<御教え>
『文明の創造』科学篇
人間と病気
(文創 昭和二十七年)
本文は『文明の創造』127ページに記載されています。(『文明の創造』購入方法は「出版案内」を参照ください。また、研鑚資料『文明の創造 二・上』では68ページです。)
≪解説≫
『文明の創造』出版と共に急展開するメシヤ様が進められようとされた『本来の御神業』
メシヤ教代表 楳木和麿
質量を生んだとされる素粒子の確認
7月度の各支部月次祭及びメシヤ講座は、岡山支部をスタートに執り行わせていただきましたが、その日の午後科学の世界では画期的な発表がなされました。ご承知のように大々的に報道された「ヒッグス粒子」のことです。ビッグバンによって発生した素粒子は自由に飛び回っていましたが、17番目の素粒子と言われるヒッグス粒子が他の素粒子にくっつき易い性質を持っているためにスピードが落ちやがて質量が生まれることとなり、物質化が始まったと説明されています。
素粒子はいかに質量を得たか(ヒッグス機構について)
ビッグバン直後のヒッグス粒子が無い状態では、あらゆる素粒子は光速で動き回れた。 しかしビッグバンの100億分の1秒後の宇宙で「真空の場になにか存在するという期待」(真空期待値)が生じた。 その後、一部の素粒子が「そのなにか」に当たり、抵抗を受けて速度が遅くなり、物質を構成したと考えられている。 この抵抗、動きにくさが「質量」であり、その原因を作っているのがこの「ヒッグス粒子」のせいだとされている。しかし「ヒッグス粒子それ自体」やビッグバン直後に存在したとされる「右巻きニュートリノ」*4はヒッグス機構と関係なく質量を持つことが出来る。(Hatena::Keywordより) |
そうした意味から今回物質を構成する最小の単位が確認されたことになるのです。
科学の進歩のお蔭で、物質界の解明は分子、原子と進み、かつては原子を構成する電子・陽子・中性子が素粒子とされてきましたが、さらに最小の17の素粒子の世界までたどり着きました。
この内容については、各支部のメシヤ講座で触れていますが、「メシヤ講座・三重(平成24年7月分)」では次のような話が出ました。
(質問者) 「神の粒子」と言われていますね。(先生) そう「神の粒子」とも言われていたね。物質化での「神の粒子」だから、今度はその元になっている霊の世界の方を我々は宗教界で顕していかないといけないので、今回の『文明の創造』はメシヤ様が信者に向けて書いたものではないということです。信者向けは、それまでにズーッと書かれていますのでね。一般書店で売り出そうとして一般の方向けに書いたものですので、ぞれだけにこの『文明の創造』は価値があるわけですね。 (質問者) (先生) |
『時期』ということと、『主神(エホバ)様直接の御啓示』というタイトルを掲げたことが重要なのです。『文明の創造』は、主神様が宇宙を創造なされてから人類を生みだされるまでの仕組を明らかにして、地上天国建設の設計図として私達に示されているからです。
7月に学んだ『栄養』は、正に人類の体の仕組に基づいた論説でした。
繰り返しの話になりますが、『宗教と科学の一致』の根底にはその神観の確立がなければなりません。そうでなければ、この度のヒッグス粒子確認の意義も把握することができませんし、今後の方向性も見出せません。
また、人類の研究がここまで来たので更なる最小化が目睫に迫っているのです。つまり霊子の領域です。そこに達してこそ『霊主体従の法則』を科学的に理解できるのです。
私達は、こうした神観の確立に基づく考え方の、その普遍化に努めてゆかねばなりません。これからも弛まぬ努力を重ねさせていただきます。
主神様の御神名をお唱えする在り方
また、時期としては新本部竣成祭を許されたこともあります。このことにより、メシヤ教の身辺で起きる事象に大きな変化が起きております。その内容は、8月度のメシヤ講座で触れてゆこうと考えています。そこで、要望の多い写真の公開をしておきたいと思います。
(新本部竣成祭の早朝に到着した出雲支部サイト担当者が撮影)
新本部竣成祭は、御神前の改装計画から推移して許されることとなったことは既報の通りです。御神前改装とは主神様、メシヤ様を御奉斎申し上げる在り方を整えるということであり、それは私達の参拝姿勢を整えることでもあります。この内容については「メシヤ講座・大阪(平成24年6月分)」に比較的詳しく話しました。その内容をアップしてくれていますので引用します。
代表先生 まぁ、このように月次祭をさせていただいた時に、メシヤ教の場合はですね、『主神様』に直接お祈りをする、そういう形式を取っております。(中略)こうして天津祝詞を奏上して、善言讃詞を奏上したあと、御神名を唱えるというのはどういうことかと言うと、この御神名『主之大御神守り給へ幸倍給へ』という言葉に出すことすら、実は人間の言葉では穢してしまうぐらいの尊い御神名なんだ、と。
その御神名を唱えるうえにおいては、天津祝詞で、まず自らを浄めて、そして善言讃詞によって、地上天国を建設をしていく霊界を認識した上でこの御神名を唱えない限り、もったいない御存在なんだというような気持ちを膨らませて御参拝するというのが、本来の教主の座にある人間のやるべきことなんだけども、こういうことを御教えに基づいて、そういう姿勢作りをしていないがために、教団は、ずーと紛争を続けて、今なおですね、纏まりのない教団を続けているということですね。 だから、我々は・・、「メシヤ様に直結する」という信仰を育ててきた我々だからこそ、『主神様』の御存在に対して真向かっていけれるような信仰を今育てて行きつつあるんだ、と。 この『主神様』が、太陽系をはじめ宇宙全体を御創造になられているので、『主神様』にお参りするということは、この大宇宙を認識する・・、その小さい形でいえば、太陽系の運行を認識して、そこに感謝のできる人間というのが、本来の文化的な人間であるわけですね。 それが今、○○さんがおっしゃったように、目先のことばかりですね、目がいって・・、この地球をどうしたいのか、日本をどうしたいのかという、また、本来どうあるべきか、ということを考えないで生きている人間達を目覚めさせていかないといけないのが、我々の役割なので、一つその役割をしっかり担っていただきたい、と。その担う大きな節目に・・、6月15日にですね、ご一緒にご参拝していただいて、節目としていただきたいと思います。 その節目となるために、いろいろ皆さん方の魂は、夢とかいろんなことで見せられている、自然現象にしても見せられているので、その見せられた事を基に、よりいっそう魂を奮い立たせて、地上天国建設ということに取り組んでいただければ、たいへんありがたいと思いますね。 |
そうした姿勢づくりをしていただいて、皆さんには「地上天国祭」に臨んでいただいたからこそ、岡山支部で報告のあった祭典の様子に繋がったのではないか、と受け止めさせていただいております。
詳しいことは、「メシヤ講座・岡山」を参照していただきたいと思います。ここでは一部引用します。
〈地上天国祭で、にこやかな メシヤ様のご尊顔を拝する〉 代表:で、質疑応答に入る時に、一番最初は地上天国祭で山地さんが拝した内容を聞かないといけないですね。あれをもう少し早く言っておいてくれれば、メシヤ講座の中に書いておくんだったんだけど・・・今日聞いたものでね。(笑い) 参加者:今日もそのことを思いながら、参拝に臨みましたけど、今日は現実的でしたが、あの時は生まれて初めての、入信して以来、初めての体験でしたけれど。 後で思えばですよ、天津祝詞の時ではないです、善言讃詞が始まってから”ふっ”と頭を上げたんですね。頭を上げるわけはないんですけど、夢の中みたいな感じで頭を上げた時に、私の方を向いてメシヤ様が、ここから上(上半身)ですよ、ニコニコ笑って、私も今日しみじみこのお写真を見ましたが、このお写真より若かったです。 で、ニコニコ笑ってこっちを見ておられて、私は後の発表の事で頭が一杯でしたからね、あの私の考えでその時、“ああ、今日私が発表することはメシヤ様がOKを出されたんだ”と解釈したわけですよ、笑って笑顔で私の方を見ておられるから、“ああ良かった、合格だわ”と思って頭を下げて代表の善言讃詞を聞いていたんですけど、また頭が上がったんですね、そしたら同じ場所で同じ御姿です、いい笑顔でしたねぇ。 私、今でも勿体ないと思います。それでその時私が、“あ、それは私じゃなくて、今日は天国祭、天国祭にメシヤ様がお出ましになっているんだ”とそう思えたわけです。”私が先に思ったのは間違っていた、私個人のことではなくて、メシヤ様が天国祭へ、今日ここへお出ましになっているんだ“と思ったわけです。”ああそうか”と思って善言讃詞を聞いて、その時はもう現実になっているんですよ。 生まれて初めての体験ですから、思い出しても、畏れ多いというか、嬉しいというか、生涯の光栄ですね。今まで色々なことを先達の方々から聞いていましたけれど、私はそういう体験は一度も無いんですよ。だから、あそこで、あのメシヤ様の・・・帰って私、家のお写真も見たんですけど違う、もっとふくよかでもうちょっと若くて、本当にいい笑顔で、・・・その前に私が、M○○センターに行った時にお写真が暗くて、”いやーどうしたんだろう”と思った後でしたからね。この人には言ったんですけど、“どうしてセンターのお写真はあんなに暗いんだろうなぁー”って言った後でしたから、余計にあの時は感動しました。 これを欠かしてはいけないということが、まず第一としてありますね。だからそういうことを我々が確認していかないと、いけないことではないかなと思いますね。しかも昭和41年の話ですからね。 だから先だっての△△さんのご主人でも、「あの子は体は小さいけど良く働いて優しい、自分らにも敬語を使って」と言う。信仰とは信用なりという御言葉があるように、そのご主人や○○さんに信用された結果だと思うので、これから御用にお使いいただけたらいいのになぁと思いますね。 代表:そういう宇宙人みたいな清らかな魂の持ち主が、何故使われなかったかというと、メシヤ様に繋がらないと駄目なんです。組織を通して繋がっても駄目なんでね。メシヤ様と直に繋がることがこの岡山支部を通して出来たので、あの人の魂が輝き始めたんです。 だから我々にとって一番大事なことは、メシヤ様と直に繋がっていくということが、これが大事なことですね。メシヤ様がお出ましになって下さった、生涯の宝になるようなことも、それを我々みんなの宝にして、メシヤ様とそういう御存在とすっと繋がることが大事なんだと。 これからの御浄霊というのも、そのことをどんどんどんどん膨らませていきながら、浄霊をさせていただくことが大事だということをね、今回の地上天国祭を通して又一段と、教えられたような気がしますね、今の話を聞いててね。 |
メシヤ様を直に太く求める者によって執り行う祭典こそ、重要事であることを認識させられる内容です。
御神前に向かう在り方は御神体御奉斎の際にも確認させていただくことですが、当然のことながら信仰の根幹にかかわる内容なので繰り返しお話させていただいております。このことに思いを置いておりますと、各種宗教グッズをお預かりする際に強く感ずることがあります。
宗教の進化こそ急務
お蔭さまで、新本部竣成に伴い「御処置斎場」も整えることができました。これまで豊橋会場の一角をお借りして斎行してきたのですが、区画整理に伴う移転新築のためにお借りできなくなりました。困惑していた矢先に今回の運びとなり、下の写真のような形で7月末に仕上がりました。今後、メシヤ様を神習って多宝塔なども建立すべく計画中です。
(7月末に完成した御処置斎場)
早速、御処置を斎行させていただいたのですが、改めて諸々の宗教グッズを目にして、「仏滅を迎えようとしているのに、相変わらず物(ぶつ)に拘(こだわ)り続けている」と嘆かわしく思える実態を目の当たりにさせられました。
以前のメシヤ講座で、某教団の暴走は悟りの世界に薬物やヘッドギヤ―というものを持ち込んだために生じた点が原因の一つにあることを指摘しました。また、唯物主義者ほど占いや霊慿りにのめり込み易い話をしました。一見矛盾するようなことですが、職業別の傾向でも同様に当てはめられるようです。お守りのような物に拘(こだわ)る理由も、自らの努力よりも安易な姿勢に留まり、物に縋りたいために生じていることなのでしょう。
御神前に真向かう姿勢も、守っていただくという基点から御教えに照らしてどのような生き方を心掛けるか、どのように人生観を形成するか、という課題を持つ姿勢に変容することこそ本来の在り方なのです。そして、行動を顧みつつ祈りを捧げることができてこそ信仰生活と言えるのです。
今月のメシヤ講座で拝読させていただく『人間と病気』に記述されている次の箇所は、7月に学んだ内容に対する御解答として拝読することができます。
『茲で、今一つの重要事をかかねばならないが、抑々主神は何故宇宙及び人間を作られたかといふ事であって、恐らく之以上重要な根本的問題はあるまいと共に、此事程誰もが知りたいと希ふ事柄も又あるまい。而も現在に到る迄之に就て何人も異論なく、首肯すべき程の説明を与へた者はなかったのであるから、それを茲に説いてみるが、本来主神の御目的とは何であるかといふと、それは人間世界をして真善美完き理想世界を造り之を無限に向上発達せしめるにあるので、之こそ永遠不滅の真理である。従って今日迄の人智では、到底想像すら出来得ない程の輝しい未来を有ってゐるのであるとしたら、人間は此前途の光明を胸に抱きつつ楽しんで天職使命に尽すべきである。』
明解な答えを拝して、一段と宗教の進化こそ急務であることを痛感します。『首肯』すべき説明でありますので、今月も御論文を繰り返し拝読していただくように願っております。
勿論浄霊力は、その教えの確かさに対する裏付け的御力でもあります。多大な奇蹟をいただいたならば、御力の根源である御存在が示された教えを実践することが重要で、かつての教会長が指摘した“奇蹟乞食”に陥らぬようにせねばなりません。メシヤ教の場合、絶大なる奇蹟をいただき続けているからこそ語れることですが・・・、誤認するとメシヤ様が進められようとした『本来の御神業』とは遠いものとなってしまいます。
「信仰読本」の「教祖」の項で記述しているように、いただいた奇蹟を昨日のことのように覚えていることが不可欠であり、岡山支部の山地さんに46年前のお蔭話を発表していただいた意義もそこにあるのです。
こうしたことから、地上天国建設とは認識上のずれを修正して、正しい宗教観を示すことで実現するという面もあります。
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