<研鑽資料>
平成29年8月度ご本部月次祭で拝読されました。
平成29年6月15日のメシヤ降誕仮祝典の総括
新潟出張所 庭山光太郎
菅谷氏より7月17日に「平成29年7月16日付の連絡事項」が送られて来て、21日に「『日と月』と『大乗と小乗』について出来ましたか。」との問い合わせに戸惑った。
一応メールが送られて来た時に、そんな要請があった事は確かであったが、『日と月』を拝読した時に、「こんな分かり易い御論文なら拝読したら直ぐに分かって頂けるのになあ」と余り気にも留めなかったのだろう、21日に「できましたか。」との質問に、慌(あわ)ててしまった。「あれ!何を書けばいいんだ」と。それから「今回の通信は何を以て学びの補助とせよ」という事なのだろうか。「その狙(ねら)いは何か」を考えながら何回も何回も通信を拝読した結果、「そうだ今回の通信は仮祝典の総括を伝えられたものだから、人間側としても総括しなければ仮祝典をやりっぱなしで終わらせて了い、何の収穫もなく、先々の展開見通しも怪しくなり、先ず以って極めて主神様に対し奉り不遜である」事に気づかされたのでした。
実は、前号、「平成29年6月20日付の連絡事項」で、「7月に関しては、これから信者全員の向上が求められるという事で、6月15日の総括を土台としてスタートする事、そして基礎である霊層界関連の学びをきっちりして(一度した所は再度する事)、信者さん全員に行き渡るようにして下さい。」というお話でしたとあり、「6月15日の総括と霊層界関連の学びは密接な関係だから、ここが甘いと一歩踏み出せない」と載っていて、前号と今号は総括に於ては一緒であり、今号は神界からの仮祝典の意義を伝えられたもので、人間の考えでは及ばない開示の数々を噛み締めて、自分のものにしなくてはいけないものである。
7月にしては少し遅くなって誠に申し訳なく、神様にお詫びをしながら書かせて頂く事にします。
先ず、前号の「6月15日の総括と霊層界関連の学びは密接な関係だから、ここが甘いと一歩踏み出せない」とはどういう事か。そこで霊層界という御論文は、同じ題名で2篇ある。一篇は「天国の福音」中にあり、もう一篇は「霊界叢談」中にあり、昔の古い大判の御神書宗教篇中には並んで掲載されている。「霊界叢談中」の霊層界の最後の3行を記せば、
『従って人間は常に善徳を積み、罪穢を軽減し霊層界のより上位に吾が幽魂を住せしむべきで、それによる以外幸福者足り得る道は決してない事を知るべきである』とあり、『決して利己主義たる小乗にあってはならず、大乗を以て「人よかれ」と善徳を積む事によって自分の罪穢を軽減し、浄まって霊層界のより上段に幽魂を上げるべきで、それによる以外に幸福者足り得る事は決してない』とメシヤ様は断言遊ばされているのだから、先ず自分だけが浄霊の恩恵を受けて、他人もその恩恵に浴してやらない限りは御神意に叶わず、決して幽魂の上昇もある事はなく、結果として真の幸福者とはなり得ないという事である。
先ずこの事を肝に銘じないと、つまり詰めが甘いと「一歩を踏み出せない」というのだから、この2篇の「霊層界」を熟読し肚に落として頂き度いと思っているのである。勿論私自身が何の成果も挙げられていない事を想うと忸怩(じくじ・恥じて極まりが悪い)たるものがある。
然しこの長年の忸怩たる思いも今回の通信による御開示で、解消される時が来た事を知らされた。この忸怩たる思いの原因が知らされたから勇気百倍の力を得たにも等しい福音であり、只々主神様と青枠の方と代表と取次者の方には感謝のしようもない程である。
そのもっとも核心たる御開示は、(7月9日 AM10;37)『絶妙な「六」具合』中に
「現界に日は出たけれど人間側はそれを感知できない状態が続き(現界の体にはまだ日ははっきりと表れなかった)、日の力がはっきり見えないという事は奇跡を頂けない事そのものなのだ」
「それまで神様がお体で示して下さったからこそ起きていた奇跡も、メシヤ様から明主様に戻して頂いた時点で一旦見えなくなる事を表していた。」
「主神様の地上天国を作る目的、世界人類を救うという目的があって下さっていた奇跡も、メシヤ様ではなく明主様に戻した時点で光が消えた状態になったのだ」
「神様の地上天国を造る目的、世界人類を救うという目的があって下さっていた奇跡も、メシヤ様ではなく明主様に戻した時点で光が消えた状態になったのだ」
という事はつまり「天の岩戸隠れ」になったと等しいものではなかろうか。
次いで(7月9日 PM7;49)『「日」を意識して欲しい』中に
「今回天照皇大御神様を人間が自らお迎えした事で体の体に日が現れたので、御教えにあるような事が可能になってくる。日の力が現実に作用するのでそれを妨げるものは取り除かれる動きになるのは確実である、人間の階層に神様が現れたのは確実なのだから」
「文明の創造は主神様の提示された新文明の設計書ですが、日の神様がお出ましにならないと話にならなかったとの事でして、そういう意味で平成29年6月15日に人間側の手によって救世主降誕仮祝典を執り行わせて頂けたのは神様に対しての大変素晴らしい御用だったのだ」
「人間側で日の神様をお迎えしたという事は、メシヤ様の御教えを実行していく力・善に味方する力をお出しした人間側が神様の意向を受けたという事になる」
という事は、この度の6月15日は「天岩戸開き」をやらせて頂いたようなもので、その日以降は御在世中に於ける奇跡、あるいはそれ以上の奇跡をどんどん見せて頂ける時期に入った事を意味するものと思うのです。その決定的御開示が次です。
「浄化を頂いて夜の癖を溶かして頂いて自ら魂の力を発揮させられる人間が多くなれば地上天国に近づくのは誰もが分かるので、今まで日が体の体に現れなかったという事は、これらの逆であった、自分達が信仰をしつつもメシヤ様が仰る様なものを長い間見せて頂けなかった、奇跡を頂く事が難しかったのはここなんだと繰り返し仰っていました」
この御開示が、忸怩たる思いの根本原因であり、やっとその思いから解放されると思えばどれほど有り難い事か、言葉もない程である。とりわけ父の事を想うとその感慨は一入(ひとしお)である。どれほど待った事か。メシヤ様から戴いた「石松」が石の如く動かない「石待つ」になってしまったからである。メシヤ様から見せて頂いた数々の奇跡が刻印となってメシヤ様から離れられない人間になって了ったが、働き盛りを無為に過ごした時間も膨大であったろうに、子供心に「よく耐えたんだなぁ」と思わせる事もしばしばであった。
然しその待ちも、何も父ばかりではある筈もなく、先達の方、更には世界中の聖者賢哲も待たれたのであり、何よりも主神様が一番待たれたであろう事も想像できる。とすれば我々は大変なるターニングポイントの決定的瞬間に立ち会った訳である。そしてそれを揺ぎなく輝かしい祝日とさせて頂かなければならないのが来年の3月3日である。
散花結実はこの日の為であり、三千年に一度捧げた桃の実の完全なる成長であり、又、「これは将来教団の発展と人類救済に大きな訳がある」と言われた井上邸での御神事の証の第一歩となる日でもある訳であるから、今から本当に一日一日を心して歩まねばならない事だけは確実である。
更に(7月9日 PM7;49)「日を意識して欲しい」の続き、著述篇第7巻P.486『日(引き)と月(突き)』の御教えを例に出しての説明がありまして、
「ヒキの姿勢一つ取って見ても日が出ていない状態でヒキを目指しても善に味方する力が弱いとボコボコにやられてしまうだけで、結局は自分も突きの姿勢でいなければやっていけない、結果として御教えに添った生き方は出来ないという事をお話になっていて、善に味方する力(日の力)が現界に作用しないと夜の癖を溶かす事は現実的に困難である」 と開示され、これからは「日の力」を意識して欲しい、という意味で『日と月』を取り挙げられ、我々の行動規範にも「突き」から「引き」に移行せられる事になるという事も含まれているのであろう。更に総括は続き
(7月9日 PM6;48)「大きく勝つ様に」
「○○○○教が○○○○教になり、○○○とその関連団体は悪に負けたような格好で長い間進んで来ましたが、実は神様の方では勝っているのだという事を仰っています。
昭和で日の神様が体の霊にお出ましになり、それが作用して体の体に作用していた事を指していまして、人間側が一度神様を押し戻して迷走する結果になりましたが、それが人間側を刺激して本物を求める動きに繋がった。そして自分達でやり直しをする流れになったのだから悪の働きが善を生んでいるという見方がベストなのだそうです。
大きく見ると○○○○教や関連団体のあり方が悪に一時負けた様でいて、それがまたこれまでの自分達が所属していた団体を出て本来のあり方を求めた方々が集まって仮祝典を執り行う事に繋がった、結局は勝ちになっているので、メシヤ様が御昇天されてから今年の6月15日の仮祝典までの流れを見ればこの仮祝典は単にメシヤ教だけの話ではないというのが分る筈だ、メシヤ教だけがどうのこうのというのではなく全体の中の出来事であるのだから、これを自分達だけの枠に止めるのではなく全体の大きな勝ちであると捉えて進んでもらいたいとの事でした。(世界メシヤ教を復興する核を担うというのはそういう事なんだという言い方をしていました)。
また何事においても言える事なので、今までの人間の癖として小さく勝つ事に一生懸命になってしまうが、何事も大きく勝つ様にとの事でした(しかし細かい事を疎かにしてはいけないけれども…と付け加えられました)」と、主神様のものの考え方はどういうものであるのかを解説され、「それを基準とする事を以て初めて世界メシヤ教を復興する核を担う事が出来るのだ」として「大きく勝つ様に」との主神様のものの見方を開示されている。
そして図が掲載されていて
『三角形の頂点をゝ(主神様)➝ここが大乗 全部が良しとなる
左の角は「善」、右の角に「悪」と置き、この底辺は長方形で囲って➝そしてここで対処』
とそれだけであるが解説としては
『大元は上の主神様にあるので、その主神様の意向を探って物事を見ていく、そして実際の対処はその視点(主神様の意向)を基にしつつ下の善悪の階層で対処していく様に、という事を表現していました』とある。
そして最後の結論的には「善悪全てが大きな善(主神様)に帰一していくので、主神様・メシヤ様と繋がると言う事は霊線から光が伝わり、その結果自分達にそういう働きが影響を及ぼして来ます。
そういった流れがあるので大きく見る必要性が出てきますし、主神様が現れたという事がその働きが形として出て来る事そのものでありますので、人間がその様な視点にならざるを得ない(光によってそうさせられる)、そうなって行かないとお使い頂けないという事を示しています。
しかし大きな善は或る意味手段を択ばずという事でもあり、これをそのまま人間がやってしまうと周囲からは危険な人と思われてしまいますので、神様の神意を汲み取って物事の判断をし、その対処として人間の階層にとってベストと思われる事を探っていける様になってもらいたいとの事でした。
反対に言うと日の神様がお出ましになったのでこうなる様に仕向けられる実際の動きに入ったという事だから、単なる御教えの分析では間に合わなくなる、実際に神様との繋がりを太くしてその力を頂いて帰一のお働きの影響を頂いていくと御教えが一つに集約されていく、真理が少しずつ見えて来る、人間が神意を受けて動ける様になってくる、結局必要なのは神様の力なのだという事が伝わってきました」
以上でこの項の内容は終わっているが、この項は誰にでも当てはまるもので、然も善悪は不知不識に動かされていくものであってまさに人生劇場そのもので、それぞれに興味深いストーリ―(物語)があるに違いない。「大きく勝つ」とはどういう事か、ご参考の為に恐縮ではあるが私事を通じて世界メシヤ教、メシヤ様御在世当時時代の様子を入れて、御昇天後の混乱、そしてその後の流浪の信仰時代を簡略にご紹介してみる事にする。
予(あらかじ)めお断りしておくが、「恩讐の彼方に」をそのままに一切の曇りの要素は無いどころか、「よくぞ歩んで来たなぁ」との思いでそれぞれの場面で感謝を捧げる日々である事を申し上げておきたい。
(中略)
最後の総括として、「そこで着目してもらいたいのは日の力が弱くて水分の多い世界であっても絶妙なバランスで事を進めて来た神様のあり方で、物質文明を発展させる為にわざわざ本来の順序を逆にして月を上にして日を隠してもなお世界が壊れない様に保っている凄さ、そしてその結果としての唯物思想・物質文明の強固さを見れば主神様の実行力の凄さは分るだろう、自分達の周りを見るだけで主神様の思惑通りに事が進んできた結果・成果が見えるだろうという事を仰っています」
これは日月併せ持たれる伊都能売神様の面目躍如であり、太陽の光が普く照らすのも、火と水のバランスがあって光るという意味では主神様も伊都能売神様の要素は同じといっていいものであるのだから、最強のタッグを組んでおられる事を意味する。
兎に角、著作権問題で教団も本格的に御教えの整理に当たらなければならない必要性に迫られ、岡田茂吉全集の編集、発刊も進んだであろうし、私も浄霊会を離れる切っ掛けともなり、結果的にメシヤ教に繋がったのだから、絶妙なお仕組みの中に組み込まれた「縁」といってもいいかも知れないと思ってしまう。
そういう意味でもどうしても来年の3月3日に向けてより一層奮励努力が要求されていると思っても間違いはない。
主神様を世にお出しするには世界メシヤ教関係者、またそこから離れられた方々も一堂に会して「メシヤ降誕本祝典」に向けて一斉に動き出す事を願ってやまない。否、先達の方々も続々とメシヤ様の下に集められているに違いない。
それは私の父は平成6年に帰幽しているが、平成20年に帰幽された浄霊会当時の会員さんがその1年後に‟今、私は先生(私の父)と妙理神にお使い頂いている。妙理神はメシヤ様を中心にして30柱位の神々がメシヤ様から御用を頂いている神様の内の一柱であられる”という深奥神界の様子を通信して来たのである。アレから10年が経とうとしている。先達も浄化されて因縁の神様の下でお働きになられているに違いない。因みに妙理神とは白山神社の御祭神、白山比咩の尊様であり別名菊理媛であり、御本尊は十一面観音様というのであるらしいから、メシヤ様とも近しい神様であられるから何とも嬉しい限りである。
6月15日の翌日、前々から「戸隠神社と妙高に行ってみたい」と案内を頼まれていた件で、私の家から戸隠迄で200km離れているので、私の家に来られて200kmも往復するのも大変だからと仮祝典の帰りに寄る事になったのである。後で考えてみれば仮祝典の翌日に石戸開きの地(?)に行ったのであるから、‟何と偶然な事か„と、「本当の石戸開きが目睫の間に迫っている」と叫びたい衝動に駆られる思いです。
以上を持ちまして人間側の平成29年6月15日メシヤ降誕仮祝典の総括とさせて頂きます。
[研鑽資料no.4 メシヤ降誕仮祝典の総括 2017(平成29)年7月6日]