メシヤ講座no.108日月地(平成22年1月その4)

楳木先生への質疑応答13〜一厘の力

 

質問者  「文明の創造」の仕上げについて。メシヤ様の御論文を体系化してゆく作業についてのご質問です。メシヤ様はありとあらゆる御論文をお書きになられ、「まとめるのは君達だ」と仰って下さっておりまして、これは、御論文は勿論、現代社会において、あらゆる情報、芸術、文化において、勿論新しい革命も起きるのでしょうが、大方出そろっており、それをまとめて発信する作業、情報が多過ぎて、何が真実なのかわからなくなっている時代であるからこそ、「真実を出して行く」作業が今後全ての業界で必要になってくると感じております。

 

研鑽資料のまとめ方、具体的な今後の計画について、お聞かせ願えますでしょうか。

 

楳木先生  その「まとめ方」という事が課題としてあります。御教えというものは、まず、自然の法則とか、真理、あるいは神律、そういう様なものとして存在する部分と、神律に基づいて、メシヤ様が世の中を批判されている部分があります。

 

そして、メシヤ様御自身が、肉体をお持ちの部分として人として心がけている事、日々実践していらっしゃった内容があります。そういうものを、「自分達の中に取り入れる」という作業が、非常に、不足している訳です。それは何故かと言うと、「浄霊」の力があまりにも強いから、宗教団体として、その奇蹟だけが前面に出過ぎてしまうのです。

 

質問者   先程、神慈秀明会の方々と話していた時に、「でも、御浄霊の奇蹟があるから、組織を信じるしかない」という話が出ました。

 

楳木先生   そうすると、「奇蹟」とは何か、という考え方がないといけない訳です。「奇蹟」を頂いたという事は、メシヤ様の考え方からすると、「奇蹟」があるという事は、その「奇蹟」を出す神様が最高の御神格を持たれているという事、その最高の御神格から頂いた教えが「御教え」であるという事です。その様に、循環させて物事を考えて行かないと、「浄霊」は「浄霊」、「御教え」は「御教え」、「生活」は「生活」、「御神業」は「御神業」という風に、つながりのない形になってしまうので、「浄霊」の奇蹟が鮮やかであればある程、「御教え」というものは、その奇蹟を現す根本の神様が垂れた御教えだという認識がなければなりません。

 

そして、その「御教え」に基づいて、世の中を批判出来る「素養」というものを自分達は身につけなければいけないのです。それを身につける時に大事な事は、「霊力」を身につける時と一緒で、「学習」と「体験」が必要になって来ます。メシヤ様の御在世の時から50年以上を経て、科学的なものは飛躍的に進歩しています。それから、生命誌をはじめとした、宇宙の成り立ち、地球での生命の進化の過程、こういった事が明らかになって来ています。また、小さい世界を見つめるものについても、nanoテクノロジーまで行っている訳ですから、霊科学の世界迄見る事の出来る寸前迄来ています。このような時代になっているので、そういった認識を基にして御教えを再び拝読させて頂き、その時代を見るという事が、次の段階では大事です。

 

そして、「学習」と「体験」に併せて「人格」というものがあります。そこで、今度は、メシヤ様御自身が、あの時代に、人として大変努力をされているし、心がけもなされています。いつもお話するのは、原稿の口述筆記をされた時に、後片付けは、奉仕者にはさせませんでした。深夜2時に終わった時に、ご自分で、冬であった場合は火鉢の炭に灰をかけて、きちんと火の始末をして、それから御休みになられた。そこに、奉仕者に「後は頼むぞ」という姿勢はなかった。そのように、人間として、努力をされていらっしゃる、あるいは、

心がけていらっしゃる、心がけなくても身についていらっしゃる生活態度、これこそが、私達が学ばなければならない内容なのです。

 

質問者   人として、当たり前の事をやっていくという基本の部分ですね。

 

楳木先生   そうです。そして、その当たり前の事の中にも、高低の差がある訳だから、更に高まって行くという事。人に心を寄せたり、心配したりするという事は、もっと深く、我々は更なる深みを身につけるべきだという事です。高く、低く、「鳥の目」と「虫の目」を同時に持っておかなければいけないという事は、我々が、御神業を進めて行く時、取り組もうとする時に、必要な事です。

 

質問者   「鳥の目」だけで、高い所だけを話しても全然伝わりませんし、「虫の目」で話すと言っても、高い所から、俯瞰的に見ておかないと全体像が捉えられません。御教えにしても、何年も何年も繰り返し拝読していて、頭でわかったつもりになっていてた事が、日常生活のふとしたきっかけ、体験によって、ようやく今頃になってすとんと腹に落ちる瞬間もあります。

 

豊橋市の松井さんの体験報告に「今後の課題は自分に染み付いた悪い癖を改善していくこと」とシンプルに語られている事が、実は、最も困難で、日々の実践の積み重ねの中で、或る日何かが一つわかるといった事だとも思います。だからこそ、学習を続ける事が大切だと

最近とみに感じております。

 

楳木先生   そうすると、増々、「九分九厘と一厘」の、「一厘」というものをわかっておかなければなりません。例えば、「一厘の力」というと、「メシヤ様の力」ではないかとか、人によっては「大メシヤ」だとか、あるいは「大弥勒」だとか、このような表現を使ってイメージを膨らませる様な人も多い。

 

しかし、これは御教えをそのまま読めばいい訳で、要するに、「主神様の」と書かれている。だから、先程の話と共通するのだけれども、「主神様」から出る力だから、浄霊力が最高であるという事。これを神科学ともおっしゃる。そういう力を出す事が出来るから、そこから頂く教えは、「真理」なのだという捉え方をして、この「真理」を以て行く事が、実は「一厘の力」なのだという捉え方をしないといけません。

 

「大メシヤ様が出て来るんだ」とか、「いや大弥勒だ」とか、あるいは「国常立尊」だとか、そういう世界ではないという事です。主神様からメシヤ様を通して出られた御教えを、我々は如何に実践して、普遍化して行くかという事が、実は「一厘の働き」なのだという姿勢を持っておかないと、いつまで経っても人を当てにしてしまう。「自分ではない」という事になって行ってしまう。この点を、取り違えない様にして頂きたいと思います。

 

質問者   わかりました。本日は、皆様の体験報告等の、生活面に即した質問から始めたからこそ、先程の話から言うと「虫の目」で見た話からお伺いしたからこそ、それを「鳥の目」から見たらどういう事なのかという事が理解出来ました。いきなり「鳥の目」から始めると、取り違いが生じる可能性がある事もよくわかります。真実は一つなのですけど、それを取り違える事によって、沢山の事実が生まれてしまうという事も、ここ数年感じて来た事です。一つの真実も、10人が見れば10通りの解釈が生まれますし。その、10通り解釈が出来れど、一つの真理という共通認識を作って行く事が、日々のコミュニケーションにおいて重要だと考えています。

 

楳木先生   10人いれば十人十色の捉え方があって良い訳だけど、それを包含する、大きく取りまとめて行くという事が「思想」なので、この取りまとめるという事がどうかという事、そういう姿勢を我々は持っておかないと、科学というものを考える時でも、御教えにある「火水土」や「日月地」を科学とは別の世界で見てしまうと、これはまた、勘違いが起きて来ます。ですから、地球自体が出来た時の45億年前から現在迄、地球自体が刻々と動いているのを見つめて行った時に、火水土の働きの中で、いろいろなものが生成化育されて来た、それを実証しているのが、所謂「科学」であるという様に見て行くと、殊更「火水土」にこだわって説明する必要もないという事。

 

主神様を信仰している我々としては、あらゆるものを包含し、ゆるやかに束ねて行く気持の方が重要です。そうすれば、様々な学問で明らかにされて来た研究内容が、全て主神様の御経綸が現われた形なのだという捉え方が出来る。今の我々としては、とりわけ若い人達には、そのような、大きな捉え方が大事なのです。

 

[メシヤ教鎌倉支部にて 2010(平成22)年1月11日]