メシヤ講座no.164三重(平成26年9月)

<今月の御教え>

「『文明の創造』宗教篇 精神病と癲癇」(文創  昭和二十七年)
本文は『文明の創造』284ページに記載されています。

 

【メシヤ講座 三重支部】

楳木代表

本日は霊的病気の中の『精神病と癲癇(てんかん)』の項目でしたが、これは『精神病と癲癇(てんかん)』ということのみではなくて人間の存在あるいは信仰を持つことの尊さをメシヤ様はここで御解説してくださっておられますので、私たちの信仰生活の中では非常に大切なところです。長いですが根気よく毎日拝読していただいて腹に入れていただきたいと思います。

精神病ということに関して医学界はなかなか対応しきれておりませんので、薬で抑えていきます。取り分け日本の場合は薬漬けにしてしまいますので、非常に不幸な状態になっていきます。精神薄弱児を持つことで悩んでおられる方のお世話に取り組んでおられる人が・・・、○○之光教団に救いを求めて行きましたところ医者を紹介して、医者は精神安定剤や睡眠薬を処方するようになったために、精神障害が加わったそうです。今は薬をやめて浄霊をしっかりするようになって改善に向かっています。

今回のような御教えをしっかり腹に入れて取り組んでおりませんと、救いを求めてきましても救いを行使することができない状態を生んでしまっているのです。

そういう方々のお話を聞きますと、取り分け日本の精神科医は心を改めていただかないといけないと思います。薬に頼りすぎているのです。

それから右側の耳の上の脳のところに亀裂が入っているのですが、そこに電極を当てると自分の体を外から見ることができる。いわゆる幽体離脱ができる。というところまで医学的には戦時中にそこまで行っているのだそうです。

脳の解剖ということに関しては技術的には進んでいるのです。それで脳に部分的に障害があると自閉症のようになったり、特定の分野に優れた能力を発揮するサヴァン症候群のようになったりすることが発見されております。しかし、どういうふうに治療するかということはなかなか難しいものがあります。

その点メシヤ様と御縁をいただいた私たちはこうした症状をお持ちの方々にも十分浄霊によって対処することができますので大変有難いと思います。

【サヴァン症候群(サヴァンしょうこうぐん、savant syndrome)とは、知的障害や発達障害などのある者のうち、ごく特定の分野に限って、優れた能力を発揮する者の症状を指す。(Wikipedia 最終更新 2014年7月27日 (日) 04:15)】

 

先人の知恵を無視してはいけない

楳木代表

それから人間とは一体何かということですが、想念の世界について別の御教えでは想念の三位一体ということを御説きくださっておられます。

本守護神と正守護神と副守護神によって想念が構成されているのです。正守護神は先祖の霊界の修行を終えた人から子孫を守護すべく正守護神として私たちを守ってくださっております。

例えば土砂崩れなどが近年度々発生しますが、土砂崩れの少し前に引っ越した人もおります。逆に移り住んだ人もおります。正守護神の働きによって助かった人と助からなかった人がおります。広島の場合土砂崩れのあった場所は「蛇落地悪谷」(じゃらくじあしだに)と昔から呼ばれていたそうです。地名から推測すると、昔から蛇が落ちてくるような土砂崩れのある場所だったと思われます。人を住まわせないために悪い地名を付けたのだと思われます。

それが後世土地を切り拓いて行く時に地名を変えてしまったようですが、先人の知恵を無視してはいけないのです。

 

『御教え 「大崩の龍神 」(S24・3・14)

(問)私の家の近くの海に小島がございますが、その附近で漁師がわかめを採りますと必ず雨が降ります。昔この島の附近で煙草船が難破して大勢の人が死に、この島の海中に墓があると言ひ伝へられて居ります。又海女などこの附近だけはもぐれないと申します。何か霊的な関係がございますのでせうか。大崩といふ地名の所で御座います。

(答)龍神がいて、人間が近よるのを嫌ふ為である。大きい龍で、斯ういふ龍神はそこで行をしている。海千年、河に千年、山に千年といふ。人間が来ると行の妨げとなるので、気をつかす。避けてとりに行かぬ方がよい。龍神は雨を降らすのは訳ない。

 

正守護神に力をつけていただくために、しっかりとした信仰を培おう

楳木代表

それから日航機墜落の事故がありましたが、世界救世(きゅうせい)教の信者さんであの飛行機に乗る予定だったが乗れなくなって助かった人がいたそうです。

また、入信教習を受けた人や浄霊を受けていた人が助かったそうです。

そういうことを考えますと、浄霊をいただいたり、メシヤ様の教えを学んだりするということで正守護神が力を得ることができて、〝危難から救って行く″ということが出来ると思いますので、私たちの正守護神により一層力をつけていただくために、月次祭を中心にしてしっかりとした信仰を培っていただきたいと思います。

それから信仰の意義についてメシヤ様は正守護神に力をつける為に正しい信仰に子孫が入信して神様から力をいただくことによって正守護神が力をつけてくるという一面と、人間を育てるために使命のある人間ほど正守護神が鍛えるということがあります。

不幸なことに出会ったり、大きな課題にぶつかるということは〝使命が大きいのだ″と受け止めていただきたいと思います。

 

副守護神の力を抑え込んでいける人間になろう

楳木代表

次に動物霊が副守護神としてついておりますので、この副守護神が幅をきかせないように、副守護神の力が10%から20%くらいまでにいつも抑え込んでいけるような人間になっておいていただきたいと思います。

副守護神が幅をきかせてきたかどうかの簡単な見分け方としてきちんと挨拶できているかどうかということがあります。

「おはようございます」と挨拶しても相手を真っ直ぐに見ているかどうかということです。よく目の前の人を見ながら斜めの人に挨拶する人がありますが、これが副守護神が幅をきかせてきているのです。軽い精神病になっているのです。

私たちが動物霊に支配されていないかをチェックするには、御神前に三宝を置きますが、真ん中に置いたと思っても後でチェックするとズレている時などです。そのようにチェックして、副守護神が幅をきかせてきた時には御教えを拝読したりして修正していくと良いです。

そうしたところを確認していただいて、今回の御教えは私たちにとって非常に大切なところですので、拝読をしていただきたいと思います。

それから動物霊が憑る時には狐が80%、狸が10%、その他が10%です。八割方狐ですので嘘つきが多いのです。人を騙していくのです。話に辻褄が合ってきませんのでわかると思います。

そして不幸な亡くなり方をした場合の人間が憑かった場合は癲癇になっていくということですので、そういう方に出会った場合はその〝憑かっているものに向かって浄霊をして行く″ということが大切ですので、そういう想念で浄霊をしていただければ、御守護をいただけるのではないかなと思います。

そういったことをメシヤ様は細かく御解説してくださっております。大変ありがたいことですので、繰り返し拝読させていただきたいと思います。

最初にそういったことをお願いさせていただいていつものように質疑応答に入りたいと思います。

 

『善も悪も決定的に勝負をつけてはいけない』

受講者

『つまり人間は神から与へられた良心を発揮させ獣から受ける悪に勝てばいいのである。といってもそれには自(おのずか)ら限度がある。即ち善も悪も決定的に勝負をつけてはいけない。』とありますが、善悪決着をつけられないのでしょうか。

 

楳木代表

人間の中にある闘争心とかは戦争とかに使わないで、〝スポーツで消化していくのが、地上天国になった時の姿だ″と御教えくださっておられます。

それで、人間は解脱(げだつ)してしまいますと、活動力が無くなりますので、仙人みたいになってしまいます。これでは人間活動はできないのです。それから動物的な事がなくなってきますと物を食べなくなりますので、生命を維持することができなくなります。霞(かすみ)を食べられるようになっていれば別ですが。

また、〝ああいうことをやってみたい″〝ああいうふうになりたい″という意欲がなくなってしまいます。そして子孫も反映できなくなってしまいます。

ですからいつの時代になってもそういう欲望だけは必要だということです。

 

天の数歌と『夜昼転換』の歴史観

楳木代表

それからもう一つは、『天国の福音書(二)』では歴史観をまとめようと思っていますが、そうした時に『夜昼転換』の御教えが中心になってきます。

『夜昼転換』というと波のように『夜昼転換』があるように教修を受けたりしますと、『昼の時代』から『夜の時代』になった時に夜というと逆戻りしたようなイメージを植えつけられてしまっています。

それで最近一番わかりやすいのでは、と思っていることは、

『天の数歌』を唱える時に低く出て「ひとー ふたー みー よー いつ むゆ なな やー ここのたりやー」と段々上がって行きます。これを『昼の時代』になっていくと考えた時に、次にまた1オクターブ上げるような感じで、「ここのたりやー」の高さから「ひとー ふたー みー よー いつ むゆ なな やー ここのたりやー」と唱えて行きます。そういうように時代を捉えていかないと、三千年前に『夜の時代』になった時に悲惨な戦争とかがありますので、悪くなったように錯覚してしまいます。しかし物質的には発展しているのです。

ですから物質的には進み続けているのです。

その中で精神的に退化したというよりも欲望が大きくなったというふうに受け止めていきませんと『夜昼転換』の捉え方が間違ってしまうところがあると思います。

時代がズーッと進んできているのです。その中で植物の種類や生き物の種類も無限大に広がってきています。

 

天国においても意欲は必要である。

楳木代表

およそ、38億年前に生命が誕生して単細胞から始まったものが段々複雑化してきて、それが陸上部と水中部に分かれました。これだけ人間が発展しましたが水中部のものはまだ把握しきれていないところがあります。それを〝海底で探してみよう″という意欲は・・これは意欲という点においては悪の部分に属するわけです。しかし、これがないとすべてのものを発見することができません。

いくら天国が出来ても天国の中身は第一天国、第二天国、第三天国と向上していかないといけませんので、向上していくためにはまだ発見していない部分は〝発見する″という意欲がないといけませんので、そういう点において悪もまだまだ必要なのです。

ですから若い人ほどそういう意欲は膨らませて生活していただきたいと思います。

台湾で日本に活躍の場がなくなった日本の人たちが次世代ディスプレイの開発を行っていますが、名を残そうとか意欲ということは大切なのです。

【「日本に活躍の場ない」ライバル台湾メーカーに流出するベテラン技術者たち!次世代ディスプレイ開発『請け負い』(J-CASTテレビウォッチ)】

 

楳木代表

『善も悪も決定的に勝負をつけてはいけない』ということは、将来に関する可能性としてメシヤ様が我々に期待している部分があるのではないかなと思います。

そういうことを考えますと、メシヤ様の教えというのは物凄く大きな教えなのだなと思います。普通の教祖の教えとは中身がまるで違いますね。

 

受講者

善ばかり説いている宗教家と比べて『悪も必要だ』というのは教えが全く異なりますね。

 

楳木代表

昔から必要悪という考え方は哲学的にはあったのですが、宗教家は出来るだけ〝必要悪は排除していく″という考え方でやってきましたのでね。

そういうことではメシヤ様のすべての教えとか考え方を包含した御教えというのは素晴らしいなあ、と思います。

ですから今、濵口さんに『夜昼転換』の御教えをピックアップしていただいているのですが、膨大な量なので、メシヤ様が示されている〝歴史観とはどういうものなのか″ということをこちらがある程度構成してそこへ並べていくようなそのようにしていかないと、今まで読んだことのある人とかにより一層高まっていただけるように作っていかないといけないと思っています。一所懸命考えていますので頭が時々痛くなります。

 

支部責任者

凄い量ですものね。

 

楳木代表

量が多いのであのまま載せてもね、またその人たちに考えてもらわないといけないのでね。

「ここまで考えたのですよ」として御教えを掲載して、そして「さらに気付いてください」というような構成にしていかないといけません。

メシヤ様が御昇天になって60年に来年なります。我々がもうちょっと纏めたものを出していかないといけないな、と強く思いますので、よろしくお願いいたします。

 

最後の浄化は精神病

受講者

『浄化が厳しくなるから一日30分は御教えを拝読しなさい』という御教えがありますが、30分拝読しますと浄化というのはどのようになるのでしょうか。

 

楳木代表

これはね。浄化というより今回の御教えに当てはめた方が良いと思います。

 

受講者

頭ですか。

 

楳木代表

副守護神に支配されなくなるのです。

御教えを拝読することによって本守護神は充実してきますので、そうしますと副守護神にのさばらせることなく適度な状態に抑え込む事が出来ますのでね。

 

受講者

それは精神的なことですか。

 

楳木代表

そうです。最後の浄化というのは精神病ですから。今は癌とかを大きな浄化だと捉えていますが、最後の浄化というのは精神病です。

何が正しくて何が間違っているのかがわからなくなってくるのです。よく吟味しないと精神病だとわからない人が増えている時代を迎えてきていますので、その時に必要なのが御教え拝読だということです。

これから精神戦争が始まってくるわけです。

宗教界では「教団護持委員会」が最初にやったわけです。世界救世(きゅうせい)教の悪いことを正して行こうということで「教団護持委員会」が立ち上がって、教団改革を訴えて進んでいたのですが、丸め込まれてしまったわけです。ですから今メシヤ教でやっているわけです。〝これでもういいや″と思ったら精神の戦いは終わってしまうわけです。

ある教団の専従者が「コンビニで買ったものを浄霊して食べれば大丈夫だ」と言っているのです。さらには「メシヤ様の教えを忠実にやるというのは現代の生き方ではなく、うまく使っていくのが御教えの使い方なのだ」と。言い回しが少しおかしくなっています。

御教えを『守り抜いていく』という教団が段々なくなってきているので、そういう話を聞いて私もショックで体調が悪くなってしまいました。

 

受講者

薬に浄霊をすると薬がパワーアップするというような御教えがあったように思います。

 

楳木代表

パワーアップということはないですが、薬に浄霊したらその成分は浄化していきます。薬が浄化するわけです。薬が膨らんできたりしてパワーアップに見えるだけです。

科学的な勉強をしていないある教団の専従者は「食べ物は無機物的なものだから短い浄霊で良いのだ。」という人がいました。薬物は無機物ですが食べ物は有機物なので、誤った解釈に言葉を失ったことがありました。

 

※支部責任者:下記御教えによれば薬の効果が強くなるということは薬毒が強くなるという意味で浄霊をした薬を飲めば効き目が強くなるという意味ではないので誤った解釈をするのは非常に危険だと思います。

『御教え「妙智の鍵」(光宝2号) 昭和24年7月

医薬に浄霊して患者に服用させたらその効果はいかがなものございましょうか御教えを賜りたく御伺い申上げます。』

※支部長代理:これは泥棒が警官の制服を着たようなもので問題外である。しかし御浄霊した医薬は服用すれば却ってその薬毒は強くなるであろう。

薬屋とか、医者等がこの信者になれば正業を廃止しなければならぬ事となり実に困った問題である。

 

受講者

ある教団が新聞沙汰の事件を起こした時に物凄い数の烏がその教団の周りを飛んでいたそうです。烏は良いことも悪いことも知らせるのでしょうか。

 

楳木代表

罪汚れの方の知らせでしょうね。悪い方の知らせの方が多いのではないでしょうか。

明るい話に戻しましょう。収穫は終わりましたか。

 

受講者

終わりました。

 

楳木代表

大分は9月の中旬です。雨が多く降る所ですので水が綺麗です。水が綺麗だからお米も美味しいわけです。三重支部の炊き方が美味しいと評判ですよ。

それでは時間になりましたので一旦終わらせていただきます。

 

一同

ありがとうございました。

 

『御教え「日本人と精神病」自観叢書10編(昭和25年4月20日)

今の世の中で、人間は口を開けば思想の悪化、犯罪の増加、政治の貧困等々を言ふが、之に就て私は其原因が精神病と密接な関聯のある事をかいてみよう。

先づ精神病なるものの真因は何であるかというと、之が亦破天荒ともいふべき何人も夢想だもしない理由である。勿論真理そのものであるから、真の精神病者でない限り何人も納得し得る筈である。そうして精神病の真因は肉体的と憑霊現象とである。といふと唯物主義教育を受けて来た現代人には一寸判り難いかも知れない。何しろ眼に見えざるものは信ずべからずといふ教育をサンザ叩き込まれて来た以上、そう簡単には判りやう筈のない事は吾等も充分承知の上である。といっても真実はいくら否定しても真実である。眼に見えないから無といふなら空気も無であり、人間の心も無といふ事にならう。

霊があるから在る、憑霊現象もあるから在る-といふ真実を前提としなければ此の論はかけない。故に霊の実在を飽くまで否定する人は、吾々を目して迷信者とみると同様、吾々から観れば、そういう人こそ気の毒な迷信者である。偖而いよいよ本文にとり掛るが、先づ精神病者は憑霊現象であるとすれば、何故であるかといふと、世間よく首が凝る、肩が凝るといふ人は余りに多い事実である。恐らく日本人全部といってもいい程であらう。私は長い間の経験によって、如何なる人でも頸肩に凝りがある、稀には無いといふ人もあるが、それ等は凝りはありながらあまり固り過ぎてゐて、その苦痛に鈍感になってゐる為である。即ち体質ともいへる。右の如きこりが精神病の真原因といったら、その意外に吃驚するであらうが、順次説明するに従って成程と肯くであらう。

頸、肩のこりは頭脳に送血する血管を圧迫するので、それが為前頸部内に貧血を起す。処が之が問題である。といふのは頭脳内の貧血は貧血だけではない。実は血液なるものは霊の物質化したものであるから、貧血は頭脳を充実してゐる霊細胞の貧血ではない貧霊となる事である。此貧霊こそ精神病の原因であって憑霊は霊の稀薄部を狙って憑依する、その霊とは何であるかといふと、大部分は狐霊で、次は狸霊、稀には犬猫の如き霊もある。勿論何れも死霊で、又人霊と動物霊との共同憑依もある。

茲で人間の想念を解剖してみると、先づ理性と感情とそれを行為化する意欲である。その理由としては、前脳内の機能は理性を掌り、後脳内のそれは感情を掌る。此證左として白色人種は前頭部が広く発達してゐるのは、理性の豊富を示し、反対に黄色人種は前頭部が狭く後頭部が発達してゐるのは、感情の豊富を示してゐるにみて明かである。白人が智的であり、黄人が情的であるのは誰も知る処である。故に人間は常に理性と感情とが相剋しており、理性が勝てば失敗はないが、そのかはり冷酷となり、感情が勝てば本能のままとなるから危険を生ずる。要は両様相調和し、偏らない事が肝腎であるに拘らず、人間はどうも片寄りたがる。そうして理性にしろ、感情にしろ、それを行為に表はす場合、大小に関はらず意欲が要る。その意欲の根原こそ、腹部中央臍部内に位する機能である。所謂、行為の発生源であって、右の三者の合作が想念の三位一体である。

処が前頭内の貧霊は、不眠症を起す、不眠の原因の殆んどは、後頭部右側延髄附近の固結でそれが血管を圧迫するからである。不眠は、貧霊に拍車をかけるから、得たりかしこしと動物霊は憑依する。前頭内は人体の中枢である為、その部を占有する事によって人間を自由自在に操り得るのである。特に狐霊は此人間を自由にする事に興味をもち、而もそれによって狐霊仲間で巾が利く事になるので、到底人間の想像だもつかない訳である。此狐霊に就ては私の実験を本とし近く詳細書くつもりだから読者は期待されたいのである。

以上の如く、人間の本能である感情を常に制扼(セイヤク)し、過ちなからしめんとする本能こそ理性の受持で人間が兎も角普通常態を保ちつつあるのは、此理性といふ法規の力で感情を抑えつけてゐるからである。従而、此法規の力を失ふとすれば、感情は自由奔放脱線状態となる。それが精神病である。

右の如く法規の力が前頭内に光ってゐるとすればそれを識ってゐる憑霊は、そこを占有することが出来ないが、一旦霊が稀薄になった場合邪霊は得たりかしこしと憑依する。稀薄といっても厚薄の差別があり、その差別通りに活動する。例えば、前頭部の霊の充実が十とすれば、憑霊する事は全然出来ない。九となれば一だけ憑依出来る。二となり三となり四となり五となり六となった場合憑霊は六の力を発揮し得るから、四の理性では六の感情の力に負けるから、自由に人間を支配し得るのである。

最初に述べた如く、凝りの為血管が圧迫され貧霊する、その割合だけ憑霊が活動し得るとすれば現代人に凝りのないものはないから、霊の充実が十ある人など一人もないと言っていい。社会から尊敬されるやうな人でも、二乃至三位の欠陥はある。あんな偉い人がアンな間違いをするとか、彼位の事がなぜ判らなかったとか、どうして失敗したのかなどといはれるのは右の二、三の欠陥ある為である。然し乍ら此欠陥は一定不変ではない、常に動揺してゐる。非常に立派な行為をする時は二位の欠陥の時であるが、何等かの動機にふれて邪念が起り、罪を犯す場合は四位かそれ以上の状態になった時である。之は世間によくある事だが、大抵は罪を犯してから後悔するがその時は二か三位に還った時である。よく魔がさすといふのは此事を指すのである。

処が一般人は先づ平常三乃至四位であって、動機次第で何時五の線を突破するか判らない。此の場合思ひもよらぬ罪悪を犯すのである。此例としてヒステリーであるが、此の原因は殆んど狐霊で、其際前頭内に蟠居する。此原因は嫉妬、怒りの為五の線が破れる。そうなると心にもない滅茶苦茶な事をいひ、狂態を演ずるが長くは続かない。といふのは五の線が再びそれ以下に還元するからである。従而人間は三の線を確保すべきで、それ以上では危険である。今日犯罪者が多いといふのは右の理を知ればよく判る。憑霊とは勿論獣霊である以上五の線を突破すれば形は人間でも、心は獣類と何等異らない事になるから獣的行為を平気でするのである。此点人間と獣類との差別の著しい事は人間には愛があるが、獣類によっては親子夫婦の愛はあるが、隣人愛は極めて薄い。反って鳥類虫類の方がある。然し大抵の獣類は夫婦親子の愛すらないので、人間が獣性を発揮するや到底考へられない程の残虐性を表はすのである。

以上述べた如く、十の霊保持者がないとすれば、それ以外は憑霊に多小なりとも犯される訳で、それだけ精神病者と言い得るのである。随って忌憚なくいえば日本人全部が多少の精神病者であると言へよう。

之に就て私の経験をかいてみるが、私は毎日数十人の人に遇ひ種々の談話を交換するが、些かも破綻のない人は一人もないといっていい。如何なる人と雖もいくらかは必ず変な処がある。世間から重くみられてゐる人でも、普通では気のつかない位の欠陥はあるに鑑て、軽度の精神病者は先づ全般的といへるのである。

今一つは言語ばかりではない。行為の点も同様である。勿論行住座臥誰でも出鱈目ならぬは殆んどない。道法礼節など全然関心をもたない。大抵の人は部屋に入りお辞儀をする場合でも殆んど間違ってゐる。壁へ向ってするもの、障子や襖へ向ふもの等、実に千差万別である。又馬鹿丁寧な人があるかと思えば簡単すぎる人もあり、之等悉くは軽度な精神病者であらう。

最後に当って根本的解決方法をかいてみるが、それには頭脳への送血妨害であるこりの解消である。こりを解消するには勿論本教浄霊による以外、世界広しと雖も他にない事は茲に断言する。故に本教信者は普通二か三で、三の線から逸脱する者は先づあるまい。何よりも本教信者の品性をみればよく判る。以上の意味によって、今日の社会悪防止に、本教が如何に大なる功績を挙げつつあるかである。又こりの本質は何であるかといふと、言ふ迄もなく薬毒である。』

 

『御教え「守護神」天国の福音(昭和22年2月5日)

如何なる人間と雖も正守護神、又は守護霊なるものが霊界に在って附随し、常に守護してゐる事である。そうして人は神の子であり、神の宮であるといはれるが、既説の如くそれは神から受命された即ち神の分霊を有してゐるからで、之が本守護神であり、後天的に憑依せる動物霊が副守護神であるが、動物霊とは狐、狸、犬、猫、馬、牛、猿、鼬(イタチ)等の獣類、若しくは種々の龍神、天狗、凡ゆる鳥類等が重なるものである。大抵は一人一種であるが、稀には二三種以上の事もある。斯ういふ事に就ては現代人は到底信じ難く嘲笑する位であらうが、私が幾多の経験によって動かすべからざる実体を把握し得たのであるから、否定は不可能である。そうして曩に説いた如く、本守護神は善性であり、良心であり、副守護神はその反対で悪であり、邪念である。仏教に於ては良心を菩醍心又は仏心といひ、邪念を煩悩といふ。そうして本副両守護神の外初めに書いた如き正守護神がある。之は祖先の霊であって人が生れるや、それを守護すべく祖霊中の誰かが選抜されるのである。此場合普通は人霊であるが、同化霊である龍神、狐、天狗等もある。私と雖も副守護神は烏天狗で、正守護神は龍神である。よく人間が危険に遭遇した場合、奇蹟的に助かったり、又暗示を与へられたり、夢知らせや虫が知らせる等の事があるが、皆正守護神の活動によるのである。又芸術家が創作の場合や発明家が熱中する時一種のインスピレーションを受けるが、之等も勿論正守護神の暗示である。其他人間の正しい希望が実現したり、信仰によって御利益を得る場合、神が正守護神を通じて行はれるのである。昔から至誠天に通ずるとか、真心が神に通ずるとかいふのは、神が正守護神を通じて其人に恩恵を垂れるのである。』

 

『御教え「若しもこの世界から“悪”がなくなったら」 栄百九十七号 (昭和二十八年二月二十五日)

凡そ人間一切の不幸の原因を突きつめてみると、悉く悪にあることは今更いうまでもないが、そこで私はこの世界から若し悪が無くなるとしたらという仮定の下に、想像してかいてみたのである。それは先ず第一病人がなくなることで、誰も彼も健康に恵まれ、仕事を休むようなことはなくなってしまう。いつもいう通り病人の出来る原因は医学の誤りにあるので、いわば善意の罪悪であるから、結果からいえばやはり悪に属するわけである。成程昔から医は仁術なりといって、人の命を助ける立派な善の仕事と思っているのであるが、実はそれは大なる錯覚でしかないのである。

従ってこのことがハッキリ分り、是正されるとしたら、茲に病無き世界が出来るのは当然で、人間は年中張切って働けるから、貧乏も争いもなくなり、幸福な家庭、平和な社会となるのは間違いないのである。というとまるで牡丹餅で頬ペタを叩かれたようなうますぎる話だが、茲に困ることがある。というのはそうなるまでには一時的ではあるが、病気に関係ある一切の施設も機械も不要となり、人的には医師も看護婦も、それに附随する製薬関係者を始め、各方面の従業者悉くは失業するから、この解決が容易ならぬ問題である。しかしこの結果国家国民に及ぼす永遠な利益を考えたら、何としても我慢しない訳にはゆかないであろう。

その暁人間病気の心配がなくなるとしたら、現在のようにヤレ風邪を引くな、冷えるな、食物に注意しろ、栄養が肝腎だ、外出から帰ったら含嗽(ウガイ)をしろ、食前には手を洗え、衛生に注意しろ、黴菌を防止しろなどという面倒なことは一切なくなり、人間は何等心配なく、伸び伸びとして多人数の中でも、空気の悪い所でも薄着でも平気の平左で、いとも朗らかに生きていられるので、これこそ本当の自由人の生活である。しかも毎月の生活費中医療費がなくなるだけでも、どんなに楽になるか知れないであろう。

又各家の戸締も要らず、汽車や電車に乗っても、掏摸(スリ)や置引の心配もなく至極気楽な旅となるであろうし、又金借りが来ても返すに決っているから、余裕さえあれば快く貸してやるから双方気持がいいのは勿論であり、何の取引でも判証文や受取なども要らないから、手数も省け苦情や裁判沙汰なども起りようがなくなるし、家族一同健康であるから物質は豊かで、和気藹々たる家庭となり、家族連れの物見遊山なども大いに楽しみとなろう。主人は主人で大酒を飲んだり外泊したりしないから、妻君の心配もなく、家庭争議など昔の夢と消えてしまう。又子供も親に見習うから教えなくとも親孝行をするし、斯うなっては民主主義も封建思想もヘチマもあったものではない。そんな面倒臭いことは忘れてしまうからである。

それから警察や裁判所は、今の十分の一で事足りるであろう。というのは悪と雖もそう早くなくなるわけにもゆくまいから、ヤハリある程度の争いや犯罪者も出るには出るであろうが、今日のそれとは比較にならない程少なくなり、殆どは軽犯罪位で済むであろう。しかも警察官も裁判官も、今日のような面目や感情などに拘(コダ)わることなく、至極公平に裁くと共に、被告も嘘や誤魔化しをいわないから、弁護士の必要もなくなり、簡単に迅速に運ぶのは勿論、贈収賄などもなくなるから、官公吏、会社員、学校教員なども、何等気が咎めることなく、いつも明朗であるから、仕事の能率は上り、今までの何分の一の時間で片附くであろう。

ここで最も大きな幸は、戦争がなくなることである。戦争こそ最大なる悪であるから、これがなくなるとしたら、世界は凡ゆる面に於ける好変は想像もつかない程大きなものがあろう。第一各国民の経済的負担は今より何分の一に減るであろうから、いやでも人間は幸福となり、住みよい社会となるのは勿論である。

以上悪のなくなった世界をかいてみたのであるが、まだ少しかき残したことがあるからかいてみるが、先ず何よりも一切の労力が何分の一に減ることである。考える迄もなく、今日の社会は悪による労力の無駄は誰も気附かないが、実は大変なものであろう。従って悪が一割減ったとしても、国家はそれだけ楽になる。今年の政府予算九千九百六十億というのであるから、一割減っただけでも約一千億はプラスになるわけで、その割で税金も減ることになるから税金地獄からも救われるであろうし、その上二割となり、三割となるとしたら、金も物質もあり余って、人間は今までの半分以下の働きで充分であるから、先ず一日三時間働けば済むことになろう。そこで後の時間は夫々自己の趣味や勉強の時間に当てればいいので、ここに初めて人間としての生甲斐ある人生となり、文字通り鼓腹撃壌(コフクゲキジョウ)の世の中となる以上、至る所壮麗なる大建築が出来、華麗な劇場や凡ゆる娯楽機関の発達は固より、百花爛漫たるパラダイス、山水を取入れた大国立公園や植物園、特殊の私的庭園等々も続々出来るのは勿論、半公園式街路も方々に出来、交通機関の発達と相俟って、人間旅行の楽しみは今日の何倍となるであろうし、壮麗な美術の殿堂は、各国競って設けることになるから、文化の光は地上に漲るであろう。

そうして人間は健康と肉体美増進の為と、競争意識を満足させる為等でスポーツは益々旺んになり、大グランドは各地に設置されるであろう。以上の如き世界となるとしたら人間は今日の如く機械的に扱われることなく、自己意識のままに働くから寧ろ楽しみとさえなるのである。又食生活に於てもその進歩は素晴しく、豊富なる食料と調理の進歩と相俟って、一般人民の食生活は現在とは比較にならない程改善されるであろう。

先ずザットかいただけでこの位であるが、これを読む人は成程そうなったら結構には違いないが、それは単なる夢であって、実現の可能性はあるわけがないから、絵にかいた御馳走にすぎないというかも知れないが、私はその可能を断言するのである。それには前記の如く悪の絶滅が根本条件であるから問題はそれ次第である。ところがそれこそ今や正に来たらんとする最後の審判であって、これによって悪は全く追放されるのである。只そうなるまでには一大難関があるので、それを突破してこそ真の幸福者となるのである。その救いとして現われたのが我救世教であるから、本教こそ幸福の門を開く鍵である。』

 

『御教え「解脱」地上天国二十号(昭和二十六年一月二十五日)

よく昔から、解脱という事をきくが、此言葉は簡単に善し悪しを決める事は出来ない。世間普通の解釈による解脱とは迷いを去り、悟りをひらくとか、執着をとるとか、諦めをよくするとかいう意味であって、之は無論仏教から出たのであるが、然し何となく逃避的隠遁的響きがあり、之は東洋人特有の思想であろう。

処で、実際からいうと、余り悟りがひらけ過ぎると、活動力が鈍るのが通例である。勿論競争意欲などはなくなり、民族にしても、印度の如く衰亡する事になる。故に人間は迷う事によって生きる力が出るのである。と言って迷いすぎるのも之又危険がある。又諦める事も活動力が鈍るきらいがある、といって余り諦めないと男女関係などは悲劇を生む事にもなる。だからあんまり解脱して了うのも面白くない。遂には世の中が馬鹿々々しくなり、孤独的になったり、生ける屍となったりして了う。

以上の諸々を考えてみると、何でも行き過ぎがいけない。ツマリ程を知る事である。全く世の中は難しくもあり、面白くもあり、苦しくもあり、楽しくもあるというのが実相である。結局苦楽一如の文字通りが人間のあるがままの姿である。然し之だけの話では結論がつかないから、私は結論をつけてみよう。

曰く人間は諦めるべき時には諦め、諦めない方がいい事は諦めないようにする。迷う場合は無理に決めようとするからで、決断がつかない内は時期が来ないのだから、時期を待てばいいのである。要は時所位に応じ、事情によって最善の方法を見出す事である。然しそうするには叡智が要る。叡智とは正しい判断力を生む智慧であって、それは魂に曇りがない程よく出る。故に魂の曇りをなくする事が根本で、それが即ち誠である。誠とは信仰から生れるものであって、此理を知って実行が出来れば、大悟徹底した人というべきである。』

 

『御教え「妙智の鍵」光宝2号(昭和24年7月)

(問)医薬に浄霊して患者に服用させたらその効果はいかがなものございましょうか御教えを賜りたく御伺い申上げます。

(答)これは泥棒が警官の制服を着たようなもので問題外である。しかし御浄霊した医薬は服用すれば却ってその薬毒は強くなるであろう。

薬屋とか、医者等がこの信者になれば正業を廃止しなければならぬ事となり実に困った問題である。

 

『御教え「烏に就て」

(問)烏について。

(イ)その鳴声で吉凶が判るものでせうか。

(ロ)霊性が高いとの事ですが、声や形がそれ程美しくない事には意味があるのでせうか。

(ハ)その鳴声は多くの人は嫌ひますが「喜び鳴き」といふのは聞く人によっては良い声で      せうか。右御教示御願ひ申し上げます。

(答)

(イ)吉凶が判る。烏が啼いてると、烏を呼んでゐるから、烏が啼くと死ぬなどといふ。研究すれば判る。

(ロ)霊感ある鳥である。昔から天照大神のお使などといふ。太陽に関係がある。天狗界へ行くと烏天狗となる。鳥の天狗の中、一番の神様の事がある。霊性の高い事は事実である。

(ハ)大抵は嫌ふ。死ぬ日の朝などよく啼く。人の死骸を食ふ。予知して仲間を呼ぶものとみえる。喜び事に啼く時は滅多にない。芸妓など美人でも悪い事をする。必ずしも美と霊格などは一致せぬ。』

「烏啼きと吉凶 」

(問)烏啼きは、吉凶に関係があると申されて居りますが、如何なる意味を持って居るもので御座居ませうか。

(答)ある。烏は死骸を突ついて喰べるのが好きで、死の前には死骸の匂ひがするので、それが烏に判る。そして突つけると思って友を呼ぶので、啼き方によって言葉が通ずる。吉には関係はない。外の鳥、鶯などは吉である。

 

『御教え「御光話」(昭和24年3月13日)

(問)烏について

(一)その鳴き声で吉凶が判ると申しますが事実でしょうか。

(二)烏は霊性が高いと申しますが、その声や形がそれほど美しくないのはなぜでしょうか。

(答)

(一)これは判るんですよ。よく判る人があってね、そういう人は「いま烏が仲間を呼んでる」とかなんとか言いますがよく当たりますね。まあなんの鳥でもそういうことはありますが、特に烏はそういう点がありますね。烏が鳴くと死人があるというのも本当ですね。

(二)烏は霊性が高いんです、霊感が非常にある鳥でね、昔から天照皇大神のお使いだなどと言いますが、烏は太陽に関係があるんです。烏は霊界に行くと烏天狗になり、鳥の中でも一番高くて神様のことをすべてやるんです。私の副守護神は烏ですよ。

(問)烏の鳴き声は多くの人が嫌いますが……

(答)ええ、たいていの人は嫌いますね。烏は人間の死骸を食べますしね、また人間が死ぬときに鳴いて知らせたりしますからね。

(問)霊性が高いのに多くの人から嫌われるのはなぜでしょうか。

(答)人間が嫌うんでしょ。……人間なんかなんにも判りはしませんからね。例えば芸者を見てご覧なさい。なかなかあでやかで美しくていいじゃないですか、見たところはね。しかし、実際は多くの家庭騒動なんかこれが元ですからね。(笑声)むしろ人間のいいと思うものは悪くて、反対の場合が多いですよ。』

<来月の御教え>

「『文明の創造』宗教篇 唯物医学と宗教医学」(文創  昭和二十七年)