メシヤ講座・特選集no.28(平成15年5月分)

<体験記>
網膜色素変成、リストラ、相次ぐ苦難から脱却
浜松市 國立末子

平成7年8月に私の主人は網膜色素変成という病気を宣告されました。それより以前から主人は小さな自動車事故を繰り返すようになっており‘変だなあ’と思っていたのですが、手術もできない、薬もない、原因もわからないという大変な病気だったとは思いもよりませんでした。

医者の話では、発病は平成2年頃で、ほとんどの方が失明するそうです。目の前が真っ暗になりました。さらに、追い討ちをかけるように勤め先から休養を取らされました。その後半年ほどでリストラされました。本当にどうして良いかわかりませんでした。

当時住んでいた家は社宅でした。先代の社長からは「退職する時は、退職金代わりにこの家をやる。」と言ってもらっていましたが、バブル後で会社の業績も決して良くなく、運転資金の抵当物件になっているありさまでした。約束を交わしていた先代の社長が他界していましたので、いただくことは困難さを極めていました。

私は、二重の不安で夜も眠れませんでした。当然主人はもっと落ち込んでいました。元気がなく、ため息ばかりをついていました。

ため息ばかりだった主人に変化

その頃信仰を持っているには持っていたのですが、ただなんとなく参拝をさせていただく程度でした。病院では治らないので、神様に縋る以外には方法はないと思いました。そして当時浜松にいらした楳木先生にご指導を願ったのでした。先生は次のように話してくださいました。

「網膜色素変成は視野の中心から悪化する例が多いが、その逆なので‘不幸中の幸い’でしょう。そのように受け止めて、そのことに感謝できれば道は開ける。そしてその素晴らしい想念を礎として、正しい願いを持って神様に縋れば必ず良い結果を許される。

具体的には、①浄霊を取り次ぐ場合、眼はもちろんのこと後ろ頭も念入りにする。②問題を解決するには霊性の向上に取り組む必要がある。土日を除いて毎日通ってくること。③家のことは、この機会に新築する方向で考えて外部者(業者)を絡めて話を練っていけば良い。理に叶って具体的に進めれば、必ずうまくいく。」

主人はそれから弁当持ちで通い始めました。私は週に二回としました。不思議なことに、主人は日を重ねる内に元気が出てきました。また参拝の折りの祝詞の声が力強くなり、友人にも浄霊を取り次ぐようになったのでした。落ち込んでいたことが嘘のようで、頼もしくさえ感じました。

同12月から新たな仕事に付くことになりました。そして家のことは、先生から事細かくご指示をいただきながら夢の実現に向かって取り組み始めました。

先生のところへ参拝した折、業者の方と定期的に打ち合わせを行なうようになりました。まず設計図を作り始め、家相方位を先生に見ていただいてはやり直しを重ねました。時には‘まだはっきりとしていないのに、こんなに具体化しても仕方ないのでは・・・’と、戸惑う場面もありましたが、ご指示通りに取り組んでゆきました。

設計図が出来上がると会社の社長へ報告し、少しずつ話し合いを重ねてゆきました。それから盆暮れの挨拶の折には、必ず新築に関する様々な計画書を持参し相談しつつ打診をしました。

また、予算的なことも入念に詰め、退職金代わりとして譲渡を受けた場合の納税額を業者の関係者(税理士)に算出してもらい、イザというときの準備も重ねました。時間は掛かりましたが、驚くような緻密な手順でした。

見事に新築が実現

そして迎えた平成11年3月、社長から‘名義変更ができたから書類を取りに来るように’と連絡が入りました。‘奇跡が起きた!’と思いました。

大御神様、メシヤ様のお蔭です。また時間は掛かりましたが、社長に感謝いたしました。そして何より、先代の社長と共に社業に励み、40年近くまじめに勤めた主人に感謝でいっぱいでした。

家の方は準備万端整えてありましたので、すぐに着工しました。そして11月、見事に完成いたしました。家など建つなんて私にとっては夢のまた夢でしたのに、実現してしまったのです。感謝でいっぱいです。

また主人の目は、組織が壊れている部分は治りませんが、現状維持で過ごさせていただいています。この現状維持ということは、この病気では奇蹟的なことだと伺っています。浄霊のお蔭だと思います。ありがたいことです。

今、我が家の一部をメシヤ教の祭典施設に活用していただいています。私が絶望的だった時に救いの場であったのが、楳木先生のいらした宗教施設でした。これから我が家の御神前が‘救いの場’となり、一人でも多くの方が、幸せになっていただきたいと願っています。

神様のお役に立たせていただいていることがこの上ない幸せですし、主人や子供たちとこの家で恙無く過ごさせていただけることに感謝しております。ありがとうございました。

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「学生の皆さんへ(下)

メシヤ教代表  楳木和麿

言葉の持つ本来の意味や言霊の持つ力

「ところで、日本には中国より古い文字があったことはあまり知られていません。その一覧表が在ったからこそ平仮名は生まれたと理解するのが自然でしょう。皆さんが自由自在に使用している平仮名は、漢字から創られております。

『安⇒あ』『以⇒い』『宇⇒う』『衣⇒え』『於⇒お』となったことはご存じですね。私は小学5年生の時に知りました。驚きました。そして不思議な思いに浸りました。

平仮名自体美しい文字なので不満はないのですが、元々の文字を知っていないと『あいうえお』の持つ本来の意味や言霊の持つ力というものは理解できません。意味を知らないと言葉が乱れる一因にもなります。

古い文字とは古代文字と称されていますが、現在使用されております平仮名とだいたい同数です。代表的な古代文字の‘ホツマ文字’などは、母音と子音に対応する要素をそれぞれ定め、二つの組み合わせによって文字を形成しています。それが実に論理的な意味を含んでいます。

また、古代人は記録を執らずともほとんど記憶していたので、文字の数を多くは必要としていなっかったようです。しかも、一文字一文字に多くの意味を持っており、高い霊性によって何を意味するかを判断できていたようです。信仰において‘気配り’‘心配り’‘勘働き’を課題とするのは、そうした日本人本来の特性を甦らせるためなのです。

よく‘メモを執りなさい’と言いますが、記憶力の弱さの現われですね。薬毒のために人々の記憶力が弱まったので、文字を増加させないといけなくなり漢字を導入したのです。日本人にとって不幸なことは、覇権主義と同時に導入せざるを得なかったことです。

これも経綸上のことなので仕方のない部分もあるのですが、本来の日本人の持つ『和』を尊ぶ心が薄れて、しかも変質してしまったことは残念でなりません。そこで、高い視座でこうしたことを考えるために、参考にしていただきたいことを話しておきます。

‘困った時の神頼み’式の信仰を生みやすい土壌

今、宗教というものは学問的には宗教哲学、宗教社会学等10を超える角度から研究されています。また関係省庁で掌握されている宗教法人は10万を遥かに超えています。しかも各法人が届け出ている信徒の総数は、日本の人口の2倍を超えています。

これは何を意味しているかと言いますと‘宗教はサッパリわからないもの’だということです。しかし、やればすぐにできます。何だかサッパリわからないけれども、やればすぐにできる―それが宗教だということです。それだけに日本の場合‘困った時の神頼み’式の信仰が生まれやすい土壌があるわけです。

ところが、この‘困った時の神頼み’式で信仰をいくらやっていても人間として完成されないのです。教えにあります『神格を得る』というところなどには、とうてい到達できません。

また、これから国際舞台に立って活躍したい、と考えている人は特に宗教というものを理解しておかねばうまく行きません。世界の多くの国家や民族は独自の宗教をもち、それを価値観の根っ子にしています。また、資本主義や民主主義といった考え方、あるいは科学思想にさえ根っ子のところに宗教が影響を与えています。

11世紀、イスラム世界の学問の膨大さは驚異的

アラビア数字や代数学に関する逸話を知っていると思います。これについては、科学史が専門の村上陽一郎さんの所見を拝借して説明します。スペインやポルトガルを擁するイベリア半島は8世紀にイスラム教徒の手に落ちました。以来キリスト教勢力は、‘レコンキスタ’(国土回復戦争)をイスラム世界に挑み、長年月をかけてピレネ-山脈から南の地域をキリスト教側の支配下に収めて行きます。

11~12世紀の頃、イベリア半島のトレドという町がキリスト教側に戻って、教会組織が再建されました。赴任した一人の大司教がイスラム教徒の残していった文献の調査を始めます。そこで、ヨ-ロッパの人々は初めて自分達の知らない膨大な学問の世界があることに気づいたのです。

たとえば、きちんと‘位取り’をして、桁をそろえ、空位の桁を示す‘ゼロ’の表記などはイスラム世界の発明したことでした。代数学は、未知数を使ったり方程式を立てたりしますが、これらもイスラム世界の発明です。キリスト教側には‘ゼロ’の概念がなかったのです。ですから‘21世紀は2000年からではなく2001年から’ということを主張することになるのです。

そして、トレドの町で、ヨ-ロッパ人が初めて本格的に接したイスラムの学問は、ギリシャ・ロ-マ本来の学問とアラビア独自の学問の双方を含んでいました。それらの質の高さ、量の多さに圧倒された大司教達は、何とか自分達の世界にこれらを伝えなければならないと考えたのです。

しかし、夢中になってアラビア語やギリシャ語の書物に書かれていることを翻訳してマスタ-したものの、それらはキリスト教と何の関係もないものです。そこで、イスラム世界から多量の学問を学ぶと同時に、それらをキリスト教的に変質させ、あるいはそれらの学問とキリスト教信仰とを一体化させる仕事をさせなければならなかったのです。その作業から生まれた学問体系が‘スコラ学’と呼ばれるものです。

そしてそれに関連して、学問をするための場所として初めて大学も生まれました。‘自由七科’が学ばれ、現在日本の大学で‘一般教養’などの名称で知られている概念の出発点をなしたものでもあります。‘自由七科’についての話は別の機会に譲るとして、スコラ学では‘神は二つの書物を書いた’という考え方が支配的でありました。書物の1つは、言うまでもなく聖書ですが、もう1つは自然です。

聖書を読むのと同じくらい熱心に自然を探求したのですね。‘神は聖書を人間の言葉で書いたけれども、自然は数学の言葉で書いた’ということになるのですね。そして、話は前後しますがコペルニクスがカトリックの司祭であったことはあまり知られていませんし、ケプラ-やガリレオ、ニュ-トンも熱心に神学の分野で発言し、キリスト教信仰の正当性の擁護のために全力を傾注したことは見落とされています。

それが‘科学革命’へとつながり、17世紀末ヨ-ロッパは初めて、自分達独自の自然解釈を打ち出し、ギリシャ・ロ-マ・イスラムの理論を1つずつ置き換えていったのです。置き換えの積み重ねによって、ヨ-ロッパは借り物でない自身の生み出した‘近代科学’によって武装し、世界の歴史の中で主導権を握る立場を獲得したのです。

その主導権は、現在アメリカに移ったかに見えます。移ることによって、その考え方はどのように進化したのか、ということが最大の関心事です。しかしブッシュ政権を支えていると言われるネオコンの考え方などを見ていると、大きく進化したようには受け取れません。それは、真の意味での‘神の書かれた書物’を読み解いてはいないからでしょう。

皆さんにはそうした課題の延長線上にいることを自覚して、日々勉学にお励みいただきたいと思います。

本来、人間生活は宗教そのもの

そこでもう一度宗教というものについて考えていきます。宗教の起源とされているのは、ネアンデルタ-ル人の時代ということになっています。約6万年前です。発掘されたネアンデルタ-ル人の遺骨の上から花粉が検出されたということでそのようになっています。

つまり、死者に花を手向けたわけですね。人類史の最初から、死者に花を手向けて死を悼んだり、人に親切にしたり、人に優しくしたり、あるいは感謝したり、ということがあったのですね。お葬式も、6万年の歴史があるのですね。

そして、近年次々と発掘されている縄文遺跡等を見ると、祭事場を中心に集落が形成されており、墓地なども他界した年齢に応じて設けられています。また出土品は生活用具と祭祀用具です。

因みに、漢字の‘左右’は掲げた手の下に‘工’と‘口’の表記が加えられてできています。‘左’には‘工’が記されていますが、‘工’は神を呼び、神に祈るための呪具でありました。工を縦横に重ね合わせたかたちが‘巫’の文字になったとされていますが、‘左’の文字は巫術の呪器‘工’を左手に持つ状態を表しています。

‘右’の‘口’はサイに由来し、おわん形の器を指します。古代の巫術では、このサイという器の中に神への祈りを記す紙片を入れ、神意を問うたそうです。‘右’の文字は、巫術の呪器サイを右手に持つ状態を表しています。

こうした点からもわかるように古代の人間生活は宗教そのものでした。そして現代の文化形態というものは、その宗教を中心点として遠心分離的に発展してきたものだと捉えられています。岸本英夫氏の説です。

宗教の中の要素、例えば神話の世界が哲学に、村祭りの世界がスポ-ツや芸能に、おまじないの世界が医学や科学に、というように段々と細分化され発展してきたわけです。それが文化の発展です。ところが、中心の宗教というものが忘れられたり、宗教そのものが外郭の文化要素の影響を受けてしまったり、発展しなかったために、現代社会の抱える諸問題が発生しているのです。

ですから、現代社会の抱える諸問題というものは、根本の宗教を思い出し、しかも問い直すことによって解決に向かうのです。これが社会問題を解決するポイントです。

先ほど例に引いたネオコンは、はたして進歩した宗教の基盤を持っているでしょうか。こだわりは感ずるものの、新しい世界秩序づくりを主張したとしても、最高神の御意図を求めて理念の構築をなしていることは窺い知れません。それでは、フセインはと考えますと、これは話にならないわけです。たとえ神の御名を口にしても、そこには進歩した宗教の片鱗すら見えません。

最高神の御意図を求める取り組み

また、日本を震撼させたオウムによるサリン事件にせよ、最近何かと騒ぎとなっています‘白装束集団’にしても、私達は高い視座から理解しておかねばならないことがあります。それは、霊能力をもつ人が、欠かしてはならないことがあるのです。少し触れておきます。

霊能力を体験によって磨く、ということがまず第一にあります。もちろんこれは‘人類救済’に取り組むということです。

次は、学習を重ねる、ということです。メシヤ在世中(昭和20年代)は、すべての全国紙に目を通し、ラジオは浴室にまで設置し寸暇を惜しんでニュ-スに耳を傾けています。最高神の代行者として救済活動に取り組む立場にあってもなお、世界情勢や国内情勢を通して最高神の御意図を求めていたということです。

そして3つ目は、‘人格の向上’ということになります。特別な立場にあろうとも、‘更なる向上’という課題はあります。最高位に向かって一歩一歩近づこうとする努力の生活者でなくてはならないわけです。しかもその努力が、苦痛ではなく‘遊行’でなくては本物ではありません。

この3点を欠かしてしまうと、その霊能者を中心とする集団は‘カルト集団’化してしまう恐れがあるのです。カルトはある意味、時間が止まってしまっている面があります。時代は主神様の御意図のままに進んでいるにもかかわらず、1つの事柄にとらわれてしまうのですね。ですから、社会病理という表現は当たっている面もあるのです。

ただ政府側も‘カルトは何を人類に伝えようとしているのか’という認識や柔軟性がないために、お互いに役割を果たせないまま不幸な現実に見舞われます。残念なことですね。

私達の学びとしておきたいことは、私達の姿勢のあり方です。私達も浄霊力を授かり、霊能力を身につけていますので、更なる救済活動、学習、人格の向上に努めていかねばならないということです。

そして人として努力していく時に、‘自分だけやっても・・・’という思いがむくむくと湧いてきたり、面倒くさくなったり、消極的になったりすることがあったりしますと、薬毒に負けている状態です。また霊の曇りが発生している精神状態です。そのときこそ浄霊をいただいてください。

浄霊とは、今の時代に活き活きとして、嬉々として生きるために取り次ぎ、いただくものなのです。

視野狭窄状態に陥れる高波に打ち克つ自己形成を

特に皆さんが生きるこれからの時代は、欲望の追及を余儀無くされる経済至上主義、高速で多様な価値観の氾濫を生むマスメディア、人々の精神に勘違いを生む理念を履き違えた民主主義など、視野狭窄状態に陥れる高波が次々と押し寄せ続けます。よっぽどしっかりとした自己を形成していかねばなりません。

以上のことを心において、今一度メシヤの教えに流れる精神を現代に求めつつ、考え、生活してください。その精神とは

1、即時性・・・すぐやる。
2、利他愛・・・まず人のために。
3、合理性・・・理屈に合い、常識的。

ということです。何事もこの3点をチェック項目にしてやってみてください。きっと実り多いものがあると思います。(要旨。このお話の内容は中学2年生を対象にしたものです。)

<参考文献>
「宗教学」岸本英夫・大明堂
「新説『ホツマツタヱ』」宮地正典・徳間書店
「かたち誕生」杉浦康平・日本放送出版協会
「新しい科学史の見方」村上陽一郎・日本放送出版協会
「真理への旅人たち」米沢富美子・日本放送出版協会
「講話集」長村信博・教団資料