メシヤ講座・特選集no.130(平成23年11月分)

<御教え>

『文明の創造』科学篇
医学の解剖

(文創  昭和二十七年)

私は前項迄に、医学の誤謬(ごびゅう)を大体かいたつもりであるが、尚なお進んで之から鋭いメスを入れて、徹底的に解剖してみよう。と言っても別段医学を誹謗(ひぼう)する考へは毫末(ごうまつ)もない。只(ただ)誤りは誤りとして、ありのまま指摘するまでの事であるから、虚心担懐になって読まれたいのである。それには先まづ事実によって、説明してみる方が早かろう。先(まづ)何よりも医師が患者から、病気の説明を求められた場合、断定的な答へはしない。甚だ曖昧あいまい模糊(もこ)御座(おざなり)的である。例えば、患者に対する言葉であるが、何の病気に就ついても言ひ切る事が出来ない。貴方あなたの病気は治ると思ふ。治る訳である。医学上そういふ事になってゐる。此この療法が効果ありとされてゐる。此この療法以外方法はない。養生次第で治らない事はない。貴方(あなた)の病は万人に一人しかないなどといふかと思へば、貴方(あなた)は入院しなければいけない、と言はれるので患者は「入院すれば治りますか」と訊きくと、「それは請合へない」といふやうに、実に撞著的(どうちょてき)言葉である。又予想と実際と外はずれる事の、如何(いか)に多いかも医家は知ってゐるであらう。そうして、最初診察の場合、型の如く打診、聴診、呼吸計、体温計、レントゲン写真、血沈測定、注射反応、顕微鏡検査等々、機械的種々な方法を行うが、医学が真に科学的でありとすれば、それだけで病気は適確に判る筈はずである。処が両親や兄弟等の死因から、曽父母、曽々父母に迄及ぶのは勿論もちろん、本人に対しても、病歴、既応症等微に入り細に渉って質問するのである。之等も万全を期す上からに違ひないが、実をいふと余りにも科学性が乏しいと言へよう。処がそうまでしても予想通りに治らないのは、全く診断が適確でないか、又は治療法が間違ってゐるか、或あるいは両方かであらう。事実本当に治るものは恐らく百人中十人も難しいかも知れない。何となれば仮かりに治ったやうでも、それは一時的であって安心は出来ない。殆ほとんどは再発するか、又は他の病気となって現はれるかで、本当に根治するものは、果して幾人あるであらうか疑問と言えよう。此この事実は私が言う迄もない。医師諸君もよく知ってゐる筈はずである。此(こ)の例として主治医といふ言葉があるが、若もし本当に治るものなら、それで済んで了しまふから主治医などの必要はなくなる訳である。

右によっても判る如く、若もし病気が医学で本当に治るとしたら、段々病人は減り、医師の失業者が出来、病院は閑散となり、経営も困難となるので、売物が続出しなければならない筈はずであるのに、事実は凡(およ)そ反対である。何よりも結核だけにみても、療養所が足りない、ベットが足りないと言って、年々悲鳴を上げてゐる現状である。政府が発表した結核に関する費額は、官民合せてザット一ケ年一千億に上るといふのであるから、実に驚くべき数字ではないか。之等によってみても、現代医学の何処どこかに、一大欠陥がなくてはならない筈はずであるに拘(かか)はらず、それに気が付かないといふのは不思議である。といふのは全く唯物科学に捉はれ、他を顧みないからであらう。

そうして、診断に就ついて其その科学性の有無をかいてみるが、之にも大いに疑点がある。例へば一人の患者を、数人の医師が診断を下す場合殆ほとんど区々(まちまち)である。といふのは茲ここにも科学性が乏しいからだと言えよう。何となれば若もし一定の科学的規準がありとすれば、其その様な事はあり得る訳があるまい。若(も)し医学が果して効果あるものとすれば、何よりも医師の家族は一般人よりも病気が少なく、健康であり、医師自身も長寿を保たなければならない筈はずである。処が事実は一般人と同様処か、反って不健康者が多いといふ話で、これは大抵の人は知ってゐるであらう。而しかも医師の家族である以上、手遅れなどありやう訳がないのみか、治療法も最善を尽す事は勿論もちろんであるからどう考へても割り切れない話だ。そればかりではない、医師の家族が病気の場合、その父であり、夫である医師が、直接診療すべきが常識であるに拘かかはらず、友人とか又は他の医師に診せるのはどうした事か。之も不思議である。本当から言えば、自分の家族としたら心配で、他人に委(まか)せる事など出来ない訳である。それに就ついてよく斯こういふ事も聞く。自分の家族となると、どうも迷ひが出て診断がつけ難いといふのである。としたら全く診断に科学性がないからで、つまり推定臆測が多分に手伝ふからであらう。

私は以前、某博士の述懐談を聞いた事がある。それは仲々適確に病気は判るものではない。何よりも大病院で解剖の結果、診断と異ちがう数は、一寸(ちょっと)口へは出せない程多いといった事や、治ると思って施した治療が、予期通りにゆかない処か、反って悪化したり、果ては生命迄も危くなる事がよくあるので、斯(こ)ういふ場合どう説明したら、患者も其その家族も納得するかを考へ、夜も寝られない事さへ屡々(しばしば)あり、之が一番吾々の悩みであるといふので、私も成程と思った事がある。

此この様に、医学が大いに進歩したと言ひ乍ながら診断と結果が、実際と余りに喰違くいちがふので、医師によっては、自分自身医療を余り信用せず精神的に治そうとする人もよくあり、老練の医師程そういう傾向がある。彼かの有名な故入沢達吉博士の辞世に『効かぬとは思へど之も義理なれば、人に服(の)ませし薬吾服(の)む』といふ歌は有名な話である。又私は時々昵懇(じっこん)の医博であるが、自身及び家族が罹病の場合、自分の手で治らないと私の処へよく来るが、直(じ)きに治してやるので喜んでゐる。以前有名な某大学教授の医博であったが、自身の痼疾(こしつ)である神経痛も令嬢の肺患も、私が短期間で治してやった処、其その夫人は大いに感激して、医師を廃(や)め、本療法に転向させるべく極力勧すすめたが地位や名誉、経済上などの関係から決心がつき兼ね、今以もって其その儘ままになってゐる人もある。今一つ斯こういう面白い事があった、十数年前或ある大実業家の夫人で、顔面神経麻痺まひの為ため、二目と見られない醜い顔となったのを頼まれて往いった事がある。其(そ)の時私は何にも手当をしてはいけないと注意した処、家族の者が余り五月蝿(うるさ)いので、某大病院へ診察だけに行ったが其(そ)の際懇意である其(そ)の病院の医長である有名な某博士に面会した処、その医博曰いわく“その病気は二年も放っておけば自然に治るよ。だから電気なんかかけてはいけないよ。此処(ここ)の病院でも奨めやしないか”と言はれたので『仰言る通り奨められましたが、私はお断りしました』と言うと、博士は『それはよかった』といふ話を聞いたので、私は世の中には偉い医師もあるものだと感心した事があった。その夫人は二ケ月程で全快したのである。

偖(さ)て、愈々(いよいよ)医学の誤謬(ごびゅう)に就ついて、解説に取りかからう。

 

【『熊本・光の森支部』発会式特集】

≪支部責任者挨拶≫
“メシヤ様にお使いいただきたい”という熱く切なる思い

支部責任者 北岡明子

本日は、「熊本・光の森支部」発会、誠におめでとうございます。只今、ご紹介をいただきました北岡です。

本日より、主神様メシヤ様の御許しをいただき、メシヤ教「熊本・光の森支部」の責任者という大役を仰せつかることとなりました。

私は、1999年(平成11年)に天聖真美会を通してメシヤ様に出会わせていただきました。真美会では、私が入信した少し前から外国人の入信者が少しずつ増え始め、当時イギリスに暮らしていたことから、次第に世界布教の渦に巻き込まれてしまい、気がついた時にはお断りしたにも関わらず無理矢理、「霊的専従」という真美会独自の時所位をいただかされておりました。

このことの他にも、色々な御教えから脱線してしまった指導を受けておりましたが、「身魂を磨いていただいている」と自分なりに解釈し我慢して、2006年3月メシヤ会館俊成祭を迎えさせていただきました。

俊成祭の祭典中、(御教えの翻訳に関わっていましたので)メシヤ様に「御教えの翻訳が終りましたら、この教団から去らせていただきます。」とお伝えし、その完成を目度に2007年3月、真美会から去らせていただきました。

その年の夏、メシヤ教の代表先生とご縁をいただき、先生のどこまでもメシヤ様を御教えに求められるご姿勢と、全く宗教臭くないお言葉、そして、無駄のない的を得たご指導に感動し、「メシヤ教で一から学ばせていただきたい」という思いに駆られ入会をさせていただきました。

そして、11月にはロンドンにて御神体御奉斎をさせていただき、やっと御教え本来の「個人、家庭を中心とした日々の生活の中での信仰」ができるようになりました。

そして、去年の8月、26年分の荷物と気持ちの整理をし帰国、待ちに待った日本での再出発をいたしました。

支部発会につきましては、先生より「(私達家族の)熊本での生活が落着いてからにしましょう。」という、誠に有難いお言葉をいただいていたにも関わらず、「私で大丈夫なんだろうか?」と自問自答を繰り返し決心し兼ねておりました。

そういう気持ちの中、今年の6月に、「地上天国祭」の後、箱根・神仙郷の奥津城参拝のお世話をしてくださったご夫婦が岡山支部を発会することになり、私も8月の発会式に立ち会わせていただく機会を得ました。岡山滞在中、真摯な姿勢で御神業に臨まれて来られた信仰についてのお話しやアドバイスをいただく中、支部発会へ臨む勇気をいただき熊本へ帰り、本日の佳き日を迎えることができました。

メシヤ様は、ご存知のように日本は『全世界の雛形』、九州に付いては、『アフリカの型』と仰っておられますが、その九州の真ん中の火の国・熊本に九州で最初の支部をいただくことに、誠に畏れ多いことですが「これは正しく九州に(、)チョン が入られたのでは!」 と、そして「九州を経て後の大陸へ繋がる大いなる御経綸の始まりである」と捉えております。

当支部は、本当に産まれたての赤ん坊の様に小さな支部ですが、メシヤ様は、『そこで地上天国を造るということは、それがちょうど石を投げて波紋を起こすように、だんだん広がって行って、世界が天国になるということなんです。ですから、小さくても…単にこれだけのものでいても、これが非常に大きな意味になるんです。』とも仰っておられます。

そうした御教えを心に止めて、メシヤ様が仰っておられることを体現できる支部になりますよう、祈らせていただきながら一歩一歩前進して行きたく思っております。

最後になりましたが、メシヤ様は、『いよいよの時初めて諸々の御用を申し付ける。』『身魂の浄まった者から各々の因縁によって、その人その人に、それぞれに因縁通りの御用を申し付ける。』また『その人その人の長所、短所に依り、その人の御用は変る』と仰っておられます。その御用に使っていただきたいという熱く切なる思いで熊本「光の森」支部をスタートさせていただきたく思います。

本日は誠にありがとうございました。

≪体験報告≫
光の中に包まれているような安堵感

開佳菜子

本日は、メシヤ教「熊本・光の森支部」の発会おめでとうございます。

体験発表をさせていただきます、開佳菜子です。

私が、今回初めて北岡さんから浄霊していただいたのは、今年の6月でした。その頃私は妊娠8ヶ月でしたので、あまり胎動を感じていなかったのですが、お腹に浄霊していただいた時だけとても活発に胎動を感じていました。

いざお産の時も、病院に着いてから2時間弱と大変軽い出産で、会陰切開部分の傷や痛みも1人目の時にくらべ治りが早かったと感じています。

それから継続して浄霊をいただいたところ、毎回胸が張り母乳の出がよくなり、熱く感じ手と足に汗をかいていました。浄霊をいただいた後は産後にも関わらずとても体が軽く感じられ良く動けるようになっていました。息子も 浄霊をいただくといつもと比べぐっすり眠ってくれました。

息子が1ヶ月半すぎた頃、顔と頭部に湿疹が出始め、薬を使用したくありませんでしたので、それを機に北岡家で浄霊をいただくようになりました。

御神前で初めて御神体を目にした時は何も感じませんでしたが、北岡さんが祝詞をあげられた後浄霊を始められると、目をつぶっていたにも関わらず御神体を眩しく感じ顔を上に上げられず下を向いてしまいました。

息子は浄霊をいただき始めると寝てしまい、起きているかのように表情を変えて笑ったり怒ったりしていて、湿疹は浄霊をいただいた後は赤みも引きました。

その後、北岡家で浄霊をいただいていると、そのうちに、光の中に包まれているような安堵感を感じ、知らない間に寝むってしまうようになりました。

この様な経験はとても貴重な事だと思いますので、この経験を無駄にせずこれからも浄霊をいただいていきたいと思います。

最後までお聞きくださり、ありがとうございました。

≪代表挨拶≫
人間生活を意義あるものに導く
御論文『文明の創造』

メシヤ教代表 楳木和麿

熊本という土地で支部発会が許され感慨一入

「熊本・光の森支部」発会式おめでとうございます。また、北岡さん、メシヤ様の御尊影御奉斎おめでとうございます。

本日は地元の方々はもとより、西日本の各支部から代表の方々がご参拝され、共にお祝いしていただき、心から感謝申し上げます。

先程、責任者の北岡さんから型についてのお話がありましたが、熊本という土地柄については幾つか思うところがあります。経済成長期の中で言われてきたことは・・・、日本全体でものが売れるかどうかは静岡で確認することになっていますが、九州ですと、熊本で確認することになっています。つまり、熊本で巧くゆけば九州全体でそこそこものになる、ということです。

そういう意味からゆきますと、九州の平均値のところでもあり、中心という言い方もできます。その熊本の艮の方角が玖珠ということになっていますので、深い因縁があります。(熊本の阿蘇山と玖珠の角埋山の関係もそのように古くから語られてきました。)

また、世界救世(きゅうせい)教時代、荒削りながら熊本は非常に勢いがありました。青年会にしても学生会にしても布教力というものが秀でていました。勿論、それ程の指導者がいたことになります。私は、学生時代から良くも悪くも影響を受けました。

そして、主之光教団の前身である「教団護持委員会」の取り組みでも熊本と御縁がありました。この地で、MOAに関する㊙情報を提供してくれる外部者と出会いました。そして、「メシヤ様の御心に適う教団づくり」という教団改革を進める取り組みに対して、間違いなさを裏付けるような神秘体験なども重ねました。それ程、貴重な時を過ごしたことがあります。

そうしたことを彷彿とさせる地で、本日、支部発会を許されたということは、感慨一入のところがあります。

掛け替えのない体験から解かる『霊主体従の法則』

さて、それでは、ただ今報告いただきました開さんの体験をもとに、これから支部を支えていただく方々にとって、学びとしていただきたいところを整理させていただき、挨拶とさせていただきます。

開さんが受胎してから浄霊をいただくことにより変化が起こりました。胎児は、3か月目までは水中動物の状態です。そして、水中動物から陸上動物へ変化する時が悪阻(つわり)の時期になるのです。水中動物と陸上動物の大きな違いは呼吸法と血液を造る場所の違いです。受精卵から細胞分裂を重ねる中で、初めは血液は脾臓で造られる形を取ります。しかし、その後脊髄で造られるようになります。この劇的な変化を遂げる際に、母体に静かにしてもらいたいために悪阻(つわり)があるのです。

そうした胎児の変化を知ることは、母親としてこの上なく幸せなことです。

悪阻(つわり)が酷いというのは胎児が静かにしてもらいたい、ということです。それ程でもない場合は、胎児は丈夫であるということです。ですから、妊娠の場合、胎児を中心に考えなければなりません。それは趣向にも現れますので、子供を産んだ婦人ならばどなたでもご理解いただけると思います。開さんも食べ物などに変化があったことでしょう。男には判らないことです。

(ここで、第一子を身籠った際と第二子を身籠った際の違いを尋ね、それぞれの特性について解説を加えました。)

これは、御教えからゆきますと『霊主体従の法則』ということになります。

受胎は、夫婦の愛の営みによって許されるものではありますが、趣向の変化というところから見ると既に魂が宿っていることが解ります。この魂が本日ご参拝した主神様の分け身魂なのです。その魂が欲するので、母体の食べ物が変化するのです。つまり、魂である霊的なものが主になるのです。そして、それに肉体が従ってゆくのです。こうしたことを『霊主体従の法則』と教えられていますので、どうぞこの機会に覚えておいてください。

ですから、開さんが出産前から浄霊をいただき始めたことが素晴らしいのです。しかも、浄霊をいただくと胎動に変化が見られ、まさしく胎児が喜びを表現していたということになります。また、出産も軽くて、産後の肥立ちも順調で何よりのことでした。

取り分け、

「いざお産の時も病院に着いてから2時間弱と大変軽い出産で、会陰切開部分の傷や痛みも1人目の時にくらべ治りが早かったと感じています。

それから継続して浄霊をいただいたところ、毎回胸が張り母乳の出がよくなり、熱く感じ手と足に汗をかいていました。浄霊をいただいた後は産後にも関わらずとても体が軽く感じられ良く動けるようになっていました。息子も 浄霊をいただくといつもと比べぐっすり眠ってくれました。 」

というところは、浄霊の素晴らしさを私達に再確認していただいているところです。

切開そのものはして欲しくないところですが、産婦人科に委(ゆだ)ねた以上仕方ないところなので、ここでは触れないことにします。しかし、その切開傷があると、母乳が出難くなるのです。何しろ、お乳と子宮は繋がっているので、そうしたことが起きるのです。

ですから、浄霊をいただくことが有り難いのです。

最大の救いは『浄化作用の原理』

ところが、

「息子が1ヶ月半すぎた頃、顔と頭部に湿疹が出始め、薬を使用したくありませんでしたので、それを機に北岡家で浄霊を頂く様になりました。」

ということになりました。

ここで開さんの「薬を使用したくありません」という考え方が素晴らしかったのです。湿疹は『浄化作用』の一つで、毒素排泄手段なのです。ですから、薬を使ってしまうと、見た目は楽なように見えますが、実は毒素排泄を止めてしまうのです。せっかく排泄されようとしているのに、勿体ないことになります。

この湿疹は先天性毒素、然毒が原因の場合が多く、これが排泄されないと幸せに恵まれないところがあります。健康面は勿論のこと、性格も明るさを欠くことになります。そういうことから『浄化作用の原理』が解ることが最大の救いになります。この機会に『浄化作用』ということを覚えてください。

しかも、浄霊をいただくと、排泄が促進され湿疹が短期間で終了することになります。結果楽な形で浄化を終了することができるのです。開さんが

「息子は浄霊をいただき始めると寝てしまい、起きているかのように表情を変えて笑ったり怒ったりしていて、湿疹は浄霊をいただいた後は赤みも引きました。」

と述べていただいた通りです。本当に良かったと思います。

(ここでは、第一子の様子を尋ね、その課題とするところを解説して、支部での学びを深めながら生活の中で取り組んでゆく実践課題を明確にしました。)

お祓いと浄霊の違いについて

これまで、開さんは霊能者にお祓いをしてもらったりしてきたと思います。

そこで、お祓いについて少し説明しておきます。ある問題に対して「霊が憑いている」などとしてお祓いをしてもらう場合があります。仮に憑いた霊というのは、本来救いを求めているのです。それを祓ったり、封じ込めた場合には、霊にとっては願いが叶わないことになります。

私は、今日までの布教経験の中で、祈祷師の人生にも深く関わってきました。そのほとんどの方々が不幸な晩年を迎えていました。それは、祓ったり、封じ込めたりした霊達から恨まれてしまうからです。

これに対して、浄霊をいただくと、その霊までも救いに与(あずか)ることになります。しかも支部の御神前でご参拝して、浄霊をいただくと、更に素晴らしいことになります。開さんが

「御神前で初めて御神体を目にした時は何も感じませんでしたが、北岡さんが祝詞をあげられた後浄霊を始められると、目をつぶっていたにも関わらず御神体を眩しく感じ顔を上に上げられず下を向いてしまいました。」

と語ってくださったように、御神前でご参拝させていただくと、仮に霊が憑いていても御光に浴して、救われるのです。これがこの上なく有り難いのです。これが、お祓いと浄霊の違いです。お祓いは恨みに繋がりますが、浄霊は感謝に繋がります。感謝が徳に繋がり、感謝と徳は私達の人生を良い方向へ導いてくれます。

今まで、どちらかと言うと厄介な存在に見えた憑霊も、救いに与(あずか)れば、感謝の連鎖が生まれ皆が幸福へと繋がってゆくのです。

共に学び、共に時代苦を救う取り組みを

本日を境にして、こうした感謝の連鎖、幸福への拡がりに繋げていただけることを願っております。

現在の日本社会は閉塞感に覆われております。連日流れてくる報道は、日本がいかに問題に包まれているか、ということばかりです。どうも、“日本を嫌いになれ”という趣旨に聞こえてくることばかりです。

そこで、これからの日本人は、“法の精神”を子育ての中で一つひとつ教えてゆく努力をしていただきたい、と思います。

例えば、生活保護の支給額が年金受給者を上回る、という話が出ます。しかも医療費が無償となるため、国の財政を逼迫(ひっぱく)させる一因になっているとも言われます。これには、仕事ができないほどの病気や障害があるという状況下ではないにもかかわらず、しかも、年齢的にも働ける方でも生活保護を受け、過剰診療を受けているという指摘もあります。

これらのことは生活保護の理念の捉え方が不十分であるために起きている問題なのです。本来、病気のために働けない方の生活を保障する、ということから医療費を無償にするということがセットになっているのです。その理念のところを忘れてしまうと、可笑しな受給者が出てしまうのです。

私は、布教してきて、生活保護世帯を減らすことを各地で心掛けてきました。それは、子育てする中で欠かしてはならないことの「嘘をつかない」「自分のことは自分でする」「人に迷惑をかけない」ということを身につけていただくためです。人として最低限身につけておかなければならないことを、信者の方々にはまず身につけていただき、その上で、徳積みへと取り組んでいただきたいからです。

そうした取り組みの中で強く印象に残っている方のことですが、20年以上前のことです。心臓に人工弁を入れていた方がいました。人工弁を入れているので、障害者認定を得て働かずに宗教施設へ奉仕に上がっている人がいました。メシヤ様は、『人間は働くために生まれてきている』と仰っていますので、浄霊を取り次ぎながら、人間の使命について話しておりましたところ、そのことに気付いて仕事に就かれました。

そして、当時人工弁は10年に一度取り替えなければなりませんでしたが、その手術をした際、まっさらのような弁の状態であったことを医者が驚いたそうです。浄霊をいただき、人としての道を歩んだからこそ、許された御守護であろうと思います。

何故、こうした話をするかと言いますと、先程の“法の精神”を弁(わきま)える姿勢がないと、民主々義が成熟していかないのです。

戦後民主々義が入ってきた際に、背景にあるキリスト教(法は神との契約という概念に基づき、それだからこそ法の下に人は平等なのである)を学ばずにきてしまいました。ですから、民主々義が型ばかりになっているのです。

メシヤ様は『立法府と廃法府』という御論文を著述されていますが、現代に求めてみますと、非効率な財政運営が日本を疲弊させ、官僚主導の政策が却って不公平感を増幅させているなど、問題を山積させています。それを見直すことが問われているのです。そうしたことを支部を通して学び、確認して、将来の人材を育てていただきたいのです。

勿論、人の歩む人生は、それこそ十人十色です。しかし、意義ある人生を歩んでいる方はいか程でしょうか。人生の喜び、人生の不思議さ、人生の美しさを実感しながら歩んでいただきたい、と切に願っています。それが、時代苦を救うということだとも考えています。

「浄霊力伝授」の場が許されたことがこの上ない慶事

開さんのお母さんは、随分前に北岡さんのご案内で大分まで参拝に見えて、「浄霊力拝受お願い書」をお書きになり、メシヤ様より浄霊力を賜りました。下のお嬢さんは、その時共に来られていましたが、お姉さんの方は本日が初めてです。そして、本日、先程「浄霊力拝受お願い書」をお書きになりました。

本日を期して、このように「浄霊力伝授」ができる場所が熊本の地で許されたことがこの上なく目出度いのです。

メシヤ教では、浄霊力は積極的に伝授されることをお勧めいたしますが、入会はそれ程お勧めいたしません。浄霊の体験を重ねて、絶対力の根源に目覚め、自らも他人様へ「浄霊力伝授」をお勧めする気持ちになられ、しかも、メシヤ教の御神業を支えてゆきたい気持ちになられた際に入会していただくことになっています。そうしたことのお世話を責任者の北岡さんに担っていただきます。

ですから、これからお知り合いの方々へ浄霊力のことをドンドン知らせて上げてください。ただ今説明したように、入会を迫ったりはしませんので安心してお取り組みしていただきたいと思います。(笑い)

また、繰り返しになりますが、人間生活を意義あるものにするために支部を通して学び合っていただきたい、と願っております。現在、その学びの根幹としていただくために、『文明の創造』というメシヤ様の御論文を仕上げております。是非、活用していただきたいと思います。

共々に救いに取り組んでいただきたいことを願って、発会式の挨拶といたします。本日は誠におめでとうございました。(要旨:個人的な話は割愛しました。また、祝賀会での話も一部挿入してあります。)

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