メシヤ講座no.104日月地(平成21年9月)

楳木先生への質疑応答8〜真実は一つ

 

質問者  メシヤ講座・特選集平成21年8月分を拝読させて頂きまして、ブログを発信する事によって、そこから新たな気づきを頂き、御教えを掘り下げて大変内容の深い質問のメールを送って下さる方がいらっしゃって、その姿勢には信仰生活の上で深く教えられるものがありました。また、今後も、真面目に、定期的に発信を続けさせて頂かなければと新たな決意もさせて頂きました。本当に、有り難い事です。

 

楳木先生  こちらとしても、メシヤ講座の特選集の内容を詰めて行く段階で、諸々問題点を含んだメールを送って頂いた事により、私の方でも、整理をして、御教えを改めて拝読させて頂き、特選集の内容も濃いものになって行くという事は、素晴らしい事だと思います。

 

質問者  まずは、このブログでも何度も発信している内容なのですけど、今一度はっきりさせておかなければならない事は「メシヤ様の御神格」だと感じております。はっきりさせるも何も、今更論じる事ではなく、50年以上前に既に明確になっている筈のものなのです。にも関わらず、ここに(メシヤ講座・特選集平成21年8月分「メシヤ様の御神格の認識」)書いてある様に、「最高最貴の神霊と合一された人類の救世主・明主様をエンジェルと位置付け、一宗の教祖に止めたこと」によりどういう事が起こり現在に至る迄解決出来ない問題となっている事は、語るまでもない事です。しかも、ごくごく最近になって、「救世主、メシヤ」とメシヤ様の御神格を明確にしている様な発表をしていながら、どこの教団もいまだ明主様のままで、メシヤ様とお呼びしていません。その矛盾が、今、非常に気になっております。

 

楳木先生  MOAの人達とお話をしていると、「『明主様』という言霊と『メシヤ様』という言霊は一緒だから、それで良いのです」という返事が返ってくる事があるのですけれど、そういう人達に話をする時には、「私達がメシヤ様という御存在を認識する為には、メシヤ様とお呼び申し上げないといけないではないか」という話をいろいろとやり取りする中で、「やはりメシヤ様とお呼び申し上げた方が良いですね」という結論に到達する人達もいらっしゃるのです。

 

質問者  でも、教団自体は「メシヤ様」とお呼びしていないですね。

 

楳木先生  今、いろいろな研究をしている人達がいて、波動を研究している人達にとっては、「ありがとう」という波動と「感謝」という波動を測定した時、やはり「感謝」の波動の方が上との事なのです。そういう研究上の結果から言っても、言霊というものは、同じ意味であっても、より上位の御神格になる筈の言葉を発していかなければいけない。だから、皆に、岡田茂吉教祖への尊称を「メシヤ様」とお呼び申し上げる事にして頂く事を、強く望みますね。

 

質問者  メシヤ様とお呼び申し上げる事によって、岡田茂吉教祖の「救世主」としての御存在がより明確になって行く、そのように感じさせて頂いております。「明主様」とお呼びしていた頃よりも、主神様が救世主の大任を下し給い、人類救済の聖業を達成せしめ給う為にこの世にお出ましになられた「メシヤ様」の御存在がはっきりして参ります。また、御教えを拝読させて頂く時も、一宗の教祖である明主様が書かれたものではなく、メシヤ様が人類救済の目的の為に世に出された御教えという認識の下に読ませて頂くと、何ら矛盾を感じる事なく、自然に身体に入って行くのです。

 

楳木先生  そういう認識を持っておかないと、どうしても、人をリードして行く立場の人達の気持が、奢ったり、勘違いを起こしたりといった事につながって行くのではないかと思います。

 

質問者  「浄霊」「自然農法」といったものを御提唱されたのも、全て「メシヤ様」としての役割で「救世」の為に世に出されたものだという事がより理解出来る様になって来ます。

 

楳木先生  「メシヤ様」とお祈りをして浄霊をすると、格段の浄霊力の差が出て来るという事を、体感しつつ進むと、より狂わない信仰生活を営む事が出来るのです。

 

質問者  その部分が、以前のブログにも書きましたけれど、「宇宙意志」や「大自然」という広義な事につながって御浄霊を取り次がせて頂くよりも、具体的に「メシヤ様」につながった方が、よりストレートに、直接的に、御力を頂ける事が体感出来ます。

 

楳木先生  例えば、浄霊の事を考えて行くと、浄霊の源は大本教の鎮魂帰神法という事になるのだけれども、だからと言って、単純に浄霊が大本教から生まれたものだという様に考えてしまうと、これがまた勘違いが起きてしまいます。メシヤ様御自身が、大本教時代に鎮魂帰神法の修行をきちんと積み上げられたからこそ、凡人ではその力を習得する事が出来ないという事を、メシヤ様御自身が体験されていらっしゃるから、万人を救うという事にはつながらないという結論に至った訳です。それなら、どのようにして、万人を救う事が出来るか、あるいは、万人が、人を救済する力を身に付ける事が出来るかという事の研究を重ねて、そして、ようやく「浄霊法」というものを編み出した。そいういう事のつながりを理解しておかないと、浄霊力を授かった事が当たり前の様になって、メシヤ様が苦心をされた末に、万人が、誰もが身に付ける事の出来る「浄霊力」という物が編み出されたという事への「感謝」が生まれて来ないのです。

 

質問者  浄霊力を授かると、苦労せずとも、あまりにも当たり前に奇蹟を頂けてしまうので、これが編み出される迄の苦労、その事に対する「感謝」を忘れてしまいがちになるという事ですね。

 

楳木先生  この「感謝」を常に忘れない様にしないと、私達は、メシヤ様と同等の奇蹟を「浄霊」によって現わすうちに、勘違いが発生してくるのです。この事によって、今回のメシヤ講座の中にも引用した、メシヤ様を教団から追い出そうとする働きすら生まれてくる事になります。ちょっとした勘違いから、そういう事が起きてくるという事につながって来ます。これは、リーダーになった人達が常に気をつけておかなければいけない事なのです。

 

質問者  組織が大きくなればなる程、それを利用しようとする人達も増えて来る、いろいろな関係者の方、顧問となる方が各方面から出入りする様になる、そうなってくると、様々なノイズが入ってくる訳です。だからこそ、軸をしっかり持っていないと、ちょっとしたズレが大きな歪みを生み出してしまうという事につながって来ます。

 

楳木先生  今、メシヤ教は、宗教宗派を超えて浄霊力を授ける事が出来るというご啓示の下に御神業を進めているのだけれども、他の宗教団体に所属して、メシヤ教に入会していなくとも浄霊力は授かるという事を一旦体感してしまうと、自分もそれが当たり前の様になって、拡大解釈が起こってくるのです。どこまでも、メシヤ様からお許しがあったからこそ浄霊が出来る様になったという原点を忘れない様にしなければ「感謝」が生まれません。その原点を忘れて、どんな人でも、メシヤ教に入会しなくても、浄霊力が身に付いて行くのだという事だけでやっていくと、勘違いが起きて来ます。それと同時にもっと遡れば、浄霊というものが出来る事が当たり前の様になって行くと、メシヤ様という御存在があるからこそ浄霊力というものが生まれたという認識が薄れていってしまう、そうすると、浄霊観というものがおかしなものになって行くし、取り次ぐ時、人に教えてあげる時に、錯覚が生じてしまう。

 

質問者  そこは、繰り返しになってしまいますけど、あまりにも当たり前に浄霊力を授かり、それを、メシヤ様のお許しで頂いたものではなく、宇宙意志から頂いた、もしくは、神様から直接頂いたと思ってしまうと、浄霊を取り次ぐ人とメシヤ様の御存在が並列だと勘違いしてしまう。「メシヤ様が主神様から浄霊力を授かったのなら、自分も主神様から直接浄霊力を授かったのだ」と思ってしまうという事ですね。自分と主神様の関係と、メシヤ様と主神様の関係が並列になる。これこそ、神様の領分に立ち入る事であり、知らず識らず陥る慢心峠だと思います。そうならない為に、「メシヤ様」という御存在への認識が非常に重要なのだと心の底から感じております。

 

楳木先生  浄霊力を編み出したメシヤ様と、浄霊力を授かった私達との間は、遥かに隔たりのある、全く別の存在なのだという事を絶えず認識しておかないと、自分もその系統の何かではないかという事を思い始めると、だんだんおかしくなってくる。

 

質問者  浄霊による奇蹟が大きければ大きい程そのような錯覚に陥りやすいと思います。

 

楳木先生  これは、我々の集団でも、奇蹟があまりにも鮮やかなので、絶えず、皆さんに心得ておいて頂きたいという事で、話している内容の一つです。

 

 

質問者  また、今回のメシヤ講座・特選集の中で、浄霊の奇蹟があまりにも多く、これが将来発展すると必ず医者と衝突して禁止される、それには宗教になっていなければという事で宗教法人になったという御光話がありますが、これは大変印象深い話ですね。

 

楳木先生  メシヤ様御自身からこのような事が述べられているというのは、貴重な話だったという事でしょう。しかも、敗戦後、占領軍の方からアドバイスを受けて、それを受け入れて実行したという事ですから。

 

質問者  その事実一つとっても、メシヤ様は、世界救世(メシヤ)教というものを、社会的な、全うな組織にしようとされていた姿勢が伺えるのですけど。メシヤ様の組織から離脱したり独立したりした集団の中で、一部に見られる様な反社会的な組織ではなく、決して一部の人にしか受け入れられないカルト集団化する事なく、世の中と折り合い、法に違反する事無く、取り組まれた姿勢というものを、私達も見習わなければなりません。

 

楳木先生  これは、御教えを、どういう立場で拝読して行くかという事につながってくると思うのです。例えば、一昨日、HTVを搭載した日本のロケットが打ち上げられて、そして、来年、アメリカのスペースシャトルがもう使えなくなるので、それに代わる大量輸送手段として、日本のHTVがこれからずっと活躍して行く事になるのですが、そういう時代を迎えると、メシヤ様が御在世中時の科学的技術や学問の内容と、現在のものとでは遥かに違う、進歩したものになっている訳です。現在ではnano技術まで来ているし、ゲノム解析も進んで、科学的に「因縁」というものが解明出来る所まで来ている。そこまで来て、初めてメシヤ様の御教えが世の中に理解される様になる、この事を「宗教と科学の一致」だとおっしゃっている事を私達がわかっておかないと、「メシヤ様の時代ではわからなかったから、メシヤ様も勘違いされていたのだ」という解釈をしてしまうと、その時点で信仰は大きくずれて行きます。そういう事を、心得ておかなければなりません。

 

質問者  そうですね。御教えの内容が、時代よりも先に進み過ぎていて、当時は、それに科学がついて行けなかったという認識がないと、御教えを拝読する立場が全く違うものになり、「感謝」が生まれなくなります。

 

楳木先生  現在、世界救世教が三派に分かれて一つになろうとしている中で、最初に起きた事件というものが、どんなに正しい理想を掲げていても、時の総長を引きずり降ろして、実権を握るという、大変に非人道的な事でした。理想がどんなに立派でも、そういう手段を用いた事自体が信仰を否定するという事をわかっていない人達が、今迄教団を運営してきた事が、実は大問題であるという事を認識しておく必要があります。そういった事を起こした人達に何も知らされないままついて行かざるをえない信者さん達は、「真実を知らされていない」という事で、とても気の毒な境遇にあるのです。

 

質問者  人間にとっての不幸は「無知」「知らない」という事は、このブログでも何度か触れている事です。

 

楳木先生  教団紛争に対してまで、「これも御経綸」という表現で捉えてしまうと、メシヤ様の唱えていらっしゃる「御経綸」とは全く違う、遥かに次元の低い内容という事になってしまいます。そういう事も、客観的に見た上で、認識した上で解説を加えていかないと、おかしな事になって来ます。時の権力者を引きずり降ろして実権を握るというやり方は、メシヤ様の時代の、メシヤ様と渋井先生を教団から追い出して実権を握ろうとするやり方と何らかわりはありません。その事を認識しておかないと、とんでもない勘違いをしながら信仰を続けてしまう事になります。これを、強く認識しておいて頂きたいです。

 

質問者  当時、「裁く勿れ」「人を裁く勿れ」「下座の行」といった御教えが頻繁に説かれていた訳ですけど、これは、現在の教団紛争の発端まで見据えた上で、ご垂示下さっていた様に思えてなりません。自分の立ち位置を勘違いしてしまうと、いつでも、どこでも、如何なる組織でも、あのような事件は起こりかねません。メシヤ様に対する認識がそもそも違っていると、御教えだけではなく、「景仰」、「東方之光」といった書物の内容までもがまるで違うものになって来ます。

 

楳木先生  あまりにも物を知らな過ぎるという事が大問題なのです。知らないから、中途半端な情報や都合良く事実を曲げて伝わってくる「教団裏面史」をそのまま信じてしまうという現象も起こって来ます。何事においても、きちんと情報を調べた上で、諸々考察し、その上で、大局的な見地に立って、真実を理解する事が重要です。

 

質問者  どこに原因があるかをわかっていないと、何事も解決しません。例えば、起こる問題の原因は、自然栽培で言う所の「肥毒」です。土中にある肥毒層を見つけて、それをなくす為の取り組みをしないと、それこそ五十年経っても百年経っても、自然栽培など出来ないし、虫に喰われたり作物が出来なかったりする状況を「これも浄化」と考えて放置しておいても、状況は一向に良くならない訳です。その為に、大豆や小麦などを栽培して、そういった植物の根っ子によって、肥毒を吸い上げてもらって、土を浄化して行くという方法を取ります。これは、人間に対しても全く同様で、何か悪い事が起こったり病気になったりすると、それは、本人に何らかの原因があるのだろう、これも浄化作用、有り難い事である、それなら浄霊で治して頂こうという事で単純に結論付けてしまうと、それこそ、形を変えて同じ様な浄化が繰り返されるだけで、物事の根本解決にはならないと思うのですが。

 

楳木先生  これは、浄霊の原理をしっかりと学んで行けばわかる事なのですが、「曇り」というものが発生して、その「曇り」を浄霊によって浄めて行く事によって、健康を確保したり、精神的に、明るく、楽になって行くとか、問題が解決して行くという事を許されて行くのだけれども、その一番根っ子には「霊の曇り」があります。その「曇り」を浄めて、一旦元気になったり、問題が解決しても、また同じ「曇り」を発生させる様な生活をして行くと、元の木阿弥になって、浄霊をすれどもすれども「良くなったり悪くなったり」を繰り返す事になります。神様の御力によって問題が解決し、病気が良くなった後に、二度と同じ問題、同じ病気を起こさない為に、「霊の曇り」が発生しない様な生活をして行く様に指導する事、それが信仰指導で、その指導に沿って生活する事が、本当の信仰生活なのだという事を認識しておかなければなりません。

 

質問者  生活、環境を改めないで、「浄霊すれば大丈夫」という間違った認識の下、「浄霊」を利用するのは神様に対して大変失礼な事の様に感じます。一見信仰的な様で、実は神様の力にぶらさがろうとしているだけとでも申しましょうか。

 

楳木先生  世界救世教の一番の問題点は、「浄霊」で大変な奇蹟を頂くのだけれども、その事によって生活が改まっていかない人が多いという事です。 だから、結局同じ事を繰り返して行ってしまう。これは御教え拝読が不足していることと指導力がない為に起きているのです。

 

質問者  心臓が悪くなる原因の中に、「対立の意識」があるというお話を頂きまして、これは大変わかりやすかったです。二度と心臓を悪くしない為には、人を批判したり、対立軸に置いたりする「争い」の意識を改めなければなりません。私の場合は、肺が病気になる事が多いのですけど、この原因は、頭の使い過ぎか、肉体的過労であると教えて頂きました。であれば、浄霊で肺を治して頂いた後には、そういった生活環境を改めていかないと、何度も肺を患う事になり、結局問題解決には至りません。

 

楳木先生  御守護というものを捉えた時に、「浄霊をして良くなった」という事は第一段階の御守護です。第二段階の御守護は、その原因をつきつめて行って、原因がわかって、そして、その原因を改善して行って、素晴しい生活が出来るという事が、本当の御守護なのだと、そういう段階を踏んで行くという事をわかっておかなければなりませんし、各指導者が、そういう事をより認識出来る事が大切です。

 

質問者  例えば、私は、以前仕事で無理をして、体調を崩し、入院しなければならない状況になった事があります。そして、医者ではどうにもならず、入院している意味がないので、自己申告により退院して、その後、たった40分の浄霊の奇蹟によって救われました。一生残ると言われていた右肺の影が綺麗に取れており、肺の専門医も「これはあり得ない事だ」と驚いていました。その後、仕事も変わり、一旦は健康になったのですけど、次の仕事でも、また労働条件が過酷になって行くと、同じ事を繰り返す可能性が出て来る訳です。

 

楳木先生  この話では、matsukiさんは、結局その会社を退社して次の環境に変わった訳ですけれど、当時の会社の管理者であれば、二度と同じ様な入院騒ぎが起きない様な環境を整えて行く責任があります。また、信仰生活の上でも、そういった指導が出来ない布教師は失格者と言えます。

 

質問者  もし布教師の立場で、「浄霊すれば大丈夫ですよ」という指導しか出来なければ、一見信仰的な様で、結局それは信仰にぶら下がっているだけで、成り行き任せとしか考えられず、奇蹟に対して失礼だと思います。

 

楳木先生  最も解り易い事例としては、酒飲みが、お酒を飲み過ぎて、肝臓を悪くして入院する、そして、御浄霊を頂いて良くなった、そして、また同じ量の酒を飲むという生活です。それと何ら変わりはありません。

 

質問者  本来であれば、酒を飲まなくなるか、酒の量を減らして適度な飲み方になるというのが自然の姿ですね。

 

楳木先生  そうして、身体を壊す程飲まない生活になった事が、本当の御守護で、病気が良くなった事は入口みたいなものです。生活が改善される。また、こうした御力は何処から来るのだろうか、と探求して御教え拝読に取り組む。そして、それを生活に実践してみる。そうしている内に人生観が変化してゆく。メシヤ教では、信徒の皆さんに毎朝『神格をいただく道』という御教えを拝読して頂いているのですが、メシヤ様が示された課題に取り組み、一つずつ身に付いてゆくのが実は本来の御守護なのです。

 

質問者  「病貧争」をなくす為の取り組みが地上天国建設への取り組みであるのに、御神業の名の元に逆をやる組織の方が多いのです。無理をして病気になる、経済的に苦しくなる、そこで不平不満が噴出して争いが起こる。争いが起こると、お互いに相手側に対して「邪神」が憑いたなどという心ない発言をする。正しい理想を掲げている様で、一旦対立軸に立って正邪を立て分ける様な意識を持ってしまうと、組織として崩壊して行ってしまいます。どうも、組織の上の立場の方が、そういう発言をするケースが目立ちます。被害者は、何も知らない信者さんなのですけどね。

 

楳木先生  人に対して「邪神が憑いた」などという発言をする事は、物を突き詰めて考えていない、あるいは、真実を知らないが為に、噂や憶測でそういう発言をする人が多い訳ですから、そういう話には、絶対に相槌を打ったり、巻き込まれたりしない様に、心して取り組んで頂きたい。そして、浄霊により奇蹟を頂いたら、その曇りの原因を突き詰め、理解した上で取り除き、正しい信仰指導による、本来の信仰生活を送って頂きたいと思います。

 

[メシヤ教浜松支部にて 2009(平成21)年9月13日]