楳木代表よりの御下命を戴いて 第2号

新潟出張所 庭山光太郎

 

平成29年6月15日をどのような心掛けでお迎えさせていただくのか

平成29年5月25日、午後0時50分、昼休みが終わろうとする寸前に緊急事態である。楳木代表よりの第2号の御下命は、一挙に目を覚ます爆弾的第二報であった。内容は事細い指示で分かり易いが、広範囲に亘るし、兎に角時間が限られている。午後からの仕事はアドレナリンが出っぱなしで、こんなにやったら自分でも体が持たんぞと思うくらい手の動きは力が入って早かった…とにかく心は急いていたのである。

家に帰って、夕拝の時に「この緊急事態を突破する力を与えて下さい。」とお願いして机に向かった。翌日も同じ仕事があるので午前3時半に寝て6時には目が覚めた。これで大体代表の意図とされる処は理解できたが、問題は時間との戦いだ。

「平成29年6月15日をどのような心掛けで迎えるか。」がテーマである。それには6月の1日までに答えを出すように…と誠に有り難い要請(ワァォー、オーマイガッド)…である。

 

代表から頂いた御指示

さて、細かい御指示は「文明の創造」の

①は「救い主と贖い主」P.55

②は「霊界における昼夜の転換」P.305

特にP.311の10行目~最後の行「如意輪観音のお働き」という部分と、P.312の最後の段落

あとP.307の10行目もポイントとして入れたい(今という時期、そして今年の6月15日がどういう日なのかが皆に少しでも理解してもらえる様に)

③は「弥勒三会」P.333

P.333の6行目「観音は大日如来でもあって」の部分(何故“でもあって”なのか?)

このあたりに着目しつつ総合的に文章にしてもらいたい。

急な話で、限られた時間だからなかなか大変だと思うので、できる範囲でよいので宜敷くお願いします。

 

「将に代表が目の前にいらっしゃって誠に懇切丁寧な御指示を頂いているような…。」と言うべきではないか。一肌でも二肌でも脱がない訳にはゆかない。

 

『救い主と贖い主(文明の創造P.55)』を拝読すると

『(前略)私はよくこういう質問を受けたものである。″一体神や仏は愛と慈悲の権化であり乍ら悪人を作ってをいて罪を犯させ、それを罰するというのは大いに矛盾しているではないか。それならいっそ最初から悪など造ってをかなければ、罰を当てる必要もないから、それこそ真の神の愛ではないか〟というのである。成程この質問は最も千万で一言もないが、実を言うと私にしても同様の考え方であるから、その都度私はこう答える。″成程それには違いないが、元々私が悪を作ったのではないから、私には説明は出来ない。つまり神様が何か訳があって悪を作られたのであるから、何れ神様はそれに就ての根本的理由をお示しになるに違いないから、それまで待つより仕方がない〟と言ったものである。

処が愈々其の時が来たので、神は其事を詳しく啓示されたので、私は喜びに堪えないのである。』と。

そして

『(前略)ある期間悪が必要であったからその深い意味を主神は知らさなかったのである。(中略)処がここに主神は深奥なる真理を愈々開示される事となった。』

『(前略)そうして今迄強大なる悪の力が一切を九分九厘まで掌握し、後一厘という間際に来て、意外にもここに一厘の力が現れ、邪心の謀略を一挙に覆すのである。』

『(前略)そうしてこれを具体的に言えば斯うである。即ち九分九厘の悪とは現代医学であって、之も先に書いた通り必要悪であるから、今迄はそれでよかったのである。然しその結果として人間の最大貴重な生命を完全に握ってしまった。若し医学が誤ってゐるとすれば、生命の危険は言語に絶するといってもいいであろう。(後略)』と。

 

緊急テーマとして

だいぶ省かせて頂いたが、斯く開示されている。これを現代に当て嵌めて見よう。何故に「深奥なる真理を開示され、九分九厘まで悪に掌握され、あと一厘の間際に来て、それを覆す一厘の身魂が現れていたにも拘らず、その機関であった世界○○○教は分裂し、○○教となり、浄化したら医療と並行して浄霊するなどという考えられないほどに現代医学に寛容になったのか。」これではメシヤ様の目指す処とは真逆の方向にあり、どうしてこのような状態に立ち至ったのか、その意味の開示が最も緊急なテーマではないか。

“吾もしも 生まれざりせば人の世は やがて潰えなんとふと思いける„

結局メシヤ様をお出しできなければ生命の危険は言語に絶するどころかやがて潰えるのだと自覚しなければならないギリギリの時になってしまったとの認識、危機感がないのである。

その時に当たり、その小さなる灯ともいうべきメシヤ教は世界メシヤ教復興という大旆(たいはい)を掲げるに及んで、その真相の開示を頂いたのである。

それが前回に記した「光りの玉は世界大に拡大していて、心の扉が開かれた人はすぐにでも救われる時代に入っている。」というこの一点である。つまりこの光の玉の成長まで待たれたのである。これは主神様でなければ分からない事である。この事を初めて聞いたのは平成28年7月22日の当出張所の月次祭での代表のお話であった。この日は何故か鎌倉から菅谷氏以下3名の応援隊もあったのである。日記には「重大発表」とある。そしてさあこれからという時に代表は逝かれてしまった。然し上記した様に現界と何ら違和感なく会話しているが如き状態で御指示が来、併せて主神様でなければ分らない程の御神示を得ることが出来る唯一の機関となりつつある。“こんな事は前代未聞の事で、その使命は今は小さいが、重且大である事は紛れもない事実である。”

 

『霊界に於ける昼夜の転換(文明の創造)』、特にP.311の10行目とは…。

『(前略)次に日本に於て、何故仏法の花を咲かせなければならないかというと、そこにも深い密意が秘んでいる。即ち花が咲かなければ実が生のらないからで、その実というのが実相世界であって、此実の種が如意輪観音のお働きでもある。』とある。

「この部分を代表は何故に取り込めと言われるのだろうか。」この御論文の中には重要点は多いに拘わらず、これを指摘された事はそれなりの意味があるのであろう。然しこれは先ず一番書きやすい内容ではあるのを直感した。まず以心伝心とでもいうべきか。それを忖度して書かせて頂けば、そもそも日本を追われた伊都能売神皇様は印度へ行かれ観世音菩薩となられ仏教を興された。その証拠ともいうべきところは、『儂は今まで終生の業として仏法を創成し、一切衆生を救わんとして努力して来たが今日大仏陀から以外なる御諭しがあった。それによると或る時期に至ると、我が仏法は滅するという事で、大いに失望したのである。』

『「儂は見真実によって分かった事だが、今迄説いて来た多くの経文は、尠なからず誤りがあるので、今日以後真実を説くから、よく之によって正覚を得られよ」と仰せられたので、此時からの経文こそ仏法の真髄である事は確実で、それが法華経二十八品と、法滅尽経と彌勒出現成就経である。』という箇所である。

この“大仏陀”こそ観世音菩薩である事は間違いない。何故かというと私は或る体験をした。それを少し記したい。

 

或る体験

昭和50年位から昭和54年の間位であったろうか。浄霊会時代の体験である。

ある日の御面会日、野澤師の御講話が何時ものように続いている。自分はまた何時もの様に後方の席に座っている。と、私の体から幽体が抜け出て、信者さんを搔き分ける様にして野澤師の後方の御神体の前に進み出たのである。前といっても野澤師の真後ろで御神体に額ずくのでは野澤師に不敬であるから、それを避ける様に野澤師の真後ろよりやや右寄りで、御神体に向かって片膝をついて頭を下げて両掌を合わせ、頭より高く両掌を差し上げたのである。通常、御神体は御文字の時が多いが、その時の御床に祀られている御神体は「日の出観音様」であった。浄霊会では御尊影の下に御神体をお祀りしていたのである。(当時はコンクリート三階建ての仮本部の御神前であり、昭和57年にはやはり三階建ての大きな本部が完成しているので、日の出観音様をお下げしたのは最後であったかも知れない)

すると観音様は私の方に体を向けられて右手に持たれた蓮の花を傾げられると、キラキラと光る極めて大粒のダイヤモンドを思わせる滴を三滴、私が合わせていた掌に注がれたのである。恐らく私の幽魂に御神体の前に来るようにとの御命令があり、幽体が肉体から離れたのであろう。肉体の目も幽体と御神体の位置関係やら幽体のしぐさが見えており、幽体も頭は下げているがダイヤモンドの滴を両掌に受け止めているのが判るのである。そこで顔をおもむろに上げるともうそこはご神前ではなく、大宇宙の空中に白線とも金線とも思える日の出観音様が現れ、御光背の後ろは漆黒の闇ではあったが、キラキラと光る滴のような星が無限大に広がっていて、「宝は無尽蔵にあるのだなァ。」いう感覚を覚えたのである。

ネットで「壺を持たれた観音様はその壺の中の水を注いで浄められる」というようなことが書いてあったのを見つけた時、日の出観音様が御自ら蓮を傾けられて浄められたが故に、顔を上げて日の出観音様及び大宇宙の様子をお見せいただけたものと思ったのである。

然しこのネットの記事を見る前までは「自分は素晴らしい宝を戴けたのだから、これを人に知らせたらこの幸運はいっぺんに雲散霧消してしまうのではないか。」と極めて小乗的考えで、愚人のたわごと寝言そのままで、人には一切知らせず、日記にも書き込んではいなかったが、父の帰幽間近に、これを知らせたら少しは喜んでくれるかも知れないと打ち明けてからはポツポツ人に話すようになったのである。

しかし愚人のたわごとも、冷静に考えれば「無尽蔵の宝」と直感的に思ったのはそんなに的外れでもないようだ。

この事こそ、大宇宙の正体は日の出観音様であられ、メシヤ様が描かれ箱根の御神前にお祀りされた日の出観音様には落款が押されておらず、その観音像こそ私であるとの御主張を込められたものと思われる事から、メシヤ様の御神格というものを決定的に知らされたものと思ったのである。神社では手水(ちょうず)と言って参拝の前に手を清めることから始まる。その浄めの水が三滴のダイヤモンドの如き滴であったが、日の出観音様御自らお手持ちの蓮の花からの滴こそ、何物にも勝る宝であったことを思い知らされたのである。

日の出観音様こそ観世音菩薩が夜昼転換により、昼の世界に入るに及んで、本来の御神格に戻られる過渡期のお姿である事の証明でもあった。

故に大仏陀こそ観音様であり、神仏の中でその御名の下に観音力という言葉があるのは観音様だけである。法華経は25品の観音経ばかりでなく、全体的に観音様の事が書かれているのである。

 

メシヤ様の前世からなされた『夜昼転換』に向けての御準備

メシヤ様の前世は聖徳太子であり、光明皇后であられた事は御教えにある。勿論大和民族の宗家という事になれば伊都能売神皇ご自身がメシヤ様の前世であったことは紛れもない事である

聖徳太子は皇太子の地位にあられるが故に、それまで国教である神道があるにも拘らず仏教を取り入れる事が出来たのであり、法華経義疏(ぎしょ・解説書・日本最古の書物)を顕わし、真ん中に夢殿を建てそこに生活され、その西に法隆寺、東に中宮寺を建てられ、それぞれに観世音菩薩、救世観音、弥勒菩薩半跏思惟像を祭られているのである。これは何を意味しているのかというと、善言讃詞の「敬しく惟るに世尊観世音菩薩この土に天降らせ給ひ光明如来と現じ応身彌勒と化し、救世主(メシヤ)とならせ・・・」とある、将来のご自分のお姿を此時已に言外に表現されていた事が分かる。そして此弥勒菩薩半跏思惟像は別名如意輪観音とも言われているのである。

そして光明皇后は何をされたかというと、45代聖武天皇の下で奈良東大寺の大仏様を創建し、全国に国分寺を建て、千葉県鋸山の麓に日本寺まで建て、メシヤ様の昭和6年6月15日の夜昼転換の黎明の神事をされる為の準備までされていたのである。国宝の阿修羅像を作られたのも光明皇后の指示であった。これらは一体何を意味するのであろうか。

仏教には時代の変遷があり、正法千年、像法千年、末法五百年となっている。聖徳太子の時代は未だ正法(教えが正しく流布される)の期間内に入る。それが終わると徐々に仏教文化が花開き一般大衆に浸透して行く。それを主導されたのが光明皇后であり、奈良の大仏様創建は国家的一大プロジェクトであった事は御承知の通りである。

一方、日本の超一流の頭脳を駆使されている。弘法大使空海はバラモンと仏教が融合した密教を取り入れ、千手観音や十一面観音という仏像のバリエーション(変異)を広げ仏教の解釈も一段と厚みを持たせ、空海と同期渡唐の伝教大師最澄をして仏教の殿堂を打ち立て、後の世に出る日蓮の最奥霊界の黎明の準備も空海、最澄本人達には意識のないままに使われていたのである。

然し時代が下るにつれ真摯な求道の精神も緩み、何時しか形骸化し、葬式仏教としての存在のみとなり、末法の世も極まって法滅尽に至る。その時に一切衆生を救う救世(ぐせ・メシヤ)観音、または弥勒菩薩が出現して三六九の世を造るというのが大凡(おおよそ)の経綸という事になれば、まさに観音様の独壇場であり、是だけの仕組みを行える神仏は主神様の御位にある方のみの出来得るものであろう。

以上の流れを見れば、光りの玉が世界大に成長したという事は彌勒出現成就経の事であり、同時に法滅尽の時期も迎えた事に他ならない。

井上茂登吉邸での御神事以来64年にして何時始まってもよい処に来たのである。

“大峠 延ばし延ばして一人だも 多く救わす神の御心„

の通り延ばされて来たが、コンピューターの進化は目覚ましく物質的にも準備完了という処に入っている。あとはメシヤ教の復興に掛かっているといっても過言ではない。

 

今年、平成29年6月15日の意義

伊都能売神皇様が印度で仏教を創設され、聖徳太子により本地(日本)垂迹され、光明皇后をして仏花を咲かせ、メシヤ様をしてその実として結実し、それが今や世界大に成長された。つまりP.311、10行目の『深い密意』は完全に達成されたのである。彌勒出現が成就されれば、同時進行的に三六九の世を完成させるという、まるで一片の物語のシナリオは絵に描いた世界的大神劇ともいうべきもので、今や最後の完結編に来ている事が分かるであろう。

「アァ我々はそういう時に生を受け、御神縁を頂けたのだから、但だ感謝して、悔いなく精一杯の役柄を演じなければならないものと思う。」

それには今ある教団関係者を始め、離脱団体、先達の旁々、メシヤ様と御縁のあった方もなかった方も、他宗教の全ての方共々偕にその恩に報いる為にも、メシヤ様をお出しさせて頂き、その徳を御讃え申し上げ、感謝させて頂くのが我々の本命の使命であるとするならば、先ず以って18日後の6月15日は、昭和29年6月15日は『メシヤ降誕仮祝典の挙行された日』である事から、来年の平成30年3月3日のメシヤ本祝典挙行のお願い、御許しをメシヤ様に切に祈らせて頂くべきではないかと思うのである。

“将に代表の指示や的確なり„と讃嘆申し上げる次第である。

 

『観音は大日如来でもあって…』に対する答えとして

答えが少し遅れましたが、主神様があまりにも尊いが故にその各位に対する神律上ある程度より下らせられないが為、主神に変わって実務をなされるのが伊都能売神様という事が出来るのではないでしょうか。

伊都能売神様は五(いず)と三(みず)で日月・カミであり、火の部分がありますから、時として観世音菩薩は大日如来という事も時々は仰られるようです。

又、主神(天照皇大御神)様の身魂はあまりに尊いので、天から天降る上に於ては観音様の身魂である麻邇の玉に入られる以外にはないので、そこで入られた以上、大日如来という事ができるかも知れません。

『一厘の仕組みが千手観音のお働き』という事になるという事は、徳仁天皇の時代がもう直ぐ来ますから、彌勒出現成就と法滅尽がその元号時に行われるという意味でも、愈々という感じがします。徳仁天皇は仁徳天皇と重なりますから面白いと思います。

少し書きすぎたかも知れませんがお許しを…。まだちょっぴりあるのですが、ここら辺で止めておきます。全くオーマイゴッドがメシヤ様で良かったです。

ありがとうございました。

 

【参考資料:観世音菩薩と大日如来に関する御教え『岡田茂吉全集』より抜粋】

『麻邇の玉は仏教では如意宝珠と言う。観音様のお働きの一つに、如意輪観音というのがそれである。又神道で五百津美須摩琉の玉とも言うが、要するに観音様の身魂という事である。(講話編3・P.462)』

『宇宙の中心に地球あり、その周りに日月星辰あり、全て地球が中心であり、他の火星とかいろいろなものには、人間は住まっていないのである。この地球を統治する中心が何かと言うと、図の如き地軸または地柱と言う。この神様の事を天照大神と申し上げる。この神様が本当の統治権を持たれておられたのである。つまり人としてお生まれになったのでお姿があるのである。(著述編1・P.231)』

『天津金木とは、これも半分きり説明できない。神武天皇以前、その時の天皇が正月にこれを拝むと、その年の吉凶が分かる。一種の占いですよ。これは代々伝わって稗田阿礼の所にあった。神武天皇に征服された日本人が代々口伝えしてついに丹波で百姓をしていた阿礼に至り、太安万侶がそれを誌したのが『古事記』ですよ。天津金木は地上天国の予言になっている。いずれまた話そう。あらゆる宗教がなくなってからこれを拝むようになる。(講話編1・P.374)』

『天津金木の起こる前というのは、つまり玉座といって、真四角なのです。その時分は畳か板か分かりませんが、そういったものを作ってそれは十文字の形になって、その真ん中に神様が座るのです。それはつまり天照大御神様がお隠れになって、その真ん中に神様が座るのです。それはつまり天照大御神様が統治された時にそこに座るのです。そこで目をつぶっておられると、その国のいろいろな事が分かるのです。それが天照大御神様がお隠れになって、その代わりとして天津金木というものを掲げたのです。それが神秘なことで、神道の根本になるのです。神道家でもこの事は知らないでしょう。(講話編11・P.223)』

『6月15日というのは天照大御神様の誕生日になりますが、誕生日という事は日が出るわけです。(講話編10・P.290)』

『キリストとイエスと一度に再臨するとある。キリストはイエスの父なのである。イエスでは世界統一はできん。2,000年前ですらできなかったのである。国常立尊が一度世界を統一した事がある。今イエスが現れて罪を贖った処で許す事が出来んから何ほど出ても無駄である。観音会の事を知ったら驚くことである。今度は本当に金剛力を持った神様が出て今までの世を救うのである。然も罪を許す権力を持って出られるのである。(著述編1・P263)』

『真に正しい、高位の御神霊は、何神で被在(あらせ)らるるかというと、それは主(す)の神の表現神で被在らるる天照皇大神様であられるのである。天照皇大神様は、最高最貴の御神格に渉らせらるる故に、人民が自己の希望を念願し奉る如きは、誠に恐れ多いのである。恐れ多き儀ながら、陛下に対し奉り、人民が直々に、何とも願い言は叶わないのと同じ意味であるのである。此の故を以て、主神は、伊都能売大神を介して観世音菩薩に、救いの力を与え給うのである。茲(ここ)に一切衆生を救わせ給うとしては、神の御名においては、その各位に対する神律上、ある程度より下らせ給う事は不可能であるから、やむを得ず、神界より下位である仏界に、顕現され給うのである。(著述編1・P415)』

『主神の分霊たる観世音菩薩は、大光明如来又は応身彌勒の御名によって千変万化の御活動をなし給い、末法濁世を浄め三界万霊を救わせ給う事を信ず。(著述編7・P.175)』

『一厘の仕組みが千手観音のお働きという事になる。(著述編1・P.38)』

 

[研鑽資料no.0_2  楳木代表よりの御下命を戴いて 第2号 2017(平成29)年5月28日]

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