メシヤ講座no.105日月地(平成21年10月)

楳木先生への質疑応答9〜勘違いと取り違い

 

質問者   民主党鳩山内閣が誕生して約一ヶ月が経ちました。マニフェストでは、全労働者に適用される最低賃金の引き上げ(800円〜将来1000円)や、ミスター年金の長妻議員が、厚生省天下り法人への支出停止の大臣命令を出す等、国民が望んだ結果である、長かった自民党時代からの様々な変化が感じられます。こういった事を、御教えを視点にすると、どういう解釈になるのでしょうか。

 

楳木先生   御教えを拝読させて頂いていると、将来、天国が近づくと、労働時間が非常に短くなって行く、そして、健富和の世界だから、皆、豊かになっていかないといけない、そういう意味では、最低時給が上がるという事は、理想世界に一歩近づいて行くとい事、本来は、そのように捉えていかなければなりません。しかし、小泉元首相の時代に、アメリカ型の経済手法が多く入って来て、一部の大企業は、立て直して良くなったのだけれども、庶民の生活は、逆に逼迫してしまった。

 

質問者   派遣会社が増え、ニートも増えましたね。

 

楳木先生   経済が上向いたとは言えど、庶民生活は非常に厳しいものになっているという事、この点においては、理想世界から遠ざかった訳なので、もう一度、修正しなおさなければならないという点において、民主党がしっかりやって頂ければ、国民の皆さんの為には、大変ありがたい事だと思います。

 

質問者   生活苦が原因で自殺をする方が、年々増えているという事実があります。そういった世相が急に変わるとは思えないのですけど、一歩づつ先に進んでいる、先が見えて来ているという事なのでしょうか。

 

楳木先生   メシヤ様の御神業においても、我々がずっと御神業を見つめさせて頂く時に、どうしても、勘違いをしたり、取り違いをしたりしながら、御神業に臨んで行く点が過去あったという事を見つめておく必要があります。我々は、理想世界を実現する為に、御神業を進めている訳なので、しかも、メシヤ様は、地獄にいる人を下から押し上げるよりも、上からひっぱってあげた方が良いと、その方がずっと楽なのだとおっしゃっています。

 

質問者i   その為には、人を救う為には、まず自分達が幸せにならなければならない、天国に行かなければいけないという事ですね。

 

楳木先生   そういう事です。自分達が、真善美完き、あるいは、健富和完き生活になっておかないと、人を救う事、ひっぱりあげるという事は出来ない訳です。

 

質問者   しかし、現実には、メシヤ様を教祖と仰ぐ教団の方々でも、貧苦にあえいでいたり、絶えず争っていたりするという事実があまりにも多いのですが。

 

楳木先生   そうですね。皆がお金の苦労をせず、豊かになる為に、メシヤ様は、大黒様をお祭りすることを勧めていたにも関わらず、メシヤ様を教祖と仰ぐ教団の多くで、大黒様のお祭りが成されていません。と言う事は、信者さん方の豊かさを、教団自体は願っていないのかという事につながって行きます。

 

質問者   実際に、理想世界実現の為にご奉仕する側は、お金を求める事、豊かさを望む事が、いけない事のように感じられる集団になって行く傾向があります。豊かになったり、贅沢な暮らしをする事が悪い事だとは、御教えでは一言もおっしゃっていないのですが。

 

楳木先生   そうです。ただ、メシヤ様は、ものを粗末にしてはいけないという事はおっしゃっています。鼻紙を何度も使われたという話もあって、鼻をかんだ紙を畳の上で渇かしている時に、子供が走って来て、その紙を踏んで滑って転んだと言う話が残っているぐらいで、とにかく物を粗末にする事はなさらなかった。

 

また、お召しになっていたお着物は、最高級の服地で、最上の仕立てをしていましたが、数は数枚しかなくて、それを取っ替え引っ替えお召しになられていたのです。しかも、袖口がほつれたり、擦切れたりしても、何度も何度も補正して、お召しになられていたという話ですから、そこの所の物の考え方を、我々も、しっかり自分の生活の中に取り入れておかないと、勘違いが生じてくるのではないかと思います。

 

質問者   例えば、野菜等の食べ物を、残す所無く、捨てる所なく、有り難く頂くという事もそのお考えに通じるものですね。決して、ストイックになれとおっしゃっているのではなくて、贅沢をしてはいけないとおっしゃっているのではなくて、物を大切にする事を説かれていらっしゃった。

 

楳木先生   要するに、修行僧の様な生活をする事を望んでいる訳ではないのです。何故ならば、メシヤ様は、出家信仰は望んでいない、どこまでも在家信仰だから。まず、我が家を天国にして行く、そして、我が家の周りを天国にして行く、そういう所から広がって、この世の中を天国に変えて行く事が願いであるという事ですね。それから、もう一つは、側近奉仕者の方々の、様々な逸話を聞かせて頂くと、メシヤ様というお方は、当り前ではありますが、非常に大きい、幅の広い物の考え方をされていらっしゃったという事がわかります。

 

質問者   当時の印象的な逸話などを、具体的に御伺いしたいものです。

 

楳木先生   私が若い時に懇意にして頂いた方で、メシヤ様に仕えた事のある、自動車部の、専従者の方がいらしたのだけれど。自動車部という部門は、メシヤ様から何時いかなる時にお声が掛かっても、すぐにお車が出せる様にきちんとスタンバイをしておかなければならない、それが少しでも遅れると、非常にお叱りを頂いたという厳しい面もあるのだけれども、「今日は○○時でお終い」と言われたら、ご奉仕が終った後は、何をしても良かったという事を、その方は話していらっしゃいました。

 

質問者   何をしてもというのは、やはり限度という物があると思うのですけど、例えばどのような事でしょう。

 

楳木先生   夜、寮に帰って、酒を飲んでどんちゃん騒ぎをして、時には、熱海の街に繰り出して、良からぬ所に出入りしても、メシヤ様は一切お咎めにならなかったそうです。そういう所が、他の奉仕者の目にとまって、それをメシヤ様に言上して、「あの自動車部の連中は、ご奉仕が終ると、大変いかがわしい場所に出入りしています。ご注意頂けないでしょうか」と話した所、メシヤ様は、「それで、その事でお前に迷惑がかかったのか」とおっしゃって、「いや、そんな事はございませんが」と答えると、「ならいいではないか。彼らは、私の言う事を全部守って、私の御神業を支えてくれている。ご奉仕が終った後は、何をやっても自由だ。勿論、法律にひっかかる様な事をしてもらっては困るが、それ以外はどこで酒を飲もうが遊びに行こうが自由だ」とおっしゃったそうです。それぐらい、人間として自由を与えられているという事が感謝となり、その事が励みとなって、自動車部は、更に一生懸命御神業に励ませて頂く事が出来たという事を、何度も何度もその方はお話して下さいました。

 

質問者   素晴らしい御話ですね。人間、あまりにも管理され過ぎて、あれをやってはいけない、こうしなければならないという規則に縛られてしまうと、生活そのものが非常に窮屈になって来ます。決め事が増えると、天国化からは遠ざかって行く。

 

楳木先生   そうですね。メシヤ様は、「行」というものは、「下座行」と、浄霊の時に「手の力を抜く」という事、これだけだとおっしゃっています。ここの所が理解出来ない人が大変多いのです。これが理解出来れば、奇蹟の毎日を過ごす事が出来るのです。浄霊の場合は、手の力を抜いて、しっかりした浄霊をすれば、毎日奇蹟の連続である筈なのだけれど、どうしても、そこで手に力が入ると奇蹟を頂けない。下座行に徹していないと、少し偉くなると問題を起こしていってしまいます。

 

質問者   修行僧の「行」とはまるで違う「行」だと思います。それから、今回のメシヤ講座を拝読させて頂いて、メシヤ様の文化的、芸術的素養の深さに改めて尊敬の念を抱かせて頂きました。対談中、取材した作家の方が、メシヤ様への呼び方を「貴方」から「先生」に変えていく様子だけでも、文化、芸術への知識、理解の深さが人を魅了する光景が浮かんで参ります。

 

実は、メシヤ様に御縁を頂いた私達も、ストイックな「行」ではなくて、良い映画を観る、文学を読む、美術館に行って絵画を鑑賞する、音楽を聴くなど、文化的素養を日々身につけて行かないと、天国的生活には近づいて行きません。それには、まず豊かさ、余裕といったものが必要になって来る訳ですけど。それが、お金がない、時間がない、余裕がないと、映画も観る事が出来ない、音楽の趣味もない、美術館にも行けない、そういった生活を良しとは出来ないのです。

 

楳木先生   まったくその通りです。仮に、メシヤ様につながる教団あるいは組織の職員となった場合は、メシヤ様のそういったお姿に一歩でも近づくという事が専従者の生活態度であるわけなので、教団としては、そういう生活が出来る様に、給与報酬体系にしても、一日の時間の過ごし方にしても、配慮して、組織作りを進めないといけないのではないかと思います。

 

質問者   それから、今回、非常に印象的だったのは、病院経営についての記載です。メシヤ様は「処で現在は宗教の方で時代に迎合したり、自分から文化より低い様に、科学より低い様に思ってやっていると言う事が大変な間違いです。ですから大抵の宗教と言うのは病院を作っているのです。併し、私の処は作らないのです。若し病院を作るとするならば、その宗教が科学に負けている事になります。処が私の方は科学より上だから、病院は作らないのです。」とおっしゃっていますが、現在は、病院を作っていますね。それに関して、非常に考えさせられます。

 

楳木先生   これは、考え方を整理して頂かなければいけない事で、現代の学問体系、いわゆる、我々が学んでいる学問体系というものがどこから来たのかと言うと、これは、十字軍の遠征から来ている訳です。十字軍の遠征によって、アラブ諸国を制覇して、戦利品を持ち帰って、それを精査した時に、あまりにも、とりわけ数学の領域が、キリスト教国よりも、アラブ諸国の方が、断然進んでいたという事に、十字軍の人達が驚愕したという事、だから、キリスト教の牧師が中心となって、アラブ諸国に負けない様な、数学等を中心とした学問大系を作り上げないといけないという使命感に基づいて体系作りを進めて、それが現代まで発展して来ているのです。我々が学んでいる学問体系の最も根幹的な部分に、十字軍の戦利品があったという事、要するに、宗教が、現代の科学を作ったと言っても過言ではない。そういう見方が一つにはあります。

 

質問者   現代の学問体系の始まりが宗教にあったという事は、そもそも、学問と宗教を分けて考えてはいけないという事ですね。もう一つの見方はどういった事なのでしょうか。

 

楳木先生   もう一つは、科学と宗教というものは、対立軸にある様に、いつの間にか思い込まれてしまった所があるのだけれども、メシヤ様は、宗教と科学の一致という事を御教えに書かれており、そして、今回の対談の記事を読んで行くと、宗教は目に見えないものを対象とする科学であるとおっしゃっています。そういう見方をして、「最高の科学が宗教である」という表現を用いていらっしゃる所は、他の教団、教祖にない、秀でたものだと思います。そういう教祖を我々はいただいているという事を、誇りに思わなければいけない

ですね。

 

そういう立場に立って、もう一度、科学というものを見て行く時に、医学と宗教を考えると、我々の考え方が進み過ぎていて、まだまだ理解されていない所があるという事、しかし、科学が進んで来たお蔭で、やっと、メシヤ様の御教えが理解出来始める所まで、科学の世界がようやく追いついて来た。しかし、我々の生活というものは、様々なしがらみによって営んでいる為に、例えば、癌は、化学物質や環境ホルモンによって発症される、あるいは、薬剤の、副作用によって癌細胞が作られるという事がわかっても、それを表面に出して行くと、製薬会社が潰れてしまうという部分があるので、社会機構を維持する為には、声を大にして言えないという部分が、現代社会の矛盾なのです。

 

そういった事を理解しておかないと、MOAの様に、浄霊と薬の服用を併用してしまう様な、本末転倒な所に陥っていってしまう。

 

質問者    でも、それを、宗教と科学、医学の一致という様に、取り違えている部分が見受けられるのですが。

 

楳木先生   仮に、そういう風に思っているとしたら、全くの取り違いですね。

 

質問者   まず、初めに御教えありきで、そこに科学、医学が追いついて行かなければならない、それが何処まで追いついて来たかを、我々も勉強して行かなければならない訳です。

 

楳木先生   科学の勉強を増々して行かなければならないのだけれども、しかし、その、科学というものが、宗教より上という様に考えてしまうと、それが、錯覚の中に陥っている、勘違いの中に陥っているという様に解釈していかないといけないのです。

 

質問者   宗教というものを、自分では自信を持って広めていても、潜在意識の中で、まだまだ我々は少数派だと思ってしまっているから、その様な考えに陥ってしまうと思うのです。これだけの奇蹟を頂いているのですから、もっと自信を持って取り組んで行くべき

ものだと思います。

 

楳木先生   そうですね。これだけ素晴らしい教祖様をいただいている我々信者は、もっと誇りを持って、胸を張って生きて行かなければいけないし、また、メシヤ様が、何故これだけ高い見識、幅広い見識をお持ちであるかと言うと、これは、主神様の御経綸が背後にある、また、主神様の御啓示から始まっている、また、主神様の力が、メシヤ様を通して流れてくるから、絶対的な救済力が生まれるという所を認識しなければなりません。

 

この、主神様という存在が、わかる時代に、今はなっているのです。仮に、今から、50年前に、メシヤ様がいくら主神様とおっしゃっても、主神様の概念を捉えるだけの土壌がなかった。しかし、現代は、これだけ科学が発展して来たので、主神様という概念を、あまりにも大きい存在だけれども、少し、人間は理解出来る様になりつつある、という時代の捉え方をして行かなければいけないと思います。

 

質問者   御教えの書かれた時代には、主神様の概念を説明する為に、「宇宙意志」「大自然」あるいは「X」という様に、様々な表現を用いられていらっしゃいますね。

 

楳木先生   主神様がいらっしゃるという事になると、「宇宙意志」「大自然」といった漠然とした表現を優先する事を、段々慎む様になって来ます。これは何故かと言うと、「宇宙の意志」と言った場合、「意志」というのは、目に見えないものが主体であるからこそ、その様な言葉を使う訳です。それでは、「宇宙の意志」とは一体何かと言うと、これは、とりもなおさず主神様の御意図であるので、我々は、この「主神様」という御存在を直接見つめて行くという境地に入っていかないと、何年経っても、メシヤ様の説かれた御教えを理解出来るという事にはならないのです。

 

そういう意味で、どうしても、今、我々が信仰させて頂いている中で、勘違いとか取り違いをしない事を最大の課題にして進んで行かないといけません。メシヤ様の御教えの一部分だけを取り出して自分のライフスタイルの中に取り入れる事は、メシヤ様が非常に小さい存在になって行ってしまう。

 

質問者   御教えの一部分だけが一人歩きしてしまう事は、実際に多い事だと思います。「自分なり」の解釈という事が、実は勘違い、取り違いの最も大きな原因ではないかとも感じます。そもそも、御教えは「解釈」する様なものではなく、地道に実践して、一歩一歩理想に近づく努力をする事、わかったつもりになるのではなく、わからない事を前提に、理想世界実現の御経綸に御使い頂ける様、精進邁進していかなければなりません。

 

楳木先生   御経綸という言葉を、大きな、人智を超えたものとして捉えていかないと、どうしても、小さな枠の中での理解になってしまい、勘違い、取り違いが起きてきます。この課題には、心して取り組んで行って頂きたいですね。

 

質問者   それから、もう一点、メシヤ様に仕えた教団立教時の側近、専従者の方々は、早逝された方が目立ちます。人間は百二十歳まで生きられるという御教えがある一方で、初期の側近、専従者の方々の多くは、三十代から五十代迄の間に帰幽されていらっしゃる。教団の為に、寝食を忘れて御神業に励まれた方々が、大往生とは言えない亡くなられ方をしている。これはどういう理由によるのか、考えさせられてしまうのですが。

 

楳木先生   先達の方々には非常に御苦労をして頂いて、教団の基礎を築いて頂いたので、大変、感謝に堪えないのですけれど、先程からの話とつながっている所は、メシヤ様にお使い頂く、御尽くしさせて頂く時の姿勢を、御教えに基づいて考えておかないと、どうしても、限度を超えて無理をされた方が大勢いらっしゃったという事を、強く思わざるを得ないのです。

 

質問者   それは、メシヤ様は、決して自己犠牲を強いて来た訳ではないのですが、御神業への取り組み方が、いつの間にか滅私奉公になってしまったという事でしょうか。勿論、立教時に使わなければならないエネルギーは大変なものであり、どうしてもそうならざるを得ない事情が多々あったのでしょう。経済的にも、決して豊かとは言えない時代もあったと伺っております。

 

楳木先生   そうですね。寝食を忘れてやる、メシヤ様と共同作業でやる、こういう事は、布教する上では大切な事なのですが、寝食を忘れるという事にも限度があるので、時々、メシヤ様は、専従者の奥様に、「それで、生活はきちんと出来ているのか」と聞かれたり、そういう事を絶えず気にされていらっしゃった。当時は、経済的な問題が一番大きかったと思うのです。それが、「金山」という方向に走った原因でもあります。

 

この、「金山」の背景には、人々をこれ以上苦労させたくない、どうしてもお金は必要なのだけれども、苦労してお金を集めさせたくないという愛情のもとに行なったのですが、「金山」はうまくいかなかった。「金山」がうまくいかなかった理由は、我々凡人ではさっぱりわからないけれども、我々には、報恩感謝の姿勢が不可欠なので、頂いた御守護、命を救われた御恩に対して、神様に感謝を申し上げる、そうした事をする道が閉ざされてはいけないという風に私は解釈しております。お蔭を頂いたら感謝献金を捧げる、神様の所に御参拝したら、自分の中で精一杯の御玉串料を捧げる、そうした姿勢がないといけないのです。

 

そういう姿勢と、「寝食を忘れる」という事を混同して考えてしまうと、これはまたおかしな事になると思います。だから、「分相応」という言葉が大切になって来ます。「お前、それでは少ないぞ」という事は決してない訳で、「君の生活ではそれが精一杯だね」という様な見方を、上に立つ人間として持っておかなければなりません。そうした所を、メシヤ様はきちんと垂れていらっしゃるのだけれども、人間というものは、どうしても、仏教の開祖と同じ様な方向に走っていってしまう傾向があるのです。

 

質問者   仏教は、お釈迦様のお経で大元は一つでも、道元や法然、親鸞達がそれぞれの宗派を開いて、枝分かれして行きますね。

 

楳木先生   全巻読まないと仏教はわからないのだけれども、「このお経だけを拠り所にやろう」という事で宗派が生まれて来る。しかし、本来は、全巻読まないと仏教はわからない。これがわかった人は、史上では、日蓮上人が最初だという事になっています。だから、日蓮上人は仏教改革を唱えて、それを進めようとされたのだけれども、当時の仏教の僧侶と為政者が癒着していたので、そのような事をされると困るので、日蓮上人を排斥、攻撃してしまった。「龍の口法難」はその為に起きた事件です。

 

我々、現在の御神業を担う人間とすれば、メシヤ様の御教えの全てを理解して、メシヤ様は、どのような御心、御精神をお持ちであったのか、を求め、その御精神に基づいて、現在、どうあらねばいけないのかという事を、指導者となる人間は考えていかなければいけない

事ではないかと思います。

 

そうした所から見て、もう一度先達の生活を考えてみると、先達の人達は、命を救われて専従した人達が多いので、元々、身体が弱いというところがありました。そうすると、弱い部分を守って行くという事が一つにはないといけないのです。そうすると、もう一度前回

(9月13日)の話に戻るのですけど、御浄霊を頂いて救われた、救われたからには、二つの事があって、その一つは、「救われた命を私用で使ってはいけない」という事、だから専従をするのです。

 

この、尊い事が一つと、もう一つは、「病気になるという事はどういう事か」という御教えを頂いているので、「二度と病気にならない生活」をして行かなければならない。その、二度と病気にならない生活の為に、所謂、自然農法、添加物のない食品、芸術的生活、そういった事は、全て、人々の生活を支える為に御教えとして下さっている訳だから、それを、全部取り入れる生活をしなければいけないのです。

 

そうすると、睡眠不足になるという生活は御教えにかなっていない訳で、寝食を忘れると言っても、極端に長時間御用したり、睡眠もろくに取れない生活を送る事を、決してメシヤ様は望んではいらっしゃらなかった。何故ならば、「中庸が一番良い」という御教えを書かれているので、偏ってはいけない。寝食を忘れるという事の意味を取り違えて行くと、無理をしていけばいいのだという話になってしまいます。

 

質問者   「程」という御教えもありますね。昔から、程々にせよとか、程がいいとか、程を守れという言葉もそれであって、つまり分相応の意味であるという様な。

 

楳木先生   メシヤ様は、御神業は道楽だとおっしゃている訳だから、無理をしてはいけないのです。道楽の様にやらないといけない訳で、そうすると、楽しくて仕方がなくて寝不足になるというのは良いのですが、過酷な日常の中で寝不足になってはいけない。

 

それから、人間は、一日に三食食べる生活になっているので、規則正しく三食食べる生活をしなければならない。それが、御用の為に一食しか食べられないという生活を送る事は、御教えを無視した生活になってしまう訳で、真心はあっても、結果的に御教えを無視した生活を営んだ為に、身体を壊してしまうという事があります。

 

それから、もう一つは、今回のメシヤ講座にも書いたのですけど、戦時中、ずっと宗教は弾圧されて来ていて、戦後、信教の自由が許されたと言っても、どうしても占領軍の衛生担当官の誤解によって、弾圧を受けて留置された方々が、先達の方々の中にも大勢いらっしゃる。結核で御守護を頂いた人が、留置場に入るとどうなるかと言うと、また結核が再発してしまう。だから、三十代で亡くなられた先達の方が大勢いらっしゃるのです。これは、その取り組みに心から感謝すると同時に、大変お気の毒な事であったという風に思わざるをえないのですけれど、そのような状況下もあって、短命の方が多かったという事なのです。

 

これは、非常に残念な事です。

 

質問者   現代に生きる我々は、労働環境も改善され、当時より整っている訳ですから、そういった事を繰り返さない様に、今一度自分の生活環境も考えながら、御神業に取り組ませて頂きたいと考えています。

 

楳木先生   世界救世(きゅうせい)教の最大の問題点は、確かに労働環境は整えた、前の一元化によって労働環境を整えると同時に、給与体系も作り上げたのだけれども、その作り上げ方が、世俗的であったという事です。宗教の世界で何を一番大事にしなければいけないかという事を抜きに、そういうものを作り上げたという間違いが一つにはあった。

 

それから、もう一つは、「御教え」というものを包み隠してしまった。その為に、労働環境は整ったけれども、「求道者」の道が、逆に閉ざされていってしまったのです。「宗教」というものをベースにした労働環境の整え方をしなかった所が、一元化後の専従者の信仰心が薄れていってしまった最大の原因です。

 

そういった事を繰り返さない様にしないといけないという事と、現在の社会の動きと合わせて、自分達の労働環境を整備していかなければいけないのではないかと思います。

 

質問者   一方に高い理想、理念があると、どうしても、その為に寝食を忘れて働くという事が起こってくる、また、初期の先達の様に、無理をして身体を壊すという事も起きて来ます。そこを、中庸に、程々に整えて行くのが、上に立つ指導者の役割であるとも思うのです。

 

楳木先生   理想は高いのだけれども、その理想を進める上において何を犠牲にしても良いという勘違いが起きる事が一番危険なのです。これが、今問題を起こしているいろいろな教団、団体の中で起きている、最大の勘違いです。修行僧の様な事をやらせてはいけない。我々は、どこまでも在家信仰の世界なのです。しかも、メシヤ様は、健富和完き恒久平和を作ろうとされた訳なので、そういう理想に向って行く為には、自分達の生活が、健富和、恒久平和、そういう世界になって行かないといけないのだという事を強く思いますね。

 

[メシヤ教浜松支部にて 2009(平成21)年10月11日]