精神障害による地獄から徐々に解放

本部直属 竹裕美

地上天国祭おめでとうございます。 竹裕美といいます。私は元々東方之光教団に所属しており、インターネットでメシヤ教のことを知り、二年前からメシヤ教の本部へ参拝させていただくようになりました。これまでの私が苦しんできた出来事とメシヤ教に参拝させていただくようになってからの御守護報告をさせていただきます。

私には幼少期からの楽しかったことや嬉しかったことの記憶がほとんどありません。あるのは怖かったこと辛かったことばかりです。私は物心ついた頃から精神面がとても弱く、人前に出ることがとても苦手でした。怖い思いをした一番古い記憶は、五歳の頃同じアパートに妹と同じ歳の女の子がいて、妹とその子の家に遊びに行った時、私はその子とその子のお母さんの目の前で妹にこそこそ話をしてしまいました。そしたら、その子のお母さんに「人の家でこそこそ話をしない」と厳しく叱られました。そのお母さんは普段から笑顔もなく、怖い雰囲気の人でしたが、怒り方があまりにも怖すぎて身がすくみました。自分の母親からはしょっちゅう厳しく叱られていても身内以外の人から厳しく叱られたのはそれが初めてで、その時以来気が強い女の人、厳しい女の人に対して極度の恐怖心を持つようになりました。

そして、幼稚園に入園してからは人がたくさんいることや気が強い人が何人もいることへの極度の緊張と恐怖心、自分の自信のなさから、家族や親戚の前ではしゃべれるのに幼稚園ではなかなか言葉を発することができませんでした。幼稚園生の時はしゃべれなくてもいつも私を引っ張ってくれる友達がいたので助かりました。ですが、とても辛いこともありました。クラスに私のことをしょっちゅうじーっと見てくる女の子がいて、怖い思いをしていたんですが、ある日その子にクラスの女の子全員の前で「私、竹脇裕美ちゃん嫌いだ」と言われました。ものすごくショックで、私は黙ってその場を去りました。それ以降人からじっと見られると「私はこの人に嫌われているんだ」と怯えるようになりました。

また、自分で作った絵本をクラスの前で発表しなければならない時があり、その時は発表の何日も前から不安でいっぱいで、発表前日の晩は夜も眠れないぐらい不安でいっぱいで苦しみました。そして、発表当日、私の番は最後だったんですが、自分の番が来る前に発表が打ち切りになりました。私は想像力が全くなく、どんな話を作ればいいのか全く分からず、絵本の内容も出だしの段階で止まった未完成のまま発表の順番を迎えていたんです。それを見た先生が発表を打ち切りにしてくれたのかもしれません。クラスの前に出て発表することへの恐怖から免れてほっとしました。

さらに、小学校に上がると私は孤立してしまいました。幼稚園の時からの友達と一緒のクラスになり、登下校は一緒にしていたんですが、朝教室に着くなり、別の子がその友達を呼び、その友達はその子の方に行ってしまうんです。私も仲間に入れてほしかったんですが、その子は一切私には話しかけてくれず、いつも私のことをじーっと見てくるので、この人は私のことを嫌っているんだと思い、私は恐怖観念に陥り孤立してしまいました。いつも一人ぼっちでとても辛く、クラスの人が私のことを「竹脇さんておとなしいよね」と言っているのを聞くだけで胸が苦しくなりました。「私はみんなに嫌われているんだ」と被害妄想を抱いていました。毎日が地獄のようでした。そして、家庭内においても両親が近所中に響き渡るぐらいの大きな怒鳴り声で頻繁に言い争いをしていたので学校に行っても辛く、家にいても辛く、苦しくて胸が張り裂けそうでした。

 

じっと視線を向けてくる人への恐怖心、警戒心に苦しむ

小学校四年生からは友達もできやっと楽しい学校生活が送れるようになったものの、元々ちょっとしたことを気にしすぎる性格だったせいと自分に自信が持てないせいと気が強い人やじっと視線を向けてくる人への恐怖心、警戒心で常に苦しいことばかりでした。自分に笑顔を向けてくれる人にしか打ち解けることができず、常に自分が人にどう見られているか、どう思われているかということばかり気にしていました。

ですが、浄霊による御守護を頂いたこともあります。中学一年の九月の一ヶ月間母から毎日浄霊をしてもらったら、性格が少し明るくなったんです。それまで友達としゃべる時に冗談を言ったりするような性格ではなかったのに、前よりも少ししゃべれるようになり、冗談も言えるようになりました。ですが、やっぱり苦しいことも次々と起こりました。中学生の時には友達から笑顔が汚いと言われたことが原因で笑顔を意識すると顔が引きつってしまうようになりました。八重歯で歯並びが悪く鏡を見るたびに嫌な気分になりました。写真を撮られることがものすごく怖くなりました。プリクラを撮るのもものすごく苦手でした。何度笑顔の練習をしても自然な笑顔が作れませんでした。また、別の友達からは「息がくさい」と一人言のようにしょっちゅう何度もつぶやかれ、口臭をものすごく気にするようになりました。口臭はストレスと胃腸が原因だったんだろうと思いますが、その頃は歯磨きを念入りにするしか術がありませんでした。

一方家庭内においては年々父親に対する怒りが増していき、中学三年生になった頃には父親のことをこの世で一番憎いと思うようになりました。父は元々自分のこだわりがとても強い人でした。それだけならまだいいんですが、母と喧嘩をする時決まっていつもいつも母の実家の悪口や自分の親兄弟の悪口を言ってきました。声を荒げ、怒鳴り口調でいつもいつも同じことを言ってきました。母も相当辛かったと思いますが母は短気で父には言い返していました。ですが私は怒鳴り狂っている父を前に何も言うことができず、何年もただひたすら我慢し続け、ついに父に対し頭から湯気が出てきそうなほどの怒りが込み上がり、怒りで夜も眠れなくなるほどになってしまいました。

 

最悪なことが起き、地獄的生活が始まる

それから二、三ヶ月経った中学三年の六月末に最悪なことが起こってしまいました。六時間目の授業中におならをしてしまい、隣の席の人に気づかれてしまいました。とても恥ずかしくて次の日から六時間目の授業になるとまたおならをしてしまうんじゃないかと気になるようになりました。それから数日経ち七月に入り席替えがあり、一番後ろの席から前の席に移りました。その直後、私の後ろの席の人が大きな声でくさいと言いました。私には身に覚えがなかったので気にせずにいたら後ろの人がまたくさいと言いました。不思議に思っていたら私にもその臭いが分かりました。その臭いは自分からしていました。自分ではおならをしたつもりは一切ないのに自分の体から勝手に臭いが出ていたんです。信じられませんでした。それからはもう毎日が地獄のようでした。ひどい時には一時間の授業の間に七、八回ぐらい臭いがする日もありました。人としての尊厳を失ったような気持ちでした。毎時間毎時間気が狂いそうな精神状態で、「明主様(メシヤ様)助けて下さい。どうか臭いが出てきませんように助けて下さい」と心の中で必死に祈り続けました。

それから一ヶ月も経たないうちに一気に体がおかしくなりました。激しい頭痛、肩こり、背中の痛みが起こるようになり、視力も一気に落ちました。トイレも近くなりました。そして、朝晩御神前でお参りする時に悪魔の声が聞こえるようになりました。正確に言うと聞こえていたのではなく、思ってはいけないと思えば思うほど頭の中に浮かんでしまう強迫観念です。メシヤ様にお参りすることが毎日とても怖くて仕方がありませんでした。

学校では周りの人がくさいと言っても一切知らないふりをしました。その当時受験生でしたが、全く勉強どころではありませんでした。ですが、ぎりぎりの点数だっただろうとは思いますが高校は合格しました。通学の電車やバスの中でもしょっちゅう臭いがし、授業中は一番地獄でした。そして高校では新たにまた別の恐怖が始まりました。クラスに怖そうな女の人がいて警戒心を持っていたら、私がその人のことを意識してチラチラ見てしまったんだと思いますが、その人から毎日視線を向けられるようになりました。怖くて怖くて視線を向けてはいけないと思えば思うほど意識してしまい、しょっちゅう目が合い怯えました。その人やその人のグループの人達にも臭いのことは気づかれていて、くさいと言われていることも分かっていたので毎日が地獄でした。

 

母は何度も浄霊で救われるも悩み他界、私の苦しみは増大

私の母についてですが、私が高校一年の時の三月に母は亡くなりました。母は二十年以上も癲癇の病気を持っていました。御守護を頂きたくて母は必死に御用に取り組み、自己浄霊や御教え拝読も欠かさず、献金や祖霊祭祀も相当な額をつぎ込みましたが何をやっても癲癇の病気は治りませんでした。ですが、浄霊によって命を救っていただいたことも私の記憶では二度あります。一度目は私が三、四歳の頃でした。夜母と妹とお風呂に入っている時に母の容態が悪くなり、母は祖母に電話を掛け、「母ちゃん、死にそうだがよ」と苦しそうに話していました。車で一時間半以上かかる距離を祖母はタクシーに乗ってすっ飛んで駆け付けてきました。そして、何人もの信者さん方が駆け付けて来て下さって母に浄霊をして下さいました。何時間かかったかは覚えていませんが、母は命を救われました。それから二、三年経ってからまた命の危機がありました。ちょうど月次祭の日の参拝が終わった頃だったと思います。母は容態が悪くなり、布団を用意され、たくさんの信者さんに囲まれて浄霊を頂いていました。そしてまた命を救われました。

救世教から東方之光教団へと変わり、薬を併用する教団のやり方に母は何年も疑問を抱いていたようですが、嫌々ではありましたがついに病院に行くようになりました。そして、薬を飲むかどうか母は相当悩んでいました。私は反対したんですが、おそらく飲んだんだと思います。薬の副作用だったんだろうと思いますが母は急に朝も起きれず朝ご飯や晩ご飯の支度もできないほど体の調子が悪くなっていました。体の調子が悪くなってから二、三日後、母はくも膜下で亡くなりました。

そこでまた、私は新たな苦しみが始まりました。母がくも膜下で亡くなった晩、私は母の異変に気づいていたんです。普段癲癇の発作が起きる時、母は決まって大きな悲鳴をあげていたんですが、その日の発作の時は声が違っていたんです。苦しそうな声を出していました。私はベッドに入っていてもう眠りかけていたんですが、母の様子を見に母が寝ている部屋へ行きました。見ると母はうつ伏せになって硬直していました。死んでいるように見えました。その時すでに夜中の十二時を過ぎていたので、「こんな時間におばちゃんの家に電話したら迷惑だから、明日の朝お母さんの様子を確認しよう」と思い、私はそのまま自分の部屋へ戻り眠ってしまいました。

朝起きて母の様子を見に行くと、母は昨晩と同じうつ伏せの状態で、顔を覗き込むと死んでいるのが分かりました。そこでやっと近所に住む伯母の家に電話し、救急車が来て、くも膜下と診断されました。私は自分の母親が亡くなったのに全く悲しくありませんでした。それどころか「おかげで学校が休める」と思いました。

その日は、ちょうど高校の卒業式の日で、私は一年生でしたが、卒業式の間中体育館の密集した状態の中にいなければならないので、臭いのことで精神的に堪えられないので学校を休むつもりでいたんです。私は母が亡くなって正直ほっとしました。母のことは大好きだったんですが、癲癇で大きな悲鳴をあげ、倒れひきつけをおこしながら泡を吹く母の姿を小さい頃から何百回と見てきて怖い思い恥ずかしい思いをしてきたので、母が亡くなって「もう辛い思いをしなくていいんだ。もうお父さんとお母さんの怒鳴り合いの喧嘩も見ずに済むんだ」と思いました。

葬式の時は母に対して「自分の母親なのに悲しくなくてごめんね」という思いで涙が出ました。母が亡くなってからは朝晩の先祖へのお参りの度に「お母さん、死んでよかったね」という恐ろしい言葉が頭の中に浮かんできて苦しみました。そして、母が死んでいると思ったにも関わらずそのまま朝まで放っておいてしまった自分の行動に対し、「お母さんを見殺しにしてしまった」という後悔の念で苦しみました。

 

重なる苦しみで精神状態は極限になるも、御守護も見出す

母が亡くなって少し経って母が夢に出て来ました。顔はどんよりとして暗く、地獄に落ちているんだと思いました。そして、夢の中で私が「なんでお母さん死んだの」と聞くと母は「助けるから」と言いました。地獄に落ちてる状態なのに母は私のことを心配してくれていました。「あれ、お母さんて私のことを心配してくれてるんだ」と意外に思いました。母はずっと癲癇の病気で、父のせいで家庭もめちゃくちゃで、母が苦しんでいる姿をずっと見てきていたので、私は幼少期から自分の悩みをほとんど母に相談したことがなかったんです。それに、小さい頃妹がいつも母親にべったりだったので、「たまには私もお母さんと同じ布団で寝たい」と言っても妹が常に母を独占していたので寂しい気持ちがずっと残っていたんです。中学生になって自分の悩みを母に相談するようになったら母は私の悩みを真剣に聞いてくれ心配してくれていました。学校での辛い出来事を相談したら母は私の味方になってくれてすごく心が救われました。だけど、幼少期の寂しかった思いが根強く残っていて母をそんなに頼りにしていなかったので、母が亡くなって夢の中で私を助けるからと言ってくれても私は意外だなと思っていました。

次から次に苦しみが増え精神状態は極限に達していましたが、高校二年と三年の時に小学四年生の時以来の友達と一緒のクラスになれたことが精神的に救われました。その友達は私から臭いがしても何も言わずいつも一緒にいてくれました。他の友達も同じです。心から感謝しています。クラスの怖いと思っていた人への視線の恐怖もだんだん減っていきました。臭いの病気が始まった中学三年の七月から高校を卒業するまでの約四年間は授業中は常に神経を使いすぎていたせいもあり、授業の半分は寝ていました。そして、席替えのたびに「どうか一番後ろの席にして下さい」と毎回必死にメシヤ様に祈っていたんですが、約四年間の内半分は一番後ろの席になることができ、そのことでは御守護を頂いていました。

 

社会人になると新たな苦痛が

高校卒業後は接客の仕事に就き、動き回る仕事だったので、中学、高校の時よりは臭いの苦しみは減りましたが、職場の先輩が気が強く、厳しい先輩が多かったので、恐怖観念の中いつもびくびくしながら仕事をしていました。頭の中は「先輩に怒られないように急がなきゃ」といつも必死だったんですが、そう思えば思うほど、焦れば焦るほど仕事の能率が悪くなりました。

そして、職場の自分達新入社員の歓迎会で大勢の前でカラオケを歌わされた時には死ぬほど恐ろしい思いをしました。それ以降宴会が大の苦手になりました。そして宴会でもう一つ苦しんだのがお酌をすることです。先輩がお酌をして回っている姿を見た時、「みんなに注いで回るなんてそんなすごいこと私にはできない」と怖じ気づいたんです。実際、宴会でお酌をして回っているのは一部の人だけで何もしない人だってたくさんいるのに私はお酌をするという行為が怖くてたまらなくて、職場の宴会だけに留まらず、人の結婚式や葬式に行くことも極度の苦痛を伴うようになってしまいました。

最初の職場を二年半で辞めてからしばらく実家を出て生活しましたが、精神の苦しみをいろいろ抱えた状態での一人暮らしの生活はとても辛く、仕事を終え家に戻るとお金もないのに食べたい衝動に駆られ、二ヶ月で八キロも体重が増えてしまいました。しかも、大嫌いな父親と離れて生活しているにも関わらず、実家暮らしをしていた時よりも遥かに父親への憎しみの感情が沸き起こり、怒りで夜も眠れませんでした。

結局、仕事も一人暮らしができるほど稼げず、たったの二ヶ月で実家へ戻りました。その後もどの仕事についても続かなくなってしまいました。そして臭いの病気のことでも職場の人にはっきりと「くさい」と言われたり、「獣の臭いをもってきたね」と言われたりして地獄でした。「私は本当に人間なんだろうか。私は人の姿をした獣なんじゃないか」と、とても苦しみ、精神はぼろぼろの状態でした。食べて生きて行くためには働かねばならず、仕事のストレスと臭いの苦しみで精神が限界に達した時に「しばらく仕事をしないで家で休みたい」と父に助けを求めましたが、父には私の苦しみは分かってもらえず、しばらくしてから精神が限界を超え、仕事に行けなくなってしまいました。その当時アルバイトを掛け持ちでやっていたので、もう一つの方の仕事の時間を増やして生活しました。ですが、その仕事も日に日にストレスが増していきました。そして、家にいる間は過去の自分が辛い思いをした出来事が鮮明に蘇ってきて頭の中は恐怖でいっぱいになり、胸が苦しくなり辛い日々が続きました。

 

出会いにより転機が訪れるも・・・

そうしたなか、二十二歳の時に私は初めて彼氏ができました。臭いの病気のせいと自分に自信がないせいだけではなく、私は運命の人とじゃないとお付き合いはできないという思いがあり、結婚どころか一生彼氏もできないと思っていたので奇蹟でした。そして、図々しくも私は彼の家に一年ちょっと居候させてもらいました。彼は私の父親とは正反対で怒鳴ったりせず、人の悪口を一切言わず、優しくて、面白くて、いつも私を笑わせてくれました。信じられないぐらい幸せでした。彼は私の臭いのことも気づいていたとは思いますが、いつも黙っていてくれました。そして、一年ちょっと経って彼が自分の地元へ帰って行き、私も実家へ戻りました。実家へ戻ってからは朝晩のメシヤ様と先祖へのお参りの時に悪魔の声が聞こえなくなりました。強迫観念がなくなったんです。彼のおかげでストレスがかなり減ったからでした。ただお参りの時の緊張感はずっと続きました。

そして、仕事もストレスを抱えながらもどうにか三年以上続けることができました。ですが、また新たな苦しみも始まりました。職場の歳下の人とおしゃべりをしていた時に相手が言った言葉が聞きとれず、三回聞き直してそれでも聞きとれなかったので気まずさと申し訳なさから話を変えてしまったんです。そしたらその子から天然呼ばわりされるようになりました。ものすごく不愉快でした。また、別の元同僚と何年かぶりに遊んだ時に緊張していて何か話さなきゃと焦ったのと、一緒にいる時に臭いが出てしまっていて焦っていたせいもあり、おかしな発言をしてしまいました。その人にも何度も天然呼ばわりされました。メールでも年賀状でも私のことを天然と言ってきて狂いそうになりました。相手は全く悪気はないのは分かっていてもものすごく侮辱されているように感じ、そのことを二年もの長い間引きずり思い出す度に激しく動揺しました。

彼との遠距離恋愛を三年半続け、福岡に引っ越す前日、私は伯母の家で浄霊を受け、「腰の毒素が溶けると排泄がよくなる」と聞き、臭いの原因は腰にあるんじゃないかと思いました。そして、福岡へ引っ越し、大嫌いな父親と離れることができたせいか、臭いがほとんどなくなりました。そして、私が籍を入れる頃、父親が統合失調症で酷い状態になってしまい、さすがに私も父親のことが心配になり、父親への長年の憎しみが消え、それと同時に中学三年の時から十三年半続いてきた臭いの病気が治りました。

 

結婚生活でも、偏見による悩みが重なり、次第に人格が崩れ始める

これから結婚生活の話になりますが、結婚する前から私は夫の実家のことでノイローゼになるほどの恐怖を抱えていました。夫の実家にはご両親とお姉さん二人がいて、その恐怖は「女三人気が強い」と聞かされた時から始まりました。私は気が強い女の人が本当に怖くて、なるべくそういうタイプの人とは関わらないように生きてきていたんです。そして、さらに悩んだことは、独身のお義姉さんだけならともかく、結婚したお義姉さんまでもがずっと実家暮らしをしていたことです。「誰がどう見たってこの家の跡継ぎはお義姉さんで旦那さんはマスオさんなんだからお義姉さんがこの家と姓を継いでくれればいいのに」と行くたび行くたびに思っていました。

夫の両親は私達夫婦が実家で暮らすことを望んでいて、お義姉さんも私達夫婦が実家で暮らすようになったら家を出ると言っていて、実家の敷地内に家を建てていました。お義父さんもお義母さんも貧乏をして育った人達なので、子供にそういう思いをさせたくないという思いが強かったんだと思います。私は長男と結婚したのでいずれ夫の両親と生活する覚悟はして結婚しましたが、お姑さんとお義姉さんに挟まれて生活する度胸なんて私には全くなかったのでそのことでもずっと悩み続けていました。

そして、私の実家は私が五歳の時に父が建てたんですが、周りの家は洋風の二階建ての家ばかりなのにうちは和風の平屋で、子供部屋が居間と隣り合わせだったのがものすごく不満で、将来は絶対に洋風の可愛らしい家を建てて暮らしたいという願いが私にはずっとありました。結婚前から夫には何度もその話をしていたんですが、夫は私の話を全く聞いてくれず、夫は親が建てた自分の実家で親の希望通り一緒に暮らすということしか頭になかったんだと思います。私も長男と結婚する以上はそうなることは仕方ないと思っていましたが、お義姉さんがずっと実家にいるなら私は自分の夢を諦める必要がなかったのにと思っていました。そして、私は二人姉妹の長女でできれば自分の実家の姓を継ぎたいという思いがあったんですが、夫の方も姓を継ぐ跡継ぎという立場にあったので夫の家のことを優先して結婚したのに、お義姉さんがずっと実家暮らしを続けるならお義姉さんが姓を継いでくれればよかったのにと思っていました。ですが、そのことは夫にも言えず心に秘めていました。

夫の実家の人達はみんな私に気を遣ってよくしてくれました。私が焼肉が好きだと知って、高いいいお肉を買って来て用意してくれることもしょっちゅうで、帰りにはいつもお土産を持たせてくれました。子供の洋服も毎シーズン買ってもらっていました。ですが、どんなによくしてもらっても心からの感謝はできず、私はいつもお義母さんとお義姉さんに恐怖心を抱いていました。お義姉さんもいつも私に気を遣ってくれていることも分かっていましたが、お義姉さんの喋り方、態度が普通の人よりもだいぶ強く、喋る時にいつも緊張しました。

そして、お義姉さんは煙草を吸う人だったので、そのことでも私は苦しみました。私が小学二年生の時に母方の大叔母が「女が煙草なんて吸うもんじゃない」と言っていたのがすごく頭の中に残っていたんです。社会人になってみると煙草を吸う女の人はたくさんいて、ずっと偏見に苦しんできました。そして、私には煙草を吸う女の人は気が強い人や口調が強い人が多いというイメージがあり恐怖心もありました。どうすれば煙草を吸う女の人への偏見と恐怖心をなくすことができるのか分からず本当に苦しいものでした。私は臭いに敏感で、有害な化学物質の臭いを嗅ぐと頭が痛くなり、タバコの煙もその一つで、職場の休憩室でずいぶん辛い思いをしたので余計に偏見に繋がってしまったんだと思います。偏見をもってはいけないと思えば思うほどできずに苦しみました。

他にも悩みがありました。私は籍を入れてからも夫の両親とお義姉さん二人の名前を呼べずにいました。お義姉さん二人の名前は最初に顔を合わせた時から四、五年も経ってからどうにか呼べるようになったもののお義父さんとお義母さんの名前はどうしても呼べませんでした。恥ずかしさと名前を呼べないことを気にしすぎていたせいです。

また、結婚前に宗教の話で揉め、宗教とは一切関わらないと約束をして結婚してしまったことも私には大きな悩みでした。そして夫の職業上の関係で地域の行事に参加する時も人前に出ることが苦手な私にとっては辛すぎることばかりで、それを夫に相談しても冷たい言葉を返されるばかりで、夫の言葉で余計に精神が崩壊していきました。子供が一歳になった頃から私はインターネットに夢中になりました。子供の遊び相手もろくにせず、暇さえあればネットばかり見ていました。ネットで見ていたのはメシヤ様の御教えに関わるものばかりでした。自分の全く知らなかった御教えをネットで見れることが分かって毎日夢中になって見ていました。子供を一人で遊ばせることにものすごく罪悪感を感じていましたが、ネットを見ないと居ても立ってもいられず、見ずにいると気がおかしくなりそうな精神状態でした。それに何かに夢中になっていないとすぐ過去の辛かった体験を思いだし、頭の中が恐怖でいっぱいになり胸が苦しくなるのでどうにもなりませんでした。

実家に顔を出しに行くことは義務だと夫に言われていたので、夫の実家には二、三週間に一度は顔を出して、ご飯をご馳走になっていました。私は元々大人数でご飯を食べることがとても苦手で、強いお義母さんお義姉さん達に囲まれて食事をすることはとても怖く、会話にもなかなか入っていけなかったので、落ち込まないようにひたすらご飯を夢中になって食べていました。でも時々落ち込んで涙がこぼれそうになることもあり、涙がこぼれないようにテレビの方をじーっと見つめたりしていました。二十代後半の人間がこんなことで泣きそうになるなんて、私はなんでこんなに情けないんだろう、こんなに情けない人間はこの世に私しかいないんじゃないかと落ち込みました。

そして、私が夫の実家へ行って一番辛かったことは台所のお手伝いに入っていけないことでした。台所を触られるのを嫌がる人もいるので、最初お義母さんはどっちのタイプなんだろうと気になりました。そして一応洗い物や料理のお手伝いをしようとしましたが「何もしなくてもいい。ゆっくりしてていい」と言われ、気まずい思いで何もせずにいました。本来なら「何もしなくてもいい」と言われても手伝いをするのが自然な流れだと思いますが、私は強いお義母さんと強いお義姉さんが一緒に台所に立っている姿を見ているだけで怖くて身がすくんでしまって何もできずにいました。料理が出来上がるまでの待っている時間は嫁なのに何もできない自分が惨めで情けなくて心が押し潰れそうでした。どうしても自分からは台所に入って行く勇気が持てなかったので、「一緒に作ろう」と言ってほしかったんですが、いつも「何もしなくていい」と言われ辛い思いをしました。

夫には「実家へ行くのが怖い。顔を見せに行くだけだったら大丈夫だから実家でご飯を食べることは控えさせてほしい」と何度もお願いしていたんですが、夫には「慣れないとだめだ」と説教されるばかりでした。夫は親を大事に思う気持ちがとても強く、親がやってくれることにただただ感謝し、親の気持ちばかりを尊重し、私の必死の訴えも聞いてもらえず、私は精神がどんどんおかしくなっていきました。

そして、ついに限界がきました。ある日、食事が終わった後、お義姉さんが「ほんとに何もせん嫁だね」と言いたげな表情で私を見て台所へ洗い物をしに行きました。すると今度はお義母さんが「いいと」と言って台所へ行きました。その時に私は狂いそうな感情になりました。「あなたがいつまで経っても当たり前のように実家暮らしをしているから、私は恐怖で身がすくんで何もできないんです」とお義姉さんに吐き捨てたい気持ちを押し殺しました。そして、お義母さんに対しても「私がどれだけ惨めな思いをしているかあなたは何にも分かってない」とぶつけたかったんですが何も言えませんでした。夫には「実家でご飯を食べるのはもうどうしても無理だ」と伝えました。

なんとか夫を説得し、次に実家へ行った時にはご飯はご馳走にならず、昼間に顔見せだけに行きました。そしたら、その時お義姉さんはちょうど用があって出かけて行き、その時初めてお義母さんと気楽に楽しくしゃべることができました。お姑さんとお義姉さんが一緒の状態でなければ“こんなにも気持ちが楽になれるものなんだ”ということを最初に顔を合わせた時から六年も経って初めて知りました。悩み苦しんだこの六年間はいったい何だったんだろう、と落胆しました。お義姉さんが実家暮らしを続ける実家へ行くのはもう無理だと、もう限界だと夫に言いました。ですが、夫には「仕事だと思って行ってくれ」と言われました。

 

「あっ、もうダメだ」と・・・精神が壊れてしまい・・・

それから頑張って二度実家へ顔を出しに行きましたが、その時に限界を超え、自分が自分でなくなりました。精神が限界を超えた瞬間、「あっ、もうダメだ」と思いました。幽体離脱しているような感覚になりました。「早くこの場を去らないとやばい。醜態をさらすことになる」と思いました。

ですが、夫と子供を置いて自分だけ車に乗って家に帰るわけにもいかず、私は一人黙って別の部屋へ行きテレビを見てるふりをしました。「どうにかして自分を取り戻さないと」と思いテレビの前でたたずんでいると、夫が部屋に入ってきました。私のおかしな行動に夫も困っていた様子でした。普通に見せようと頑張って振る舞い、とりあえずどうにかみんなで食事をし、夫の実家を後にしました。それが二年半前の大晦日の晩でした。

夫からはさすがに「もう実家には行かなくていい」と言われました。やっと強制的に実家へ連れて行かれることから解放されました。

しかし、もう私は完全に精神が壊れてしまっていたのでまともな生活ができなくなりました。朝も起きられなくなり、目が覚めた瞬間から「どうしてお義姉さんはずっと実家暮らしをしているんだろう。お義姉さんが実家を出て生活してくれていれば私はこんなに苦しむことはなかったのに」と朝から晩まで毎日毎日同じことばかり考え苦しみました。お義姉さんが結婚後もずっと実家暮らしをしている理由はいろいろ聞いてはいましたが、私はそれを受け入れられずにいたんです。私は、女は結婚したら家を出て行くのが普通だという固定観念が強く、自分も嫁となった以上は人並みに嫁らしいことをしたいと思っていました。ですが、お義姉さんが結婚後もずっと実家暮らしをしている状態では恐怖でどうすることもできませんでした。入籍してお義母さんから最初に言われた言葉が「嫁とか跡継ぎとか何にも気にせんでいい」でした。「えっ、何それ」と思いました。私は嫁とか跡継ぎとかものすごく気にする人間だったんです。「何も気にせんでいい」と言うなら、ずっと実家暮らしを続けているお義姉さんに姓と家を継いでもらいたかったし、強いお姑さんとお義姉さんが常に一緒の状態の夫の実家へ顔を出しに行くのはものすごく怖かったので、なるべく実家へ出向くのは控えさせてほしかったんです。

夫の私へのアドバイスも自分の親のことを優先したことばかりで、私の気持ちを優先してくれることがなかったので夫にも失望するばかりでした。そして、夫の方も私がおかしくなって実家にも行けなくなったため「もう死のうかな」と思うようになったようです。夫婦揃って共倒れでした。気が強いといってもお義母さんは本当はとっても心配性な人だということも分かっていたし、お義姉さんも喋り方は強くても根は優しい人だということも分かっていましたが、常に親子一緒にいる以上どうしても恐怖心はなくなりませんでした。夫が少しでも私の気持ちを理解して私の話に耳を傾けてくれれば、夫の実家の人達に対するストレスも緩和され、仲良くできたのにと思います。

夫の実家の人達には本当によくしてもらっていたのに私にいろいろな恐怖心があり、何一つ自分の思いを伝えることができなかったため不満ばかりが募り、今となっては夫の実家の人達には申し訳なかったという気持ちでいっぱいです。

 

数々の当てはまる病名に救われる

自分の精神の苦しみのことをネットで調べ始めたのは約三年前の秋の頃でした。調べて行くと自分に当てはまる精神の病名が次々に出てきました。精神科には一度も行ったことはないですが、自分に当てはまる病名は回避性パーソナリティ障害、心的外傷後ストレス障害、場面緘黙、正視恐怖症、社交不安障害、笑顔恐怖症、口臭恐怖症、おなら恐怖症、過敏性腸症候群ガス漏れ型、強迫観念、脇見恐怖症、うつ病、フラッシュバック、ネット依存症、うつ病による反芻思考などいろいろありました。とても驚きました。

小さい頃から苦しんできた人前に出ることの極度の緊張、恐怖が社交不安障害という病名があると知った時には心が救われたような気持ちでした。そして、うつ病なんて言葉は昔から知っていましたが、その症状のことをネットで調べるまで自分がうつ病だと思ったりしたことはなかったので、この苦しみの状態がうつ病なんだと知った時にはなるほどと思いました。そして、過敏性腸症候群ガス漏れ型に関しては、おならのような臭いが自分の体から勝手に出てくるなんて病気は、この世で私一人だけだと長年思っていたのに、私だけじゃなくて苦しんでいる人はいっぱいいたんだと分かって衝撃でした。

私は宗教とは関わらないと夫と約束して結婚したもののメシヤ様から離れる気は全くなく、いつか分かってもらえる日が来ると信じて結婚生活を送っていました。ネットでメシヤ様の御教えやメシヤ様に関わるサイトを見るようになった時いつも私は夫に隠れて見ていました。そして、自己浄霊する時も夫がいない時にお光をかけて自己浄霊をし、終わったらお光をはずしていました。ある日、パソコンの御教えの画面を開いた状態でお光をかけて自己浄霊をしている時に夫が家に帰って来ました。慌ててパソコンを閉じましたがお光をはずし忘れてしまいました。夫に気づかれないようにトイレに行きお光をはずしました。焦ったのと同時に、こそこそお光をかけて自己浄霊をすることが辛くてたまらなくなりました。それからすぐ、ネットでお光をかけずに浄霊をしている教団が二つあるということを知り、私もそれでやってみようと思い、メシヤ様にお光をかけずに浄霊することへのお詫びをしてから自己浄霊を始めました。すると、今までにない強烈な浄霊力で、後ろの首を浄霊しだしたら円を描くように手が勝手に誘導され、メシヤ様から「急所はここだよ」と教えていただいたように感じました。

そして、次の日買い物に出るため車に乗ろうとした時にふと空を見上げると空に雲の龍がいました。顔から尻尾まで完全に龍の形で、顔は横向きで口は耳元まで裂けた大きな口で、口角の上がった笑顔のかわいらしい龍でした。まるでアニメに出て来るような姿でした。車に乗るとちょうどフロントガラスに龍がきれいに収まって見えました。この龍は私に見せるために姿を現しているのかととても驚きました。

さらに、次の日にもまた驚くことがありました。観音様を見たのです。それより一週間ぐらい前の九月に入ったばかりの頃、庭から近くにある山の方を見たら、その山に霞模様の綺麗な雲が掛かっていて、その光景を二、三日後また見たので、あそこの山には何かあるのかと思っていた数日後、その山の谷間に雲から一本の光が斜めに射しているのを見ました。不思議に思ってじっと見ていると一本の光だったのが二本、三本、四本、五本とパッパッと増えて行き、それから四本、三本と光が消えて行きました。すごいものを見てしまったと驚いたんですが、訳も分からずそのままでした。

龍を見た次の日に、その山の光が射していた場所を地図で探すとお寺がありました。息子を連れてそのお寺に行ってみると、車を停めようとした場所に車一台入るぐらいのスポットライトを当てたような強烈な光が射していました。そこに車を停めるのは畏れ多いのと霊界に吸い込まれるんじゃないかという不安があって少し避けて車を停めました。そしてお寺の方を見ると、お寺全体が強い光に包まれていました。光が目に見えることにものすごく驚いたんですが、それ以外何もなかったので、外からお寺に向かって手を合わせて帰ろうとしたら息子が階段を登り、お寺の扉の前まで行ったので追いかけて行き、お寺の中を覗いてみました。

すると、中に小さな観音様の姿がありました。仏像の観音様ではなく、光が凝縮された黄色い観音様でした。昼間なのにお寺の中は真っ暗で光の観音様だけが見えました。その頃ちょうど観音様についての御教えをネットで見始めたばかりで、観音様の姿を見てとても動揺しました。どうすればいいのかも分からず動揺したまま手も合わさず家に帰りました。

 

観音様のお導きか?疑問が氷解し始める

それから十日ぐらいしてからネットでメシヤ教のことを知りました。東方之光教団の薬併用のやり方を厳しく批判されていて、長年の東方之光教団への疑問が氷解しました。薬は毒だと聞かされて育ってきたので薬を使ってもいいんだというふうに教団の方針が変わった時、「なんで毒を使ってもいいと言うんだろう。MOAは間違っているんじゃないか」と小学生ながらにもとても複雑な気持ちでいました。

そして、高校生の時から御教え拝読を始め、御教え拝読をすればするほど薬は絶対にいけないと思い、薬という毒を使わせる教団のやり方に疑問を持ち悩んできましたが、メシヤ教のことを知ってやっと御教え通りの本物の宗教に出会えたと思いました。

紫微宮に先祖は祀られていないということにも大きな衝撃を受けました。メシヤ様ご昇天後から始まったみたまやも間違っていると分かり、母の癲癇が死ぬまで治らなかった原因がやっと分かりました。母の実家には仏壇とみたまやと両方ありましたが、みたまやの方にばかり善言讃詞を上げ、仏壇は重要視していなかったんです。一生懸命御用奉仕に取り組み、浄霊もたくさんいただき、供養になると信じて祖霊祭祀もしてきたのに本来の先祖代々の祀り方での供養ができていなかったため母はずっと癲癇が治らなかったんだということがやっと分かりました。そして東方之光の人達が一生懸命やっている児童画展のMOA活動も御神業ではないということや教団が天津祝詞を奏上しなくなったことも批判されていて衝撃でした。

メシヤ講座を毎日むさぼるように読み始めて半年が経った二年半前の二月に、初めて楳木先生にメールをしました。大晦日の晩に夫の家で精神が崩壊して以来地獄のどん底のような精神状態で生活していた時で、これまでの苦しかった出来事を長々と綴りました。そして、少し気になっていたことを楳木先生に相談させてもらいました。それは、私の実家が姓を変えているということです。祖父母が与論出身で、島には一文字の姓が多く、島を出る人は姓を変える人がいくらかいたようです。その後種子島に移り、父が十四、五歳の頃祖父が姓を二文字の姓に変えたそうです。私が小学生か中学生だった頃にも一度その話を伯母から聞いたことがあった気がしますが、父が統合失調症になり、また伯母が姓を変えているという話をしてきたので心配になり、楳木先生に相談させてもらいました。

先生からは「先祖が納得する理由でなければ、先祖は烈火のごとく怒ります」と返事が返ってきました。そして姓を元に戻すように指導を受けました。姓を元に戻すように父と妹に話をしましたが、全く聞き入れてもらえませんでした。

 

数々の困難を乗り越えるように勇気を振り絞り、メシヤ教本部へ参拝

人と関わることすらものすごく辛い精神状態の時でしたが、勇気を振り絞り、二年前の五月からメシヤ教の本部へ参拝に行くようになりました。

私には対人関係においても御神前でお参りすることにも極度の緊張と恐怖があり、宗教とは絶対に関わらないと約束をして結婚した夫に内緒で参拝に行くことへの罪悪感もあり、当時二歳だった息子は自閉症のような症状で多動もあり、参拝の時は普段以上に騒ぐので参拝の妨害ばかりしてしまい、参拝に行くことがとても辛いことではあったんですが、参拝に行く日、行き帰りの車の中で自己浄霊をすると驚くほどの強い浄霊力を頂け、メシヤ様から「頑張って来なさい」と励まされているような気持ちになりました。そして、家では朝晩夫が近くにいない時に箱根の神山に向けてメシヤ様へお祈りを始めました。初めてお祈りをした時に「私の罪をお許し下さい」とお詫びをしました。すると、その瞬間にお腹が痛くなって下痢をしました。とても驚きました。

メシヤ教に参拝に行きだした当初はまだ東方之光教団に在籍していました。間違ったことばかりやっている東方之光を早く辞めるべきかそれともまだしばらく在籍して間違いを教団の人達に伝えていった方がいいのか迷っていたんですが、間違ったことをやっている教団にいつまでも所属しているのはよくないと判断し、「明日、脱会の手続きに行こう」と決心したその日に変化が起きました。夫婦仲も崩壊していて私がちょっと話しかけるだけで眉間にしわを寄せていた夫が急に普通に喋ってくれるようになりました。

そして教団に辞めることを伝えに言った次の日に奇蹟が起こりました。夫の実家のことが原因でうつ病になり半年ほど夫の実家にも行けない状態が続いていたのに、急に気持ちが明るくなって、「実家に行ける。お義母さん、お義姉さんとも仲良くやっていける」という気持ちになったんです。メシヤ様から夫の実家の人達と上手くやっていけるためのチャンスを頂いたんです。夫に実家に行ける気持ちになったことを伝えましたが、夫は私の言葉を信用せず、結局はまたいつものうつの精神状態に戻ってしまいました。ですが、正しい判断をした時に神様は御守護を下さるんだということを学びました。

うつの症状も浄霊でいろいろ御守護を頂きました。常に気分は憂うつで、時々気が狂いそうな精神状態になることもあったんですが、ただ胸を思い切り張っただけで気分が落ち着いたこともありました。また、延髄を浄霊して落ち着いたこともありました。延髄を浄霊しても良くならなかった時に腎臓を浄霊して良くなったこともありました。また、延髄、腎臓を浄霊しても良くならず背中を浄霊したら落ち着いたこともありました。そして、最後に夫の実家に行った時に精神が限界を超えておかしくなってしまった時の原因は夫側の先祖の憑霊が原因でした。限界を超えた時自分が幽体離脱しているような感覚になり、自分が自分でなくなってしまったので、その精神が弱った時に先祖に憑かれてしまったんだと思います。

メシヤ教に参拝に行くようになって一年近く経つまではこのうつ病の苦しみは自分の実家の姓の問題が関係していると思ってきていたんですが、ある日ふと、これは夫側の先祖の憑霊が原因なんじゃないかと思いました。そしたら、そう思った瞬間お腹が痛くなって下痢をし、間違いないと確信しました。メシヤ様に「私の罪をお許し下さい」と祈り下痢をした時以来私は何か気付きがあるたびに、これはこういうことなんじゃないかと思った瞬間に下痢をするようになっていたんです。そのお陰で気が狂いそうになるこのうつ病の苦しみの原因が夫側の先祖の憑霊が原因だと分かったんです。ですが、気付きがあると下痢をするということを一年間は誰にも言わず黙っていたんですが、妹と楳木先生に喋ってしまって以来そういうことはなくなってしまいました。

夫側の先祖に憑かれていると分かり供養してあげたくても、私はもう夫の実家に行くことすらできなくなっていたのでとても苦しみました。お義姉さんが結婚後もずっと実家暮らしをしていたので、私は◯◯家の嫁ではなくお客さんなんだと何年もずっと悲観的な気持ちでいたので、◯◯家の先祖との関係もあまりないように感じていたのにまさか憑かれていたとは驚きでした。背中で一番きつかったのが肩甲骨の側の脊柱の両側だったので、ここに憑いているんだろうと思い、メシヤ様に先祖を救っていただけるよう善言讃詞を三回上げお祈りし、自己浄霊をしました。霊が見えないので救われ離れていったかどうかはっきり分かりませんでしたが、脊柱両側の痛みはなくなりました。ですが、その後も背中のあちこちに妙な違和感と痛みが現れ、そのたびにものすごく憂うつな気分に襲われ苦しみました。もしかして私は複数の先祖に憑かれているのかもしれないと思いました。違和感と痛みが現れる場所を浄霊するたびにたくさんのあくびと鼻水がでました。今になって思えば夫の実家には仏壇はありましたが、位牌はなかった気がします。先祖が祀られていない状態だったんだと思います。私は当時夫とは離婚前提で生活していたので、離婚し夫側の先祖との霊線が薄れる前に先祖が浄霊で救ってほしくて次から次に私にかかってきたのかなと思います。先祖に憑かれているという話やちゃんと祀られていない先祖がいるんじゃないかという話は夫にもしましたが全く信じてもらえませんでした。

 

社交不安障害

私はうつ病以外にも社交不安障害の苦しみも抱えていました。息子の七ヶ月健診、一歳児健診、一歳半健診、二歳児健診と健診に連れて行くたびにものすごく不安でたまりませんでした。ママ友が一人でもいれば随分と精神的に楽だっただろうと思いますが、新しい土地での生活でママ友も一人もおらず、ストレスをたくさん抱えて生活していて精神的にとてもきつい状態だったせいもあり、たくさんのママさんがいる集まりの中に入っていくのはものすごく恐怖でした。そして、一歳児健診の時には一つの部屋でママさん達と子供達が密集した状態で待機している時に精神状態がおかしくなってしまい、幽体離脱してしまったような感覚になり、自分が自分でなくなりました。しばらくして元の状態に戻りましたが、それ以降は余計に健診に連れて行くのが辛くなりました。

息子が少しおかしいと夫婦それぞれが不安を覚えるようになったのが息子が二歳の頃からですが、夫に「自閉症かもしれない」と言われ、三歳児健診の時に息子のことを相談し、訓練のため療育に通うようになりました。そこでまた私の恐怖が始まりました。療育の見学に行った時にママさん達と子供達と先生が輪になって歌いながら踊っているのを見た時に背筋が凍りつき、死にそうなぐらいの恐怖に襲われました。私には無理だと思いました。家に帰り、早速ネットでその原因を探しました。そして、「死ぬほどの恐怖は死霊の憑依」と書いてある御教えを見つけました。「これだ!」と思いました。小さい時からずっと苦しんできた社交不安障害は死霊の憑依が原因だったんだと確信しました。自己浄霊を始めるとまるで憑依されている場所を教えてもらっているかのように背中の右側の肋骨付近に妙な違和感と痛みを感じました。前々から押せば痛みがある所ではあったんですが、「ここに憑いていたのか」と驚きました。しばらく浄霊して妙な違和感と痛みは消えたんですが、残念ながら社交不安障害は治りませんでした。確かに憑霊の箇所はここで間違いないと思ったのに治らず、苦しみは続くことになりました。

そして、療育に通い出してもう一つ苦しくてたまらなかったことは、お昼ご飯の時のお茶の用意でした。お茶の用意はママさん達がするようになっていて、やらなきゃやらなきゃと思えば思うほど身がすくんで固まってしまって動けず苦しみました。他のママさん達は普通にやっているのにどうして私はできないんだろうとものすごく苦しみました。夫に「死ぬほど辛いから行きたくない」と相談しましたが理解してもらえませんでした。週に一度の療育は夫に内緒で何度かずる休みをしました。通い出してすぐに夏休みに入り、二ヶ月近く休みだったので助かりました。子供のために通っているはずなのに私には恐怖と苦痛しかありませんでした。

その療育の夏休み期間別のことで御守護をいただきました。七月の終わりに先祖の憑霊によるうつ病と同時に併発していた反芻思考が治ったんです。「なんでこんなに毎日毎日同じことばかり考えて苦しい生活をしないといけないんだろう。どうすれば治るんだろう」と考えていた日の晩、布団に入ってしばらくすると背中の真ん中辺り、脊柱の右側の部分に妙な違和感を感じました。寝ながらの体制でしたが浄霊したら十分もしないうちに違和感がなくなりすっきりしました。それ以降反芻思考がなくなりました。「普通結婚したら女は実家を出ていくものなのにどうしてお義姉さんは実家を出ていかないんだろう。お義姉さんが実家を出て生活してくれていたら私はこんなに苦しまずに済んだのに」と、考えてもどうにもならないのに一年七ヶ月の間毎日同じことばかり考えて苦しんでいて、やっとその苦しみがなくなりました。

そして、八月末にも御守護を頂きました。うつ病になって以来朝起きれなくなってしまっていたんですが、ある日いつも通りに起きたらすごく怠さを感じました。うつ病によるだるさではなく、単なる寝過ぎのせいの怠さでした。うつ病のだるさから解放されたんだからもうこれは生活習慣を改めて朝早く起きるようにしなきゃだめだと決意しました。そしたら、その日に浄化を頂きました。昼頃左の上下の歯茎に猛烈な痛みが起こりました。歯茎周辺を浄霊すると発狂しそうなぐらいさらに痛むので急所が違うと思い、気を紛らわせるために頭をぐるぐる回しながらあちこち急所探しをしました。途中そのまま二、三時間眠り、目が覚めてからまた痛みに耐えながら急所探しをしました。そして、左側の側頭部に手をかざした瞬間、側頭部から歯茎に向かって雷が落ちたような痛みが起こりました。我慢しながら浄霊を続け一、二分で痛みは治まりました。ものすごい衝撃でした。その後も歯茎と歯が毎日交互に痛くなり、十日ほどでよくなりました。

ただ早起きをしようと決意しただけで浄化を頂くことができ驚きました。ですが、精神の病気を抱えた人にとって側頭部の浄化が起こることはとてもありがたいことなんですが、私はそれだけではまだまだ苦しみはなくなりませんでした。背中のあちこちに現れる妙な違和感と痛みのせいでいつも憂うつ感が続いていました。

 

今後の救いのために判っていただきたい独特のストレス

メシヤ教に毎月参拝に行くようになって毎回辛い思いをしていたことがあります。それは、御玉串料を自分で御神前に持って行きお祈りをすることでした。人から見られながらやることが恐ろしくてたまりませんでした。そして、私は中学三年生の時からしばらく実家を離れるまでの八年間、朝晩のお参りのたびにメシヤ様や亡くなった母に対して恐ろしい言葉が頭に浮かんできて苦しみ、ストレスの軽減のおかげで一年ちょっと経って実家に戻ってからはメシヤ様や母への強迫観念はなくなったもののお参りの時の極度の緊張、恐怖はずっと続いていたんです。そのことを去年の九月に楳木先生にメールで伝え、克服できるように自己浄霊に取り組みました。そしたら、数日間のうちに治っていました。鹿児島の実家に戻った時に朝拝、夕拝の時に緊張感、恐怖感が全く起きなかったんです。毎月近くの神社にもお参りに行っていたんですが、その時もずっと続いていた緊張感、恐怖感がなくなっていました。月次祭の時には御神体のすぐ前でお参りすることへの恐怖はなくっていましたが、やはり後ろから人に見られながらの状態ではとても緊張し、怖いと感じました。

十月にはまた別の御守護を頂きました。十月の月次祭の日は夫が車を使うかもしれず、車は一台しか持っていなかったので、月次祭に行けないなと悩んでいたんです。ですが、月次祭はどうしても欠かしたくないと思い、夫に先手を打って月次祭の日に車を使わせてもらうように頼みました。そしたら、その次の日に夫から離婚の話をしてきたんです。お互いの愛情がなくなり夫とは二年以上前から不仲になっていました。そして、夫の実家のことが原因でうつ病になってからはさらに悪化し、家庭内別居のような状態が続き離婚の話も何度もしてきていたんですが、お互い子供を手離すつもりが全くなく、別れられずにいました。それがやっと夫の方から離婚の話をしてきて子供を私に託してくれると言ってくれました。心の底から嬉しい気持ちでいっぱいでした。やっと地獄が終わると思いました。都合が悪くて月次祭に行けないかもしれないという時に月次祭に行けるように努力すればこんなにも大きな御守護を頂けるんだということが分かりました。

 

一年半後の遷霊式

楳木先生に実家の姓を元に戻すようにご指導いただいてから一年半経ち、去年の十月に楳木先生に遷霊式をやっていただき、ようやく元の姓で先祖代々の神道形式でお祀りすることができました。姓を元に戻すということは簡単なことではなく、実家の父と妹を説得するのはとても大変でした。姓を元に戻すことがどれほど重要なことか説明しても全く理解されず、父には「せっかくじいちゃんが付けてくれた姓だから」と反対され、妹にも「今までのままがいい」と言われ、私はうつ病で日々苦しい状態でいる中で父と妹に理解してもらえない苦しさから精神状態がさらに悪化したりしましたが、一年かけようやく妹を説得することができました。そして、妹以上に説得の難しい父には去年地上天国祭に行ってメシヤ様から御力をいただいてからもう一度説得し、ようやく父の了解を得て姓を元に戻すための裁判所の手続きに入ることができました。遷霊式で楳木先生が天の数歌を唱えている時、妹は体がゾワッとしたそうです。ずっと依代がなく妹に憑いていた先祖が妹の体から離れ、霊璽に移ったんだと思います。姓を戻し先祖代々の祀り方にすることができほっとしました。

ですが、私の苦しみはまだ続いていました。せっかくうつ病と併発して起こっていた反芻思考が治っていたのに、今度はまた昔のようにフラッシュバックが起こるようになりました。一番辛かったのが、十年以上前に職場のイベントで百人以上のお客さんの前で踊りを踊った時のことです。練習の段階からものすごく辛くて逃げ出したかったんですが、本番では本当に死にそうなぐらいの恐怖で幽体離脱しているような感覚になったんです。その時の恐怖が鮮明に甦り、脳内が破裂しそうなぐらい頭の中が恐怖でいっぱいになり、心臓をえぐられるような胸の苦しみが起こりました。治っていたと思っていたフラッシュバックがまた起こるようになり、あまりにも辛くて悔しくて涙が出ました。過去のトラウマを解消するには側頭部の浄霊だと思い、絶対に克服したいと思い側頭部、延髄部、痛みのある背中の浄霊をしました。そしたら、絶対に克服したいと思ったその日にフラッシュバックが治ってしまいました。信じられませんでした。フラッシュバックは反芻思考が始まる前に十年以上続いていたので、それが全くなくなり驚きました。

そして、他にも苦しみはありました。母が亡くなった時、うつ伏せになって硬直している母の姿を見たにも関わらずそのまま朝まで放っておいてしまったことへの後悔の苦しみ、学校で一人ぼっちでいる辛さは痛いほど知っているのに一人でいる人を仲間に入れてあげれなかった後悔の苦しみ、職場で自分が見てみぬふりをしてしまったせいで問題が大きくなってしまったことへの後悔の苦しみがありました。直接本人に謝ることができればこんなに苦しむことはないわけですが、何年も経っていてそれができないので苦しみました。苦しみから解放されたくて御玉串料を包み「私のしてしまった罪をお許し下さい。そしてどうかこの胸の苦しみをなくして下さい」とメシヤ様にお祈りしました。その後胸が苦しくなるほどの辛さはなくなりました。ですが、自分がやってしまったことの記憶がなくなる訳ではないので、思い出してしまった時に「○○さん、ごめんね」と声に出して言ったら気持ちが楽になりました。

 

職業訓練での苦しみと御守護

去年の十二月に離婚がはっきり決まり私は息子を連れ鹿児島の実家に戻って来ました。辛かった結婚生活から解放され精神的に楽になったものの、背中の痛みによる憂うつ感はまだありました。夫の仕事の関係で離婚届を出したのが実家に戻ってから一ヶ月以上経ってからになり、その後背中のあちこちに現れる痛みによる憂うつ感はなくなりました。ですが、その後もなぜなのか理由が分からない憂うつ感がありました。

そして、三月から私は職業訓練に通うようになりました。職業訓練では就職の面接の練習のために教壇の前に立ってスピーチをすることになっていました。クラスの人数は少なかったものの私はスピーチの前から緊張と恐怖でいっぱいでした。そして、いざ前に立ってスピーチを始め、クラスの人を見回した時にまた幽体離脱したような感覚に陥ってしまいました。二回目のスピーチの前日、絶対にこの恐怖を克服したいという思いで背中の自己浄霊を始めました。ずっと自己浄霊を続けていた痛みのある箇所を一時間ぐらい浄霊しましたが何の変化も起きなかったので、今までに浄霊していなかった固結の所を浄霊してみました。そしたら、数秒後お腹が痛くなって下痢をしました。もうこれで大丈夫だと確信しました。次の日のスピーチの時、スピーチをする緊張はありましたが、前に立つ恐怖もほとんどなく幽体離脱するような感覚にはなりませんでした。三回目のスピーチの時はもっと落ち着いてできました。とても嬉しい思いでいました。これが普通の人の感覚なんだということが分かりました。

これで思ったことは、視線恐怖、社交不安障害の原因となった憑霊の箇所が去年の五月に見つけた箇所と違っていたので、これは救ってほしくて憑いていた霊ではなく、憑依の場所を変え、なお私のことを苦しめようとした怨みの霊の憑依だったんだと思いました。憑霊の場合も死ぬ際の恐怖が現れるそうですが、おそらく前世で大勢の人が見てる前で私が直接殺してしまったか、他の人に殺させてしまったんじゃないかと思いました。

そして、私は小さい時から踊りを見ているだけでものすごく恐怖を感じていました。お酌をするという行為が死ぬほど怖いと思うのもそれも私に憑いていた怨みの霊が宴会の場で踊りを見ていてお酌をしている時に亡くなったからなんじゃないかと思います。そして、私が気が強い女の人や怖い雰囲気の女の人に対して極度の恐怖心を持ってしまうのも前世と関係があるのかもしれません。臭いの病気のことを除いたとしても、私は自分に自信がなく、どんなに好きになった人がいても絶対に告白できないし、運命の人とじゃないとお付き合いできないという固い信念があったので、きっと私は前世は男で猛威を振るって人をたくさん苦しめ、お妾さんも何人もいて、最期は自分の奥さんだった人かお妾さんの一人に復讐され死んでいったんだろうと想像します。その復讐される時の女性の怒った怖い表情と強い言い方が恐怖としてずっと私の魂に残っているんじゃないかと思います。

 

何が何でも月次祭への参拝と自己浄霊を続けたい

極めつきは足です。高校二年生の時に原付に乗っている時に事故に遭い右足の付け根を負傷しました。それから七、八年経って車にぶつかり今度は左足の付け根を負傷しました。今もまだ違和感が残っています。これは前世で復讐されて死ぬ時に両足を刺されたのかもしれないと想像します。そして、この前世との関係が回避性パーソナリティ障害と関係しているんだと思います。今はもうそれほど気が強い女の人への極度の恐怖心はないんですが、まだ完全に大丈夫とは言えない気がします。それにこれまでの人生でたくさん気が強い女の人と出会い、怖い思いを散々して、たくさんのトラウマを抱えてきてしまっているので、自分の罪を許していただき、トラウマも解消していただけるように月次祭の参拝と自己浄霊を続けていきたいと思っています。

それから、職業訓練に通い出してからもう一つ問題が起きました。席に座って緊張があったせいと家庭内でのストレスが溜まっていたせいだろうと思いますが、治ったと思っていた臭いの病気がまた始まってしまったんです。隣や後ろの席の人に臭いに気づかれてしまうのですごく恥ずかしくて落ち込みました。急所は腰だろうと思い毎晩夜寝る時に腰の浄霊をしました。寝ながらの状態で腰に手を当て浄霊すると最高に気持ちが良く、一日の疲れが吹っ飛んでいきました。そして、箱根強羅での六月の地上天国祭に行くための飛行機のチケットの支払いをした日に御守護を頂きました。強羅での大祭には毎回参拝させていただいていますが旅費が相当かかるのでどうやって生活していこうと不安になったんです。だけど、絶対に行こうと決めてコンビニでチケット代を支払ったその日の晩、腰の脊柱右側に脊柱に沿って軽い痺れが起こりました。布団の中でその場所を浄霊し、あぁ、もうこれで大丈夫だという気持ちになりました。

お尻の方からのガス漏れはこれで治ったんですが、私は口からも臭いが出てきていました。口からのガス漏れはお尻からの臭いとは違います。ゲップをしたわけでもないのに食べた物そのもののような消化される前の臭いなどがして、周りの人にも気づかれてしまい恥ずかしい思いをしました。今度はそちらの急所探しをしました。そして、みぞおちとお臍の間を浄霊しだしたらあくびと鼻水が次から次に出てきたので、ここが急所なんだと分かりました。ちょうど膵臓のあたりだと思いますが、膵臓の裏にはたくさんの神経が集まっているそうなので、その神経と口からのガス漏れが関係しているのかなと思いました。

そして、その後ろの部分の脊柱の毒素も関係しているんだと思います。「神経作用は副守護神のいたずら」と御教えにあります。「活動、緊張、ストレスなどを司る交感神経は背中にあり、背骨の左右に沿って首からお尻まで流れている」とネットで見つけました。脊柱に固結毒素があるため副守護神や他の動物霊が働いてお尻や口からのガス漏れが起きてしまうんじゃないかと思いました。うつ病の時の反芻思考も脊柱右側の固結毒素への浄霊で治っています。フラッシュバックが治った時に背中のどこを浄霊したかは覚えていないんですが、おそらく脊柱の浄霊もしたんだと思います。脊柱右側にある固結毒素への浄霊で憂うつ感もなくなりました。

うつ病や社交不安障害などの症状で苦しんでいる間は子供を公園に連れて行って遊ばせることが苦痛でたまりませんでしたが、今やっと何の苦痛もなく公園に行けるようになりました。前は知らないママさんがたくさんいる公園に入っていくことがものすごく怖く、自分にママ友がいない劣等感もあり、誰もいない公園に行ってもいつも憂うつ感があるせいで苦しかったのにだんだんそれがよくなって、今では公園に行って知らないママさんがたくさんいても何も気にならず、怖いと思うこともなく、公園で会ったママさんとも緊張せず気軽に話もできるようになり、やっと平穏な暮らしができるようになりました。憂うつ感や反芻思考、フラッシュバックが起こらない生活は本当に幸せです。性格も明るくなってきているし、考え方がネガティブ思考からポジティブ思考に変わってきました。本当にありがたいです。

 

母方の祖父の死を通して学んだこと

私の母方の祖父についてですが、祖父は去年の四月に亡くなりました。祖父も救世教時代から信仰はしていましたが、あまり浄霊のことも信用しておらず、煙草の吸い過ぎで肺癌になり、その後も薬を服用し、ありとあらゆる病気をし、最後は全身癌で亡くなりました。

祖父が亡くなるまで四回危篤の知らせを受けました。一度目の時妹と一緒に祖父に会いに病院に行きました。病院を出た直後から妹が酷い頭痛を訴え二、三日苦しんでいました。祖父は持ちこたえ二、三ヶ月してからまた容態が悪くなったと知らせを受け、父と一緒に祖父に会いに行きました。そして、病院から戻ると、私に酷い頭痛が起こりました。次の日に福岡に戻る予定でしたが、頭痛が酷過ぎて帰る日を伸ばしたほどでした。それからまた数ヶ月して祖父の容態が悪くなったと知らせを受け、妹と一緒に病院に祖父に会いに行きました。そして、病院を出た直後から私も妹も酷い頭痛に襲われました。そして去年の四月、最後の危篤の知らせを受けた時、その日の朝から酷い頭痛が起こりました。そして咳が何日も続きました。私は祖父の死に目には会えなかったんですが、伯父伯母といとこと妹が見守る中、善言讃詞を三回唱えた直後祖父は息を引き取ったそうです。祖父の体は薬毒だらけだったにも関わらず骨は肺の辺りが少し灰色がかっていただけできれいでした。危篤のたびに私と妹に曇りを移してきたわけなので、「じいちゃんは得したなぁ」と思いました。死に際に曇りを子孫に移すという高度な技には驚きました。私も妹も祖父に天国に行ってほしい、死ぬ前にいっぱい清まってほしいという願いが強かったので神様からの御配慮だったのかもしれません。そして、薬毒だらけの人の頭痛の浄化はこんなにも酷いもんなんだと知りました。

祖父が亡くなってからまた問題が起きました。祖母が亡くなった時には祖父が喪主で、お寺で葬式をあげ、祖母の位牌もちゃんと作っていました。ですが、祖父の葬式は伯父が喪主で東方之光形式の葬儀でした。それだけならまだいいんですが、五十日経っていざ霊界に行った時、祖父はどうなるんだろうと焦りました。紫微宮では祀ることはできないわけなので早く位牌を作ってあげないといけないととても焦りました。ですが、一度は伯父一家に東方之光の間違いを話をしていて、聞き入れてもらえず、「おじちゃん達は東方之光のやり方でやって行くから」と言われていたので、なかなか祖父の位牌のことも言えずにいました。霊界に居場所のない祖父は怒って誰かに憑くかもしれない、だけど、私にかかるのはやめてほしいと思っていました。ですが、いつの間にか祖父の霊は私にかかっていました。コントロールできないほどの怒りの感情が込み上がり、どんなに自己浄霊してもどうにもならないほどでした。妹に電話し、祖父の位牌を作って祀れるように協力してほしいとお願いし、承諾してくれ、ようやく怒りの感情が治まりました。

祖父の初盆に当たる去年の八月十三日、私は里帰りができず、どうしても先祖供養がしたかったので、夫側の先祖、自分の実家の先祖、母方の実家の先祖を供養するため便せんを折って先祖代々と分かる範囲で五十年経っていない先祖の名前を書いて位牌の代わりを作り、メシヤ様に「どうかこのやり方で先祖供養をさせて下さい」とお祈りし、それぞれ善言讃詞を上げました。母方の先祖のお参りを始めようとした時、右肩の上をフッと何かが通りました。祖父だと思いました。てっきりもう私からは離れているもんだと思っていましたが、その時まで祖父は私にずっと憑依していたようです。次の日の八月十四日の朝、祖父は妹の前に姿を現わしました。布団で寝ていた妹が目を開けたら目の前に祖父がいたそうです。

紙に書いて供養するという臨時的なやり方は昭和二十年代の御守護報告を読んで真似てやったんですが、私は夫側の先祖の憑依と思われるうつ病で日々苦しんでいて、夫の実家のことが原因で精神が壊れたので供養したくても夫の実家に行くこともできず、また自分の実家も紫微宮のままで、夫からの里帰りの許可がもらえず墓参りもできない状態だったので、臨時的な供養をするしか方法がありませんでした。ですが、このやり方で祖父が離れてくれただけでも精神状態が少しよくなったので助かりました。

離婚して実家に戻ってから父の了承を得て、母方の先祖を祀るため仏壇を購入しました。そして、亡くなって一年近く経っていた祖父の法名をお寺で作ってもらい、位牌を揃え、観音様の霊壇用御神体もいただき、楳木先生に遷霊式をしていただきました。遷霊式の朝、妹は母方の先祖が喜んでいる夢を見たそうです。普通は母親の方の先祖までは祀らないとは思いますが、位牌がなく祖父はずっと怒っていただろうし、母の癲癇の原因となっていた先祖のことも気になっていたし、母方の先祖は我が家の先祖と同じかそれ以上に罪の多い家系なんじゃないかという思いが私にはあったので祀ることにしました。大好きだった祖父母を我が家で祀ることができ嬉しく思っています。

 

父に対する怒りと、その後の御守護による学び

最後に私の父の話もしたいと思います。私の父は昔からとても変わっている人でした。こだわりがとても強く、不器用で、人とのコミュニケーションも独特でした。そして、いろんな分野において人並み以上の知識を持っていました。父は難しい話を早口で力説してくるので、聞かされる家族も親戚もいつも酷く疲れました。三年ぐらい前に父がアスペルガーだと分かりました。父と母はしょっちゅう近所中に響き渡るぐらいの大きな怒鳴り声で喧嘩をしていました。最初は母に対しての文句を言い、母も言い返し、だんだん激しくなってくると決まって「言わせてもらうけどお前の実家の母親やおばさんは」と毎回必ず母の実家の人達を批判しました。おばさんというのは私の祖父のお姉さんに当たる人で、その大伯母は救世教時代専従者だった人です。結婚当初神様や信仰のことがあまり分からなかった父に対しその大伯母が他の人の前で父のことを叱ったらしいんです。父はそのことをものすごく根に持ち母と喧嘩をするたびにその大伯母を責めることばかり言ってきました。祖母のことも何がそんなに気にくわなかったのか今でもよく分かりませんが毎回責めていました。時々自分の母親や自分のお姉さんへの批判も言ってきました。

母は毎回「どうすれば許してくれるの。母達のことは謝るから母達のことは言わないで」と嘆きながら言っていました。父は「俺は責めているんじゃない」といつも同じことを言っていました。喧嘩をして「もう死ぬから」とか「もう出て行くから」と叫んで母が家を飛び出して行ったことも何度もありました。そのたびに私と妹は母を追いかけ興奮状態の母を死なないように一生懸命説得しました。小学校低学年の頃は何と言って母を励ましてあげればいいのかも分からず家を飛び出して死のうとする母親を「死なないでよ。出て行かないでよ」と必死に母の腕を引っ張って止めました。そして、母の興奮状態が治まるまでずっと三人で夜道を歩きました。母が家を飛び出して行った時に追いかけなかったことが二度あります。その時は「お母さんがこのまま帰って来なかったらどうしよう」と不安でたまりませんでした。妹は母を追いかけて行っていたので、一緒に帰ってきた時はほっとしました。小学校高学年の時にいつものように喧嘩して母が出て行って追いかけている時に「お父さんにもっと優しくして、お父さんのことを好きになればいいんじゃない」と言ったら、母は「そうしたくても、小浦のばあちゃん(祖母)やすみえばあちゃん(大伯母)のことを悪く言われたらできないよ」と嘆かれました。そりゃそうだと思いました。私は家庭をめちゃくちゃにしている父に対し年々怒りが増していき、中学三年生になった頃には怒りがピークに達し、怒りで夜も眠れなくなるほどで、父へのストレスが精神の病気を引き起こすことになりました。父は母が亡くなるまでずっと喧嘩のたびに怒り狂いながら母の実家の人達のことを責め続けました。

そして、母が亡くなると今度はターゲットが自分のお姉さん夫婦に変わりました。私も妹もしょっちゅう伯父伯母への批判を聞かされました。伯父は父の職場での直属の上司でもあり、叱られることもあったんだと思います。その中でどうしても気にくわないことがあったんだろうと思います。そして、伯母には幼少期の頃からの気にくわないことがあったんだと思います。それを根に持ち、ずっと伯父伯母を責めることばかり聞かされました。

父は十二年前に膝の手術をしました。その時の薬毒もあったんだろうと思いますが、六年前に左側の頭部から額にかけて帯状疱疹ができました。とても痛そうでした。父のことは心の底から大嫌いでしたが、あまりに痛そうでかわいそうだったので一度だけ浄霊をしました。ですが、父は病院に行き薬を使ってしまいました。薬を使うなら意味がないからもう知らないと思い、それ以降浄霊もしませんでした。そして、私は福岡へ引っ越し半年ぐらい経った頃、妹から父が少しおかしいと聞きました。そして籍を入れたのと同じ頃、父がものすごく酷い状態にあることを聞かされました。統合失調症でした。幻聴が酷く、伯母一家が家に盗聴器をしかけていつも監視しているだの、伯母が白蟻を家にばらまいただの、伯母がこっそり家に入って来て炊飯器に便を入れただの言っていて酷い状態でした。もっと恐ろしいことも言っていました。妹は精神科であることを内緒にして父を病院に連れて行き、薬をもらい、水虫の薬だと言って飲ませていました。妹は父との生活に怯え、妹の精神状態もおかしくなり家を出ていきました。私は結婚してから三ヶ月に一度ぐらい里帰りして、実家に一、二週間滞在して父への浄霊に取り組みました。私が実家に戻っている間は父の状態もだいぶ落ち着いていました。ですが、妹には父に薬を飲ませるようにしつこく言われ、そんなことしたらだめなのにと思い、薬は使わない方がいいと言いましたが、薬を飲ませないとまたおかしくなると妹は感情が高ぶっていました。私は実家を離れて生活していて毎日浄霊できるわけでもないし、近くにいる妹が一番辛い思いをしていたわけなので、言われるがままお茶に薬を混ぜ飲ませてしまいました。毒を盛っているみたいですごく怖かったです。

御教えの中に軽い精神病のうちなら幻聴が聞こえてくるのは孤霊のしわざだと言ってもよいということが書かれており、父は精神病の重い状態でしたが一応信仰をしている人だし、万が一激怒したとしても父が私に危害を加えることは絶対にないと思い、実家に里帰りした時に一か八かで「お父さんには狐の霊が憑いてて、狐の霊が耳元でささやくんだよ」と言ってみました。最初はかなり激怒しましたが、しばらくして落ち着き、理解してくれました。幻聴が起こるたびに父は怯えていて、「狐の声が聞こえても無視するんだよ」と励ましました。

御教えに「精神病は天津祝詞を上げるとよい」と書かれていましたが、東方之光では天津祝詞は廃止されていたので、天津祝詞を上げていいのか悩んでいたんですが、ネットでメシヤ教のことを知り、メシヤ講座の中に東方之光が天津祝詞を廃止したことへの批判が載っていたので、早速父に毎日の朝拝の時に天津祝詞を上げるように伝えました。薬も飲まないように伝えました。それから徐々に父の幻聴は治まっていきました。そして、私はメシヤ教本部に初めて参拝に行った次の月に行われたメシヤ教で初めての箱根強羅での地上天国祭に子供を鹿児島の妹に預け勇気を振り絞り一人で行きましたが、その参拝前に父の統合失調症が完全に治るという御守護を頂きました。帯状疱疹の薬の副作用を調べると「幻聴」と書いてあります。薬は本当に恐ろしいなと思います。

私が離婚し、実家に戻って来てからは父も毎月一緒に本部の月次祭に一緒に行っています。父は統合失調症は治っていますが、伯父伯母に対する批判はずっと続いていました。伯母達に自分が今までにどれだけ酷い目にあったか、どれだけ陥れられてきたかということや事実とは違う妄想の作り話まででっちあげ批判をしていました。イライラしている時にその症状が出ていました。父は朝から晩まで庭仕事、畑仕事をしていて、夜ご飯を食べ終わると疲れてこたつで横になっていたので、寝ている父に毎日浄霊をしました。前頭部、脳天、後頭部、延髄部、肩、腎臓、腰と一通り浄霊しました。父はイライラすることが減ってきて、だんだん穏やかな笑顔が増えてきました。ですが、どうしても父は伯父伯母のことを言ってきました。原因を掴みたくて急所を探しました。そしたら脊柱右側を浄霊した時にあくびと鼻水が止まらなくなりました。左右の肩甲骨の間の所です。私が夫の先祖に憑依されていた所と同じ場所でした。父にも先祖が憑いていたんだと思いました。妄想は動物霊によるものだと思います。病名をつければ妄想性パーソナリティ障害の不平タイプというのが当てはまるんじゃないかと思います。

何度か脊柱の右側を浄霊をするうちに父は伯父伯母を批判するようなことを言わなくなりました。父の脊柱を浄霊しても今はもうあくびが出ません。清まり離れていったんだろうと思います。長かった苦しみがようやく終わりました。今、父とも穏やかな平凡な暮らしができています。私がこれまで苦しんできたことは自分の前世との因縁、家系の因縁、姓を変えてしまったことの先祖の警告によるものでした。メシヤ様の御力、浄霊によって計り知れない御守護を頂きました。

パーソナリティ障害(人格障害)と病名をつけてしまうと聞こえが悪いですが、私の父のような妄想性パーソナリティ障害という病名が当てはまり、いつも怒鳴り狂いながら人の批判ばかりしたりする人が家族にいる場合、その家族の人達はとてつもなく苦しみ、家庭はめちゃくちゃになっていると思います。自分の父親に恥をかかせたくはないんですが、ネットでこの病名を知り助けを求めている方達がたくさんいるかもしれないと思い父のことも細かく書きました。

私は自分の体験も長々と綴りましたが、自分が苦しんできたことを人に聞いてもらいたくて綴ったわけではありません。たくさんの御守護を頂きましたがそのほとんどが実名で発表するにはあまりにも恥ずかし過ぎる内容ばかりです。自分が苦しんでいる時に人の辛い体験談をテレビで見て気持ちが少し楽になりました。自分が苦しんでいる時、私と同じ精神の病気で苦しんでいる人達のブログや書き込みを見て気持ちが痛いほど分かるので共感しました。辛くて死にたいと書いてあり涙が出ました。私と同じような悩みを抱え苦しんでいる人達に元気を出してもらいたいためと、私が御守護頂いたように早く苦しんでいる人達に良くなってもらいたいという願いを持って綴りました。メシヤ様や浄霊をご存知でない方には「文明の創造」を読んでいただいて、薬毒論や霊的病気について知っていただかないと私の発表文は理解していただけないと思います。「文明の創造」を読めば序文から大きな衝撃を受けると思います。

精神面が健康な方が私の体験談を読めば、そんなことで悩むなんて馬鹿馬鹿しいと思う内容もいろいろあったと思いますが、小さなことであっても神経がおかしくなり日常生活に支障を来たすほど悩み苦しんでいる人達がいっぱいいるんじゃないかと思います。辛くて死にたいと思っている人達もたくさんいると思います。早く教団が統一し、苦しんでいる人達を助けてほしいです。私も離婚し宗教活動が堂々とできるようになったので、体の病気、心の病気、悩みを抱え苦しんでいる人達を助けていけるように頑張っていきたいと思っています。以上で終わらせていただきます。

 

追記・報告後の御守護「偏見や過敏症から解放され、楽観的にもなりました。」

御守護報告をするにあたり、自分が話したいことをずっと綴って発表文を作っていたら膨大な量となってしまい、祭典の場では一部分だけの発表となりましたが、楳木先生が全文をネット上に載せることを了承してくださったので発表文の修正を六月末まで時間をいただきました。その間の御守護報告をさせていただきます。

発表することが決まり地上天国祭の祭典の時に発表者は一番前に座ると聞き困ったことはトイレが近いことでした。祭典中トイレに行きたくなったらどうしようと焦りました。私は冷え症と心因性と両方の原因で中学三年の時からずっとトイレが近いことが悩みでした。しょっちゅうトイレに行くのが恥ずかしくて我慢していたら授業中いても立ってもいられない精神状態になってしまい、神経がおかしくなり、高校三年の頃には毎時間休み時間のたびにトイレに行くようになってしまいました。膀胱神経症という病名だと思います。職場でもちょっとトイレを我慢するとすぐにこめかみ付近に酷い痛みがくるのでトイレを我慢することができず、頻繁にトイレに行き悩んでいました。職業訓練に通っている時もトイレのことを意識してしまい、ほぼ休み時間のたびにトイレに行っていました。どこを浄霊すれば治るのか急所を探したところ、尿道口を浄霊したら前額部に響きました。前額部に蟠踞している動物霊と膀胱、尿道口にいる動物霊との共同作業の神経のいたずらなのかと思いました。地上天国祭では全くトイレのことも気にならず無事に発表もできました。

そして、初めてお光をかけずに自己浄霊をした時にメシヤ様から教えていただいた急所の右側後頸部の固結毒素がまだ溶けていなかったので一時間ほど浄霊をしたら、次の日に変化に気づきました。タバコを吸う女の人に偏見や恐怖心をもってしまうことへの長年の苦しみから解放されました。偏見がなくなったというより「そんなことはどうでもいい」という気持ちになりました。これは私にとっては大きな御守護です。今まで私に親切にしてくれた人や仲良くしてくれた人に対してもタバコを吸う人だからという理由で心から打ち解けることができず、そんな自分が嫌で悩んできましたが、やっとその苦しみがなくなりました。そして、人から「天然」と言われ、二年もの間フラッシュバックで苦しんだことも今は「そんなことはどうでもいい」という気持ちです。首の毒素が溶け、血行がよくなり、考え方が楽観的になれました。まだ完全に首の毒素がなくなったわけではないので、これがなくなったらさらに楽観的になれるんじゃないかと期待します。

それから、息子についてですが、私の息子は自閉症のような症状で多動もありました。息子が一歳になった頃から私が一年ぐらいネットに依存してしまい、あまり息子の遊び相手もせず一人遊びばかりさせ、ビデオを一日に何時間も見せてしまっていたせいで発達が遅れてしまったんじゃないかと悩みました。うつ病で毎日が苦しくてたまらない状態の時に夫に私の苦しみを全く分かってもらえず、冷たい言葉を言われるたびに怒りの矛先を息子に向けてしまい、息子が悪さをした時に構ってほしくていたずらをしているということを分かっていてもイライラして大きな声で怒鳴ってしまったり、感情的に叩いてしまったりしたことが何度もあったので、それも原因なんじゃないかと悩みました。こだわりが強く、自分のルールを乱されるとかんしゃくを起こし、言葉の発達も遅く、オウム返しが多く、どんなに優しく言おうが怒ろうが注意したことが全く耳に届いていないようで自分本位に動き回ってばかりいました。

今年の冬、息子は風邪を長引かせ、治った矢先にまた風邪を引いていました。熱が出て鼻水がたくさん出ました。そのおかげで多動の症状がだいぶ落ち着いてきました。そして、四月末からとびひができました。顔、耳、胸、お腹、背中、お尻、腕、足とほぼ全身にとびひが広がりました。足が一番酷かったです。出産の時に子宮口が開かず注射を二本打たれ、産後すぐ子供に添加物たっぷりのケイツーシロップというものも飲まされ、夫に予防接種を受けるよう厳しく言われたためBCGと三種混合の予防接種を受けさせてしまっています。普段の食生活でもまだまだ添加物の入った食べ物を食べさせてしまっています。「注射の毒は足にくる」と御教えにありますが、とびひができ、その毒を出すことができたのかなと思いました。

そして、とびひができてから息子に変化が起きました。自閉症特有の表情と言っていいのか分かりませんが、顔の表情が今までと変わり、満面の笑みで笑うようになりました。こだわりの強さやかんしゃくも少し落ち着いてきました。見た目は普通のやんちゃな男の子になったという感じがします。言葉の発達はやっぱりまだ遅いですが、これは私のせいでもあると思いますし、然毒と産まれてからの薬毒も関係もあると思います。私は独身時代カラー剤が危険なものと知りながら髪の毛を染めていたこともありますし、元夫は風邪をひくだけで薬を飲んでいた人なので然毒はたっぷりあります。ネットで脳の言語中枢の場所を調べたら息子の頭の熱のある箇所と一致したので浄霊をしていき、よくなっていけばいいなと思っています。

また、父についてですが、父は今回の地上天国祭には行っていませんが、地上天国祭の数日前からアルコールの量が増え、また妄想話をでっち上げ伯母の悪口を言いだしました。父はメシヤ教の月次祭に行くようになって考え方も随分と変わり、伯母に宗教の話をしに行き、話を理解されなかったため機嫌を悪くしていました。父が統合失調症になって幻聴が酷かった時に私が「お父さんには狐の霊が憑いてて、狐の霊が耳元でささやくんだよ」と言ったことが頭に残っていたんだろうと思いますが、伯母のことを「あの人には狐の霊が憑いてる」と言いました。これはまずいと思いましたが、私が何か言ってまた父が激怒しだしたら面倒になるので黙っていたら、数日後父は伯母の家に行き、「あんたには狐の霊が憑いてる」と言ってしまいました。そして、妄想話をでっち上げ伯母を散々責め立ててしまいました。昼間からビールを飲んでいた日でした。そして、夕方になったら「さっきはごめん」と謝りに行ったそうです。次の日に父には「人に狐の霊が憑いてるなんて絶対言ったらだめだよ」と話をしました。

二ヶ月ぐらい父は伯母を責めるようなことは言っていなかったのでもう大丈夫だと安心していたのにまた始まってしまいものすごくショックでした。父の脊柱右側を浄霊すると、再びあくびが出るようになりました。先祖が憑いてるんだと思いました。ネットで精神病に関する御教えを必死に読みました。それで思ったことは、父が長年怒鳴り狂いながら親戚の悪口を言ってきたのは先祖が親戚にも救世教時代からの間違いを知らせるためだったんだということです。父方の親戚も母方の親戚も救世教時代からの信者です。父が悪口を言い続けた母方の大伯母は昔専従者だった人なので、専従者に対する警告もあったんじゃないかと思います。

私の頭が鈍く理解できていなかったため、また先祖は父にかかって知らせようとしたんだと思いました。父が今まで怒鳴り狂ってきた原因が姓を変えてしまったことへの先祖の警告だけであれば、姓を元に戻し先祖代々の祀り方に戻した時点でよくなっていたはずです。それ以降もなかなか父の親戚への悪口が止まらず疑問に思っていたんですが、やっとその疑問が氷解しました。姓を変えたことと教団の間違いを知らせるためと両方の意味があったんだと思いました。約三年前にメシヤ講座を知った時に父方、母方両方の親戚に東方之光の間違いを伝えていますが、全く聞き入れてもらえなかったので、それからは何も話していなかったんですが、これはもう一度ちゃんと話をしないといけないなと思い伝えました。

それからは父もまた正常に戻っています。伯母のことを発表文に入れるのは伯母に申し訳ないですし、東方之光教団だけが間違ったことをしているわけではないですが、東方之光教団の信者さんの家庭には精神の病気を患っている方がたくさんいるので、それが先祖の警告によるものだと早く知ってほしいという願いをもって発表文に入れました。

今私は父のアスペルガーの症状がどこまでよくなっていくか毎日父に浄霊をしているところです。人並み外れた強いこだわりがいろいろあります。憑いてる動物霊の特性がすごく現れているように思います。一緒に生活していく上である程度は人の意見もちゃんと聞き改善してもらいたいと思い浄霊に取り組んでいます。私が実家に戻ってきた半年前に比べると随分変わってはきています。すごい勢いで難しい話を力説してくることも最近はないですし、腹を立てずに私の意見もある程度聞いてくれるようになりました。笑顔で息子とも遊んでくれるようになりました。もっともっと変化していくのが楽しみです。

父本人は自分がアスペルガーだということは知りません。本人が自分の特性に悩んでいるなら話しますが、「俺はこだわりが強いんだ」と堂々としているので言う必要がないと思っています。ですが、父がこの私の発表文を読めば知ることになるので正直とても気まずいです。腹を立てずに読んでくれるといいなと思います。

「自らの罪が次第に判り始めたので、お詫び申し上げ、『人救いの御用』をさせていただきます。」

そして、私が前世で殺めてしまった相手のことも分かりました。神様でした。発表文の修正をしている時に私にかかっていた怨みの霊のことを考えていた時に雷が鳴りました。メシヤ講座の中の「雷は神也」が頭をよぎりました。たまたまだろうと思い作成を続け、怨みの霊のことを考えだした時また雷が鳴りました。私が前世で殺めてしまったのは神様だったのかもしれないと思い、すぐ御神前に行き天津祝詞、善言讃詞を奏上し、まず前世で自分が人を殺めてしまったことのお詫びをしました。そして、「もしかしたら私が前世で殺めてしまったのは生き神様だったのかもしれませんが…」と、そこでまた私の勘違いじゃないかと思った瞬間また雷が鳴りました。ぞっとしました。私は前世でとんでもない罪を犯してしまったんだと分かりました。御神前で深くお詫びをしました。自分がこれまでたくさんの苦しみを味わってきた原因がよく分かりました。

メシヤ教の月次祭に参拝に行くようになって二年の間に目まぐるしいほどのたくさんの御守護を頂いてきました。やっと私は救われました。本当に感謝でいっぱいです。私にはまだまだ曇りがあると思います。自分の曇りをとっていただくためにもこれから精一杯人救いの御用をさせていただきたいと思っています。自分でも驚くほどの長文になりましたが最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

[御蔭話(精神疾患)地上天国祭 2015(平成27)年6月15日]

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