メシヤ講座no.110日月地(平成22年3月その1)

楳木先生への質疑応答16〜伊都能売思想

 

楳木先生   そのクロスの映像は、肉眼では円いものが電子の世界でクロスになって映った訳ですね。デジタルの中でクロスとなっている。と言う事は、このブログを、デジタルの中で、インターネットの世界で発信して行く事によって、クロスが成立して行く、御神業が進んで行く、そういったお知らせの様なものだと考えても良いのではないでしょうか。そうすると、このブログ「日月地」の意義というものがより明確になって来ます。

 

質問者   あれを見た時に、今回の質疑応答のテーマが決まり、このように、「伊都能売の身魂」の御教えから御話を進めさせて頂いております。

 

楳木先生   この話は入り口みたいなものですね。ここで先程(前回)迄の話をまとめると、伊都能売思想にしても、祭典の意義についても、今迄の既成概念というものは、思い込まさせれている部分が多いという事です。メシヤ様の言葉は大変練られたものであるのですが、それが、例えば教団の先生から「参拝に行かなければ駄目だ」と言われる事はあっても、「何故参拝に行かなければならないのか」という事について、細かく、今の様な話をされる事はありません。

 

質問者   「何故」という問いに対して、「決め事だから」「昔からそういう事になっているから」では、何事も形骸化して行ってしまいます。決め事だからという事で御参拝に来ても、そこで祝詞を奏上し、御玉串を包んでも、その事と実生活が分かれてしまっては、月次祭と生活が切り離されてしまって、生活が天国になって行かないと思います。

 

楳木先生   生活が天国になって行く為に、神様の御力を頂けるのが月次祭なのです。と言う事は、生活そのものの祭典という事なのです。そういう所に、月次祭の意義というものが定着して行かないと、何年やっても同じ事です。そして、人間としての教育が外で行なわれている事になってしまいます。

 

質問者   意義をしっかりと認識しておかないと、祭典には、人が集まるだけという事になってしまいます。

 

楳木先生   そして、人間の付き合い方にしても、人をリードして行くやり方にしても、組織の教育だけで培われる事になってしまうのです。それを信仰の中に活かすという事になると、本末転倒です。信仰をやっているから、そういう事がうまく出来るのだという事にならなければなりません。それがメシヤ様の教えなのだから。

 

質問者   そういう事が逆転現象している事が、信仰が生活に根付かない事、勘違い、取り違いによって間違った方向に行ってしまう事の原因だと思います。例えば、先月このブログでも掲載した御教えで、メシヤ様が「信徒諸士に告ぐ!」という御教えを書かれていらっしゃいますけど、ここに書かれている内容に、「とすれば右の一文に対し一見矛盾を感ずる人もあろうがそうではない」とある様に、二つの相反する事実の間に一つの真実が存在する事はまさに真理だと思います。説明が難しく感じるのですが、この事がわかれば、様々な問題は全て解決に向って行くと考えています。御浄霊にしても、「時所位」は必要だと思います。

 

楳木先生   御浄霊に関して言えば、教団浄化前の世界救世(きゅうせい)教の中で、「明主様(メシヤ様)御在世中より浄霊力が弱まって来ているのではないか」という事は囁かれていました。そんな時に、当時、私が所長をやっていた布教所の近くに、健康協会(新健康協会)の信者さんで、くも膜下出血で倒れた人がいるので、御浄霊をして頂けないでしょうかという話がありました。

 

くも膜下出血であれば、医者に診せないで御浄霊だけで治そうとすると問題になるので、「ご主人はどうおっしゃっているのですか」と聞くと、ご主人は未信者さんとの事でした。「それでは、ご主人とお会いして、その方がそれで良いと言うのであれば、こちらも全力で

御浄霊しましょう」という事でご主人にお会いして、お考えを確認した所、「家内が浄霊だけで治したいというのであれば、その願いを聞いてやりたいと思う」との事だったので、「わかりました。それでは、結果は、神様にお任せするという事で、私も精一杯取り組ませて頂きます。それで宜しいですね」と確認して、それで良いという事なので、御浄霊をさせて頂く事になりました。

 

その時、健康協会と打ち合わせをしたのですけれども、健康協会として積み上げて来た内容として急所の話がありました。「それではこちらも試してみましょう」と言う事で御浄霊をして、その方は、手術等の治療を一切受ける事なく、くも膜下出血から復帰された、という御守護を頂きました。

 

質問者   当時、健康協会の方に、浄霊の急所を教えて頂いたという事なのですね。

 

楳木先生   そうです。この事によって、私は、当時、世界救世(きゅうせい)教で、浄霊力が弱まっていると囁かれていた事のそもそもの原因は、浄霊の仕方にあるという事に気づきました。

 

それで、教団の方針とは別個のあり方を目指して、ずっと専従生活をしていました。そこで、起きてきたのが教団浄化です。だから、この教団浄化は、六億円疑惑がそもそもの問題なのではなく、メシヤ様の本来のお働きを頂ける浄霊の仕方を始め、メシヤ様の御教えに対する考え方が間違っているから起きた浄化であると考えました。その中で、教団を改革しようという組織が教団護持委員会だから、そこを支持するという事が私の中でつながって行って、教団護持委員会を支持する事になった訳です。

 

質問者   今、あらためて御伺いしていても、一旦さら地にして、再び、本来の在り方に教団を建て直して行く為の浄化であった筈だと思います。

 

楳木先生   しかし、その教団改革を担う組織自体も、年月を経るうちにもとの教団同様になってしまっているので、私も外でやっているというのが現状です。そういうことなので、このようなつながりを考えて行くと、御浄霊にしても何にしても、主神様とのつながりの中での認識がないと、それが世間を騒がす問題を起こしてしまうとうい事があります。どこまでも、対立軸で物事を考えてしまうと、いろいろな事件を起こしてしまう。

 

質問者   教団浄化にしても、御浄霊による問題にしても、事件が起きると、関係者の皆様は「御神業を邪魔する力が働いている」と考えてしまいがちなのですけれど、そういうものではないですね。

 

楳木先生   「あれは邪神界がやっている。背後に浄霊が広まる事をつぶそうとする働きがあるからだ」という考え方を持たれている方も大勢いらっしゃると思います。その部分を否定は出来ないにせよ、メシヤ様から智慧を頂いている我々が、こういった機会に見つめ直さなければならない事が多々あるという姿勢を持っておかなければなりません。

 

質問者   物事がうまくいかない時は、本来の御教えにかなっていないからだという様に考えていかないと、そこで、物事を見つめ直す姿勢を持たないと、何でも「邪神」で片付けてしまうと、自分の生活の上においても、せっかく浄化を頂いても、事の本質を取り違えてしまう事になりかねないと思うのです。

 

楳木先生   だから、我々は、主神様という御存在を常に認識するので、今迄の宗教のように「正神」対「邪神」の闘いという構造にはなりません。主神様を信仰する者は、全てを包含する訳だから、その全てを包含する中で、自分は如何に尊い生き方をするのかという姿勢を持たなければいけません。伊都能売という事を考えても、同じ事で、縦と横の中心部分に自分が立つ事、結びつける役割という事に気づいて行けば、中心とは一体何かと言うと、絶対的な高さがないと中心にはなって行けません。自分の人生も、伊都能売思想というものを確立するという事であれば、全てを包含する中で、最も尊い生き方をして行くという事が大切なのです。

 

[メシヤ教鎌倉支部にて 2010(平成22)年2月15日]