世界救世教総長 中村力
皆さん、こんにちは。
ご多忙の中、度重なる幹部会で、足を運ばれる事だけを考えてみましても、本当に大変な事と思います。
加えて、教団を揺るがせる事件の渦中にあって、信者さん方のお世話には、筆舌に尽くせぬご苦労がある事を私は、十分承知致しております。
今回の事にあっては、教団護持の為には、専従生命をかけるという覚悟をされてこられた方も随分いらっしゃるという事でありますが、ひたすら世の為、人の為と願い続け、一筋に救世の道を歩んで来られた皆さん方の教団愛、そして信仰を思う時、本当に胸がつまります。
皆さん方の信仰に敬意を表し、高い所からではありますが、ご苦労に衷心よりおねぎらいを申し上げます。
そして、教団未曾有の事件において、全国の資格者、信徒をはじめ、社会の心ある人々に、強い不信感と大きな混乱をまねいた事に、総長の座に在る者として、大神様、明主様に、その不徳を深くお詫び申し上げ、さらに、教主様のみ心を煩わした事に対して、心よりお詫びを申し上げます。
さて、私は、告発を受けて以来,被疑者の立場におかれましたので、司直の手によって潔白が証されるまでは、言動の全てが歪曲され、不要な誤解を生ずる事から、今日迄、沈黙を守ってまいりました。
そうした制約を受けた中で、私は、機会あるごとに、「私の白黒が司直の手によって明らかにされれば、事件の大半は解決する」と信じ、“教団の主体性を明確にして教団の秩序を回復し、社会と信者さんの信用を回復したい”と終始一貫した姿勢を申し上げてまいりました。
しかし、我が身の潔白を神様に誓えるからこそ耐える事ができたこの苦しい沈黙も、或る者は、その信仰の確かさを認めて是とし、或る者は、「真実を語るべし」と叫び、また或る者は、「ケジメをつけるべし」と言って、私の沈黙を非とされました。
皆様方の心情を考えれば、そのどれもが明主様への信仰を柱とした率直な声であります。特に、日々、生活の中で明主様のみ心を世に問うている純一無雑な信者さんの声こそ、神の声であります。
私は、そうした声を合掌して傾聴し、誠意をもって応えていく事こそが、活力ある教団を造る為の必須条件であると思うのであります。
そうした意味で今日は、教団愛のもとに数々の苦労を乗り越えてきて下さった皆さん方に私の率直な心情を吐露したいと思います。
まず最初に、取り調べに関する事から入りたいと思います。
目的の為には、手段を選ばず怪文書をつくり、事実無根の事をデッチあげ、告訴し、信者さんを騒動に巻きこんだ人々の在り方、他人の痛みを意に介さない人々の在り方に、私は、今日迄、息をのむ思いでまいりました。こうした中で、先回の幹部会で申し上げました様に、秋季大祭のあけた5日から、私の身の潔白を証す事への第一歩である事情聴取が始まったわけであります。
今は、まだ被疑者の立場でありますから、事を詳細に申し上げる立場にありません。
私自身、大変はがゆい思いでありますが、これが社会のルールでありますから、私の心中をご賢察頂きたいと願うものであります。
こうした中で、具体的に一つだけ取り上げて申し上げれば、六億円を株式投機して欠損となり、それを、建設の認可申請もされていない有名無実の霊園事業に切り換えたということにされているのでありますが、そうした事実は全くないのであります。
霊園事業は神奈川県によって、予備申請も通り、更に本申請も受理されている事業であります。六億円の事業投資は立派に生きているのであります。
こうしたことを申し上げれば、事実がいかにあるのかがお分かりになると思います。いずれ近い日に、私の潔白が社会に明らかにされ、そして、私を信ずるが故に肩身の狭い思いをされてこられた方に、ご安心いただける日も間近になったと確信しております。
その時には、改めて事件の全貌を語る事ができると思いますが、今日迄のあらゆる経過の中で、事件を起こした人の狙いということが段々と分かって参りました。
それは、申し上げるまでもなく、“権力欲”という事であります。物事を成すにあたっては、成功する事も、失敗に終わる事もございます。しかし、成功、失敗、いずれの場合にもかかわらず“得”をする人、メリットのある人―その人こそが今回の事件を仕掛けたという事であります。
では、仕掛人は、成功した時、どんなメリットがあるかと言えば、自分の存在、自分の力を教団の中に大きく影響さす事ができるということ、― いわゆる陰から教団を牛耳(ぎゅうじ)る、院制をしけるという事であります。
そうした計算のもとに、今回の事件を引き起こしたという事が分かったわけでありますが、こうした人々が、私の告訴を取り下げたからと言って、それが教団は勿論、私自身にとりましても、失った信用を回復する材料にはなりません。
それに、刑事告訴の場合は、それを取り下げたからと言っても、司直の取り調べは続くのであります。
しかも、私自身が司直の手による公正な決着を望んでいるにかかわらず、告訴を取り下げ、しかもその人達は、「私が総長を救った」と集会などで話したり、あげくの果ては、私に懇願されて告訴を取り下げたという虚偽の情報を全国に流し、自分達を有利な立場において周囲を固めようとしているのであります。
皮肉な事に、今回の事件の狙いが総長降ろしであったという事が分かり、しかも、大変いたましい事に、取り調べの進展につれて、総長降ろしを図った人達と一体となって、新たな総長降ろしを始める人達が現われ、また、その狙いもが明らかになってまいったのです。
それ故に私は、今回の事件の流れを考えずにはおれません。振り返ってみれば、この事件が端を発したのは、昨年の12月の事であります。
それが一端収まり、教団、財団、商事の全役員が署名、捺印し、教主様、そして大神様、明主様にお詫びを申し上げ、誓詞をお捧げしたのが立春祭でありました。
その誓詞を教主様に奉呈し、大神様、明主様に捧げ、全役員決意を誓ったわけですが、皆様方には、二月四日、幹部会の席上、故石原幸雄先生から、また二月五日の全国所長会の席上では、勝野氏から報告をさせて頂いたのであります。
私達宗教者にとって、大神様、明主様への誓詞は、生命(いのち)にも匹敵するものでありますが、実に悲しい事に、わずか五十日ばかりの内に反古(ほご)にされたのであります。
言うまでもなく、怪文書騒動であります。
この差し出し人は、教育政治委員会の関連者、及び、その関連者に関わる者から出されたのは周知の事実であります。
さらに,悲しむべき事に、この怪文書をもとに、一部の役員が常任会の意向を無視し、総長退陣を叫ぶ幹部会へとつなげ、教団は大混乱に陥し入れられたのであります。
そうしてマスコミや税務署、警察にまで、一方的かつ、意図的に捏(ねつ)造した文書を流すという暴挙に出たのであります。
更には、(過去の人間関係などを)歪(わい)曲した情報で純粋な信者さんをだまし、自分達の戦力として動員し「水晶世界をつくる会」を組織させるなど、こうした抗争は,布教現場を二分しての対立抗争は、自ずと感情的になり、日に日に尖鋭化し、泥沼化していったのであります。
勝野氏に玉串奉奠の場を作り、さらに外部から信者さんに寄せられた激励電報を勝手に作り換えた地上天国祭にしても、そうでありました。
実は、このみ祭りには、教団の実情を理解した心ある社会の人々から多数の激励電報を頂いたわけであります。その中の一つに、中曽根首相から届けられた、「教主様を奉戴申し上げ、中村総長を中心に全信者さん力を合わせて一層の活躍を祈る」という意の長文の祝電がございました。
ところが、地上天国祭を迎える為に話し合いにおもむいた責任役員から、「中村総長とあるところを削除したい」との報告がありました。理由を問い正すと「相手の方から、そうした申し出がある。もし、削除しなければ、相手方を刺激する事になるので…」という事でした。
私は、それに対して「真心こめられて届けられた大切なものを、しかも外部からのものを勝手に作り換える事には承服できない。もし、相手側からの申し出であっても、それをのむ理由は全くないではないか。事件に対しては、教団規則に基いて、堂々と正義を貫いていく。断固とした処分も辞さないと常任理事会で決めたばかりではないか。小さな事であっても、そうした基本を崩す事から崩れ始める」と拒絶致しました。
しかし、結果に於いては、私の意見は顧みられませんでした。
明主様に御縁を頂いた信者さんに“地上天国祭のみ光りを”という願いは、私自身、誰よりももっていると自負しております。ですから、地天祭の混乱は避けたいと当然願っておりました。それ故にこそ、地天祭の為の話し合いの場を設けたのであります。
しかし、如何に相手側の申し出であろうと、外部からのものを勝手に作り換えなければならないのか、また、教団を専横化しようとしたグループの中心人物の一人である勝野氏を、最も意義深い祭典の参拝者代表にせねばならないのか。これは、“信者さんの為に”とは言いながらも、純粋な信者さんをあざむき、心ある教師のひんしゅくをかい、大神様、明主様に偽りに満ちた信仰を捧げた事になるのであります。
そして、事実、結果は、真に教団を思う信者さんの純粋な心を深く傷つける事になったのであります。
事件は、その後、新生協議会の発足と、その進展を通し、六億の疑惑の追求から、教主教権の確立へと問題が変化いたしました。
当初、野心家グループは、今にも私が逮捕される様な文書を全国にバラ巻きましたが、それがどうも“そうではなさそうだ”と見るや、今度は作戦を変えて、教主教権の問題にすりかえていったのであります。
そして、争いが話し合いへと、表面上の変化は致しましたが、その芯となる野望実現の為の総長降ろしは、何ら変わる事なく、日と共に強烈に、かつ露骨になってきたのであります。そして、今日、尚、鮮烈に続いているのであります。
事実を取り上げて申し上げるならば、例えば九月三十日の総合役員会で発表された人事があります。これは、幹部の皆様方には、十月十一日の幹部会の席上発表されたのでありますが、この人事にあたって私は、「例えば教育政治委員会の様に、外部との関わりの強い部署の人事は慎重にせよ」と指示致しました。しかし、全て、新生協議会の意向という事で進められ、人事権をもつ私の意見は、一顧だにされなかったのであります。
また、この時、発表された、新生協議会の外務委員会委員長に松本氏、副委員長に中川賢治氏という人事につきましても、私は、十月九日に、秘書課長から「決定したという報告がありました」という事を得ただけであります。
また、総長を無視して教団運営を図ろうとしている意図ありありの事が役員同志で語られている事も事実であります。(ご希望であれば、その一例をテープでお聞かせしてもいい)
私は、ルールを無視し、代表役員をないがしろにして事を進める、その裏に何があるのかと考えざるを得なかったのであります。
ここで、特に、新生協議会について触れておきたいと思います。
まず第一の疑問は、何故新生協議会が生まれなければならなかったのか、という事であります。
現在の責任役員会が、如何なる困難をも乗り越えて、正義を貫き妥協はしない。総長を中心に教団の正常化に全力を傾注しようと固く誓い合って出発したのが五月九日の事であります。
それまでの執行部の大半は、敵意をあからさまにしていましたから、私は、これで本当の教団建て直しができると決意をあらたにしたわけですが、わずか、一か月たつかたたないうちに、一部の常任理事が私の意向に全く反した行動をのぞかせる様になったのであります。
具体的に申し上げれば、先程申し上げました様に、正義を貫き妥協はしないと決めた常任理事会の基本路線を崩して、反乱側の主張する勝野氏の玉串奉奠という事を簡単にのんできた常任理事の例があります。
さらに、ある常任理事は、職員勉強会の席上、自らその職責にありながら、「常任理事会には、事件の収拾能力はない」と堂々と発言する様になったのであります。
そして、新生協議会の発足と、事が進められ、先程も例を言いましたが、そこで重大な問題があらかじめ決められ、常任理事会では事後承認という形をとらざるを得ない様な状況が生まれてきたわけであります。そうした行動を取りだした役員も「常任理事会に教団の主体性がある」という事を数々の場で発言する事もありましたが、時と共に、全く有名無実のことになってしまったのであります。新生協議会に関しては、私が出席しない理由が種々取りざたされている様ですが私は、真実を教主様にご報告申し上げてあります。
その理由は―白黒を明白にしなければならないこと、そして新生協議会と言うならば、その精神に則り、運営されるべきであります。
構成メンバーの中に、教団を大きな混乱に陥れ、さらに審定委員会で懲戒の処分を受けた人達がいるという事は、実に大きな疑問であります。
そして、私は、協議会の中で、そうしたことを踏まえて、“真に明日の教団をつくるヴィジョンを練る”と言うならば、いつでも出席するということもお伝えしております。
ここで、私の手もとに届いた数々の、百通にものぼる手紙があります。(略)
こういう声を聞く度に、本当に胸が引き裂かれる思いが致しますが、この事から言えば、一握りの幹部を除いて、明主様の信者さんまでもが切り捨てられたという事であります。
視点を変えて申し上げれば、責任転嫁によって他人を傷付け、自分さえよければ、相手の心の痛みなど顧みない非情な集団を世界救世教の中に造り上げ、聖地を占拠したということであります。
それともう一つ、取りわけ重要な事は、今回の事件では、信者さんのみならず、外部の人達をも巻きこんで、多大のご迷惑をおかけしているという事であります。
私個人としては、当該の方々を裁き、ぶこく罪、名誉棄損で告訴する気持はありません。
しかし、この事件に巻きこまれて傷付き、心に痛手を負い、かけがえのない人とのつながりを断ち切られ、営業妨害によって、大きな損失をこうむった人がいる事も事実であります。
従って、騒ぎを起こした人が、自らの良心に照らして出処進退を明らかにしないのならば、相応のけじめをつけざるを得ないのであります。
これが宗教人として、また社会に法人格をもって活動する組織としての誠意であります。
心ある皆さん方は、既にお気づきの事と思いますが、今日の決着に至る迄、全ての事が社会の常識や世間の目、また反応をあまりにも無視しております。
教団の内だけが安泰ならば、また、仲良くすれば問題ないとする「内側の論理」によって運ばれすぎているのであります。
確かに「内側の論理」は大切であります。しかし、それと共に、私達は、「外側の論理」を無視するわけには参らないのです。
「外側の論理」とは、教団の規則、規定を尊重することであります。もし、それができない、とするならば、世界救世教と別個の宗教法人が、新生協議会の名の下に明主様の聖地の一角を占拠し、一方的に物を言い、何かをしているという事になる、という事であります。
宗教団体とは言え、社会的存在意義をもつからには、法治国家に於ては、その本旨を逸脱してはならないのであります。
教団の規則とは、世界救世教が、日本の国家社会に貢献する価値ある団体として機能する為に定めたものであり、大神様、そして信者さんに対しては勿論のこと、国家に対しても、社会に対しても、等しく、その責任と在り方を明確にしたもの、いわば教団の憲法であります。
もし、それに反したならば、相応のけじめをつけねばなりません。私は、その事が、教団の主体性を堅持する必須の条件であると信じます。そして、それが全ての秩序を回復し、社会的信用を回復し、信徒に納得と安心を与える根本であると確信しております。
同時に今回の事件を通して、私達が知らなければならない事は、一元化以前の教会閥や出身教会の大小、また、そのからみによって、人為的に保たれてきた権威、虚像が、音を立てて崩れ始めたという事であります。
また、教主の座を始め、総長、常任理事会―その権威が落ち、県本部長、布教所長が信者さんから、信用、信頼をなくしたという事であります。
私達は、今、この事実を謙虚に、魂の眼を見開いて見詰めなければならないのであります。
そして、これから先は、造られた権威による権力構造の崩壊を前提にして、衆知を結集して、新しい視点で、教団の方向と在り方を探り、真の救世教の時代を拓いていかなければならないのであります。
具体的にどういう事かと言えば、例えば人事を採り上げますならば、権力と力だけで人の心を束縛するような事を図ってはいけません。そうした事では、教団のエネルギーを高める事は絶対にできないのであります。幹部諸君の情熱と意欲を低下させる事になっても、決して高める事には通じないと、私は、強く訴えたいのであります。
また、時代と共に生きる宗教であるならば、当然、時代性、社会性を備えてしかるべきであり、教団の規則も、また進化していくべきであります。これは、疑う余地もありません。
しかし、その過程に、他人を傷付け、責任転嫁し、己れの野望を達成せんとする心があってはならないのであります。
また教主教権という事で言うならば真に教主教権を確立する為には、十分な時間をかけて、あらゆる人々の英知を結集して進めていかなければなりません。
教団が大混乱している時に、拙速で決められるものではありません。条文の一条一条によって、教団の百年の大計、また信者さんの信仰の在り方が決定されてしまうと言っても過言ではありません。
如何ようにも拡大解釈ができ、如何ようにも縮小解釈ができる様な条文や文言は、不要な誤解を招き、教主様の尊厳に大きな傷をつける結果になりかねません。
教主の名を借りた法衣の下の鎧(よろい)は、既に見透かされているのであります。
野心ある者は、野心を捨てるべきです。所轄官庁も、教主様を、法的な責任を問わなければならない可能性のある業務に携わらせる事を危ぶむほどであります。
こうした中で、私は、今日迄、耐えに耐えて沈黙を守ってまいりました。
その理由については、
第一に、司直の手によって黒白がつけられる迄は、何を言っても、正しく伝えられないからであります。
第二に、騒乱を起こした人達の良心ある事を信じ、その蘇(よみがえ)りを期待したからに他なりません。
しかし、現在の教団は、一部の人の派閥感覚で、権力を握ろうとし、多数決の論理だけを導入し、信者の声を無視し、専従者を縛り始めたのであります。
加えて申し上げれば、私の事情聴取が終わうろとする最中、この問題の決着を遅らし、自らの派閥のみの権力を安泰せしむる為の愚挙、その実態があからさまになったのであります。
こうした事態の裏に何があるかは、冒頭に申し上げた通りでありますが、私は、今こそ、捨身無私の精神で、明主様の信仰を正しく継承するか、権力に身をゆだねるかを決断する時であると考えるのであります。
明主様の厚い御守護を願う者は、悪に対し怒り、光を求める者は、無秩序を容認してはなりません。
今や、教団内外から、けじめを求める声、自浄作用を求める声は、日増しに大きくなっております。
世界救世教を信仰する者は、その声を素直に聞くべきであります。
私は、ここに教団改革に立ち、信徒の皆様に対し、社会に村し、真実を公表する事を宣言します。そして同時に、自浄作用を促進し、正義の大道を守る教団の秩序を乱す新生協議会の解散を命ずるのであります。
世界救世教を次代にたくす道は、これ以外にないのであります。
明主様の信仰を継承しようとする方は、私に続いていただきたい。私を支持し資格者、信徒の信仰覚醒に努力していただきたい。
自己の保身、安定した生活を優先して、よこしまな権力に身をゆだねるのではなく、専従した時の初心にもどり、明日の教団づくりの為に立ち上がっていただきたい。
この実行に当たりましては、真相を追求し、真実を語る「教団護持委員会」を設置し、随時、指示を流します。事務局長には、教育研修部の牧野君を指名致しましたので、皆さん方におかれましては、事務局を中心に、教団の健全化の為に精一杯のご努力を下さる事を切に願っております。
健全な教団を次代に引き継ぎ、明主様のみ心に叶い、教主様にご安心頂ける教団づくりをお誓いし、私の所信表明と致します。
(世界救世教「教団護持委員会」内報No.1より原文のまま抜粋)
[中村力元総長「所信表明」 於:世界救世教「臨時総合幹部会」1984(昭和59)年10月31日]
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