鎌倉支部 松本乙梨惠
いつか神様の御用をするようになる
今まであまりにいろいろあり過ぎて今日に至りますが、私と救世教の出会いからお話させていただきます。
もう五十年以上前に遡ります。小学二年生の時の霊的なカリエスが始まりでした。医学では、手術をしてもほとんど助かる見込みがなく、手術をするにも家一軒分の費用がかかり、「命を取り留めても小児麻痺になる」と言われました。家も貧乏で、母は私を小児麻痺で生かすより殺してやったほうが…という思いで病院長と談判、手術を断り、山口県萩の「光の道教会」の平本直子先生に私を預けたのでした。平本先生に「治る」と言われた後、順調に回復し、元気になりました。
その後、事故で臨死体験をするなど、二度命を救われました。私には救われたという感覚はありませんでしたが、母は、平本先生から「将来、乙梨恵ちゃんを専従者にするように。」と言われたらしく、私に「命を頂いたのだから、これからは明主様の御用をして生きるように」と言いましたが、私は「助けて欲しいと望んだわけでもない。助かったのは私に寿命があったからだし、そんな恩着せがましいことは言わないで」と、何度も母を泣かせ、勝手に家を出て大阪で働き出しました。それから何度か入退院を繰り返したり様々なことがありましたが〝いつか神様の御用をするようになる〟という時期が来ることは感じていました。
三十歳位の時に、ある事故に合い多量に出血し、その血を見て助かったと思い、その時から目覚め、御神書に求めるように変わっていきました。N先生や、いろんな先生方との出会いもありました。
そんな中、鎌倉のM先生との不思議な出会い、現象の中「あなた大阪じゃなきゃいけないの?」と何度か言われ、「いいえ、神様に言われたらどこへでも行きますとお約束しています。ただ、私は山口が気になるのですが…」と私が何度言っても同じことを繰り返されるので、〝これは神様がこちらに来いと言われているのか。こちらに御用があるのなら…。〟と思い、平成二十五年十月初め会社に退職願を出して、十二月十一日大阪から鎌倉に引っ越してきました。
それから短期間にいろいろなことがあり、いづのめがおかしくて、十三もおかしかったのに、鎌倉もメシヤ様に向かう信仰ではなく、こんなところにはおれないと鎌倉のいづのめから、とりあえず、本部教区に移籍することにしました。
メシヤ教に繋がるために
メシヤ教との出会いですが、最初に十三から鎌倉に移籍願いを出した時に、関西の教区長から「話があるから時間をくれ」と言われ、二時間程話しても、私は頑固で言うことを聞かないので、止めることはできず、「乙梨恵ちゃんは、鎌倉じゃなくて、今一番奇蹟の多いメシヤ教があんたには合っている」と言われました。どこにあるのか聞くと、「本部は大分、後は八尾にもある」と言われ、〝何故そんな田舎をわざわざ勧めるのか〟と思いました。鎌倉は同じいづのめで、メシヤ教は出た他教団なのに何故そんなところを勧めるのか不思議でした。松本は、霊的で止めることはできないと思われたようです。結局、メシヤ教に繋がるためにこちらに来させられたのだと思いました。
私が最初にメシヤ教鎌倉支部にお伺いしたのは平成二十六年十二月十日でした。知人から私にはメシヤ教が合っているから是非行くように勧められたのですが、この時も〝何故?〟との思いですぐには行きませんでした。その人は他教団の人ですが、今度は住所まで調べて知らせてきたのでした。そこまで言うので仕方なく、では〝一度行くだけ行ってみるか〟と軽い気持ちで行ってみたのです。その時間に帰ってくることはないのにその日は何か用事ができて帰って来られたという菅谷さんの奥様に会いました。
そして、三月三日メシヤ御降誕本祝典記念祭に参拝し、楳木代表にご挨拶だけしました。まともにお話をしたのは大分でした。
その前に、私は、自分の思い通りにはいかないし、神様の道具としてある意味操り人形のようで〝感じるまま、言われるままに素直にするしかない〟と思い、夢や感覚等で御足跡を訪ねたり、神社等へ神様にご挨拶に行っておりました。芦別山もその一つです。
平成二十六年十一月からは、そごう横浜店で働いておりました。
〝高千穂に行かなければ〟との思いがありましたが、〝ここで働いている限り連休は取れないので無理だ〟と思い、メシヤ様に「申し訳ありませんがしばらくはいけません」と報告しました。そしたら、途端にトラブルや、いろいろ障害が起こり、結局、会社を辞めることにしました。そこで、「行け」ということかと思いすぐに計画しました。
そんな中で、ギリギリで有給もいただけ、四月十日までの在籍で、三月末で仕事は終わり、次の仕事が五月一日からと決まりました。高千穂だけのつもりが、「そこまで行くのだったら、喜界島も行くでしょう」と言われたり、その中にメシヤ教大分本部もありましたが、あまり行く気はなく、その時は、〝行けたらいいかな〟くらいの気持ちでした。九州に行く前に、平安郷から、大本教の大本道場研修に一週間行き、気になる神社参拝して、十七日から二十四日まで八日間で九州に行きました。
「神言忘備録」
まず初め喜界島に行くのに、知人に鹿児島の名誉職の先生を紹介され、会ったこともないのに、その先生がたくさんの資料を作ってくださり、資料の中で、「神秘的なルーツを求めて旅をされる松本様に感心致します」と書いてくださいました。教団や、平本先生の話をして「神言忘備録」を貸しましょうか?」と差し出されましたが、実は私も持っていて、朝家を出る寸前に、先生に差し上げようとカバンに入れ、持ってきたことを話し、お互いに驚きでした。直子先生がお働きだと思いました。フェリーに乗り、休憩所のソファーのところで食べていると、一人のおじさんから「あんたどこに行くの?」と聞かれ、「同じ喜界島です」と言うと、「喜界島のどこに何しに行くの?」と聞かれたので、「宮原山に行きます」と言うと、部屋を間違えたために偶然私のすぐ横に座っていた女の人が反応し、「トヨクモ…」と言うので、「そうです。トヨクモヌノ尊様の祀られている宮原山に行くのです」と言うと、びっくりしてすぐに誰かに連絡をして、「今日一日いろんなことがあったのはこの人を案内するためか」とお伺いしているのです。そしたら「その通り。その人を案内するためだ」と返事があったらしく「私に案内させてください」と言われます。トヨクモヌノ尊様を知っている人は少ないと思うから、私もびっくりでした。それから意気投合していろいろ話しました。その場にいたのも三人だけで不思議でした。
喜界島に行く前に、四月五日から十日に、先ほど申しました大本教の道場修行に行き、幹部の先生と意気投合、親しくお話ができ、喜界島のお話も出て、ある方を紹介され、その人はいつも島にいるからと住所と電話番号を教えてくださり、連れて行ってもらうようにとのことだったので、「その方には、着いて連絡しようと思っている」と言うと、「すぐに連絡したほうがいい」としつこく言われましたので、すぐに電話をしましたが、何度電話しても留守で、翌朝また電話するというと、「その人がダメなら私に案内させてください」と言われ、「早朝四時半なので、どちらにしてもそんなに早く行くわけにはいかないから近くで休憩してください」と迎えにこられたKさんの車でおじさんはホテルへ送り、私は彼女のマッサージルームで待たせていただきました。
そこに私の家にあるのと同じ富士山の龍上観音があり吃驚しました。
そして、一日島を案内してくださいました。
「まずお友達の家に付き合って頂けますか?」と言われ、一緒に行きました。裏庭に昔荒木の近くの湾から数人の家来とともに上陸をした「クヨ(?)」という女の神様をここにお祀りされたとか。掃除をして、祝詞を奏上させていただきました。もしも大本教の先生に紹介された方がおられたら、ここに来ることもなかったし、〝もしかして、ここに来るために神様がお呼びくださったのか?〟とも思いました。
この島はふしぎな島で、来たくても、海がしけたり、上陸できない人もいるそうで、宜保愛子さん、江原さんは近くまでは来たが、上陸はできなかったとお聞きしました。紹介された人を訪ねましたが留守で三人で宮原山に行きました。ロープも外され、綺麗に掃除もされ、入口も空いていて吃驚しました。ゆっくり参拝させていただくことができました。
一日中島を案内していただき、夜フェリーが出るまで、見送って下さいました。見送りのお友達がまた増えていました。フェリーでは行きに知り合ったおじ様が一緒で翌朝フェリーが着きついでだからと鹿児島中央までタクシーに乗せて下さり、とてもラッキーでした。不思議なことに八日間毎日一人は車に乗せて下さり、案内人も現れました。次に行く途中バスの待ち合わせ時間に知人に連絡し、「明日どうするべきか?」と聞くと、「大分に行くのがいいのでは?」との答えに大分駅からも近いらしいので行くことにしました。
大分に着く前に楳木代表に連絡し、「今どこか?」と聞かれ、「もうすぐ着きます」と言うとまだ二本乗り換えがあり、なんととてもローカルで遠いことに気付きましたが〝もう遅いけど行くしかない〟と思い向かいました。
途中の電車で、ふしぎな出会いがありました。四〇年くらい前に明主様の本を読んで感動し、すごい人だと思い、入信はされなかったが、箱根にも行かれたことがあるし、私が今から行くメシヤ教の同じ地域に住んでいたというおじさんが一時間の待ち合わせ時間で「金麟湖は見せてあげたい」とタクシーで連れて行って下さり、面白いことばかりでした。
豊後森から、タクシーでメシヤ教へ。少し手前で運転手が先生の出迎えに気づかれ、ここでメーター落としますとありえないことが起こり、ラッキーでした。
先生もあまりお時間がないとのことでしたので、最初はご参拝だけして十四時十六分に帰る予定が、話が盛り上がり、私も今夜は博多に泊まればいいと思い、もうお任せしようと自然にY氏の話や、平本先生、萩の話などをして、ふと鹿児島の先生に差し上げようと思って持ってきて、先生も私に貸してくださろうとされいらなくなった「神言忘備禄」をご存知かと聞くと、ご存知ないとのことで差し上げることにしました。
〝「神言忘備禄」を届けるために私はここに来たのかも?〟 と思いました。来るまではわかりませんでしたが、来させられたと思いました。私にはそういうことがたびたびあります。
代表に、「萩に行くべきですかね?」と聞くと、「それは行くでしょう。」と言われ、萩に行くことを決め、すぐ駅まで送ってくださいました。何も考えず、時間も調べず行ったのに、駅で「これから萩に行くのは可能ですか?」と尋ねると、駅員二人で大急ぎで調べてくれ、大慌てで萩までの切符を手配してくれ、電車が待ってくれることを祈り走り、滑り込みセーフ。飛び乗り座席も満席のはずが、座らせていただくことができ、豊後森~博多~こだまで厚挟~長門~萩の予定でしたが、萩に泊まることが難しく、昔不思議な巡り合わせで泊まった長門の青海旅館へ七時頃電話し、九時頃になるけれども、何とか素泊まりで泊めて頂けることになりました。
青海旅館は、昔平本先生が布教されたところで、昔ふしぎなことがありましたが、省略します。
前日萩まで行かず、長門で泊まれたおかげで、不可能だと思っていたお墓参りも、昔ふしぎな現象のあった日吉神社へもお参りできたことに気づきました。喜界島で頂いた浜百合もお供えさせていただけました。
人間考えで無理と決めていました。そして萩、光の道の跡地で、祝詞を上げ、写メを撮りましたら曇りなのに、光が入っています。何度も行っているのに、初めてのことでした。確実にここに光が入ったのです。メシヤ様が御働きになられていると感じました。
メシヤ様が、萩は昼の働きで重要な場所だからと、平本先生を関東から萩の地へ派遣された重要な場所なのです。以前いずのめの先生にもお願いしましたが、全く動いていただけませんでした。
楳木代表と出会い、萩に光が入ったのです。そしてメシヤ様が空に向かって『平本来い!』と書かれ平本先生はこれで萩は見納めと松陰生誕地の高台へ行かれた、そこに初めて行かせていただき挨拶してまた案内人が現れ、萩の町へ連れて行っていただき、夜行バスで京都平安郷へ向かい、帰宅。八日間の旅は終わりました。
その後、五月から働き出しました。今の職場ですが、前のショップ店長が私を辞めさせるために落し入れようとしました。体は震え辞めようと悩み、お忙しい代表に思い切って相談しましたら、「Wと一緒の部類で悪は許してはいけない。悪とは戦うべきで告発すべきだ」と言われ、「告発?まさか…」と思いました。「もしもわからない会社なら、そんな会社はやめた方がいい」と言われ、ご指導のまま告発しました。普通なら店長が信じられ、下のものが辞めさせられるのが常識のようですが、まさかの展開で、その店長が辞め、私がショップ店長になり今日に至っています。楳木代表のご指導に従っていたら間違いないと思いました。私はずっとメシヤ様に本物を差し上げますと誓っていました。本物に近い者たちが集められているように思います。そしていかにメシヤ様の願われる事を素直にやっていくかだと思います。これからもメシヤ様にまっすぐ真向かってメシヤ様の発せられるメッセージをいかに素直に受け止め忠実に実行していくかだと思います。私もなかなかすぐには理解できないでいるのですが、『私から目を放すな。ただ一心に私を見つめて命懸けで仕事をやってくれ』言われた。メシヤ様の御心に沿った生き方をしたいと思います。
そして今年は温厚で、メシヤ様を真っ直ぐに真向かわれている菅谷支部長代理御夫妻のもとで鎌倉の皆様と共に、インスピレーションで真にメシヤ様とお繋がり出来ることを願われている人、ご縁のある人にどんどんお声掛けをして、メシヤ様に確実にお繋げできる御用を許されて参りたいと思います。
皆様、ご一緒によろしくお願いいたします。
長くなり、申し訳ございません。ありがとうございました。
[御蔭話(御神業の本筋)御降臨祭 2016(平成28)年12月23日]