メシヤ講座no.192大阪(平成29年2月)

<今月の御教え>

「『善悪発生とキリスト教』文明の創造」

本文は『天国の福音書続篇(一)神観 主神様とメシヤ様』57ページに記載されています。

 

【メシヤ講座 大阪支部】

 

各人の覚り

支部長代理

月次祭おめでとうございます。

今拝読していただいた内容を聞きまして、改めて思わせていただいたことは、これまでは善悪混合の世界であって、それが赦された時代であったと。しかし悪を滅するということで、そのために本教が生まれたと。よく奇蹟というものがありますけれども、この奇蹟というものは有神論、神様が有るということを分からすということでありますけれども、私自身は“分かった”のさらに上に、よりもっと獣性を取っていくと同時に魂を高めていかなければいけないという大きな命題の期限が来月までということになっております。

そうした時期を迎えるに当たりまして、楳木代表から各拠点に北斗七星の霊視のメールをいただきまして、その中で緑というところがありますけれども、おそらく楳木代表も決心をなされてどんどん向上されて金色に輝いておられるので、それに私達の方もついて行かなければいけない。そこの真ん中の部屋に緑を敷いてあるのはですね、実は春になって緑が芽生えるように、そういう気持ちでスタートしようということで敷いたことを思い出しまして、改めてそのころの思いを馳せますと、その当時は一人でも多くの方が、家に帰った時に、また日常生活の中で、ふと“この御神前または支部はいいな、また行きたいなというような思いになっていただけるような暖かい支部にしよう”と、そういうような思いで始めたわけであります。

かつて私は世界救世(きゅうせい)教の信者でありました時に、高校3年生で自転車を走らせて毎日布教所という所に通ったんですけれども、その原動力は、神様という厳しいけれども非常に自分の魂が清められて凛としてくる。またおられる方々も御年配の方でしたけれどもみんなお優しい方々で、本当に学校に居ながら、ふと“また今日も是非行かせていただきたい”というような思いがありました。

そうしたものを目指して支部を始めさせていただいたんですけれども、なかなか自分の思うようにはいかないものでありまして、前回『天津金木』の話をお聞きしましたけれども、主神様の御意思が地上に降りて来て、それが四方八方に広がると。これを以前支部で購入しました大石凝真須美先生の本を改めて読み直しますと、最初この全宇宙の中心に主神様の物質が固まっていって、そしてそれがどのように広がるかというと、説明しにくいですが、中心つまり地球の部分からはこういう右回りに天球に、そして天からは左回りに中心の地に降りて来ると。これが無数に360度広まって、そういうようなことで拡大していくというようなことが書いてありましたけれども、その螺旋することによって人間というのは活動が起こってくる、人間というかすべての活動というものが起こって来るわけなんですけれども、クライマックスですからこういう話をさせていただくんですけれども、私のテーマというのはですね、悪を善に切り替えていくということを、いろいろと考えたり思考錯誤してきたわけなんですが、一言でいうと善悪の結びであります。今の螺旋の話に戻しますと、分かりやすいのは遺伝子の螺旋を思い浮かべていただいたらいいと思うんですけど、片方が善で片方が悪ということでですね、まだまだ世の中が悪の場合は、そういう悪も善も共存しながら話をしていかないといけないんだということとですね、今拝読していただいたように、そうした上でもある時期までということがあるということです。

話をする中でうまいこといって相手の方が悪の部分がなくなって善になっていくとかですね、あるいは私達の普段の行いの中で、形骸的に言ってたことが心底分かって真中にチョンが入るような形で相手に伝わってうまいこと成功したということが時々あると思うんですけれども、しかし先程の宇宙の話に戻しますと、地球から天球まで無限の長さがあるんですけれども、人間というものはどこまでもうまいこと行ったといっても、まだまだ小さな長さであると。そしてこの長さの意味を、結んだこの螺旋のものを見たら、これはまたより大きな左回りの中に含まれているものかもしれないということを考えて行くと、どこまでも人間がうまいこといった、失敗したとかいうこともですね、全宇宙から見れば、程遠いものである、しかしそれが人間であるので、そうした人間同士が集まった世界の中でどのように接して行けばいいのかなと考えていくと、『天空海濶的』という御言葉がありますけれども大空も大海原も、ああいうようなおおらかな広い心境に常にいなければ、人間というのはやはり小さな枠でしか物を考えていない、いくら高い山でも天から見れば地上の山というのはやっぱり低いわけですので、そのように謙虚に、むしろいろんなものから学んで経験を積み重ねて、今後もどこまでも高めていかなければいけないなというふうに感じさせていただきました。

ですので3月3日ということが一つの節目ではありますけれども、どこまでも高めていかなければいけない、それがまた本来魂の持っている能力であり、力であると思いますので、そう思った時に魂だけを見ていった時に、また一つは3月3日までは、もし仮に私が86歳で寿命が来るということであれば3月3日が86歳まであるというふうに考えると、あと何日かの命がある。この残された時間は、どのように考えていったらいいかというと、死んでも魂は永遠にあります。だからこの物質世界の中で使命をいただいて、できることは最善を尽くすと。そして汚れたものは綺麗にしていく。そして周りのものも綺麗にしていくというような心構えでやると、非常に執着とか自分自身の欲とかいうことも、非常に薄れていく。よく魂が覚醒した人の話がありますが、この間お話した、世界の中で魂が覚醒した人のほとんどは、主神様の御話によれば、だいたい死ぬ間際ということを言われております。暗いイメージではなくて、そういう意味で自分の魂に素直になって見詰めるということも一つの手であるかと思います。そうした中で信者さんから電話がかかって、「今までは接し方がこういうふうに接してきたんだけれども、逆であった。」というような電話が、私がパットと閃いて“こうしていこう!“とした時に、そういう電話をいただくといった形で見せていただいておりますので、”どこまでも、自分の心一つで、魂のいかんによってすべては変わっていくのであるな“と感じまして、引続き努力をさせていただきたいと思います。話が非常に乱雑になりましたけれども、ありがとうございました。

 

松原出張所責任者

今月の覚りですけれども『善悪発生とキリスト教』の学び中の58ページ6行目『善と悪とに就て、徹底的解釈をするとなると』というところで、『此事は大宇宙の主宰者である主の神の権限に属する』と書いておられますが、先日から代表が言われた、“善悪を結んでいく取り組みを私達人間がしなければいけない、そうでないと地上天国すらできないなぁ”と強く共感してしまいました。善悪を裁くのは主神様の権限ということですので、人間でも例えば自分の価値観を相手に押し付けたり人を裁くということは御教えにもありますが、これは神様の権限であり、常に人を相手にせず、和を保ち、神様を見て、自分自身が神様にお気に入られるようにしていかなければと思いました。61ページ1行目には悪は『いつかは停止される運命』がすでに決まっていることで、『今日其の時が来たのである。』と書いてあります。ですので、もう自分自身で病貧争を作らない、天国的に物事を進めていく取り組みを本当に今日からさせていただく、強い決意をしたいと思います。

そして、私事ですが12月23日御降臨祭で力をいただきたいとお願い致しまして、どうしても気になっておりました我が家の御神前を広げたいと思いまして、私は女ですので、どうしても主人の承諾が必要でした。主人のOKが得られスムーズに物事を運ばせていただけますようにとお願いしておりました。そして年末、ありがたく「そこまで考えているんであれば。」と、主人からOKをいただきまして、いろいろ物件を探しておりましたが、素晴らしい物件も出てきたんですが、どうしても主人が首を縦にふらなくて、姑さんに中古物件を探していると話をしましたら、「焦らずに探しなさい。」と言われて、「でもどうしてもなかったら家の使っていない古家を改装したらいいから。」と、ありがたい言葉をいただきました。その間私のいないところで、主人は姑と前もって話をしていたみたいなんですね。主人は実家の土地が200坪くらいあって家が70坪くらいあるのを改装したいと言ったみたいなんですけど、今住んでるし、後は兄がいますので、どうしても相族の問題があるので、どうしても今は無理なんで、しかし古家ならいいということで、本当に小さな家です。今の家と私の実家の家のちょうど間にあって、私の実家からは徒歩1分で駐車場もあり、少しですが駅からも近くなります。しかし別宅になり申し訳ないのかなと代表に相談しましたら、「大いに結構だ。」とお言葉をいただきましたので、これはメシヤ様のお決めになられた場所なのだと確信致しました。しかし今の倍の御神前にはなりますが、まだまだ申し訳ない気持ちでいましたら、ふとメシヤ様の御言葉を思い出しました。『もっとどんどん発展しなければならないと誰でも思うんです。私も初めそういうふうに思っているんですが、やはりそれは時期ですからだんだんものが育っていくように一歩一歩進んでいくのです。神様の方は突如としてパァとなることはないんです。それは大自然の真理に外れますからね。どんなことでも一歩一歩育っていくんです。そのかわり確実ですから時期さえ来ればちゃんとその通りになるわけです。』と。そういえばメシヤ様も六畳一間から始められました。私は少し、一歩ですが、これをまたステップとしてありがたく霊性を高めながらさらなる神館を目指していく所存であります。

今は何社かにリフォームの見積もりを取っている段階です。メシヤ教の施設となり今の家と別宅になりますので、考えていたら“今の二倍は動かないといけないので大変だなぁ”と思っておりますが、私は子宝を3ついただきましたので、“人の三倍は動かないといけないんだ”と強く思わしていただきました。ありがとうございました。

 

八尾集会所責任者

皆様こんにちは。長くならないように三点にまとめてお話させていただきます。

一点は病院に大幅な減薬をしてもらえたことです。先月のメシヤ講座で楳木代表の「極まればほどける。」というお話をお聞きして、“もしかしたら、ほどけて今の数値が開けるということがあるのではないか”と思いました。またそのすぐ後たまたま内海聡先生の講演を初めて聞くことができ、その中でも陰陽五行の説明があり、陰が極まれば陽に転ずるという話をグラフでして下さり、“もしかして窮地を脱することができるかもしれない”とまた思いました。主人は血圧が低くなり過ぎて、リハビリもままならなくなり、浜先生のセカンド・オピニオンの文書を待たずに、家族が責任を持つので二種の降圧剤を減らしてもらえるように主治医に手紙を書き、2、3日後に娘と浜先生の文書を持って主治医と話をしました。どんなことになるのか家族も心配し大変不安でしたが、今回は、主治医はすぐに浜先生の減薬の提案を取り入れて下さり、四種類出ていた降圧剤を段階的に全部減らしていくこと、胃の薬など十三種あった薬を最終的には四種まで減らしてもらいました。主人は左まぶたも閉じにくく持病もあり、医者としては減らしにくい薬もありますが、なんとか最終的に無薬になれることを願っています。

実際降圧剤を三種類減らした段階でも主人の血圧は上が100から120台と大変低めで、何のために降圧剤を飲む必要があったのかと思いました。全部減らして140から150台の状態です。たぶん御浄霊もずっと御取り次ぎさせていただいているので、それで血圧も改善が許され、たからこんなに良くなったのではないかなと思います。浜先生にも「入院中は薬を減らすことはなかなか難しいよ。」と言われていましたが、“本当に極まるとほどけるんだな”と覚らせていただきました。ありがとうございました。

二つ目は3月3日までに神性を磨かれた状態になっていなければいけないということで、大きな課題で私が間に合うのか、本当に心配です。私としては岡田茂吉論文集の拝読の継続と、朝夕拝に『神格をいただく道』に照らして自分の行いで不適切なことはなかったかを省みること、また気付いたこと、学んだことをメモすること。また、朗詠がどこで聞いたのかよく覚えていないのですが、好きで本部の参拝で取り上げられるようになり、家の参拝後、急ぐ時以外は朗詠させてもらえるようになっております。とても楽しくて魂に光をいただけるような気がして、捷径にして魂の向上を許されるような気がするので、勝手に朗詠させてもらっています。

三点目は御教えについてですが、63ページの悪についてですが、『今日以後は二義的存在として、制約される事が分かったであろう』と書いてあるんですが、私はちょっとよく分かりませんでした。以前『悪と守護霊』を勉強させていただいた時もよく分からない部分があって、それが結局これに繋がっているんだと思うんですけれども、今後またこれについて、一体天国がきた時、悪はどういうことになっていくのか?ということを学ばせていただきたいと思っております。

最後の方に『滅亡の一歩手前に迄来てゐる悪人を悔改めしめ、犠牲者を少なくする其の救ひこそ、神の大愛である事を知らせるのが本教の大神命である。』ということで、今キリスト教の方にちょっと繋がってきている方もいるし、以前の教団で拝受いただいている方には『ミクラタナの神様』のことについてちょっとずつ機会を作ってお伝えしているんですけれども、どうぞメシヤ様の御神意を感得して繋がっていただけますように、また勉強させていただきながら許されていただきたいなと思っております。ありがとうございました。

 

豊中集会所責任者

よろしくお願い致します。

節分祭、立春祭を主人と一緒に、また沢山の方々の御蔭で参拝を許されて、そして親睦会の方にも参加することができました。節分祭の前日なんですけれども、私の実家の母の生まれが福岡の博多なので、福岡空港降りて主人と一緒に数十年ぶりにいとこ夫婦と約束して会うことができたんです。食事を一緒にしながら本当に楽しい時間を過ごしたんですけれども、そのいとこが言うには私の6つ上のいとこなので、私と初めて会った時は私が赤ちゃんだったという話からいろいろ懐かしい話をしたんですね。私も本当に“あ~そうだそうだ”と思いながら、まるでそんなに沢山の年月が経ったような気がしない、本当に昨日のことのような感じで話ができたんです。“この長い年月ってまばたきのような時間だったなぁ”とふっと思った時に、メシヤ様の仰っておられた一万年前、三千年前っていうのも、神々の時間では『まばたきのようなものなんだ。』という御言葉をハッと思い出したんです。そして私自身恥ずかしいことに、今三千年前の罪穢れお詫びをしないといけないとずっと昨年6月からずっと積み重ねているのに、なんとなく“三千年前、まぁそういうこともあったかなぁ”というような気持ちがどこかにあったんですけれども、ただ“昨日のことのようなことなんだ”ということがすごく、こう感じられたんですね。私は浄化をずっと繰り返していて、やはり小さい頃からの薬毒が本当に入っているんですけれども、“やはり三千年前の素盞鳴尊のもとで何かいろいろとこれはやってたに違いない”と。そして“きっと伊都能売神皇様を追い出す方に、本当に申し訳ないことをしてたんだなぁ”、と“あー”と思ったんです。

先日楳木代表が、たとえ大和民族であっても伊都能売神皇様が追い出されるのをずっと見ていたという罪があるんですよとおっしゃられたのも、一昨年京都の三十三間堂へ家族で行ったんですけれども、その時に二十八部衆の中で大和民族が一人だけいらっしゃるんですよ、後は多分インドに行かれてから眷族になられた人達ばかりのようなんですけれども、“その中でどうして一人だけしか大和民族がいないんだろうな”と思っていたんですけれど、楳木代表がそうおっしゃられた時に、“あ~そうだ、本当にその時一人しかついて行かなかったんだなぁ”と。“本当に厳しい、寂しい孤独な思いで伊都能売神皇様は出て行かれたんだなぁ”と思いました。その中で生き変わり死に変わりしていると思うんですけれども、やはりその時代時代にやっぱりいろんなことがあって、浄化がね、“本当にありがたいものなんだな”って繰り返し繰り返し綺麗にしていただきながら、そして来年30年3月3日以降が体の体の時代を迎える、その間際に本当に私はまだまだ浄化しているんだけれども、それもきっと“神様の愛なんだ”と。“すごくありがたいことなんだな”と思えてきました。

それから親戚に会う前、少し時間があったので、大宰府の観世音寺という所にも行って来たんですけれども、二、三か月前に支部でYou Tubeで空海の話を聞いたんですね。空海が中庸の密教というのを日本に持ち帰るために本当は20年間中国で勉強するはずの約束で中国に渡ったんだけれども、すごく賢い方なのでたった2年で遣唐使船に乗って帰って来られたんですね。でも都ではたった2年で帰って来たということで、留め置かれて、流れ着いたのが博多だったので、その観世音寺でしばらく過ごされたようなんですけれども、すごい信念でそういう勉強をされて帰って来られて、郷愁をもって、密教でものすごく大事な品々を持ち帰ってこられたんだなぁと思いながら、そのお寺に訪れたんです。でもその品々というのは、何も展示もされていなかったんですが、ただただ、なだらかな山々が景色として眺められて、“きっと空海が生きていた平安時代もこの山々を見ながらここにおられたんだろうな”という思いで、節分祭前日にそんな気持ちでおりました。

それから普段自分がどうしているか、どのように積み重ねているかというと、本当にドジなことばっかりやっていて、でも目が見えなくなってから、特に今までの自分のいい加減だったところが、すごく目について、人に対して、やっぱり家で気配り心配りがないために、そして頑固なところがあるために、家族、特に主人にとっても大変な思いをさせてしまっているなと思います。とにかく普通の家事とかでも全然できないので、ちょっとやろうと思ったら、いろいろハプニングを起こしちゃうんですね。割ったり、こぼしたり、油をひっくり返したり、「これはどこにある?あれは?」とずっと四六時中言ってると、もう主人は本当にフラフラになってしまって、けれども、それなのに、参拝に行きたいと言ったらちゃんと手を引いて連れて行ってくれて、とっても無愛想なんだけれども、とってもありがたいんです。そして今主人がしてくれていることは、家の前の小さな庭なんですけど、そこに私は“何か実のなる木がほしいなぁ”と思ってたら、今一生懸命土を耕してくれていて、小さな苗になると思うんですけれども、それを植えてもらうことになっているんですね。そういう木が成長していくのが楽しみだなぁと思いながら、本当にそういうふうな雰囲気にしてくれる主人、家族に感謝、感謝の毎日なんです。本当はこういうふうに神性を高めておりますとか言いたいんですけれども、もう主人の方がとても信仰者ぽくって常識的だし、他の人達の会話の中でも本当に相手の気持ちを考えて接している姿を見て本当に見習わなければいけないなぁと思うことばかりです。以上です。ありがとうございました。

 

「心底の悪癖」を自覚し改めて「真の御詫び」へ

楳木代表

はい、ありがとうございました。

改めまして月次祭おめでとうございます。

本日御教えを拝読させていただいて、四人の方から報告いただきましたけれども、いつもお願いさせていただいているように、四人の方が代表して報告してくださるのですけれども、その報告内容を自分に照らして、“自分自身の神性を磨く取り組みというのは、比べてどうなのか”というところを見ながら、耳を傾けていただければ、大変有り難いと思います。

それで皆さん、二月三日、四日の大祭のことを報告して下さいましたけど、現在世界救世(きゅうせい)教を始めとして、神○○○会や天○○○会はまだ節分祭をやっておりますけれども、他の教団はほとんど節分祭をやっておりません。(中略)世界救世(きゅうせい)教にずっと所属している時、節分祭をやってこなかったのですから。要は三千年来の罪という、メシヤ様が教えを垂れていても意味が分かってなかったということです。メシヤ様御自身は節分祭をする必要はないわけなのですけれども・・・、お詫びを受ける側ですからお詫びをする側ではないのです。しかし、御教えを拝読すれば信者さん側はお詫びをしないといけないというふうに受け止めていかなければ、信仰が深まっていくということにはならないので、私が世界救世(きゅうせい)教の職員時代にですね、教団自体は節分祭を執り行わなかったのですけれども、私のお預かりしているところではずっと節分祭は積み上げてて参りました。神様の方はその意味が分かって、ずっと節分祭を続けてきたというのが一つあるのですね。大きな役割を担わしていただける一つの理由ではあったのです。そのことをずっと理解をする人達が集まってくれて、そして二月三日に本部の方へそういう方々が集合して節分祭を執り行ってくれたことは、神界の方は非常に御喜びして下さいました。

しかしながら、皆さんが少しずつ報告してくれた、最後の豊中集会所責任者が細かく報告してくれましたけれども、実は現時点では『非常に浅い。』と。『まだまだ浅い。』と。来年が本番中の本番なので、これから来年の二月三日までですね、十分お詫びの内容が、それぞれ個人の中で具体化していくように、そうして深いお詫びをした時に、神界からは人類がお詫びをしたので、全面的に力を発揮するということに繋がっていくようであります。それが、○○さんが霊視で見たほんの数センチ開いた扉の意味するところだと思われます・・・。自分達の三千年来の罪穢れは何だったのか?というのをある程度自分達が自覚する中で、しっかり扉が開いたという内容になっていくのかと思います。そこから燦々とした光が見えたということですので、もう扉はこじ開けることができましたので、来年の二月三日には全面的にその扉を開くことができるように、私達のお詫び次第で一挙に岩戸は開けるというふうに思いますので、これからの取り組みをよろしくお願いしたいと思います。

それで取り組む内容というのはですね、○○さんがお話したように、大和民族というのは、素盞嗚尊が押し寄せてきた時、しかもその当時武力を持っていなかったので対応することができなかったので、そして伊都能売神皇様は日本人の命を慮って、急遽、御位を天照天皇にお譲りになって二十八部衆を設えてインドの方へ下られていったわけであります。残された日本人は、大和民族は、“どうしたら良かったのだ”というのが正直神様に訴えたい内容であります。いままで徳の象徴であられた、あるいは、権能すべて御持ちであられた伊都能売神皇様が頂におられるからこそ大和民族は徳によって治める、そういう治世の中で平和な生活をしていたのに、急遽いらっしゃらなくなったわけなので、そして次に皇位を受け継がれた天照天皇もすぐ殺害されてしまうわけなので、そうしたトップを失った大和民族は「どうしていったらいいか分からなかったじゃないか。」というふうに、文句を言いたいのは重々だと思います。

しかし、それを受け入れる中で、最初は素盞嗚尊が執り行う治世に何とかついて行ったわけなのです。ついて行かざるを得なくなったので、そうした中で培ってきた、『夜の時代』に生き抜いてきた生き抜き方というのが、我々には染み付いてきたと思うのです。しかし素盞嗚尊が何故日本を征服したかったか、皇位を狙ったか、というところをこれからも見詰めて行きたいと思います。そうすると我々の「癖」というのが大分明らかになってくるかと思います。

と同時に、萩までは一緒についてきた瓊々杵尊は、そのまま九州の高千穂峡に潜んで、そして素盞嗚尊の治世が乱れるということを予見して、三代に渡ってずっと高千穂峡で虎視眈々と乱れることを願っていたわけなのです。そして、いよいよ性癖で失敗したところを、孫の神武天皇が東征に出ていったわけです。そうすると我々の中に今残っている「癖」の中では、一挙に押し寄せて行って征服するという性格の人もいるでしょうし、会社の業績にしても、あるいは学校の成績にしても、様々なものを見比べると、「今にあの人は失敗するから、まぁ待っとけや。」というような話も職場ではあるかもしれない。そうするとそれは天孫民族の性格だということになってくるわけです。だから「相手が失敗した時に、こちら側は準備しておいて一挙にこちらのやり方でやるぞ。」というような会話をすれば、そういうことになっていくということです。そして『夜の時代』がずっと続く中で、私達は徳によって治めるということが難しいので、どうやって世の中を治めたらいいのかというところから、権力を手中に収める。そして金銭欲、まぁお金がすべてだと。お金を持っている方が偉いのだというようなところに行き突きながらですね、権力欲や金銭欲に紛れながら今日を迎えております。

我々が三千年間というと、平均的には十回は生まれ変わって来ています。十回生まれた中で自分はどんな生き方をして、その時代時代を生き抜いてきたかというのを、少し振り返っていただければですね、自分の六十年間生きた人にとっては六十年の間にいろんな場面に出会った時に自分はどういう選択をしたかということの中から、“これはちょっと出雲系の癖があるなぁ”とか、“天孫系の癖があるなぁ”とか、あるいは“大和系だけれども行動力がなかったなぁ”とか様々なことが、我々の中に沸々と沸いてくると思います。『その沸いてきたものを見詰めて行った時に、真に主神様にお詫びする内容が明確になっていく。』ということですので、これから一年間ずっといろいろやらないといけないことがあります。神性を磨かないといけないし、魂が光輝いて動物霊に支配されないような、そういう人間を目指しつつ、三千年来の罪穢れは自分にとっては何かということを明確にして、そして来年の二月三日にはそういうものを持って大集結することによって真の節分祭を執り行うことができると思いますので、このことを今日は最初にお願いをさせていただきたいと思います。

 

「建設」と「破壊」の御注力

楳木代表

次に立春祭の後、何人もお帰りになった後、私が臨時ニュースを発表したので、松原の人達とかは私の口からは聞いてないのですけれども、い○○○教団の立春祭の中で教主様御自身が、現在のK理事長やその他の役員とうまくいってない、と。そして、い○○○教団はもう教主中心の信仰体制が出来なくなったことを発表したので、会場は騒然となったらしいのですね。しかしその背景というのは(割愛します。)

二月四日にそういうことをご発言しないといけない内容というのが、御垂示によればですね、

『十二月二十三日に世界救世(メシヤ)教を復興するという誓詞を捧げたので、神界からは一挙に力をメシヤ教に注ぎ始めた。しかしメシヤ教に光、力を注ぎ始めるということは、同時に他教団にも力を注ぎ始めたのだ。この注いだ力というのは御神意に叶っているところは育って発展していく、御神意に叶わないところは破壊に。これが建設と破壊という意味なのだ。同時進行というのは、力がそれぞれに注がれ始めるので、その力によって破壊に向かうところと、さらに発展して育っていくところに向かうのとに別れていくということなのだ。そのことがはっきりと分かる出来事が、今回の教主の発言なのだ。分かったか。』

と私に言われましたので、「分かりません。」とは言えないので「分かりました。」というふうにお答えして、実はそれだけ燦々と光と力を我々に授け始められたようですので、その一つの形として受け止めさせていただけばいいのではないかなと思います。

それから○○さん自身は霊視を拝して、何か感じたことはあるの?支部長代理は一言言ってくれたのだけれども、自分自身はこういうことかなぁ、と思うことは?

 

受講者

そうですね、扉の奥の光は、今おっしゃったことかな~と思わせていただきました。それから北斗七星のお話をいろいろ自分で調べていったら、なんとなく思ったのが楳木代表が全国に回って「大」というお文字を・・・(内容聞き取れませんでした)

 

楳木代表

なるほど、まぁそういうところですか。まぁ支部長代理も触れたように、緑色の光というのはですね、縄文時代、緑を何に使っていたか、それから赤を何に使っていたか、というのを前の「メシヤ講座」の中で取り上げたことがあると思うのですけれど、例えばお汁物をいただくお椀の中は赤く漆で塗っています。それは何故お椀の中は赤を塗っているかというと、これは生命の息吹をいただくということで、そしてしかもそこに注いだものにより一層生命力があふれるように、そういうものになるようにという願いを込めて赤い色のお椀でそういう汁物をいただくということが縄文時代からずっと続けられてきたのです。

それから、緑というのは翡翠に象徴されているように、新潟県の糸魚川、大火事があった近くの糸魚川の辺りにとれる翡翠で緑を表現されている。この縄文時代に使ってた緑というのは再生を意味するということですので、その霊視を私も聞かせていただいて、世界救世(メシヤ)教が世界救世(きゅうせい)教になって、そこから多くの教団に分裂して行きましたので、そうしたメシヤ様の御心に基づいて世界救世(メシヤ)教を復興するというのは、そうしたものを全て再生していくことに繋がって行くのだろうということで、復興ということを、そういうふうに象徴してくださったのかなと思ってね。

 

「大御神守り給へ幸倍給へ」の御神意

楳木代表

それから鶯が出てきましたね、鶯というのは「ホーホケキョ」と鳴くので「法華経」なんです。だから法華経の真髄は「天地垂迹説」ですので、伊都能売神皇様が説いた教えがすべて戻って来るということにも繋がってくる。教えが戻って来るということよりも、伊都能売神皇様御自身が仏に化仏していたのがすべて元に戻って来るという、そういう意味があるかと思います。

そしてそういうことを含めてですね、昭和二十九年六月十五日「メシヤ降誕仮祝典」でメシヤ様御自身に対して「天照皇大御神守り給へ幸倍給へ」とお唱え申し上げた意味と、すべて繋がってくると思いますので、そうやって繋がってくるところを少しですね、皆さん方も頭の中で描いていっていただきたいと思います。答えはまた気付いた時に月次祭の時に報告をしていただいて、あの答えはこうだったのだろうというのを、気付いた時に報告して、その時にまた詳しくいろいろ話し合いをしていきたいと思います。

 

「役目」と「浄化」

楳木代表

「大」というのは「一人」と書くとメシヤ様はおっしゃっていますので、「一人」と言った場合は『主神様』ですので、『主神様』が使って下さるのだろうなぁ、と。そのために私は浄化が続いているのですが、八尾集会所責任者から○○さんの原稿も届いたのですけれど、腹が痛くてしょうがなくて・・・。昨夜までは、岡山の月次祭で、その前は愛媛の月次祭だったのですけれど、月次祭の時は何ともないのですけれど、終わると、終わって車を走らせ始めると腹がせいてせいてしょうがないのです。夜もずっとそれで、ちょうど小腸の中をヘラでこさぐような感じの痛みがずっと続くので、とても文書に集中できなくて返事のメールも書けなかったのです。そんなことが続いているので、“いつまで続くのかなぁ~”と思っていると、いつまで続くという御垂示はなかったのですけれど、

『これは世界救世(メシヤ)教を復興するという御神業を担うだけの体にしないといけないので、神界は浄めてしまわないと使えないので、その浄化と受け止めるように。』

という返事しか・・・。そして

『浄まってさらに御神意を受け止めて取り組むようになると、その分信者さん方がさらに覚りが啓かれるように伝導していくので、もう少し辛抱するように。』

と言われて、昨日、その前の晩は左の腰が痛くて痛くて立てないようなって、ずっと一晩中御浄霊をいただいて、そしたら岡山支部の祭典10分前に結石が出ました。“これだったのか”と思って、もうありとあらゆるところが使いやすいように浄められておりますので、これは浄まるまで仕方がありません。浄化をしっかりいただきながら御神業を担わせていただきたいと思います。

 

「百の実」

楳木代表

来年の二月三日はそういう形で目指していただきたいと思うのですけれども、もう喫緊の三月三日は迫っておりますので、もう今日発表した四人の方は本当にご苦労だと思いますけれども・・・(笑)、ご苦労と思ってないような言い方かもしれないですけれど、まぁ神性がこのように蘇ってきているなぁということが実感できるような状態で、箱根にご参拝いただければありがたいと思います。

そして、その時にじゃあ四人の方だけがそういう状態でいいのかというと、それは勿論そうではありませんで、少しでも高まっている状態で皆さん三月三日お集りいただきたいと思います。そして三月三日にそうしたお祈りをするというのは、これは三三ですので、次は五月五日の五五に、『三月三日は桃の花が咲く日であって、五月五日は実る日だ。』という、そういうふうに今回教えていただいたので、平成十一年の五月五日に初めて御神体の表装をした、ここと同じ御神体を本部にかけた時には四月末にですね、二十九日の前に御神体は出来あがったのですけれども、いつ御奉斎させていただいたらいいかなと考えて、やはり五月五日が玖珠町の久留島武彦という、日本のアンデルセンと言われている人がいて、この人の業績を祝うお祭りとして童話祭というのが執り行われているので、そういう日にさせていただこうかと決めたのです。

ところが、神界の方は『お前が決めた気でいるだろうけども、それは五月五日と定めていたんだ。』と。『これはすべて桃の実がなる日なんだ。』ということで、『五月五日をもう決めていたので自分ですべて時期をみて決めたように思っているだろうけども、神界がそのように段取りをして決めていたことなので、重々そういうふうに受け止めていただきたい。』というのが今回いただいた御垂示であります。

 

「メシヤ様のお膝元」に帰結するということ

楳木代表

皆さん方がそれぞれのお立場で御論文を拝読しながら、そしてずっと積み上げていくことを、まずは三月三日に報告させていただいて、そして来年の三月三日までに、昨日岡山で○○さんという方のお子さんが小学生の女の子なのですけれど、二月三日の夜、子供をおばあちゃんに預けて行ったのですけど、その二月三日にその子が夢を見てですね、友達と一緒にある神社にいてお参りしようと思ったら、そこの宿舎の女将さんみたいな人が出て来て、「どうぞどうぞ」と案内をされて友達が入って行ったら、そこは地獄だったと。 “あっ私も一緒に地獄に落ちんといかんのやなぁ”と思って後ろについて行ったら、女将さんが「メシヤ教の人は地獄へは行けません。」と断られたと。それで目が覚めたというようなことを二月四日の参拝が終わって帰ったら、その娘さんが起きていてすぐ報告してくれたらしいのです。これはどのように受け止めるかというと、本日の御論文の中に無神論者を一人でも覚醒させて、そして裁かれる側から地上天国に住める側に一人でも転向させていくのが我々の大神命である、というふうに書かれていることをやっていかないと、ただ単に“私は地獄に行かないで済むんだ”と、“あの人達は地獄に行ってしまうんだ”というようなことではなくて、それだけの大神命を私達は果たしていかないといけないということを、そういう子供の夢の中で御示しいただいたことを受けて、“より一層我々の決意を高めていきたいなぁ”と思わしていただきましたので、そのことを皆さん方にお知らせして私の挨拶とさせていただきたいと思います。ありがとうございました。

 

支部長代理

以上もちましてメシヤ教大阪支部2月度月次祭を終了させていただきます。

 

受講者一同

ありがとうございました。

 

<来月の御教え>

「『天国篇』文明の創造」(昭和二十七年)

本文は『天国の福音書続篇(一)神観 主神様とメシヤ様』66ページに記載されています。

「『天国篇』文明の創造」は平成29年3月に拝読し学び合う御論文です。

 

[メシヤ講座no.192 大阪支部 2017(平成29)年2月9日]