時、無尽意菩薩は釈尊に向かって申し上げました。「世尊、私は今まさに観世音菩薩を供養します」と言って、百千両金する多くの宝珠の瓔珞(ようらく・珠玉を連ねた首飾りや腕輪)を首から外し観世音菩薩に差し出して言いました。「この法施の珍宝の瓔珞を受け取って下さい」と。この時、観世音菩薩はこれを決して受け取ろうとはしませんでした。無尽意は、再び観世音菩薩に言いました。「仁者、私等を哀れんでこの瓔珞を受け取って下さい」と。その時、仏が観世音菩薩に告げられました。「此処(ここ)にいる無尽意菩薩、及び四衆ならびに天、龍、夜叉、阿修羅・・・などの人非人等を哀れんで、その瓔珞を受け取りなさい」と。即時に、観世音菩薩は諸の四衆、及び天、龍などの人非人等を哀れんでその瓔珞を受け取り、それを二つに分け、その一つを釈迦牟尼仏に奉上し、残りの半分を多宝仏塔に奉献しました。「無尽意よ、観世音菩薩はこのような自在な神通力を有って、娑婆世界を遊行したのだ」と仏は言われました。

・そしてまた諸々の禍からの観音力を紹介し、悪羅刹、毒龍、諸鬼、悪獣に至るまで観音力を念ずれば四方八方ちりぢりに走って逃げるであろう。とかげ・へび・まむし・さそりの毒気が花火のように燃えていても、かの観音力を念ずれば、声を上げながら反転して自ら立ち去るであろう。

・観世音菩薩は浄聖であり、苦悩死厄に於てよく依怙(えこ・たよりにするもの)となる。一切の功徳を具え慈眼を以て衆生を視ており、多くの福は海の如く無量である。これ故まさに頂礼(ちょうらい・最敬礼)せよ。

・仏が、この普門品を説かれた時、大衆中の八万四千人の衆生が、無等々(比べて等しいものがない)の阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい・最上完全な覚り)を得ようという心を興しました。

 

以上、少し省略してますがこれがほゞ全文に近い観音教です。これをご覧になられて善言讃詞を見ますと風景や御神名の進展等はなく、相当にかけ離れている事がお分り頂けると思います。それよりも聖徳太子の斑鳩での御事績が善言讃詞の内容に合致している事がお分り頂けるのではないでしょうか。

つまり、前にも書きましたが、聖徳太子は仏教を取り入れ、八万四千のお経の中から法華経を見出し、法華義疏(ほっけぎしょ・解説並びに御自分の意見を加えられた)を表し、夢殿を中心に西に法隆寺、東に中宮寺を建て七堂伽藍を具えた仏教の聖地を建設されました。そして夢殿には「救世観世音菩薩」、法隆寺には観世音菩薩、中宮寺には弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしゆいぞう)を具えられたのでした。ここまで来るとほゞ善言讃詞の景色、御経綸の様相、も一致します。特に中宮寺の弥勒菩薩半跏思惟像の頭の二つの玉は髪を結ったものには違いないと思うのですが、日月を併せ持つ伊都能売之神様を彷彿とさせます。また最近難波(なにわ)から奈良までの間に隋からの使者を招くために、現在の四車線道路並みの幅の道路の跡が発見され、聖徳太子の国際性まで明らかになって来たとのニュースもありました。

何故聖徳太子の御事績が善言讃詞の内容と瓜二つで似通っていて、観音普門品第25番目の内容とかけ離れているかという理由が今回判りました。それは、

「約3000年前に素盞鳴尊が朝鮮より日本に攻めて来られ、伊都能売神皇様の御位を狙われた為に止む無くインドに逃れ、観音様の御姿となり、布咀落迦(ふだらか)山にお降り遊ばして南海大士と申されておられた時、お釈迦様がお訪ねしていろいろお聞きして見真実となられた。然しこの事は時の来るまで発表する事を許されなかったので、致し方なく法華経をその後お説きになられ、ただ一部分を明かすのみにて止めたのである。最後の世に現れて光明世界をお建てになる方は観音様である事は判ったけれどもこれを発表する事が出来なかったために普門品を説かれ、観音様を礼賛されるに止められたのである。」(K1・p29)

とはっきりと御教えに載っていたのです。つまり善言讃詞の風景や御経綸の内容は聖徳太子の時代に用意されたものであり、現代とタイアップ(結びつける)すると如何に用意周到なるものかを思わしめるものがあります。

又、「釈迦は五十六億七千万年後に彌勒の世が来ると言ったのは、五六七とすると、余りにはっきりするので十と億を入れた。これは余りはっきりしたのでは経綸が出来なかったのである。弥勒菩薩は釈迦の時に出た。で、ミロク完成世界の形は三三三となる。(K1・p199)

ここにも御経綸を覚(さと)られない工夫が有りますし、面白いのは弥勒菩薩は釈迦の十大弟子の一人となっていますが、序品第一に

「弥勒菩薩は文殊菩薩の800人の弟子の内の一人で、求名(ぐみょう)という名の求道者で、自分の名誉、利益に心が執着していて、お経を唱えても読誦(どくじゅ・見て、そらんじてよむこと)すら満足に出来ず、お経の真の意味など全く理解しようとしない未熟な弟子だったのですが、ある日心から懺悔し改心して懸命に深く修行して多くの善行を積みました」とありますから、凡人に近い処があり、現在も兜率天(とそつてん・六欲天の第四天)で修業しているというのですから、メシヤ様の言われる日月地、五六七、三六九とはかけ離れていて、寧ろ本当の彌勒を惑わすような名前が与えられたのも、やはり御経綸を覚られない惑わしの一つだったのでしょう。

「弥勒菩薩は釈迦の弟子です。日月地大御神はこれから世に現れるのです。釈迦が56億7000千万年後に弥勒菩薩が出現すると預言したのは日月地大御神の事です。」(K1・p313)

父がよく言ってましたが、弥勒は「弥(み)」は(いよいよ、ますます、あまねく、陰暦三月)を表し、「勒(ろく)」は「革」(革命の革で、あらためる)と「力」ですから、弥勒とは三に関係し、萌えいずる程の改める力という事が出来るでしょう。

この様に御経綸の深い意味は全く今日迄隠されて来たのですから、今我々が行っている神様へのお詫びと、世にお出しさせて頂いている御神業はその隠された部分をつまびらかにし、御経綸に沿った御詫びやら御出世を担わせられている訳ですから、如何に重要なる御経綸であるかが思い知らされるのです。

又、観世音菩薩は怖畏(ふい・おそれ)急難の中に於てよく無畏(恐れをなくす)を施す。これ故に施無畏(せむい)者と言っていると出しましたが(観音経紹介の10番目)、その

「せむい」を霊返すと「セムはス、イは位で主の位」となる、それを匿(かく)していたのです。(K1・p20)

と言われるのですから完璧にその時点でメシヤ教の出現も予定されて隠されていたとしたら、もうこれは覚悟を決めるしかないでしょう。

ここで簡単に御神名の進展状況を善言讃詞と斑鳩の仏像で見比べてみましょう。

善言讃詞・・・ 世尊観世音菩薩此の土に天降らせ給ひ、光明如来と現じ、応身彌勒と化しメシヤとならせ

斑鳩の仏像・・西から観世音菩薩、救世観音像、弥勒菩薩半跏思惟像

(光明如来)(応身彌勒と伊都能売神・メシヤ)

光明如来様は救世(メシヤ)観音様でもありますから、見方によってはどんぴしゃりです。

つまりお釈迦様に口止めされた根本は御佛名の変化に伴う御経綸の進展状況を隠すためであり、メシヤ様の時代になってしまえば仏滅期であり、全てを公開しても差閊えがないどころか知らしめねばならないとして、御経綸の全貌と五日に風が吹き、十日に一度雨が降るという様な三六九の世の様相や、無量無辺の大慈悲の深いお働き、紫微実相世界の風景、日々の施業による真覚を容易に得ることが出来る営みなど天国的世界を創るすべてを網羅し、一言一句の過不足なく、誠にコンパクトに詠い上げておられる祝詞には只々感嘆せざるを得ないではありませんか。

 

<絶対善と絶対悪>

神様でも対照的で絶対善の神があるからそれに対して絶対悪がなければならないのです。それがなければ進化しないのです。だから必要悪ですね。

(K1・p301)

絶対善の神様は国常立神様とすぐに出ますが、絶対悪の神様は絞り切れませんね。

国常立神様は今回の神界通信に在りましたが、絶対善は御自分の本分なんだからそれを遂行していただけであるのに、それが周りの神々には到底受け入れ難く、押し込められたのですから、誠にお気の毒というより外に無いのですが、それでも神様として反省されて、悪も取り入れ慈悲の神、伊都能売神となられ、仏界に於て観世音菩薩となられたのでした。最初に見て頂いたように観世音菩薩は善悪無差別の夜の時代からの救世主であられたのです。失敗されて押し込められ命さえもバラバラにされても、尚且つ救済をされて居られた訳です。それなのに人間は鬼として炒豆を投げつけ絶対に出るなと何千年もやって来たのですから、これ以上の罪はありません。ここで改めて幾重にもお詫び申し上げる次第であり、暗黒無明の夜の世界に於ても善悪無差別にお救い戴いたその寛容なる大御慈悲に只々心の底から感謝申し上げる者であります。

自分はその時に立ち会った者ではないと言っても、その行為に異を称える事をしなければ加担した事になり、同罪という事になります。伊都能売大神が素盞鳴尊に追われて岩戸隠れされた時も、手をこまねいていたら加担となり同罪という訳です。

メシヤ様が「私はメシヤとして最高の位に就いた。今日から皆で私の事をメシヤ様と言いなさい。私の事をメシヤ様と言えない者はここを出ていきなさい。最高の位に就いたのだから、最高の言葉、最高の扱いをしなさい」と言われたのがS29年6月15日のメシヤ降誕仮祝典の日で、左手5本の指に天下筋が出た日です。この日から約2か月後の8月11日、メシヤとなられて百倍の力に恐れをなして元の明主様に戻って頂く働きかけに対し、この日従来通りの明主様に戻られたのでした。これから63年後のH29年6月15日、漸く、S29年6月15日のお詫びと御出世のお願いをさせて頂き、日の神様をお迎えさせて頂いたのでした。この63年は代表の御歳にも当たりますから、この神様の御出世に御自分の生涯を捧げられたと言ってもいいでしょう。

このメシヤ様から明主様に戻る事の事の重大性に何の疑問も違和感も持たない神経は決定的な失敗となって現出しました。それはメシヤ様の御昇天と、その後の世界メシヤ教の分裂、奇跡の減少、多事多難と、要するに岩戸隠れの再来となって了ったのです。全集講話篇3・p346「中島氏帰幽に関するお言葉」中に、「S25年立春の日には組織が変わった。いまは観音様の御働きではない。祝詞にも、応身彌勒と化し、メシヤとならせと入れた」とあり、折角メシヤとなったものを戻すという事は、再び国常立尊様を押し込め奉った暴挙であり、「最高の言葉、最高の扱いはできません」というに等しいのですから、最早お詫びをするなどという事では済まされない事態を作ったという事になるのでしょう。中島氏と同列と誤解されても不可(いけ)ないのであまり考えたくはないのですが、代表の63歳という若さで霊界に行かれた事の一因は、国常立尊様を押し込め奉った暴挙に対し、我々の同罪としての罪も一身に背負われて御詫びに変えさせて頂いた、とすれば代表には誠に申し訳ない次第というしかなく、どんな事があろうと世界メシヤ教の復興を果たし代表を人類の代表たらんとしなければその恩義に報いる事は出来ないでありましょう。

神界通信によれば、「日の神様」をお迎えした事によって、化神仏はその光によって元の御神名に戻られ、本来の御働きに戻られるというのですから、10月26日の「日月の神」即ち定山渓の伊都能売観音様は伊都能売神の復帰をなされ、12月23日の御降臨祭は絶対力を発動される「日月地大御神様」の御出世を許されたのでした。代表の御歳の中に基本的な御神業を済ませて頂いたのでした。

そして今年H30年3月3日のメシヤ降誕本祝典で御出世頂くのは、箱根で主の大御神、熱海で大彌勒大御神というのですから、これ程の最強の組み合わせはもうない訳ですから、愈々始まるでしょう。

大彌勒大御神様は理想世界の主宰神であらせられますから、三六九の世の建設と、穢れたものの破壊と清算、それと日月地大御神様の絶対力(勿論大彌勒様の御働きの中に入るかも知れませんが)による救済とが同時進行するのでしょうから、善言讃詞の中にも「大千三千世界の三毒を滅し五濁を浄め」と世界的大浄化作用が始まり、三六九の世の様相も織り込まれたという訳です。という事は当然メシヤ教の真価が問われる事にもなる訳ですから、くどい様ですが世界メシヤ教復興こそ絶対的必要条件という事が出来るでしょう。お互い抜かりなくメシヤ様とのくどくならない対話を心がけて、御教えを頂いて太く繋がって頂きたいと思うのであります。今年の3月3日は待ったなしです!

 

<青枠の方と取次の方への御礼>

此の度の懇切なる御垂示を頂きました事は誠に勉強になりました。神様の事は絶妙な表現を要しますが、よくぞ取次の方も展開されて下さったものと頭が下がりました。最早人間の領域を超えた智慧を戴いたと言ってもいいのではないかと思います。また、

・数字の一から十は主神様の体現される動きというので、初めて天の数詠は祝詞であるという認識が出来ました。

・また今回は種々当たりましたが、岡田茂吉➝存在そのものが主神様のお体の人間版。は、(K1・p406)彌勒大神は土の御力すなわち肉体をお持ちになって御出現と存じますが・・・お応え、ええそう、そうです。

・「五六七と日月地が地に映って三六九になる」は(K1・p400)正月の鏡餅は天が地に映る事を意味している

等、裏付けが取れてよかったです。

 

 

※ご参考までに「三毒と五濁」etc.(等)

〇五濁とは首楞厳(しゅりょうごん)経中に説かれたもの

1、劫濁(こうじょく・劫とは1つの宇宙が誕生し消滅するまでの期間)

「大宇宙が四大の〝地・水・火・風〟に分裂して星雲を起し、島宇宙を形成した事と、人間はその創成された島宇宙に寄生して地球と同じく〝地・水・火・風〟が集まって生まれた事を劫濁という。

2、見濁(けんじょく)

人間は一切の島宇宙と等しく四大を執(と)って胎中に六根を形成した為、大宇宙性の妙性を失って一根であった見・聞・覚知は六根に分裂して盲目に等しい凡体を通じて一切を観察するようになった事である。

3、煩悩濁(ぼんのうじょく)とは

我(人間)の大宇宙の妙性は六根を通じて心の中の知識・記憶に習慣づけられた為に六根の対境である六塵に汚され、六根の肉体を我(人間)であると勘違いして、彼と我との差別から利害・得失が生じて煩悩を発生(おこす)事になった。

4、衆生濁(しゅじょうじょく)

我(人間)の身体の〝老・病・死〟するのを見たり、地球・太陽の変遷するのを見て、これを留めようとしても止められない事の煩悩が生れたり、資産を得ても失うのを見て、その資産を維持しようとして衆生は苦心する事になるのである。

5、命濁(みょうじょく)

見たり聞いたりする事はお互いに自由であるが、我と彼との体は異って相離れているので一体である事が判らず、そのため大宇宙性という心の素材としての大宇宙性に相異のないことは判るものの肉眼による差別の我と彼とによって本質を失い、自利に没頭して真性である大宇宙性の妙性を穢す事になるから命濁というのである。命を思って生死を起す原因を作る結果となるのである。

 

〇三毒

1、貪(ドン・むさぼり)

2、瞋(ジン・いかり)

3、痴(チ・まよい)の事で五濁が原因である。

〇簡単な五濁の解説

1、劫濁=時の穢れ

2、煩悩濁=そのまま

3、衆生濁=悪人の穢れ

4、見濁=種々の悪見を起す

5、命濁=寿命が縮まる

 

〇一天四海=全世界

〇天魔=天の魔王、魔神、悪鬼

〇羅刹(らせつ)=悪鬼

〇夜叉=女の悪魔

〇夜叉竜神=一つ目の龍神

 

2018・H30年1月8日  新潟出張所  庭山光太郎

 

少し手直し2018・H30年1月15日AM5:30

最終手直し2018・H30年1月16日PM10:30

 

[研鑽資料no.19 メシヤ講座no.203の骨子 2018(平成30)年1月17日]

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