メシヤ講座・特選集no.109(平成22年2月分)

<メシヤ様対談記・18>

メシヤ様が教団内外の人々との間で執り行われた対談内容は、私達の御神業推進の方向を再確認させていただけるものです。数多くの対談記中から、「世界救世(メシヤ)教」開教後になされた内容を順次掲載いたします。

明主様(メシヤ様)
国際情勢と医学農業問題について大いに語らる
報知新聞社取締役社長
竹内四郎氏外二氏との御対談(二)


(栄百九十三号 昭和28年2月4日)

これから世界はどうなる?

竹内氏 教主様は予言はおやりになられませんか。

明主様(メシヤ様) やらないこともありませんが、信用に関わりますから、危なっかしくない余程確かなことでなければ言いません。しかし今度栄光の正月号(一八九号)には戦争のことに関して「世界夢物語」として、全体の三分の二位を“斯(こ)うなると思う”という工合に書きましたが、私には最後までわかっているのです。

例えば中共について言えば、アメリカにすっかりやられて蒋介石が復活することになりましょう。しかし治めるのは蒋介石ではなく部下の者か、その系統の人がなるだろうということも書いてあります。

第三次戦争についてもわかってはいますが、まだ話をするのは早いので差控えてます。又それを聞いたら貴方々は腰を抜かしますよ。それから第三次戦争の結末が附いたら世界はどうなるかということもわかっています。

竹内氏 処で、第三次戦争は起りましょうか。

明主様(メシヤ様) どうしても起りましょうね。

竹内氏 起るとしたらごく間近でしょうか。

明主様(メシヤ様) ここ数年と見たらいいでしょうね。それは屹度(きっと)原子爆弾の戦争になるでしょうね。

竹内氏 スターリンはそれまで死にませんでしょうか。

明主様(メシヤ様) そうですね。割合に生きるでしょうが、これはハッキリ言えませんね。

今度私は「アメリカを救う」という本を書きましたが、戦争となればアメリカも相当にやられるでしょうから、その後のあの国を建て直さなければならないので、これは医学に関してですが、あまり酷(ひど)くならないうちに救ってやる必要があるから書いたのです。それを英文に訳してアメリカの政治家、医事関係者等へ配るつもりです。

小坂氏 原子戦争が始るとすると、人類は破滅ということにはなりませんでしょうか。

明主様(メシヤ様) しかしそれは米ソだけのことで、外の国は大したことはないでしょう。日本などは高見の見物でおられると思います。

小坂氏 しかしそういう立場でおれるものでしょうか。

明主様(メシヤ様) 大丈夫だと思います。米ソ間のことですからね。これからは中国の方でも戦争が大きくなるでしょうが、日本は大丈夫です。というのは、スターリンは中共がやられても手は出しませんでしょう。スターリンの頭は中共を助けるということよりも、もっと外にあるのです。

阿部執事 教主はそういう大きいことをお考えになっておられますので、外の小さいことは問題ではありません。

竹内氏 「アメリカを救う」という位ですから、成程そうですね。

阿部執事 外の宗教団体ではそういうことはありませんからね。

明主様(メシヤ様) ですから私は宗教ではないというのです。もし宗教で救われるなら、今までに沢山の宗教が出ましたから、もうとうに救われてなければなりません。

医学の根本的革命

小坂氏 この「アメリカを救う」の表紙は大変な表紙ですね。

阿部執事 店頭に置いてあっても、すぐ目につきますからね。

小坂氏 これでは必ず目を惹(ひ)きます。

明主様(メシヤ様) これはあっちの大統領はじめ有識者に全部配るつもりです。

小坂氏 明主様(メシヤ様)、最近日本には不思議な病気が流行(はや)って来ましたが、たとえば風邪でも鼻血が出るようですし、ぺニシリンで以前は効いたのが、この頃は効かなくなった、というようで医学では割切れない病気が非常に流行(はや)って来て、弱っている様でございますね。

明主様(メシヤ様) それについては私は始終言っているのですが、このままではもっと変った病気が出るでしょうね。風邪引で鼻血が出るという訳も、医学ではわからないと言っていますが、これはこちらから言うと、なんでもないのです。今の人間は注射や飲み薬をのんで始終頭を使うから、その薬が頭に上ってゆくのです。そこで薬という物は、悉(ことごと)く毒物ですから、頭の中が薬で一杯になるのです。それで熱が出たりすると、熱によってこれが溶けますから、その溶けたものが鼻血になって出るのです。医学はこの理を知らないから鼻血を止めようとするが、もし止まったとしてもそれは只(ただ)延期したに過ぎないので、結局重くなって行きます。そこでそういう医学の根本的な誤を正す為に、私は今「医学革命の書」というのを書いてます。西洋医学を全然なくしてしまわなければならないのです。

小坂氏 結局西洋医学が氾濫したせいなのですね。

明主様(メシヤ様) そうです。西洋医学が病気をつくっていると言ってもいいのです。その点結核というのは、随分上手につくってますね。

小坂氏 マイシンなどが流行(はや)って来て、結核はもう大丈夫などと言っておりましたがね。

明主様(メシヤ様) それも結局発病の時期を延ばしただけなのです。だから医学が発達して来て、死ぬ人間が一時延びたというだけなのです。しかし一時的ですから、その先にいったら大変です。

又、私は「アメリカを救う」という本を書きましたが、日本人相手に説くよりも、アメリカをわからせた方が効果的と思ったからです。というのは、日本人はアメリカの物というと、何でも有難がりますからね。つまり一切の不幸の原因は病気だから、人間から病気を無くすればよい、ということを書いたのです。戦争をする人間にしても、精神的病人なのです。ですから霊肉共に健康になれば、争いや自分の欲のために、人の命を取るということが恐しくなって出来なくなります。普通の人間の感情としたら可哀想でとてもそういう気持は起りません。そういう精神というのは人間でなく獣なのです。ですからそういう思想を起さないという事は、つまり霊肉共に健康にすればいいのです。だから結局世の中を救うというのは、人類から病気を無くするというだけであとは解決するのです。

阿部執事 そういう意味から、報知新聞では現在の紙数を二頁増して家庭欄というものを作って、一番に人間の健康の点を取り上げて、特に“新宗教と健康”という面を強調したいということでございます。

明主様(メシヤ様) それは結構ですね。兎に角(とにかく)病気を無くすということは、病気を起さないようにすることですが、新しく病気が起らないようにするというそれだけでいいのです。処でそれを扱っているのが現代医学なのですが、結果から言って、若(も)し医学が本当に正しいものなら、年々病人は減っていって、二十年か三十年で病気は無くなってしまっていなければならないはずです。処が事実はそうでないということは、現代医学が本当の医学でないということを証明しているようなものです。

小西氏 スポーツに関する論文を拝見しましたが、その中で黒人が強くなって白人が弱くなったということを仰言っておられますが、偉いことを言っておられると思いました。これは運動部長と議論したことがありますが、アメリカあたりでもみんな黒人だから、今に世界のスポーツの記録はみんな黒人に取られてしまうことになりはしないかと。特に拳闘がそうですし、まあマラソンはザトペックが出ましたが、その外は殆ど黒人です。ですからそういうスポーツ論文を載せるといいと思いますね。報知新聞はスポーツは専門紙ですから人がよく見ると思います。

明主様(メシヤ様) 結構ですね。それで今のお話に宗教を加えるといいでしょう。

小西氏 私はこう思うのです。何も救世(メシヤ)教はこうだということでなくても、熱海にはこういう立派なものがある、こういう文化的な事をしている、ということをいえば、これは新しい現代人の宗教だということが、大体わかってくると思います。

私は宗教は嫌い

 明主様(メシヤ様) 私は大体宗教は嫌いなのですよ。

小西氏 私はあなたのような教主にお目にかかったことがありませんね。外の宗教の教主にはよく会いましたが、大抵はコケおどしをやられたり、いきなり、「南無妙法蓮華経」と言われたりしてびっくりしたこともあります。

明主様(メシヤ様) 私はそういう異様な教主とか教祖とかいうものは大嫌いなのです。普通人と少しも違わないでいる方がよほど楽ですし、それが本当だと思います。宗教家とは言ってもやはり同じ人間ですからね。

竹内氏 私も強羅で初めてお目にかかった時は、何か変な物を着てくるのではないかと思ったのですが、ケロッとしてタバコを吸われているので、それからすっかりおもしろくなってしまったのです。教主の人柄から見ても、救世(メシヤ)教というのは、コケおどしに人をおどしたり暗い感じが全然ないところが、私は非常にいいと思うのです。

明主様(メシヤ様) 要するに宗教臭くないでしょう。

竹内氏 実際抹香臭くないですね。

明主様(メシヤ様) 私はそんなことは問題にしませんが、実際にやっている仕事が物を言うのです。それが本当に人を救い世の中の為になっていくというのならいいのですからね。

竹内氏 救世(メシヤ)教は文化的であり、堅実味があるところがいいですね。

肥料迷信打破も急務

阿部執事 新聞でも自然栽培の面を取上げてみたら如何ですか。兎に角(とにかく)五年で五割増産することは確実なのですから、これが一般の農家に普及したら大変いいことと思いますがね。

明主様(メシヤ様) 今度の報告の中でも反当り十三俵というのがありました。

阿部執事 この方が病気治しよりわかりがいいかも知れませんね。

木原理事 結局“家庭と宗教”という欄になるとすると、自然栽培は切っても切れない問題になりますね。

 明主様(メシヤ様) そうですね。そうなると農民は読まないわけにはいかなくなります。それから米でも野菜でも、その味のうまいことは大したものです。これを食べたら外の物は食べられませんよ。又ミカンでも柿でも無肥料の物はうまいのです。そういうように、うまい物がとれて、而(しか)も増えるのです。その上肥料代は要らず、又風水害の被害もあんまり蒙(こうむ)りません。というのは、無肥料ですと根の数が非常に多くなるのです。それで根張りがいいから倒れないのです。又仮令(たとえ)倒れても起上ります。それに第一虫害がありません。虫がわくということは、肥料の為にわくのです。ですから近頃虫の種類が増えて来たということは肥料の種類が増えたからなのです。

この自然栽培を実施する時に、ただ斯(こ)ういう点があります。例えば今迄の有肥栽培の稲を自然栽培に切換えた最初の年は、当初実に貧弱なものです。丁度一種の麻薬中毒患者が麻薬を止めると、馬鹿みたいになりますがそれと同じで、今迄肥料をやっていたのをやめるから、一時その様な状態になるので、そこでみんな驚くのですが、それでも辛抱していると、秋になる頃には復活して産額は殆ど同じ位になります。次の年になれば、前の年よりはいいですが、それでも最初の間は見られません。三年四年と経つと段々よくなって、五年目になると五割増産になります。それでこの頃は、信者以外の人でも大分真似をするようになってやっているようです。結局今の人間は迷信にかかっているのです。肥料迷信、薬毒迷信です。それを打破していかなければならないのです。

話は違いますが、凄い報告がありました。それは炭鉱でいろいろな危険に遭遇して、四、五回その危険から脱したというのです。それで坑夫はどうしても神様の御守護だと考えるよりは仕様がない、ということを書いてありました。そういうことも新聞に出すといいと思います。ですからこれが徹底すれば、炭鉱の被害は何分の一というようになります。一炭坑に信者が四人か五人できたら、被害は大変な減り方になります。それはどうしても爆発しなければならないものが爆発しなかった、というようなことが書いてありました。

竹内氏 それはどういう理由なのでしょうか。

明主様(メシヤ様) それは霊的になりますから、一寸信じられないでしょう。しかしこれは立派な科学なのです。宗教科学と言いますが、科学的に説明できるのです。そういうこともこれから書くつもりです。将来はだんだん今迄分らないものとされていたそういう奇蹟等についてすっかり書くつもりですから、何と言いますか極く進歩した科学でしょう。二十一世紀の科学とでも言えましょう。

一同 ではどうも長い間大変有難うございました。

世界救世(メシヤ)教開教六十周年記念
メシヤ教立教十周年記念
立春祭・特集

≪体験報告≫
メシヤ様にお使いいただける喜び


三重支部 濵口安子

立春祭並びにメシヤ教立教十周年おめでとうございます。三重支部の濵口安子と申します。この記念すべき意義ある節目の日に発表のお許しをいただけましたことをメシヤ様に感謝申し上げます。

12月の三重支部月次祭で楳木先生より「お世話をさせていただいている立場からの体験発表をしてみませんか」とのお話をいただきました。また、1月のメシヤ講座では先生より『何も信仰の経験のない人には一からですから大変なお世話がいるということなのですね。だから今度はお世話した側として体験記を読んだ時に、この時私はこう考えたなあとね。そういうことを体系化していくとね。そういう組み立て方ができるようになると自分の思想形態が広がっていくのです。これが素晴らしいことなのです。』と御教導いただきました。体験発表を前に、いきなりハードルを上げられたように思えました。

もともと書くことは大の苦手ですのでまとまりがなく、お聞き苦しいとは思いますがしばらくお付き合いください。

平成19年7月にメシヤ教に私達夫婦が御縁をいただいてから、早いもので2年半の歳月が流れました。その間に多くのことを学びそしてメシヤ様より御守護をいただいてまいりました。そういったことを振り返りながらこの体験記を書かせていただきました。

全く未熟者の私が現在のように御神業に深く関わることになったのも、目に見えない力が働いたとしか思えないことでした。よく先生から「御神意を感じますね」というお言葉をいただきますが、パートとして勤めていた職場の駐車場が借りられなくなり路上駐車を避けたかった私は辞めざるを得なくなってしまったのです。

そのころ、アパートを借りて高校に通っていた息子が「もう一人暮らしの厳しさはわかった」と家に戻ってくることになり、経済面でも助かったこともあります。周りに起こる出来事が、御神業に専念するような方向へと私を導いていくのです。

正直言って、メシヤ様にお使いいただけるという嬉しさと、本当に御手足としての御用ができるのだろうかという不安が入り混じっておりました。私は人にうまく話をさせていただけるわけでもなく、今までただひたすらに浄霊のお取り次ぎのみをさせていただいてきただけに、“人様に急所をとらえた心に響く御教えを、お話することができるのだろうか”という悩みと不安で一杯の新たな御神業が20年3月から始まったのです。

先生の言われるように「御神意を御神意として受け止めるのか」または「ただの出来事、偶然として捉えるのか」では、その後の人生に大きな差が出てくると最近は思うようになりました。

三重支部発会と共に経験したことのない浄化をいただき学びを重ねる

新たな御神業をスタートして間もないのに先生と主人は、二間床の御神前を新しく整えて三重支部を発会するという話を進めていました。“本当に出来るのだろうか”と心配しましたが、何事も段取りの速い主人ですので、びっくりするほどのスピードで、御神前を整えることができました。

「後は御神体を迎えるだけ」となった4月4日に、御神前で、御浄霊をいただきに見えたある方と参拝をさせていただいている時に、御神体を御奉斎するその白壁に、光輝く階段、そして階段上には丸い輝く光々しい物を拝しました。その時、感じたのは、六十段の神界のそのまた上段ではないのかということと、善言讃詞の中の一節『光明如来と現じ 応神弥勒と化し 救世主(メシヤ)と成らせ・・』で、まさしく我家にお迎えさせていただくのは、最高の御神体なのだと、強く強くわき上がる喜びに、胸に熱いものが込み上げてきました。

そして、4月12日に多くの皆さんにお祝いいただき支部発会が許されたのです。発会後、参拝、浄霊者もいただくこととなりましたが、次から次へと浄化をいただくのです。いただいた浄化もそれぞれとても辛いと思える今までに経験したことのないことが多くありましたが、楳木先生より月次祭で御指導いただき、また緊急時に御浄霊の急所をお教えいただきました。その御蔭で乗り越えさせていただくことができました。中でも、親子・家族の関係ということを考えさせていただくことが多かったように思います。

喜多さんの一番ご心配されているお孫さんで、ある日身体の疲れを訴えられ自宅のメシヤ観音様のお部屋でお取り次ぎをされた時に、部屋に入るなり「お婆ちゃん、この部屋に入ると今まで息も出来ない位に辛かったのが不思議な位に楽になった」と喜ばれ、メシヤ様からいただく御浄霊の御光と御力の素晴らしさを体験されたようです。

何時かはお孫さんと支部に参拝されること、そして、善き喜多さんの想いが受け継がれ、お力になれるように願わずにはいられません。身近なところからメシヤ様と御神縁をいただく願いを、諦められることなく願われた喜多さんの出来事でした。

「家族の霊線」についてですが、 私事ではありますが、私の父は、平成20年10月30日に他界いたしました。療養型の病院に入っておりましたが、8月に医師より父の状態は腎不全を起こして危険な状態で何時急変してもおかしくない状態と告げられました。

ちょうどその頃、大きな浄化を抱えてみえる方のお世話と、子供の就職活動と色々重なりどうなるのかと思っておりましたが、一晩中御浄霊を取り次ぎ落ち付きました。出なかった尿も出始め乗り越えさせていただきました。

その後何度も危険な時はあり、参拝に行かせていただいて良いものかと気を揉みましたが、私達は決意して北海道の伊都能売観音様入仏記念式典にのぞみました。そして、帰って来るのを待っていたかのように、最後の御浄霊をお取り次ぎさせていただいた後、しばらくして息を引き取りました。全く父と霊線が通じており父が御神業の手助けをしてくれたのだと思わずにはいられない出来事でした。

先生より「お父様は、亡くなる直前まで御神業されていたのですね」とのお言葉をいただきました。

斎場の父を見送る時間に間に合わなかった私に、姉が「父の顔は穏やかで、仏様みたいだったよ。ありがとう」と言ってくれました。メシヤ様はすべてに置いて私達が困らぬように細やかに御守護を下さるのですね。

日々の啓蒙を心掛けていきたい

話は変わりますが、以前の所属教団での私共の体験、感謝報告をお見せした時に、吉田さんより「壮絶な体験ですね!私だったら信仰を辞めていたと思うし・・・今現在あるのはなぜですか」と感想をいただきました。振り返って今読んでも涙が止まらないくらいの体験です。

今考えてみますと、若くしてなくなった義弟の慰霊のため五十日祭まで毎朝夕拝に参拝された人がいたが入信に至らないということがありました。50日も人のために神様に祈ることができ、浄霊を受け続けてなぜ入信のお許しがいただけなかったのかということです。

楳木先生より、「梅原猛氏の論からゆくと日本人の死生観があります。自分に降りかからないように、という思いです。メシヤ様は、そうした夜の考え方ではなく、生きた人間を現実的に救う道を教えてくださっています。また、真の慰霊の在り方を教えてくださっています。ここに、人々の自己満足と、真理に根差した生活の差があります」と御教導いただきました。

ともすれば、私達は「あなたのためにこれだけのことをしたのだから・・・」とか、「きっと神様は救ってくださるはずだ」とか、「きっと霊界で救われたはずだ」とかいう自己満足に陥ってしまいます。そして、自分が表に出て何かをしなければならないときには、自分が人からどう思われるのか「そんな迷信邪教」、「そんな非科学的な」と思われるのでは、とか、浄霊で何も変わらなかったら私が責められるのでは、とか、そんな思いが自分を蚊帳(かや)の外に置いてしまいます。

彼女をご主人とともに聖地、布教所へもご案内しました。彼女は、「天国の礎」も拝読しておられました。しかしながら、自分達が浄霊をして人を救っていくという気持ちにはなっていただけませんでした。彼女としては自分にできることの精一杯の慰霊に取り組んでいたのだとは思いますが「宗教に巻き込まれるのは困る」との思いがあるため、真の救いには繋がっては行かなかったのだと思います。

メシヤ様は『信仰の種類 (一)お蔭信心は(地上天国7号・昭和24年8月30日発行)』で

『ただお蔭さえ貰えばいい、神様のためとか世の中のためとか、そういう事は第二義的で、自分さえよければよいという利己的信心で、これらは多く中流以上の人に多い。信仰を利用する事は知っても、神に奉仕する事を知らないのである。信仰を利用するという事は人間が上で神が下になる。神を崇(あが)め奉仕する事こそ神から恵みを受けるのであるから、このお蔭信心は、反(かえ)ってお蔭を無くする訳で永続きしないものである。』

と御教え下さっております。

いつかきっと彼女が、「神様への奉仕」すなわち、彼女が浄霊により、生きた人間を現実的に救う道に目覚められることを信じ、日々の啓蒙を心がけていきたいと思います。

身辺の事象を整理し、学びと反省を明確に

また、卵巣癌で余命三カ月と宣告され手術までの二週間、先輩と浄霊に通ったことがあります。手術前のレントゲンでは何も腫瘍は写っていなかったのに「今は奇麗だが、いつ再発されるかわからない、念のために」と卵巣も子宮も切除されてしまいました。その人が三年後再発し、もう全身に転移していて「長くは持たない」と宣告されましたが、本人が「浄霊をいただきたい」と願いご家族が了解されたので六カ月間毎日のように通わせていただきましたが、お亡くなりになった人がいました。

最初に浄霊で癌が消えたという奇蹟をいただきながら、ご家族の方は浄霊を理解されていなかったがために、医師の「念の為に全部摘出」という言葉に従ってしまったのです。そしてその時から縁が切れていたため浄霊を継続されなかったのです。臓器を摘出してしまう前であれば浄霊によりお救いいただける可能性は高い、と言えます。

その時に大切なのは家族も含めた周囲の人の浄霊に対する理解ということです。御家族が少しでも御教えに関する認識があったなら「癌が見当たらないなら、摘出しないでください」と医師に言うことができたのではないでしょうか。

そしてここで整理しておかなければならないのは「再浄化」ということです。

○無い命を一度は繋(つな)いでくださるが、神律により二度目はない。
○救わるべき因縁のある人は、神様の大慈大悲によりどんな妨害があっても信者になる。

ということが次の御教えでわからせていただけます。

『明日では遅すぎる (栄光160号・昭和27年6月11日発行)』

『これは時々ある事だが、最早死の直前にまで追込められた病人で、御蔭を頂き一旦快くなって喜んでいると、再浄化が発って迷い始め、前の事を忘れて、再び医療に縋(すが)るが、無論成績が悪いので、再び浄霊を求めに来るが、こういう人はほとんど助からないものである。これはどういう訳かというと、神様は無い命を一度は繋(つな)いで下さるが、それを離すと、二度は決して繋いで下さらないからで、これが神律であるから致方(いたしかた)ないのである。従って信者はこの事をよく心得て中途で迷って、再び縋って来ても、気の毒だがそのつもりで扱うべきである。』

『神様も御手数が掛る (世界救世教奇蹟集・昭和28年9月10日発行)』

『治った患者自身がかなり分りかけた頃になり、たまたま再浄化が起りでもすると、(中略)治った時の事も忘れてしまい、また医師に行くが、元々医療で駄目だから当方へ来たのであるから、快くなるはずはないから前にも増して悪化する。しかし神様の大愛は今度は一層分るようにして下さるので、ここに本当に目が覚め救われるのである。

そのような訳で一度でスラスラ入信する人はまことに少ないが、しかし救わるべき因縁のある人はどうしても神様は離されないから、どんな妨害があっても結局は信者になるので、全く神様の大慈大悲は勿体(もったい)ないくらいである。』

お世話する立場としては、この点を良く踏まえ、本人に浄化と御守護の意味を良く説明し、継続して浄霊を受け御教えを少しずつでも学ばれるようお導きすべきであったと反省いたします。そして、『救われた命は私用に使わない。神様の御用にお使い頂く。』ことを肝に銘じておきたいと思います。

そしてまた、近所のご主人が脳内出血で倒れられ、なぜか肺癌になり、一ケ月半ほど浄霊に通いましたが、「母親には浄霊を受けていることを黙っていてほしい」と言われ、動揺し葛藤(かっとう)し自分も暗くなり浄霊に行けなくなってしまったことがあります。そして、二か月目にお亡くなりになりました。

楳木先生より、「宗教の役割、宗教に携わる者の役割があり、それは概ねきちんと霊界へ送り届けるということです。昔から、引導を渡す、と言われていますが、これが宗教の重要な役割なのです。」と御教導賜りました。

そこで、引導を渡すを、仏教用語では「引導を授ける」というそうですが、辞書を引きますと、【誘引開導の意で、本来は人を正しい道、仏道に導き入れることをいうが、転じて、死者を彼岸(ひがん)に導き済度(さいど)する葬儀の儀礼をいう。】とありました。

何人もの友を霊界に見送った体験記を以前の教団で発表した時に、ある指導者より「あなた達は引導を渡しに行っただけじゃないか。あなた達が思うほどみんな困ってはいないんだよ。」と言われ、やり場のない怒りを覚え、一ケ月程参拝しなかったことを思い出しました。

しかし、楳木先生のお言葉で長年のわだかまりがスッキリいたしました。引導を渡すことこそが宗教の大事な役割だったのですね。

「メシヤ講座・特選集<体験記> 宗教のもつ意味」で、「今、分かってもらっておきたいことがある。今のお母さんの身体で延命することは難しい。現界でのお母さんの役目は終わって、お母さんはこれから霊界での役割がある。あなたがこれまで生きてきた時間よりも長く、お母さんの供養が現界でできる。肉体が滅んでも魂は永遠である。」と先生がお話になっておられますが、現界で生きてほしいとの執着を和らげ、霊界での役割があることを話してあげることが本当に大切なことなんだとわからせていただきました。

そして、人に話をする時には言葉を練って相手の気持ちになって誠実にお話させていただかなければならないと改めて学ばせていただきました。

今の話は、次の御教えで確認させていただくことができます。

『御講話(S28年6月25日)御教え集23号』

『重病の場合でもう治る見込みがないという時に「どんなになっても、まだそんな失望するにあたらないから、しっかりしていろ」と言って慰めますが、これは本当言うといけません。やはり生の執着が御守護の邪魔をするのです。治すのは、正守護神が神様の方から力をいただいて、自分がお取り次ぎして治すのですが、その場合に生の執着があると、正守護神の思うとおりにならないのです。本人や周囲の者の執着心が邪魔するので、治る場合も治らないということも大いにあります。ですからこれからは、もう駄目だと思ったら、早く本人に諦めさせるのです。「これはもう駄目だ、死ぬ覚悟をしなさい」と言った方が、かえって助かるのです。』

御世話に取り組む意義が日々明確に

ここで浄霊をいただいて他界した人と浄霊を受けないで他界した人の違いは何かを考えてみたいと思います。

1.肺癌でしたが手術を受けず、ホスピス病棟で亡くなった義父は、死を迎える自覚があり、「もうあっちへ行くから博幸(私の主人)を呼べ」と言うので義母は私達を呼びました。そして家族に会ったその日の朝に、いつものようにベッドに座って浄霊をいただきながら眠るように昇天しました。亡くなる朝まで食事をとることができました。

そのことを楳木先生にお会いした最初の頃お話しましたら、「身体を傷つけずに旅立つことができた意義は、霊界生活に入ってこそわかるものです。」と話して下さいました。

2.浄霊をしたくとも声をかけられなかった主人の知人は頬がこけ顔色が黒くなり苦悶の表情で亡なくなりました。

3.浄霊を続けてさせていただいたが、親の反対により途中で行けなくなり亡くなった友人には未信者さんも一緒に御霊前で「善言讃詞」を奏上させていただきましたが、顔には笑みさえ浮かべており悲しみの中にもホッとさせていただけました。

これらの経験を通じて、浄霊を受けていた人と受けていない人では亡くなられた後の面貌が全くちがうことがはっきりとわかりました。また、穏やかに霊界に行くためには死の自覚が大切であることをわからせていただきました。

私は、義父、母、父を霊界へ見送りました。いろんなことがあったのですが、自らの親を霊界に見送ることの意味を整理しておきたいと思います。

楳木先生よりこのことに関して、「一般に、親を見送ることの意味は真の世代交代を意味します。自らが家系の担い手になるということです。自らが積徳の最高責任者になるという意味になります。悲しみを乗り越えた後に、そうした自覚が芽生えなくてはなりません。それが御教えに出会った者の責任でもあります。」と御教導賜りました。

『再生(明日の医術・昭和18年10月23日)』の御教えに

『浄まった霊体ほど再生して幸福者となるのである。此理(このり)によって早く再生する場合は、汚濁が残存しているから、再生の後現世に於て浄化作用が行われなければならないからである。勿論現世の浄化作用とは、病気、貧乏、災い等の痛苦であるから不幸な運命を辿(たど)るという訳である。故に、生れ乍(なが)らにして幸不幸があるという事は右の理に由る事が多いのである。故に、決して幸不幸は偶然ではなく、必然である事を知らなければならない。然し乍(なが)ら、今一つの原因がある。それは死後の霊魂に対し、その遺族が誠意を以て懇(ねんご)ろなる法要を営(いとな)むとか、又は遺族及び其(その)子孫が人を助け慈悲を行い、国家社会の為に尽す等、善徳を積む事によって、祖霊の浄化作用は促進されるのである。右の理によって、親に孝を尽すのは現世のみではなく、寧(むし)ろ死後、供養や積徳によって霊界に於ける親に孝養を尽す方が、より大きな孝行となるのである。世間よく「孝行をしたい時には親は無し」というが、之は全く霊界の消息を知らないからである。(後略)』

とあります。つまり、私達が今幸せに暮らせるのも、メシヤ様に御縁をいただけたのも、先祖様の積徳があったからであり、今までの御先祖様が罪穢れを払拭(ふっしょく)され徳を積まれ何度も生き代わり生まれ代わるうちにようやく私達の世代でメシヤ様に繋(つな)がらせていただけるようになったのです。私達の代でもメシヤ講座で学びましたように「先祖から受け継いだものの内で良き特徴は受け継ぎ、問題とすべきものは改めてゆく。罪穢れに相当するところは改めてゆくことを家庭慰霊祭で毎回お誓い申し上げる。」という、そういうことの積み重ねにより進歩向上を心がけてまいりたいと思います。

以前主人と父の介護に向かう車中で「私達の代で先祖の残してくれた徳を使い切ってはいけないね。子孫に徳を残して行けるようにしなければね」と話したことがあります。これが、先生のおっしゃる自らが積徳の最高責任者となるといういうことなのだと思いました。

私達は『三千年の間には、いくども生き代わり死に代わりしているのです。(御講話・S28年12月25日)』と御教えにありますが、この現世に生き代わっている時に、三千年の歴史の大転換の時に際し、メシヤ様の御手足として地上天国建設の御聖業にお使いおいただけることを感謝申し上げ、精一杯歩ませていただかねばならないと思います。

そうしていくことがまた、先祖様への徳返しとなり先祖様が次に生まれ変わった時に幸せな生活を送ることにつながります。そして、子孫へ徳を残すことになり地上天国の住人となれる道しるべとなれるのだ、とこの体験談を書くことにより整理させていただくことができました。『正守護神は、祖霊同士でもなけりゃ、神様でもなく、祖霊の中でそのときの霊界で一番上の祖先がやられるんですよ。(御光話・S25年4月8日)』と1月のメシヤ講座で学ばせていただきましたが、将来子孫の正守護神となり子孫を見守ることが許されるよう、現世で徳積を心がけていきたいと思っております。

メシヤ様から事前に経験させられ準備させられているように

メシヤ講座で学ばせていただいたことで、私の性格として思うのは、「我と執着」「無知な事」ですが、参拝にみえる方々と訪問させていただく方をお世話をさせていただいて、日々学ばせていただいております。

そして、御神業をしているとき強く感じますことは、事前に経験させていただいていることが多いということと、同じことがあちこちで起こる「同時性」ということです。

例えば、義兄のくも膜下出血の時に先生より御浄霊の急所を御教示いただいておりましたので、喜多さんの浄化の時に「頭の関係の御浄化だと思われるので大静脈、大動脈のあるお臍の両側を良く自己浄霊するように」とお話することができました。

また、アトピーは我家がメシヤ様とご縁をいただいた浄化です。乗り越えるまでの忍耐力と乗り越えられた喜びをアトピーの浄化は教えてくれました。最初は不安感が募り途中で何度となく挫折してしまいそうになります。アトピーには忍耐がいります。

薬毒排泄の浄化を繰り返しながら、文字通り薄紙を剥(は)ぐように良くなって行く過程を支部に御縁をいただいた子供たちの母親にお取り次ぎの中でお話をさせていただきました。吉田さんも我家と同じように生後数ヶ月でのアトピーとなり、子供が小さな時に浄化を乗り越えられて良かったと思われたそうです。

浄化について、お世話させていただく中で次のようなことを感じさせていただきます。

○子供の浄化がひどくなる時は、心配と不安感から執着の余り「メシヤ様にお任せさせていただく」という気持ちがゆらぎ、みずから曇りを作ってしまうこと。
○浄化はその家で倒れては困る人には軽く乗り越えさせていただけること。
○子供の浄化を一つ一つ乗り越えることによって親子の絆と親としての成長と強さを与えていただけること
○子供が成長した頃には、自分たちの親が年老いて、浄化の試練が訪れること。
○支部全体の御浄化で、祭典の節目節目で御浄化をいただくこと。主人の盲腸炎、火傷、とびひ、風邪と参拝が出来ないかもと思われた御浄化も、浄霊させていただき、諦めることなく想い続けていると参拝も許され、御守護も早くいただけるものです。
○忍耐力を持って取り組ませていただくと、浄化を乗り越えた後には、「感謝」の気持ちと「笑顔」が待っています。

メシヤ様は「事前に準備をされておられたのではないか。」と思わせていただくことで、主人がよくいうことは、今やっていることの小さな型を事前に経験させていただいているということです。前の教団でもグループでの勉強会を主人がお世話して実施していましたが、今はミニ・メシヤ講座に生かされております。

そして、我家で楳木先生より御指導いただき仏壇を整えるとその仏壇を見て喜多さんがすぐに仏壇を整えられました。私達が何店も仏壇屋を回って信頼できる店と店員さんと御縁ができましたので、非常にスムースに慰霊祭まで事が運びました。それからすぐに、浄霊のお世話をさせていただいている家のお位牌を整えることもできました。 自分たちの経験からお話ができるので理解されやすかったのではないかと思いました。 店員さんとの話の中で仏事に関する知識を主人は学んでいきました。そして、「位牌は黒地に金文字」とか御教えに沿った内容を逆に店員さんに説明していましたので、非常に仏事に興味があるのだと思われたのか、いろんな宗教宗派の仏事の形式について仏壇屋用の資料を下さった程です。

「車のお祓い」「不要となった宗教神具の処分」等の方法を楳木先生にご指導いただくと、しばらくして復習のように経験を重ねることが起こるのです。御神意のもと必要あって経験をさせられているのだと主人は思わせていただいたそうです。

つい先日、御神前の窓を掃除している時に主人はこんなことを思ったと話してくれました。 窓は外側だけ拭いてもきれいにならず、内側だけ拭いてもきれいになりません。外側も内側も拭かないときれいにならないのです。また、天気が曇りの日はきれいだと思って見ていた窓も、太陽の光が射して明るくなると汚れが目に見えてくるのです。曇りが浮き上がってくるのです。私達人間の曇りも同じではないですか。薬で外の目に見えるところだけ治療しても良くなりません。浄霊で太陽の精を放射し、曇りを内側からもきれいにしなければいけませんね。そして魂に直接響く御教えを学んでいくことが大切なのではないでしょうか。そんな話をしておりました。

私は、ああ楳木先生がおしゃっていた、「体験を体系化して信仰のない人にわかりやすく話ができるようにする」とはこういうことなんだと、思わせていただきました。ちょっとした日常生活の中にもメシヤ様の御教えは生きているのですね。

浄化中のお世話をさせていただく度に、もっと気持ちを楽にしてあげれる「浄霊と言葉の急所」を見つけられますように、いつも願っております。月日がたつとついつい甘えと気持ちの緩みが出来てしまいますが、素直に慢心することなく、一歩一歩前進出来ますように、主神様の御神体の御光に包まれた御神前で祈願に取り組む場が増加し、メシヤ様と直に太く繋がらせていただけますように願っております。

『新人たれ(栄光七三号・昭和二五年十月十一日)』で、『人は常に進歩向上を心がけねばならない。無論焦ってはならない。ほんのわずかずつでもいい。長い年月によれば必ず立派な人間になる。』と御教えいただいております。『私といえども去年より今年、今月より来月というように、あくまで進歩向上心の緩まないよう努めている。』と、おどろくことに神人合一の御神格のメシヤ様にあられても進歩向上に努めておられたのです。

『新人たれ』の御教えを胸に、絶えず進歩向上を心がけてまいりますので、皆さまどうぞこれからもよろしくお願い申し上げます。本日は、おめでとうございました。ありがとうございました。

≪挨拶≫
幾重にも目出度い記念すべき立春祭

メシヤ教代表 楳木和麿

皆さん、立春祭並びに世界救世(メシヤ)教開教六十周年、メシヤ教立教十周年という幾重にも目出度い記念すべき祭典おめでとうございます。また、遠路はるばる御参拝いただきまして心から感謝申し上げます。ただ今の体験記を基にしてお話し、挨拶とさせていただきます。

昨日は意義深い節分祭を皆さま方と執り行うことが許されまして、非常に感無量のところがありました。そして、懇親会の後この御神前に帰りまして掃除をさせていただきながら、メシヤ様が六十年前に世界救世(メシヤ)教を開教する時の御心境というのはどのようなものだったのだろうか、と思いを巡らせておりました。

胸に強く突き上げてきたのは、メシヤ様が御啓示をいただいて浄霊という絶対力を私達に伝授する方法を編み出されて、昭和十年に御立教されてから、宗教活動というのは晩年までできない状態だったということでした。つまりは「岡田式神霊指圧療法」をはじめとする療術行為を通して神様の力を取り次ぐということに終始してこられた、というのが実情です。

そして、第二次世界大戦後に信教の自由が実現しても、地方ではGHQ衛生部の誤解による弾圧を受けることもありました。若くしてメシヤ様の御神業に臨まれた先達の方々が三十代で大変多く亡くなられております。そういう不幸なことが続く中でも御神業推進を目指されて、GHQからの弾圧を避けるために牧師と交流し、キリスト教的な考え方も加味した対応策を取られました。そうした中での「世界救世(メシヤ)教」の開教であった訳です。昭和二十五年二月四日のことです。

しかし、開教してメシヤ様が教主として表に出らたのも束の間、次席の座をめぐって不祥事が起き三か月後の五月に御法難に見舞われます。当局からメシヤ様が直接取り調べを受けられるという最悪の事態を招いてしまいました。その時に幾度となく襲われた脳貧血の後遺症で、本来百二十歳まで御存命であられるはずのメシヤ様が七十三歳という御歳で御昇天になってしまいました。

そのために「世界救世(メシヤ)教」は、たちどころに「世界救世(きゅうせい)教」という名称に改められて、本来の御神業というものはメシヤ様の御昇天と共に停滞状態に陥らされました。

もっとも、六十年間教団は様々な工夫はしてきました。現在でも「東方之光教団」では社会性をテーマに、医者の協力を仰ぎながら浄霊の普及に努めております。急所の探査ということも続けておりますけども、しかしながら、メシヤ様という絶対的な御神格に対する教育がなされていないために、本来の力が残念ながら出ていないというところであります。一方「いづのめ教団」では海外で飛躍的にメシヤ様の御力というのは浸透しております。イギリスでは浄霊をいただくのに健康保険を使えるところまではきております。

そういう工夫はしてきておりますけども、メシヤ様が進められようとした本来の御神業とは言い難いものがあります。メシヤ様の本来の御神業は何かと言うと、最後の審判のスタートは医学だということです。「医学革命」が最後の審判のスタートだと位置付けられているにも関わらず、この認識が希薄で両教団共に医者の方へ傾く、あるいは結果的に民間療法的な立場をとって浄霊というものを位置付けています。そのために本来の御神業ではない、と言わざるを得ない訳ですね。

昭和30年3月3日に「メシヤ降誕本祝典」祭行を予定されていたので、人間的に言えば御無念の中でメシヤ様は御昇天されたのではないかと拝察できます。そして世界救世(メシヤ)教というものの行く末を案じられていたのではないかと思わされます。しかし、行く末と言っても、メシヤ様が御昇天されて直後に二代様によって世界救世(きゅうせい)教に名称変更がなされ、そこで本来の御神業は頓挫してしまっているので、表現のしようがありません。

ですから、私が十年前、ちょうど「開教五十周年記念」の日に決意した内容というのは、この「世界救世(メシヤ)教」というものを復興して、メシヤ様が進められようとした御神業を担わせていただく、そして、それを支えてくださる方を大勢いただこう、というものだったのです。その思いで10年前に一念発起した訳であります。

主神様からの教えという認識を普遍化する

ここに至ることを私の口から言うよりも、意義に賛同した濵口さんに報告していただいた方が理解が深まると思い、濵口さんがずーっと大勢の方々をお世話する中で「自分が取り組んだこと」と「当時の教団側からの解説」というものをレポートのように今日は纏(まと)めてもらいました。そのために少し長くなりましたが、過去の教団からの世話体制に対する指導とメシヤ様の御教えとそれから私が気付いたことをいくつかアドバイスした、その三点を並べられた内容を聞いていると、“メシヤ様の御神業というところへは今まで中々行っていなかったなあ”ということを感じられたのではないかと思います。

余りにも纏(まと)め過ぎて、しかも長くなったので途中で頭の中がボーっとなってきたかも知れませんが(笑)・・・。整理して聞くと、私が中学生の頃から御教え拝読を始め、そして濵口さんと同じように布教所に行って、体験報告を聞いて当時の先生の解説を聞いて、そして世話人の方々が話している内容を聞いた時に持った感壊と類似しています。

そして、その頃から、一体この信仰というのは神様をどのようにして捉えているのかということがさっぱり解らなかった訳ですね。その原因というのは、浄霊とか御教えというものをですね、既成概念で捉えてしまっているからなのです。だから、大きな御守護をいただいた人程、固定概念に捉われていってしまいます。それは何かというと、医療対浄霊という対立関係を生むような考え方を作ってくるのです。

主神様の御立場というのは全てを包含してですね、そして善と悪とを闘わせながら文明を発展させてきて、将来はこの善と悪がずーっと中心に寄って来る。そして、真文明をつくっていくということが主神様の御経綸としてあります。だから対立的に考えるというのは、これは主神様からの教えの考え方ではない訳です。

「正神」、まあ正邪と分けられた場合は、「正」の立場からの考え方で「邪」と闘ってくるということになりますが、闘うと対立関係が生まれます。この対立関係が過去の教団ではものすごく続いてきた訳です。そのために教団人の言動が絶えず批判的になってきます。そして、「私はこうやってきたのだ」という話し方がずーっと教団の中で続いてきています。

宗教側の進歩こそ急務

しかし、メシヤ様は『宗教と科学の一致』ということを仰っている訳ですから、科学はこれ程進歩しているので宗教も進歩して、あるいはその前を進んで行かないといけないのです。この進んでいる科学に対する認識が弱いために、本来の宗教の進むところの認識をほとんど持つことのできない状態で今日を迎えております。

これはどういう意味かというと、科学が何故進歩したかという話になります。それはこうです。キリスト教のいわゆる十字軍がアラビア諸国を制覇した時に、そこから戦利品を持って帰ってきます。そしてキリスト教の牧師(とりわけ牧師の中で学術的才能に秀でた牧師)が分析したところ、キリスト教文化圏よりもアラビア諸国の方が学問的に進んでいたということに脅威を感じて、それからキリスト教文化圏が躍起になって学問体系を作り上げたということがあります。これが基礎になって現在の科学の進歩がある訳です。だからキリスト教文化圏がアラビア諸国に負けないために世界をリードしてきたということが今日までの歴史の一面です。

それでは仏教というのはどういうことでしょうかと言った時に、何時もお話していますように、曼荼羅というのはいわゆる「ふとまに」の図の進化版です。元が神代文字ということになります。また、これを「元素の周期律表でもある」と解説する研究者もいます。

こういうことの配置を主神様はされて、そして現代まで歴史として流してきております。そして、メシヤ様の御出現によって真理を全て明かして我々の手元に渡して下さっている訳です。しかし、渡してもらった人間側がそのことを判らないまま六十年間過ごしてきてしまっているということが現実です。

メシヤ教は十年前にほぼゼロの状態からスタートして、こうしてお集りいただいた方々というのは、そういう概念を認識された方々ですね。明確に認識されているかどうかは別として(笑い)、“何かやっぱり今までやってきたことはちょっと違うなあ”と思っているがために“じゃあ話を聞いてみようか”ということで段々集り始めた訳ですね。そういうことがこの十周年を迎えた時に非常に感ずるところです。

それで、そのように感じたことを基にして、やはり我々気付いた人間が、やり始めなければいけないということで、昨日新しいサイト上の座談会の名称というのを皆さんに投票していただきました。支部ごとの投票で一番多かったのが「メシヤ様の御精神を現代に求める座談会」ということでありましたので、これに決定いたします。ですからサイト上では「メシヤ様の御精神を現代に求める座談会」をこれから正式名称にしてゆきます。そして各支部責任者あるいはブログ管理者によって「メシヤ様の御精神からゆくと、この問題はこういうことではないだろうか」ということをどんどん発信仕合います。それが座談会のようにサイトの中で繰り広げられるようになります。

先月、札幌支部の担当者が決まりましたので、これで全国の担当者が出揃ったことになります。本日を皮切りに、この取り組みも進めてゆきたいと思います。そういう意味から立春祭として目出度いことに加えて、新たな御神業のスタートが切れることを非常に嬉しく思います。

昨年の秋位から非常に身辺で変革が起きる中でこの座談会という話も浮かび上がってきました。そういうことを祝うかのように、メシヤ様の御尊影の前に十四代柿右衛門作「錦香炉 牡丹雪紋」が神秘的な出来事の中でお供えさせていただけることになりました。形は小さいですけれども、メシヤ様が示された芸術面で少しずつ追体験が許されていくような感じがいたします。

全ての宗教はメシヤ様の御出現を待ち望んでいた

先程、学生時代からずっと御教え拝読しながら教団全体の様子を見て来た話をしましたけれども、いざ、専従をさせていただくと次は組織に翻弄されるような毎日でありました。御教えよりも組織が前面に出てくるという環境だったのです。素晴らしいと言われる先生に出会って色々質問して訊ねたりしても、やはり“それが本来のものであろうか”という疑問をずっと拭えないで来ました。

その一つが、先ほど濵口さんが報告していただいた内容と同質のものです。これは私達が絶対的な救済力を身につけると、(身につけるということは素晴らしいことで、御守護いただくということは何にも代えがたいことなのですが)素晴らしいが故に他の全てを否定してしまうような思考形態が生まれることもあります。そうすると、今までの宗教が担ってきた役割ということに思いが行かずに、“この宗教こそ絶対なのだ”ということが前面に出過ぎてしまいます。

しかし、宗教というのは、ネアンデルタール人が死者に花を手向けて霊界に見送った時から、おおよそ六百万年間積み重ねて来ています。宗教の歴史というのは、六百万年の積み重ねを経て現代を迎えています。そうしますと、全ての宗教というのはメシヤ様の御出現を待ち望んでいたことになります。そういう時代の中で御世話していくと、心の中に持っていなければならないことは何かというと「御苦労の末によくぞメシヤ様に辿りつきましたね」という考え方なのです。

みんな苦労していろんな宗教とか、いろんな良いというものとかを・・・浄霊に出会う前は“このサプリメントが良いのだ”とか“こういうものを食べておくと、飲んでおくと、良いのだ”とかいうことで試してきております。そういった苦労の末にメシヤ様へ辿りついたのだ、ということです。このことが実は目出度いのだ、ということが御世話する人の気持ちの中にないと御世話がですね、「この人の病気を治してあげたい」あるいは「問題を解決してあげたい」と思って、それが治った瞬間から目標が消えてしまう、あるいは問題が解決した時点で「御守護いただいて良かったね」で終わってしまう、ということになってしまいます。

こうした御世話を今まで何回も繰り返してきてた訳です。結果的に、その組織の中で本来のメシヤ様に辿りついた信仰者が営む信仰というものが営まれずに来てしまったのです。そうした理由から、今回は濵口さんに過去のことを振り返ってもらって、御世話に取り組んだことの整理をしてもらったのです。

非常に長かったのですが、2月分の「メシヤ講座・特選集」に載せますので、ジックリと読んでいただきたいと思います。そして、整理の仕方の参考にしてください。濵口さんが体験したことと、御教えと私の話したことを繋いで、もう一度読んだ上で自分の信仰というものはどういうものだったのか、あるいは自分がお世話していくということとの繋がりはどうか、ということを考えてみてください。

私は専従時代にですね、「メシヤ様は素晴らしい(当時は明主様ですけれども)」という言葉は飛び交っていました。しかし、どのように素晴らしいかという具体論は非常に乏しかったのです。それから大黒様を御奉斎するということも消えていました。現在こんなに大黒様の恩恵に与(あずか)っているのにです。大黒様の御奉斎を勧めなくなったということは信者を幸せにしたくない教団なのかと思いたくなります。命の次に大切なものとお金というものを捉えている現代人にとっては、こんな有り難いことはない訳なのですけれども、何か理由を付けて御奉斎をしなくなってしまいました。今どんどん大黒様の話をメシヤ教が発信していますので、少しずつ気付いた人が御奉斎する動きも起きて来てはおりますけども、もっともっと皆様方に浸透して良いのではないかなと思います。

結局は、信者さんにしろ専従者にしろ無我夢中で我武者羅にやってきただけなのです。具体的にどのようにするかという話が少ない中で、そして、それを上手に誤魔化す言葉が「御経綸」というものです。「御経綸に乗り遅れないように、あなた、やらなければ駄目なのよ。」などという掛け声ばかりで、皆引っ張られてきた訳ですね。しかし、具体論はたくさんあるのです。岡田茂吉全集は50冊あります。これだけ具体論を持っていらっしゃるメシヤ様の御教えをですね、取り次ぐ時に「御経綸」というひとくくりで表現するのは申し訳ないので、これから具体的に座談会を通してやっていきたいと思います。

『信仰即生活』を自らのところまで降ろして

濵口さんが報告してくれた中に、自分がまず練習しておいて次の人の御世話ができるというお話がありました。昔から言われている「因縁の人が因縁の人を救う」ということですね。そして、この因縁の人が因縁の人を救う時に真心を込めて誠を込めてやればやるほど同時に進行していきますので、所謂(いわゆる)共時性ということを実感することが出来ます。ただし、誠が慣れになってくると今度は共時性ということが少しずれてきてしまいます。共時性ということが一貫して感じられるような生活をさせていただくことが重要です。

大切なことは、メシヤ様が我々に示されたのは『祈ったり参拝したりするだけが信仰じゃないのだ』ということです。信仰というのは生活なのだということですので、『信仰即生活』ということを、もっともっと我々の生活におろして行かなければいけないですね。その参考になることが景仰には載っております。例えばメシヤ様は、奉仕者にどこの部屋のどの箪笥の何番目の右の引き出しを引っ張るとその右手前に何が入っているから取ってこい、とそういう指示の仕方をされています。そこまで整理整頓をされていて、しかも頭の中に入っておられたのです。私達が遠く及ばない、そういう整理の仕方をされております。

それから、宗教の道に入られる前に小間物屋を始められた時には、朝一番先にお店の掃除から取り掛かられました。私もメシヤ教を始めた頃には、出張のない間はひたすら掃除ばかりやっていました。すると「掃除ばかりしてどげぇなるか」ということを言われた時期もあるのですけども(笑い)、しかし、それを積み重ねるしかメシヤ様の御足跡を辿る術がないのです。メシヤ様の実行されたことを一つ一つ取り組んでゆくしかない訳ですので、『信仰即生活』を今後さらに大切にしていただきたい、と願うばかりです。

今日をスタートとして新たに取り組ませていただく御論文『文明の創造』を仕上げてゆく作業というのは、実は主神様の御啓示に基づいた教えを纏(まと)めてゆく訳ですので、遥かに高い見地からの教えがどんどん出てきます。そうしますと私達はまた錯覚してきます。私達こそ偉いのだ、とか、特別な人間なのだ、とか、そういう認識になってしまうと生活がどうしても疎かになってしまいます。

先ほど、「おどろくことに神人合一の御神格のメシヤ様にあられても進歩向上に努めておられたのです。」という話を体験記の中でされていました。そういう気持ちを皆さんで持っていただいて、より進歩向上を目指してゆくような生活、その生活と同時進行でないとこの『文明の創造』という御論文を完成させるということにはならないのだ、ということを今日は腹に置いていただいて、どうぞ現場にお戻りいただきたいと思います。

今回一人ひとりに「御参拝しませんか」という声を掛けた訳ではないのですけども、各支部の責任者が今回初めて出揃いました。出揃っただけではなく、本部の御神前に集ってこうして祭典を共にすることができました。御神業というのが十年という言葉の通り結ばれてそして愈々・・・十年ですけれども私が宗教活動を独自にやり始めてから今月の二十八日で十一年になります。準備期間がありましたのでね・・・。それで十一というのは結ばれて始まる数字ですので、そういう十一年目を迎えたということは、スタートの年なのだという思いを持ってどうかお進みいただきたいと思います。

そして、今後一層支えていただいて、また皆様方の身辺においては多くの方々をメシヤ様の絶対力という恩恵に浴していただけるように働き掛けをしていただいて、御神業を進めていただきたいことをお願い申し上げまして、私の挨拶とさせていただきます。本日はおめでとうございました。(要旨)