メシヤ講座no.109日月地(平成22年2月その2)

楳木先生への質疑応答15〜祭典の意義

 

質問者   善言讃詞は、世の中が、人間が、自分が、どうあるべきかをお示し下さっている、その為に、毎日、奏上している訳ですね。

 

楳木先生   そういう事です。そして、時には、祝詞を、善言讃詞を、分析してみるという事も大事だと思うのです。

 

質問者   いつの間にか「音」として入ってしまっているから、習慣で奏上してしまっていますけれど、その内容を吟味する必要があるという事でしょうか。

 

楳木先生   「敬しく惟るに 世尊観世音菩薩此土に天降らせ給ひ 光明如來と現じ 應身彌勒と化し 救世主(メシヤ)とならせ」とありますね。これはメシヤ様の御神格が変わって来た(御出世)という事が一つにはあるのですけど、皆、ほとんどそれだけで終わっていると思うのです。

 

メシヤ様が「救世主(メシヤ)とならせ」と付け加えられた、その時に救世主(メシヤ)となられた、このように解釈されています。それでは、我々はどうするかという事です。仏滅が来て、皆神様に戻って行くという事を口では唱えているけれども、それでは、自分自身は仏滅を迎えているのかという事です。

 

質問者   「善言讃詞」を祭事の時だけ唱えるものと考えている以上、「善言讃詞」と「自分」との間の境目がなくならない限り、自分は仏滅を迎えていないという事になりますね。

 

楳木先生   「善言讃詞」を祭事の時だけ唱えるものという概念があると、自分は昼を迎えようとしている筈なのに、思考形態が夜の時代のままだと、メシヤ様と御縁を頂いた「救世主(メシヤ)とならせ」という所まで行っていないのです。伊都能売という事は、縦と横が結ばれるという事です。メシヤ様は、その、結ばれるとどうなるかという事をおっしゃっています。我々は、最後の審判の時に立て分けがあるという話から、どうしても、悪を切り捨てる、裁かれるという概念を持ってしまいます。

 

質問者    所謂「恐怖感」ですね。「○○をしてはいけない」「○○でなければならない」という義務感が行動規範となってしまって、その恐怖感、義務感がそもそも偏っているので、伊都能売思想から程遠いものになって行きます。

 

楳木先生   それは初心者の時はそれで良いのです。回心も恐怖から生じることもありますし、神学により義務というものが生れ社会が整ってゆきますからね。

 

伊都能売思想で言うと、最後にどうなるかというと、縦と横が結ばれるという事は、両者が中心に近づいて来るという事です。善と悪も近づいて来る。それがどのように近づいて来るのかと言うと、「善言讃詞」の中に、「大千三千世界の三毒を滅し五濁を浄め 百千萬億一切衆生の大念願 光明常樂永劫の 十方世界を成らしめて」とあり、その後ろの方に、「天魔羅刹も服ひて 諸悪邪法は改り 夜叉龍神も解脱為し 諸善佛神咸く其志を遂ぐるなり」と書かれている訳ですから、例えば、悪法というようなものは全て改革されて行かなければなりません。

 

「諸悪邪法は改り」という事は、国会議員については、法律の作り方について、将来的にはアドバイスをして行かなければならないという事です。それから、「天魔羅刹も服ひて」という事ですから、天魔も羅刹も服わないといけない。これは、悪を切り捨てるという事ではなくて、服わせるという事です。服わせる為に、この「服う」という言葉が転じて「祭り」になっているのです。「お祭り」の語源は「服う」です。

 

質問者    天魔も羅刹も服って来なければならないという事に、悪を切り捨てるという考えは全くありませんね。悪も従ってくるという事でしょうか。また、従うからには、改心する、気づくという事でしょうか。

 

楳木先生   これは、どのように解釈してゆくかと言うと、火素が増量して来ると、火素によって、曇りが解消される為に浄化が起きて来ます。これが大きくなって大浄化となり、その大浄化によって、天魔、羅刹が気づいて行くという事です。このままの行り方では太刀打ち出来なくなるから、神様に服って行かなければならないという様に、改心して行くのです。

 

そうすると、話は元に戻りますが、「服う」は「お祭り」の語源ですから、例えば、この月次祭に、諸事情を乗り越えて参拝する事によって、「天魔羅刹も服ひて 諸悪邪法は改り 夜叉龍神も解脱為し」という事になって行くのです。この月次祭に皆が集まって来る事によって、そのような事が成り立って行くという様につながって行かないと、「月次祭にご案内すれば良い」というだけの信仰生活になってしまいます。

 

質問者    そういう、「祭り」の中に、「服う」事も全てつながっているという事を考えますと、天魔、羅刹も、夜叉、龍神も、やはり、自分の中にもあるという考え方も必要と感じます。そうすると、日々祝詞を唱えさせて頂く事によって、自分自身が変わって行きますし、一人一人がそのように変化して行く事は、地上天国が日々近づいて来るという事でもあります。

 

楳木先生    そうですね。そういったものが自分の中にあるという事で考えて行けば、天魔、羅刹の部分もある、夜叉、龍神の部分もある、そういうものが、神様が決められた日に、ここへ欠かさず来る事によって、神様の下に服って行くという事につながって行くのです。

 

質問者    そのように、「祭典の意義」というものを絶えず自分の中で組み替えて行くという作業をして行かないと、どうしても祭典が型式だけのものになってしまって、祝詞を唱えてお終いという事になってしまいます。

 

楳木先生    そうなると、「言葉」だけを追いかけて行くだけの信仰生活になってしまいますね。それでは、生活に根付いて行く、菅谷さんの体験報告にあるような地に足がつくという事にはなりません。また菅谷さんの話になりますが、あれだけ熱心な信仰生活を神慈秀明会の時に送っていても、何故地に足がついた生活にならなかったかと言うと、御教えが生活に根付いて、どのように生活を送って行くかという組み立てが出来ていない為に、地に足がつかない信仰生活になってしまっていたという事です。

 

質問者    当時の話を御伺いしていると、信仰が生活に根付くだけの余裕がなかった様に感じられます。日常の時間の大部分が組織の為に費やされていて、自分の生活を充実したものにさせるだけの余裕を与えられていなかったとでも言ったら良いのでしょうか。

 

楳木先生    指導がなかったという事が一つと、そのような事を考える時間、暇を与えると、活動しなくなるから、「御神業」という名の下に、暇を与えず、駆り立ててやっていたというのが今迄の信仰のやり方だったという事です。

 

質問者    これは、教団に限らず、組織に滅私奉公するという事は、偏り過ぎると自分自身の生活が地に足のつかないものになっているという事で、結局、地に足のつかない生活を送っている人間の集団がその組織になる訳ですから、組織そのものも偏ったものになって行くという事です。

 

映像というものはとても印象に残るもので、初めにお伝えした、満月の写真を撮影した時に映った縦と横のクロスの映像を、日常生活の中で絶えず意識する様に心がけています。そうすると、些細な事で人と仲違いする事もなくなりますし、意見が合わないという事は、縦横のバランスが偏っているという事だから、そこを調整する様にすれば、何事も円満に、解決して行きます。

 

[メシヤ教鎌倉支部にて 2010(平成22)年2月15日]