メシヤ講座no.106 日月地(平成21年11月)

楳木先生への質疑応答10〜薬毒と肥毒

 

質問者  11月2日に、強羅の奥津城にご参拝させて頂いた時、受付に、インフルエンザ対策として、貼り紙と共に消毒液が設置されていました。薬毒を世に説き、インフルエンザのウィルスに対しては、うがいも消毒も全く意味がない事を、皆に伝えなければならない筈の団体までが、そういった情報に流されてしまっている。非常に複雑な心境で、何とも言えない気持になりました。

 

楳木先生  その話を聞くと、ショックを味わいます。この問題については、いくつかの視点を持っておかなければいけないと思うのです。今回のメシヤ講座に掲載した対談記で、メシヤ様は、自分の子供が薬を服んだら親子の縁を切るとまでおっしゃっています。それも、メシヤ様の永遠の地である奥津城においてそういった事がなされているという事は、とんでもない事をやっているという事で、批判をする前に、ショックで、何も言葉が見つかりません。

 

質問者  浄霊に「級」があったり、施設内で浄霊をしていると「救護室」に行く様勧められたり、全てにおいて時代に逆行している様に感じられて仕方がないのです。

 

楳木先生  それは、先程の問題と同じなのですけれど、メシヤ様は、薬毒の中でも消毒液は非常によくないとおっしゃっているので、MOAの姿勢の中では、消毒液そのものは、どういう種類、性質の消毒液を使ったのかという事が最初にあり、次に、消毒液を、参拝の前に使用する事を奨めるという考え方を何故持ってしまったのかという事が二番目にあって、そして、三番目には、これ程インフルエンザが騒がれている時に、手を洗ったりうがいをしたりという事が、信仰云々の前に、はたして有効かどうかという検証を、MOAがしているのかどうかという事、大きくは、この三つに沿って考えていかなければいけないと思います。

 

まず最初に、薬毒論は、消えてしまっている。そういう状況になってしまっていると思われますね。薬毒論が消えているという事は、メシヤ様から縁を切られているという風に認識しなければいけないと思います。薬を服んだら親子の縁を切るという言葉に集約されているのではないかという事です。信仰の世界では「導き親」という表現を用います。また、お導きした人を「子」という表現を用いたりします。そうした観点から考えると、非常に深刻なことです。

 

また、MOAとは、Mokichi Okada Associationの頭文字を取った名前です。岡田茂吉という名前を冠しているにも関わらず、縁を切られた状態になっているという事が、まず最初にあるのではないかと思います。そういう事を認識して頂かないといけないですね。そういう点で、重ね重ね非常に深刻で残念な現象です。

 

質問者  それから、MOA自然農法ガイドラインには、糞尿肥料の正しい使い方の項目もあり、これも、そもそも堆肥以外の肥料は使用しないのが自然農法である筈なのに、御教えを徹底するという事から考えると、外れていると感じます。

 

楳木先生  これは、御教えをどのように理解しているかという問題だと思います。肥料の前に、堆肥ということも表現が微妙なのです。水分保持のために被覆する方法が良いのですが、「肥」が付いているために、土に鋤き込むようなことをしてしまいがちです。

 

次に、肥料を入れると土がどうなるかという事は、薬やサプリメントを服むと体内がどうなるかという事と共通しています。

 

サプリメントの場合は、肥料が三年から五年ぐらいは効果がある事と一緒で、サプリメントを使用すると、症状が和らいだり、健康になった様に見える期間が短期間ながらあるのですけれど、これを使ってしまうと、人間の身体は、サプリメントに依存する様になってしまいます。栄養素というものは、おおよそ、小腸から吸収して、肝臓を経て、貯蔵するものと、全身で使うものにわけられて行くのですけど、サプリメントを常食の様にして行くと、一部的には有効に働く作用があるものの、この、小腸か栄養素を吸収する本来の力が弱まってしまって、身体的には退化を起こして身体自体のバランスが大きく崩れていってしまう。

 

土の場合は、土は本来の能力で、作物を育てる為に一生懸命働くものなのですが、肥料を入れてしまうと、作物は肥料を吸収する為、土が働く必要がなくなってくるだけでなく、肥料によって土に蓄積される肥毒が、土本来の働きを弱めてしまいます。こちらも“退化”を起こすのです。

 

一方、作物は根を張らなくても容易に栄養分を吸収できるので、本来の作物の持ち味がなくなります。最も大切な作物の霊気が希薄なものになってしまいます。

 

そういう面で、肥料というものは大きな問題点を秘めているのです。そういう様な事を突き詰めて考えていく作業を行なっていない事が、安易に、奥津城の受付に消毒液を置いてしまうという事につながって行くのではないかと思います。

 

質問者  「少しぐらいならいいだろう」という考えがあったのかも知れませんが、肥料は麻薬と同じで、常習性がありますから、「少しぐらい」が毎回続いて、結局は肥料がなくてはどうにもならなくなる。薬やサプリメントも同様で、最終的には依存しなければ身体が持たなくなるという事が、恐ろしいと思います。

 

楳木先生  そうですね。「少しぐらい」という事で、少しタガを緩めると、少し緩めた事によって、「もう少しいいじゃないか」という事になります。これは、子供の考え方と一緒で、子供と遊んでやると、楽しい事があると「もう一回」と言います。それで、それをもう一回やってあげると、また「もう一回」と言う。そうやって、永遠に「もう一回」を繰り返す事が、幼児性なのです。教団も、「これぐらいは」という妥協が繰り返されているという事は、組織自体に幼児性が潜んでいます。一元化後、「組織的には成熟して来た」と錯覚した部分を直視しなくてはなりません。

 

そういうことから、もう一度、御教えを基に、教団の姿勢をどのようなものにしてゆくかという事が、実は最も大事な事なのです。そういう事から考えてゆくと、前回の話の中で、教団一元化で、組織として給与体系などは整えたのだけれども、世俗的な整え方をしてしまった為に、専従者の「求道心」が薄れてしまったという問題を指摘しましたね。何故「求道心」が薄れてしまったかと言うと、宗教の組織として必要な組織体系としての整え方をしなかったからで、それは、指導者に、「宗教組織とはどういうものなのか」という一般的な宗教論が必要であるとう事が一つと、もう一つは、その中で、自分達はメシヤ様という御存在を信仰している、メシヤ様のお考えが根底にある、それを基本にして、人事管理面も考えていかないと、どうしても「求道心」というものは薄れて行ってしまうのです。それが、現在の世界救世(きゅうせい)教の大きな問題点を育んで来ました。

 

次に、これは何度もお話している事なのですが、インフルエンザというものを考えた時に、ワクチンというものはほとんど有効性がないという事と、インフルエンザウィルスというものは、空気感染によって仮に喉に付いた場合は、おおよそ時間にして十分以内に体内に侵入してしまうという事がわかっています。そうすると、外出後、帰宅してからうがいをしてもほとんど有効性はありません。また、インフルエンザウィルスは飛沫感染という観点から手洗いを勧めていますが、疫学上意味をなさないと言われています。却って消毒した手で食物や食器を触る方が恐ろしいことです。

 

質問者  奥津城の場合、消毒液の横にご供花料を入れる箱があるるので、手を消毒して、それからお金を包んだ場合、消毒した後に最も沢山の菌が付いているお金に触れる訳ですから、更に無意味ですね。

 

楳木先生  信仰とは別の問題で、まるで意味のない事を重ねているという事を直視して行かなければならないと思います。そういう意味では、MOAは医者との付き合いが随分ある訳だから、疫学の方面からも突き詰めた研究をして行かなければならないと思うのです。非常に、賢明に、研究をしている疫学者から、うがい、手洗いは全く意味がないという指摘がある訳で、世界救世(きゅうせい)教としては、その考え方を広めなければならない立場なのに、自分達が世間のやっている間違いに迎合してしまったら、何の使命も果たしてゆけない。過去の既成宗教と同じで、岡田茂吉という教祖様がいらっしゃって、これだけの日本の美術品を保存して、文化的に役立つ事をした、その組織を守っているという程度の教団で終ってしまう。

 

真文明を創造してゆく、人々の価値観をもっと高い所に導いてゆく、そういう、宗教としての使命を果たすという事にはなってゆかないという事を、強く指摘しておかなければいけないですね。

 

もう一つは、インフルエンザで多くの方々が犠牲になっているけれども、犠牲になったのは、本当にインフルエンザにかかったから犠牲になったのか、という事を研究してゆかなければいけないのです。犠牲になった理由には、おおよそタミフルが関わっていると言われています。それから、病気の併発という事が問題になっていますが、病気の併発という事はどういう事かと言うと、病気に対して使用している薬物との関係があるという事です。その、病気と、使用している薬との関係をどこまで突き詰めて考えているかという事が、「薬毒論」を持っている教団として、最もやっていかなければいけない事なのです。世間がやっている、うがい、手洗いというものと同じ事をやっていては、メシヤ様が嘆いていらっしゃると言うよりは、激怒していらっしゃるという状態ではないかと、強く思います。

 

質問者  現代では、医学、疫学、科学等々が発達して、あちらこちらで「薬毒論」が発表されています。しかし、その「薬毒論」を70年以上も前に説かれたメシヤ様という御存在があって、その、メシヤ様を教祖と仰ぐ教団が、全く逆の事をやってしまっている事を、大変悲しく思います。

 

楳木先生  それを強く感じますね。メシヤ様を教祖と仰ぐ教団の本体である団体がそういう事をやってしまうが為に、そこにいては、本来メシヤ様がなさろうとした事が遂行出来ないという事で、外へ出て、また一から始めて行くという団体が出来てしまうのです。その団体が、一生懸命取り組んで、それが御神意にかなっているから沢山の奇蹟を頂く訳ですが、そうなってくると、自分達が本体を離れて始めた、あるいは、本体が働かないから始めた、小さな団体であるのに、こちらの方が本体よりまともであるという言われ方をしてしまうと、また、その団体のやり方が本筋から外れていってしまうという事が同時に起きてくるので、そのような悪い連鎖を、ずっと起こして行きかねないのです。

 

質問者  一元化によって、沢山の離脱団体が出来ました。その多くが、当初の純粋さから時間が経ってしまうと、数々の問題を起こし始める。そういう「型」がずっと続いて来ているという様に考えてよろしいのでしょうか。

 

楳木先生  団体が、世界救世(きゅうせい)教から離脱して、別教団を作った時、初代の方は、メシヤ様に真剣にお祈りして、私達こそは、メシヤ様の御心にかなうやり方を歩くという使命感の下にスタートするので、沢山の奇蹟を頂けるし、素晴らしい環境が整って行きます。

 

しかし、それから一歩進んで「運営」という事にした時に、狂いが生じてくる訳です。それから、メシヤ様という御存在を前面に出さなくなった時に、また狂いが生じて来ます。メシヤ様よりも、初代会長の方の名前をいつも口にしてしまう。岡田茂吉と言うよりも、その離脱教団創始者の名前が前面に出て来る。だから、団体が、岡田茂吉という名前を唱えなくなった時が最も危ないのです。

 

質問者  仮に唱えても、数多くの側近者の中で、自分がメシヤ様の一番弟子だったという言い方をする人が多いのですが。

 

楳木先生  そういう事を内に秘めて御神業に励むという事は良いと思うのです。誰よりもメシヤ様の御意志を継ぐ弟子となる様に目指して行く、誰よりもメシヤ様の事を考えて行くという自負心を持って行くという事は尊い事なのですけれど、それを口に出すという事から、少しおかしな事になってきます。そういった事は、人が評価するべき事ですから。

 

質問者  メシヤ様の御意志を継ぐのであれば、奇蹟を頂くのも、多くの人から感謝される事になるのも、当たり前なのですが、それによって、離脱教団の創始者の立ち位置がメシヤ様と同じという勘違いが起こった時に、その団体はとんでもない方向に向かってしまうという危惧がいつもあります。実際、そういう事が繰り返されて来た歴史がありますし。

 

楳木先生  そういう事を見越して、メシヤ様は、「指導者は私一人だ」というお言葉を残されているのではないかと思います。後に続く人達は、どこまでも「取次者」であって、絶対の存在の御方が指導して下さった事を、我々は「取り次いでゆく」という姿勢を何時も持っておかないと、勘違いが起きてしまうのではないかと思います。

 

浄霊にしても、私達は浄霊の仕方を身につけて、人に教える事も出来ますし、教えた瞬間から、浄霊はその人にも出来る様になる訳です。しかし、浄霊の本源は自分にはないし、浄霊の本源はメシヤ様なのですから、そこから流れて来るルートというものを教えておかないと、ちょっとした奇蹟が起こるからと言って、その法則を説明する時に本源の存在を示さないと、その光は本来の光にはなってゆきません。

 

質問者  例えば、入会しなくても浄霊は出来る訳ですけれども、まずは、御神前にお連れして、主神様の前で天津祝詞を奏上するという事から始めないといけないという事なのでしょうか。

 

楳木先生  それをやらなくても浄霊は出来る様になるのだけれども、本源がわからないと本来の光は出て来ないので、100%の光は頂けないという事です。それから、本源の認識の仕方を、やはりメシヤ様という絶対的存在として捉えていかないと、強い光を頂く事が出来にくくなるので、これは、逆に勿体無い事だと思うのです。そういう事を教えて行く事が、有効的な御光の出し方につながってゆくのです。

 

質問者  これからは、様々な問題が多発して、ますます浄霊しかなくなってくると思います。こういう時代に、あえて消毒液を推奨したり、薬を使ったりという、時代に逆行する事を、決して、教団にはしてもらいたくないと強く思っています。

 

楳木先生  この問題には、学習不足が影響していると思うのです。人間はどうして生まれたのか、何故病気になるのか、そして、薬は「病気の症状を抑える」ものであるという事、だから、一時期は病気が治った様に見えるのだけれども、根本的に解決した訳ではないという事、そういう事を自分が認識しておかないと、「浄霊すれば大丈夫だから」という事で、薬と浄霊の併用という無意味な行為をする様になる、錯覚が生まれてくる、この錯覚が、実は心の隙であって、その「隙」に乗じていろいろな問題が起きてくる、だから、問題が起こらない根源は、「薬をなくす事」だという事を、メシヤ様を教祖と仰ぐ教団全てが持っておかなければなりません。

 

[メシヤ教浜松支部にて 2009(平成21)年11月8日]