メシヤ講座no.99日月地(平成21年4月)

楳木先生への質疑応答1〜メシヤ教立教に至る経緯について

 

質問者 来月、メシヤ教本部御神体御奉斎十周年を迎えるということで、まずもって、おめでとうございます。

 

楳木先生 ありがとうございます。

 

質問者 楳木先生が世界救世(きゅうせい)教を退職されたのが、平成十一年の二月。初めに、退職迄の経緯をお聞かせ頂いて宜しいでしょうか。

 

楳木先生 当時私が奉職していた主之光教団で御神体が変わったという事が非常に大きいですね。それから、この御神体を変えた時に、善言讃詞を変えた、変えたと言うより、これが本元だという風にして、善言讃詞を随分変えたのです。その時点では、御神体が決まる迄の過程、それから御神体そのものに対する疑問が私にはあったのです。何故こういう表装、お文字にしたのかという事。

 

質問者 「五六七大神」の御神体ですね。

 

楳木先生 私としては、「五六七」だけでいいのではないかという気持がありました。

 

質問者 「大神」をつけないという事ですか。

 

楳木先生 そうです。もしくは、「日月地(じつげつち)」。当然のことながら、メシヤ様のお文字をそのまま使うのですから、切り張りする必要はない訳です。それから、もう一つは、善言讃詞を、メシヤ様がおつくりになった所へ戻すという取り組みであったのですが、改まった善言讃詞の中で、唯一、「仁愛(みろく)の御手に帰一され」という部分が抜けていたのです。これが抜けてしまうと、当時教団護持委員会が願っていた世界救世教の統一という事もないし、更に広く、メシヤ様の元に、全教団が帰一して行くという言霊も出て来ない。これはまずいのではないですかと当時の上司に申し上げたのですが、返って来た答えは「もう印刷した後だからいじれないよ」というものでした。

 

質問者 印刷した後だからいじれないというのは本末転倒な話ですね。

 

楳木先生 そうなのです。だから、こういう事では教団改革は出来ないのではないかと。根本的なことですから。それから、主之光教団そのものがどんどん変容して行ってしまったという事が、教団を離れる大きなきっかけとなりました。

 

質問者 それで、平成十一年の二月に教団を離れられる訳ですが、御神体御奉斎が五月五日。その間の三ヶ月は、どのような期間だったのですか。

 

楳木先生 当初は、メシヤ教を立教するよりも、教団改革の取り組み(「教団護持委員会」発行の内報一号「総長所信表明」で宣せられた教団改革)を続けようという気持だったのです。ですから、御神体を変えるということは計画にはなかったのです。まずは、教団浄化から改革に至る実情、経緯を書籍に著わし出版して、広く皆に読んでもらおうと考えたのが出発点でした。

 

質問者 それは昭和五十八年に始まる、現在の三派分裂のきっかけとなった教団浄化の発端から順を追ってという事でしょうか。

 

楳木先生 そうです。当時私が知り得た事(教団裏面史と言われるものも含めて)を全て公開して行こうと考えていました。その執筆を北海道で行なおうと思っていたのですが、全ての準備を整えたところで、ある事情により、北海道に行く事がまったく出来ない状態になってしまったのです。それで、急遽私の地元である九州に帰る事になって、最初の企画が崩れていってしまいました。それで、“掛け替えのないものを失うということは、自らの進む道が御神意に適っていないのでは”と考え、まことに短時日で多義にわたり考えたのです。そこで到達したことは、メシヤ様の救いの力と方法をゼロから広めて行くという取り組みをしなければならないという事。改革を声高に唱えていても所詮人の批判だけになってしまう部分もありますから。

 

質問者 その出版の企画は、自費出版ではなく、大手出版社からの一般的な公開を考えられていたのですか。

 

楳木先生 そうです。でも、それが流れてしまって、ごくごく短期間のうちに、メシヤ教というものをやって行こうという気持、状況になって行ったのです。そして、それならば御神体をどうするのか、お光をどうするのかという事に考えが及んだ時に、「○にヽ(○の中にヽを入れて主『ス』と読む)」という文字が一番ふさわしいと。それは、主之光教団で、五六七大神という御神体が出来た時から、

本来の御神体はこれで良いのだろうかという疑問をもってご参拝していると、ある一文字だけがずっと浮かんできていたのです。

 

質問者 それは、文字のイメージが浮かんできたという事ですか。

 

楳木先生 ご参拝していると、一文字だけ浮かんでくるのです。それは、「光」というメシヤ様の大きなお文字があって、最初はそれかなと思っていたのですが、最終的には、それは「○にヽ」というお文字だったのです。それで、急遽御神体の準備に取りかかったのが三月になってからで、出来上がったのが四月の下旬でした。それで、御神体御奉式をいつにしようかと考えた時、自然に五月五日となったのです。

 

質問者 昭和三十年三月三日に、メシヤ降誕本祝典が執り行なわれる予定だったという事なのですが、それとの関係で五月五日という日を選ばれたのではないのですか。

 

楳木先生 三月三日の事は、その時はまだ知らなかったです。

 

質問者 それでは、それを意識して五月五日とされたのではなかったのですね。

 

楳木先生 メシヤ降誕本祝典に関しては、東方之光教団の資料を読んで後から知った事です。それで、それを知った時に改めて不思議な気持になりました。また、本部を大分県玖珠に置く事になったのも、当初の自分の計画ではなかったのですが、これにも理由があったという事が後になってわかって来ます。どうしても玖珠で御出ましにならなければいけないように神様からさせられたのです。御神体の「○にヽ」の御文字は、大本神諭や日月神示で説かれています通り転換期を導く重大な御文字です。またホツマ文字では「あ」です。言霊学上、「あ」という言葉が地球誕生以来初めて現界に響くに就いては無声の「クスツフムヌル」が霊界で発せられて可能になったとされています。その事を認識させるために「クス」の付いた土地を選ばれた。ですから、この御神体は玖珠の地でなければ出すことができなかったのです。

 

質問者 しかも、御神体を御奉斎したのが五月五日、つまり、「ス」の月の「ス」の日です。不思議な経緯ですね。偉大な、我々の理解を超えるお導きを感じざるを得ません。

 

楳木先生 自分の意図で、そのようになった訳ではないのです。

 

質問者 そして、御神体御奉斎の後に、メシヤ教信仰読本 「祈りの栞に寄せて」を出されていますが、その序章の次に、メシヤ様が昭和二十五年二月四日に発表された「開教の辞 世界救世(メシヤ)教の誕生に就て」と、同じく昭和二十五年三月十一日に発表された「世界救世(メシヤ)教 教義」が掲載されています。これについて、昭和二十五年という年がメシヤ様、御神業にとってどういう年であったのか、そして、この時期に何故世界救世(メシヤ)教の創立出現となったのか、そして、これも非常に重要な事なのですが、開教の辞が発表されてから丁度五十年を経た平成十二年二月四日のメシヤ教立教時において、何故この二つの御論文を中心に持って来られたのかという事ついて、お聞かせ下さい。

 

楳木先生 そのように言われてみると丁度五十年後にメシヤ教として改めてスタートしたことに深奥なるお導きを感じますね。

「開教の辞」と「世界救世(メシヤ)教教義」をメインにして行かなければならないという事は、教団護持委員会にいた時からずっと考えていた事です。それまで、メシヤ様はずっと表に出られなかった、顧問として後ろに控えていらっしゃったのですが、初めて表に出られたのがこの「開教の辞」の時です。そして、この時に、いろいろな事を計画されていらっしゃいます。組織形態の事、御神体もそのうちに変えるという事、だから、これが、世界救世(メシヤ)教の御神業を推進して行く時の原点になるべき御教えであるとずっと考えていました。この御精神に沿って、教団をつくりあげていかなければいけないと思った訳です。

 

質問者 今現在、メシヤ様を教祖と仰ぐ団体はかなりの数に分かれていますが、結局、メシヤ様信仰であるのなら、どの団体であっても、そもそもの原点をこの御教えに置いた上で御神業をすすめて行くべきであると私も常々考えているのですが。

 

楳木先生 全くその通りです。

 

質問者 でも、中々この原点には辿り着かないというのが現状だと思われます。

 

楳木先生 それは、名前にこだわっているからでしょう。現在分かれている教団は、世界救世(メシヤ)教という名前を使っていない。だから、そもそもこの「教義」というものが存在しているという所に行かない訳です。

 

質問者 昭和二十五年一月三十日に天国会中島一斎先生の突然の帰幽という出来事があり、メシヤ様は、それから僅か五日後に、日本観音教団と日本五六七会の自発的解散と世界救世(メシヤ)教の創立という、非常に早い展開で御神業を推進されていらっしゃいます。にも関わらず、その数ヶ月後に、内部の争いが原因で御法難が起きてしまう。人を裁かない、争いを起こさないという前提である筈の宗教団体の中で、そういった事が起こってしまう背景についてお伺いしたいのですが。

 

楳木先生 この事に関しては、当時の方はもう既にいらっしゃらないので正確な事情を把握するのは中々難しいのですが、二月と三月のメシヤ講座に掲載されている対談を読んで考えていきますと、まずは、戦前は民間療法として岡田式健康療法を行なっていた。最も根本の部分には夜昼転換などの御教えはあっても、名前が岡田式健康療法となると、根幹的な事を知る人が少なかったのです。そして、戦後、大発展したという事が次にあり、その発展する中で、昭和二十五年に世界救世(メシヤ)教が出来上がった。しかし、信仰的な土壌が昭和二十五年当時どこまで出来ていたかという事が問題で、それがまだ出来上がっていなかったから、権力抗争という問題がすぐに起きてしまったのではないかと思われるのです。

 

質問者 メシヤ様の御神格も当時は理解されていた方が少なかったという事ですか。

 

楳木先生 そうですね。

 

質問者 そういった事を踏まえて、現在取り組んでいらっしゃる「世界救世(メシヤ)教復興事業 趣意書」について。一つ一つの取り組みを、具体的に教えて頂けますでしょうか。

 

楳木先生 まずは、これは中々難しい事があるのですけど、岡田茂吉という御方を教祖として仰いでいる教団の人達が、岡田茂吉という御方はメシヤ様であるという、御神格を認識する所に立って頂かない事には、真の世界救世(メシヤ)教の復興という事にはなって行かないのです。これが第一です。それを認識した人が、世界救世(メシヤ)教の大きな取り組みの中に入って行く。それぞれの活動は、皆、財産、資産も持っているので独自性の中でやって頂いて良いのですが、唯一、大事な事は、メシヤ様の御神格を皆が認識するという事。そして人々にその恩恵に浴していただくことが最も大切です。それから、メシヤ様の御教えを皆が共有して行くという事です。

 

質問者 それぞれの教団が、御教えを自分の教団に都合の良い様に変えていたり、抜粋していたりするので、そういう事をしないで、「岡田茂吉全集」として統一するという事ですね。

 

楳木先生 「岡田茂吉全集」にしても、若干原本を変えている所があるのです。ありのままの全御論文、全問答形式の御教え、全詩歌、そうしたものを皆で共有して行くという事が、大きな流れとしてあります。

 

質問者 それは大変大きな取り組みになりますね。

 

楳木先生 完璧に何処迄出来るかはわからないけれど、やはりそういう事に挑戦して行く。そういう取り組みが、世界救世(メシヤ)教復興事業の中でメインになって来ます。まずはメシヤ様の御神格を認識するという事。それから、メシヤ様の全御論文、全問答形式の御教え、全詩歌を共有して、メシヤ様の御心を求めて行くという事。そういう取り組みを、日々実践させて頂く土壌を作って行くという事が重要です。それから、先程も話題になった「開教の辞 世界救世(メシヤ)教の誕生に就て」、これを基に組織作りをしていかなければなりません。「開教の辞」を原点に置いて、世界救世(メシヤ)教というものを形成して行きます。

 

質問者 メシヤ様のなされようとした事を、今、具現化して行かなければならないという事ですね。

 

楳木先生 そう、メシヤ様のなされようとした事が、何によるのかと言うと、この「開教の辞」によって一つ一つ具現化して行くしかないのです。他の御教えではなく、全体像としてはこれしかないから。

 

質問者 「開教の辞」は、メシヤ様が書かれた御教えの中でも、かなり具体的に、はっきりと断定して書かれたものであるように思います。

 

楳木先生 言い換えれば、これの実践が世界救世(メシヤ)教復興事業だと言っても過言ではありません。

 

質問者 ありがとうございました。そして、本日最後のご質問です。次回は、「世界救世(きゅうせい)教 内紛、分裂の真相を基に改革を」の内容について、より深く踏み込んだ質問をさせて頂きたいと考えているのですが、何故、今この連載をメシヤ教HPにて始められたのかという事についてお伺いしたいのですが。

 

楳木先生 それは、あの連載の中にも書いている事なのですが、世界救世(きゅうせい)教の中で、来年の三月に、三派が一つになる予定であったのを先送りしてしまったという事があります。

 

質問者 今年の元旦に発行された「大経綸」第九号に書いてありましたね。

 

楳木先生 あれを読んで、これは、このままだと事実が消されていってしまう。風化してしまうとの危機感を感じました。

 

質問者 もう、これはいかんと思っていらっしゃる信者さんは少なく、大半の方が、当時の事を知らないか、もしくは、どうにもならないと諦めてしまっているかのどちらかではないかと思うのです。

 

楳木先生 だから、ここでどうしても事実を書いておかないと、現在の世界救世(きゅうせい)教の中で「改革」と言っても、真の改革の出発点がわからなくなってしまっているのです。そういう意味では、改革を遡って行った時に、昭和五十八年の教団浄化の発端だけでなく、この、「開教の辞」の昭和二十五年迄遡る事が出来れば、更に有り難い事だと思っています。

 

質問者 そうですね。何故教団浄化が起こったのかという事を突き詰めれば、結局は原点である「開教の辞」が書かれた頃まで行き着いてしまう訳です。考え方として、御法難も、教団浄化も、全て一つの御経綸の中で起こった事だというものがあるのですが、そう考えてしまうと、気分が落込んでいる事を「鬱病」として片付けてしまったり、幼児期の問題を「トラウマ」と結論付けて解決した様に思い込んでしまったり、何かの責任にして結論づけてしまう、「これも御経綸だから」という事で終らせてしまう。そうなると、改革というものが先に進まない事になりますね。

 

楳木先生 そうですね。我々の中には「性(さが)」というものがあり、昭和二十五年の御法難を引き起こした「性(さが)」が教団の中にある限り、内紛、分裂といった事が永遠に続く訳です。だから、昭和二十五年の御法難が、教団改革の原点だと思って頂く為に、今、あれを連載しているのです。その様に認識して頂ければ大変有り難い訳ですね。

 

[メシヤ教浜松支部にて 2009(平成21)年4月12日]