メシヤ講座no.109日月地(平成22年2月その1)

楳木先生への質疑応答14〜地に足がついた生活

 

質問者   先月の三十日は、一年で最も大きな満月という事で、私も、部屋の窓から大きな円い月を眺める事が出来ました。そこで、写真を撮影したところ、円い形ではなく、縦と横の光がクロスしたものが映りまして、それを見てすぐに思い浮かべたのが伊都能売でした。今後自分が取り組んでいかなければならない事、日常生活で常に心がけておかなければいけない課題を、示して下さっているように感じました。

 

そして、御教え「伊都能売の御魂」を改めて拝読させて頂き、日々の些細な出来事に対応する時も、常に縦と横が交錯した映像を思い浮かべながら取り組むようにしていますと、「伊都能売の御魂」だけではなく、今まで拝読させて頂いていたあらゆる御教えとつながって

行く事を身を以て経験させて頂けます。「常識」「怒る勿れ」「裁く勿れ」「調和の理論」「大乗と小乗」といった御教えは、全て伊都能売である必要を、わかりやすい事例、言葉で説かれたものである事が理解出来ます。何事も偏らない事、「時所位に応じて何物にも

拘泥する事なく、千変万化身を処すべきである」事の大切さ、メシヤ様は、こういった事を、幾度も幾度も説かれていらっしゃいます。

 

にも関わらず、「伊都能売」を極端な言い方で説いた途端に「伊都能売」ではなくなってしまうという、非常に繊細な部分を持ち合わせているのが御教えであり、だから、少しの取り違いにより、世間一般では、「宗教」そのものが偏ったものである様に誤解され、「カルト」も「宗教」も同じ意味に捉えられてしまっているという現状があります。そこで、本日は、楳木先生が布教される時、どのような事に注意されて伊都能売思想を説かれていらっしゃるかという事を、御伺いしたいのですが。

 

楳木先生   これは、中々、説明するのに難しい部分があるのですけれど、先程の御教えから、「大乗と小乗」をどのように考えていくのかという事を見ていくと、例えば、人間が悟りを開いて行く時に、二つの方法があると言われています。一つは、仙人のような生活を目指して悟りを開く方法です。これは、人との関わりもなくし、山にこもり、ひたすら自然と対話することに徹して悟りを開いて行く方法ですね。

 

それからもう一つは、大衆の中にどっぷりとつかって、人々を救う事を通して、悟りを開いて行くという方法です。大まかには、この、「山陰にこもる」方法と「世俗の中にどっぷりつかって行く」方法の二つがあります。

 

メシヤ様が説かれている「悟りを開いて行く世界」というものは、大衆の中にどっぷりつかって行く、そして、大衆を救いながら、悟りを開いて行くという事です。これは、「悟りを開く」という言葉を使うから難しくなるのですけどね。人々の中にどっぷりつかっていて、そして、悟りとは、一体何なのですかという話になって来ます。しかし、我々は、この世の中に生まれて来て、人生を歩んでいる訳ですから、「宗教」という中に身を置く人は、人生をどのように見て行くかという事を、より深く考えておかなければならないのです。

 

人のお世話をして行くという事は、不思議なものに導かれて、御縁が生まれて、そして、お世話をする事によって、逆に自分の学びとなったりします。ここに、人生の不思議とうものが一つにはあります。出会いや御縁があって、お世話したり、手助けしたりする事によって、救われて行くのですけれど、その人が、どういう事に取り組んで救われて行くのかという事を見る事によって、自分も学ぶ事が出来る。人生の不思議さというものを、信仰を持っているが故に、より深く学ぶ事が出来るのです。

 

次は、いろいろな境遇の中にある人、あるいは、問題にぶつかっている人、病気になっている人達が、メシヤ様と御縁を頂く事によって、運命が好転して行きます。そして、メシヤ様が示される御教えは、初心者用の御教えから、少し信仰の奥座敷へ入って行く御教えがあって、最終的に奥座敷へ行くと、天国天人になって行く訳です。自分自身も天国天人に向って行くと同時に、人のお世話をさせて頂く事によって、問題が解決する、病気が治る、そして段々と幸せになって行く、という事を見て行くと、人生というものは非常に素晴らしいものだという事、尊いものだという事を、人様を通して見る事が出来るし、自分も、メシヤ様との御縁を頂いた御蔭で本当に充実した人生になって行く。菅谷さんが御降臨祭で報告した「地に足がついたような」生活は、そういう動きだと思います。

 

質問者   そうですね。人のお世話をして、家族も幸せになって行き、自分の生活そのものが豊かになって行くという事、これが本来の姿であると思います。自分が苦しんでいるのに人を導く事は出来ません。

 

楳木先生   御教えの中に、人を上からひっぱるのは簡単だけれど、下から押し上げるのは骨が折れると書いてありますから。

 

質問者   まずは自分が天国人にならなければならないという事ですね。

 

楳木先生   そういう事です。人のお世話をするという事と同時に、自分が向上しつつお世話をして行かないと、そういう部分は見えて来ません。

 

質問者   人のお世話をするという事においても、伊都能売思想が大切だと思います。相手の立場に立った上で、その人が理解しやすい様に、偏らず、常に真ん中の立場で真理を説明しなければなりません。「時所位」「千変万化」を絶えず心がけるべきだと感じております。

 

楳木先生   善言讃詞の中にも、「應身彌勒と化し」とあります。これ自体が、偏らないという事です。應身だから、どんな事にも対応するという事です。我々は、善言讃詞では唱えるけれども、日常生活の中に課題としてそれを持っているかというと、必ずしもそうではない事が多々ある訳です。

 

質問者   やはり、我々人間に長年にわたり染み付いた癖の中に、どうしても物事を対立軸で考えてしまうという一つの型があり、そうすると、應身ではなくなってしまいます。

 

楳木先生   今年から、参拝方式が変わっているという意味は、そういうところなのです。尊い祝詞を奏上しているのに、その祝詞が、生活の中に溶け込んでいない。

 

質問者   確かに、「祝詞」は「祝詞」、「生活」は「生活」と、そこに境目を付けてしまいがちです。

 

楳木先生   そうです。参拝の時の形式として「祝詞」を奏上するだけなのです。そして、夕拝の時には「善言讃詞」を奏上する。その「善言讃詞」が「参拝の時だけ」のものになってしまっています。

 

質問者   「應身彌勒と化し」と唱えても、自分が「應身彌勒と化し」ていないという事ですね。「神様には唱え」ても、自分や生活は別になってしまう傾向がどうしてもありますから。

 

楳木先生   その「神様に唱える」という事自体が、今迄の既成概念です。「善言讃詞」は神様がおつくりになったものであって、それを、奏上する事が、神様に唱えているというように勘違いをしている。実は、神様の為にではなく、自分の為に善言讃詞を奏上している訳ですから。

 

質問者   善言讃詞は、神様が「あるべき姿」を示して下さっているもので、それが自分の身に入るように唱えさせて頂いているのですね。

 

楳木先生   このようになれば天国になって行くという、天国の実相を神様が祝詞としてつくって下さっていて、それを私達は唱えているのです。今迄の信仰は、どうしても、神様へのご挨拶みたいな捉え方となってしまっています。

 

質問者   そこが、また非社会的に思われてしまう原因でもありますね。生活とは別の次元で只(ただ)祈るだけ、挨拶するだけで、その行為が実生活に結びついていない訳ですから。

 

楳木先生   そうですね。その祝詞を奏上する自分はどうあるべきかという事が重要な訳です。

 

[メシヤ教鎌倉支部にて 2010(平成22)年2月15日]