信者に向けて(平成29年12月23日)

<研鑽資料>

信者に向けて 「平成29年12月23日 御降臨祭発表内容」

 

楳木先生といつもの方からの連絡事項(平成29年12月18日付)

いつもお世話になっております。

平成のメシヤ降誕仮祝典では全ての根源である天照皇大御神様をお迎え致しましたが、天照皇大御神様の太陽の光でしか仏様は神様に戻れませんので、昭和では天照皇大御神様が一度人類の前にお出ましになったものの、8月には人類が神様を隠してしまった事により体の体は平成まで時を待つ事になってしまいました。

メシヤ講座(平成29年12月)の骨子にて触れられておりますが、メシヤ様が「メシヤとしての活動を十分に尽くされない感があるから従来通り明主の言葉にて唱える様に」と仰ったのも、本格的な昼の御経綸の根本である天照皇大御神様を拒否されてはもうその時点でその後の展開はあり得ず、どうにもならないという事でそのご発言になりました。

天照皇大御神がお出でにならなければ国常立尊様の要素をお持ちの浄めの神である伊都能売大神様のお働きは出来ない(御存在出来ない)事になり、そうすると「土」である人間は正されないままで、救いもないままの状態でありますので、神様に帰一して御手足として働かせて頂こうとするしっかりとした人類が存在してこそお働きになれる日月地大御神様も、結局はお出ましになれません(昭和23年頃は大光明如来様のご神体に向けて「みろくおおみかみ」とお呼びしていたそうですが、その理由もこれらの事を踏まえるとはっきりと見えてきます)。

この事をはっきりと示している御教えが文明の創造「弥勒三会」(P333)で、(特にP335の1~10行目が分かりやすいと教えて頂きましたが、)地上天国は神様と繋がった人間が存在する事で成り立つものであって、神様と太く繋がっている人間がミロクの世の必須条件というのがこの御教えで指し示されております。

我々人間が神様にお使い頂く中で魂を高めて頂けるので、御神業が救いであるという事で、地上天国建設の為には何としても日月地大御神様をお迎えさせて頂かなくてはならないので、何故平成30年を目前にした12月23日に何故誓詞をお捧げした上で日月地大御神様の御神名をお呼び申し上げなければならないのか?という疑問への答えはここまでの説明でお分かり頂けると思います。

その日月地大御神様がお出ましになって、三界が一つになって主神様の御意図を表現していく御経綸がなされていきますので、善言讃詞の「仁愛の御手に帰一され仁慈の御胸に抱かれん」がこれからなされる動きであり、その直前に世界メシヤ教復興、そして地上天国建設を目指す芯としてメシヤ教に寄せられた我々が、この善言讃詞の意味や昭和に起こった事の意味を把握していないと、これから世界メシヤ教を復興すると口では言いながらも昭和と同じ事を平然と繰り返すだけの人間に留まり、本来の芯としての役割は絶対に果たせないだろうとの事でした。

 

誓詞をお捧げする事については別の角度からの説明もありました。

メシヤ様は大本教から別れ、新たに発会する大日本観音会の御神体としてお描きになった千手観音像を御奉斎されて昭和9年12月23日に仮発会式を執り行われております。

実際の発会は昭和10年1月1日ですが、この仮発会式について「大光明世界の建設」(岡田茂吉全集著述篇第1巻p27)というお題にて「それは極く少数の幹部の方と将来支部長になられる方々ばかりでありました。」とお話になられており、地上天国建設の始まりに本当に核となられる方々が集まって執り行われた全ての始まりである仮発会式は、まさに御神業の芯の部分であるとの事でした。

そして昭和29年12月23日には千手観音像が御神体として御奉斎されたのですが、その時世界メシヤ教は散花結実しており、実が育つのを待つ状況でしたので、時期が到来したらその時に因縁がある人間がその思いを継ぎ、担い、神様の御手足として働ける資格を得させ、そして再度現界に大光明世界を建設する活動が発動する様に、そのお働きである千手観音像を御神体とされたのが理解出来るだろうと付け加えておりました。

平成29年12月23日は、昭和29年12月23日からこれまでの長い時間、我々人間をお待ちになりながら手を差し延べて下さったその手に我々の手を伸ばして昭和と平成を繋ぐ日であると言えると思います。

世界メシヤ教を復興する芯となるメシヤ教として本物に育てて頂きながら資格を頂いていくには、これらの意義や神様のお働きを掴み、そして一人一人が決心して神様の御前に立たせて頂く事が大切な事で、自分の使命を悔いなく果たす為には必要な事であると思います。

 

しかし、我々は無邪気にただ手を伸ばす訳にはいかないという事もしっかりと伝えられております。

それは昭和にて人間は天照皇大御神様をお隠ししたという罪があり、その時点で神様の手を払い除けており、神様に対して大変なご無礼を働いております。人類は未だそのお詫びが済んでおらず、そのお隠ししてしまった役割をされた先達の方々の持つ罪穢れと同質の罪穢れを現在生きている我々も持ち続けております。

昭和にメシヤ様が色んな思いをされながらもご出世され、また人類の為に御神業を進めて下さいましたが、それを受け止める筈の人間が神様の手を払い除けてしまったのですから大変な事であります。

三千年もの間に人間は全員罪にまみれ、どうしてもそういう動きになってしまい、大変な御浄化の中メシヤ様として宣言をされたにもかかわらず二代様や幹部の方々の手により明主様へと戻らざるを得なくなり、そしてメシヤ様は御昇天されましたが、その後の人間はその神を隠した罪を自覚する事もなく平然と過ごす有様で、青枠の方が言うには「恥を知らない」との事でした。

今月の学びでは1年間の総括をする様にとの指示がありましたが、それは昨年の12月23日に楳木先生が誓詞をお捧げした事から始まったこれまでの全ての出来事に、実はその昭和になされなかった人間の中にある罪がそっくりそのまま現れていたとの事で、指摘される前に人間自身で気付いて自発的にお詫び出来るまでになって欲しいという意図があったからでした。

楳木先生がお亡くなりになってからのメシヤ教を客観的に振り返って見ますと、小さな型であれ、メシヤ様がお亡くなりになってからの世界救世教や各団体の有り様がそのまま再現されていたのは誰でもはっきりと自覚出来ると思います。

しかし、このお詫びに気付くどころか、御神名に関しても意義に思いを巡らせて深めた上で神意を受け取ろうという姿勢が見られなかったという事が指摘され、今回青枠の方からお叱りが届けられました。

今年の3月3日は式典の冒頭に楳木先生が落第を告げると共にお詫びをされましたが、やはりそれは我々信者にある程度の向上が見られなかったのが原因ですので、今回はそれを受けて我々が式典の冒頭にお詫びをするのが道理なのではないかと伝えられました。

このお詫びは、見た目は楳木先生のお詫びを受けての事であるのですが、そこには昭和にはなされなかった神様へのお詫びが主にあり、それが重なっておりますので、まずは自分の中にある罪を自覚して自ら進んで神様へお詫びし、そのお詫びによって罪をお許し頂き、人間として良い働きをさせて頂ける様にして頂かないと捧げる誓いは何の意味も持たなくなるのだと仰っておりました。

6月15日はメシヤ様が昭和にてメシヤ降誕仮祝典という見本を残して下さっていたから平成にそれをやり直す事が出来、そして10月26日は神様が前もって伊都能売観音様をお鎮め、時期が来た時に人間がお迎えする様に仕向けて下さり、それを受けて毎年定山渓で大祭を執り行ってきたこれまでの積み上げによって伊都能売大神様をお迎えさせて頂けたのであって、本当に神様のお力によってここまで進められたのであり、我々の実力ではない事を自覚しなければならないと思います。

そして日月地の神様をお迎えする今からは人間のあり方が直接反映されてしまいますので、人間の自覚が必要になって来ますので、お詫びがなければいつまで経っても曇った目でしかモノを見る事が出来ず、資格を得られない事からも厳しくお詫びに関する事が伝えられたのだと思います。

 

これらのお詫びに関して伝えられたものを記載します。

 

(12月12日 PM5:51)いつもの方です

・詫びる事が出来るうちはまだ良いのだ。

・手遅れになったら、詫びたくても詫びる事すら出来なくなる。

(12月15日 AM9:47)青枠の方です

・どんなに取り繕おうと、神様に信用されなければそれで終わりだ。

(12月17日 AM6:40)青枠の方です

・ 大きい善も、大きい悪も、どちらも自分の中にあると自覚し、そして救いを求める者達の悪を受け止めてやらなければならない(悪がある自覚がないと人を救えない)。

・ 器が大きくなければ(御神業は)出来ない。

・ただの良い子ちゃんでは所詮うねりの大きさに潰される。

・自分を綺麗で安全な場所に置いて、善人面をしているその自己保身、優越感、自己愛、弱さ、それが自分の中にある最大の悪である。

これらから、自分にある悪を自覚してお詫び出来る人でないと小さい動きしか取れなくなり、大きな御神業は出来ないという事から、世界的な大きな御神業をするには、やはりお詫びが必須であるのが伝わってくると思います。

 

そして楳木先生からも届けられたものがあります。

 

(12月12日 PM1:39)楳木先生からです

・ 今度はやり遂げる。

・ だから、私は鬼になる。

・ (メシヤ教)全員の、隠していたもの、古いもの、出さなければならないもの全てを出させて、本当に神様にお使い頂ける魂にして、それから進めていく。

 

・ 本当に自分の中にある醜い部分を曝け出させ、しっかり自分の罪穢れを受け止め、心からのお詫びを神様にさせて頂こうとするそういう誠実さを身に付けさせて、それからそういう人達だけで始めていく。

・ 虚飾の信仰なんて、もういらないんだから。

・ 神様を前にして、まだ取り繕おうとする、もしくは無自覚のままでいる、その浅ましさが光を遮る。邪魔なんだ。

・ だから、それを見せ、とことん自分に向き合わせる。

・ どんなに長くこれまで関わって来た人であっても、そこへ向かおうとしなければ置いていかざるを得ない。

 

というものでした。

 

本来であれば天照皇大御神様、伊都能売大神様をお迎えしていく中でそういった一つ一つ学んで分かっていき、また一つ一つ乗り越えていく毎に世界メシヤ教を復興していく核に相応しい人間の集団に育つ様にと霊界の方から色々とお力を注いで頂いての仮祝典でしたが、特に6月15日時点では楳木先生の帰幽間もない事もあり、教団の状態が落ち着いていなかったので受け止めが浅いままの仮祝典はやむを得ないが、それ以降は明らかにメシヤ教信者の怠慢であると青枠の方、楳木先生から伝えられました。

 

信者さん方も上の人に何かをしてもらう事ばかりで、上の方々がもっと動きやすくなる様に何かお手伝いしようとする思いがもっと芽生えても良かったのではないかという指摘もありました。

上の方々は下の方々を、そして下の方々は上の方々をお互いに支えあう関係を築いてもらいたいとの事で、それが本当の覚った人間の集合体なんだと仰っておりました。

 

宜しくお願い申し上げます。

 

[研鑽資料no.16信者に向けて2017(平成29)年12月23日]

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